山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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四境の役 基本史料と年表

2022年08月14日 06時41分17秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
1866年 第二次長州征伐 大島口 関係者

幕府軍 将軍 征長総督 徳川尾張大納言家茂公
出先先鋒総督 紀伊中納言徳川慶承侯 茂承(しげつぐ)?
主席閣老 小笠原長行侯(小倉口総督)、伊予方面総督・若年寄・丹波峰山一万千百四十石、京極主殿正高富

芸州口布陣 海田 芸藩広島家家老出張
6月7日前後 草津 紀伊殿勢
廿日市 紀伊殿先陣
大野 榊原式部大輔御陣
玖波 井伊掃部助御陣
小方 井伊家家老 木俣土佐守
大竹 榊原家 原田中根、井伊兵部少輔御陣
宮島 美濃大垣 戸田采女正

御公儀様 千人隊、三兵隊、歩兵隊

他 松平越後守、松平左兵衛督、上杉弾正大弼、本田中務大輔、大久保出雲守、脇坂中務大輔、
板倉周防守、溝口伯老守、   その他 旗本本流。

大目付 永井主水正、目付役・戸川鉡三郎、
富士山丸艦長・井出春房、大江丸・幕臣河野伊予守
永本本 富士山丸艦長・望月大象

所属 船名 原名 船形 船質・大砲 馬力 幅・長 屯数 造船国
幕艦 富士山丸 フジヤマ 蒸気内車 12門 350 長55.8、幅9.9 1000 米国 初弾室津 8ノット134名
大分鶴崎徳応寺住職スケッチ 長崎丸二番 ジェンリー 蒸気内車 鉄・ 120 長56.1,幅7.5 341 英国 (輸送船?) 乗組70     名
長崎丸一番 シアルツアル 蒸気外車 鉄・ 60 不詳 138 英国
大江丸(太江) ターキャン 蒸気内車 木 120 長48.6,幅7.8 不詳 米国ニューヨーク
翔鶴丸 ヤンチー 蒸気外車 木 350 長59.4、幅7.2 350 米国
(水戸藩籍) 朝日丸 無し 木・12門 長42.3、幅9.7 750 日本初建造軍艦石川島造船所
松江藩 一番八雲丸

長州 丙寅丸 オテントー 蒸気内車 鉄・ 30 長36.9、幅4.5 94 英国

伊予方面軍 先鋒・親藩伊予松山十五万石松平(久松)隠岐守、
先鋒・松平式部大輔、伊達遠江守(宇和島藩)、松平阿波守(福島藩)
二陣・土佐藩、高松藩、


松山藩 大将・老臣長沼吉兵衛、新製一番大隊・隊長吉田惣右衛門 /別手・家老 菅 良弼

長州軍 藩公 毛利
藩公名代 家老・井原主計、 、宍戸備後助(急遽、山形半蔵を家老・宍戸備前の養子)小田村素太郎、
大村益次郎





島内軍 大島宰判 代官・斎藤市郎兵衛  軍監兼参謀・石川幹之助【4/17就任】 「諸給領村寄」(大島郡大観)
島内藩士 屋代・村上亀之助(2500石)、五小隊【250名】粟屋帯刀 922石6斗5升6合志佐村・小松開作

村上亀之助砲隊(今元直人)機械方50名 村上筑後 2299石7斗8合 屋代・伊保田・油宇村
和田・村上河内守(1700石) 三小隊【150名】 村上久千代 1590石4斗2合 屋代・伊保田・小泊村
三蒲・飯田弥七郎 一小隊【50名】 平岡善兵衛 494石3斗4升5合 屋代・和佐村
【平岡譜録】平岡クリ(飯田弥七郎妻・)
三蒲・神ノ浦・村上太左衛門 一小隊【50名】 内藤常陸 303石1斗1升4合 志佐・日見村
和佐・北迫・平岡兵部甲太郎 一小隊半【75名】 御郷勘兵衛 96石3斗1升 志佐村
【平岡譜録】平岡甲太郎(実・村上太左衛門次男)通三・通義の養子 賀屋五兵衛 89石5斗7升7合 志佐村
宍戸三丘隊(ミツオ) 二小隊【100名】 中村 一 61石6斗1升9合 笠佐
井原隊 一小隊【50名】 浦 靭負 291石2斗5升1合 三蒲村
護国団・大洲鉄然、一小隊【50名】 村上三郎助 398石5斗3升3合 三蒲村
神祇隊・平岡宮司  一小隊【50名】 飯田七郎左衛門 290石9斗3升2合 三蒲村
西村庄兵衛組狙撃 80名程 村上次郎兵衛 205石7斗1升3合 三蒲村・神浦村
安下庄隊 狙撃  40名程 橋本八郎次 106石5斗5升8合 三蒲村

島外軍 第二奇兵隊(岩城山・軍監林半吉) 三小隊【150名】
世良修蔵、隊長国行ひな次郎、斥候篠原又造、半隊長長村精右衛門、
洪武隊(旧士族隊・在花岡、総督小笠原弥右衛門) 三小隊【150名】
総督小笠原弥右衛門、軍監山形甲之進
浦隊(阿月) 一小隊【50名】
清水隊(立野) 一小隊【50名】
大野小隊(毛利隠岐) 三小隊【150名】
上関小隊   三小隊【150名】
大島小隊   一小隊【50名】
宍戸隊(三丘)
上関裁判代官、小川市右衛門

第二次長州征伐の動き
藤舟本  慶應2年 4月17日 井伊掃部助は五日市、廿日市、玖波駅に進軍し、幕府一番隊は草津駅に屯す。而して彦根侯は
 初本陣を五日市光禅寺に定め、次に廿日市に進む千数人の家中、初めは廿日市にありしが本月より
 平良村へ移れり。同日より草津駅外で関門を設けて守衛する。

藤舟本  慶應2年 5月15日 ●幕軍の芸州藩は国境守備と称し、寺田旅人助に兵を添え佐伯郡小方へ出張させた。(芸州口)
藤舟本  5月15日 ●芸藩は幕府からは助長(長州の味方)とみられた。(芸州口)

平岡譜録  5月17日 平岡仲之助通義(実・張内記良道次男)、石州口軍監として出張・甲之助は養子

藤舟本  慶應2年 5月19日 ●榊原式部大輔、己斐村へ進軍する。(芸州口)

藤舟本  慶應2年 5月21日 ●幕軍の芸州藩は番頭二川主税に命じ国境守備として小方へ派遣する。(芸州口)
藤舟本 ●芸藩は幕府からは助長(長州の味方)とみられた、小笠原長行より6月5日を進撃開始の命あるも自重する。(芸州口)

藤舟本 慶應2年 5月25日 ●征長総督府は四国各藩に対し征長の四国取締は京極主殿正高富侯である旨伝達し指示に従うようにとした。

藤舟本 慶應2年 5月26日 ●伯耆守と京極主殿正高富侯は大坂をたち広島へ向かう。

藤舟本 慶應2年 5月28日 ●幕軍の松平閣老(兵部大輔慶憲)来広す。(芸州口)

藤舟本 慶應2年 5月29日 ●幕府は長州との交渉を打ち切る。
藤舟本 ●芸州藩は交渉打切りの29日をもって正式に先鋒を断る建白書を閣老の小笠原長行へ差し出す。理由は「無名の師は進発せし むべきでない」。
藤舟本 広島・晴 ●長州交渉打ち切りをもって、松山藩は一軍追手大将、管五郎右衛門良弼(72歳)を興居島由良に出張させる。
永本本 広島・晴 ●「富士山丸艦長望月大象長州征伐日記」
「十二時過ぎ、広島表金之助(永井金之助)より当番当てのご用状到来。右は明後二日壱岐の守殿、小倉表へ
お越しに付き、翔鶴・長崎丸両艘差し仕えが無いよう取り計らいたいとの書状の写し、心得の為め申し越しました。」

永本本 慶應2年 6月2日 ●小笠原長行は2千の兵を率いて宇品を出帆する。
藤舟本 ●小笠原閣老、幕命により広島を去り小倉へ向かう。(芸州口)

藤舟本 慶應2年 6月3日 ●芸州藩は交渉打切りの29日をもって正式に先鋒を断る旨を閣老の小笠原長行へ差し出す。閣老から芸藩へ却下届くる。(芸州口)

藤舟本 慶應2年 6月3日 ●紀州徳川慶承、総軍指揮監督総督に任命され、富士山丸に乗船し大坂から広島に着く。
永本本 慶應2年 6月3日 ●小笠原長行は豊前沓尾に上陸しただちに小倉へ入り開善寺を旅館とした「小笠原長行伝」
柴誠一履歴 慶應2年 6月3日 小笠原長行は広島から小倉へは翔鶴丸に乗船し、第二長崎丸には軍事目付と小笠原家来が乗った。豊後沓尾届。

藤舟本 慶應2年 6月4日 ●広島応接主任、小笠原長行、広島を立って九州総督へ、若年寄京極主殿正は伊予方面総督へ向かう。
藤舟本 6月4日 ●芸州藩は先鋒却下の命に、再度、征長の名義が明らかでないから出陣出来ない旨の届出書を総督府へ出す(芸州口)。
藤舟本 6月4日 ●松山藩は老臣長沼吉兵衛を大将として,また新製一番大隊、隊長吉田惣右衛門を興居島由良に出張させる。
   松山藩嗣子久松定昭公(中軍大将)旗本を率い美津へ出陣する。

藤舟本 慶應2年 6月5日 ●追討先鋒総督紀伊中納言徳川茂承【しげつぐ】着広し、外廓茶邸をもって本営とする。(芸州口)。
榊原式部大輔は草津へ進軍する。

藤舟本 慶應2年 6月5日 ●幕府目付役・石坂武兵衛、徒目付・瀧田正作が芸藩境係役・立野一郎の案内で玖珂郡新湊へ来て、岩国藩塩谷鼑介へ宣戦書を交付した。
塩谷これを突き返し、宣戦される謂れはない、たってと云うなら山口へ参られよ。岩国藩は当事者ではない、と。両人怒って帰る。

藤舟本 6月6日 ●幕府は松山藩軍目付として荒川鉄太郎を派遣しこの日荒川は大坂から三津に着船した。
  幕府は宇和島藩にも軍目付として竹尾戸一郎を大坂から派遣し、同日郡中に到着する。
●幕府の四国征長軍取締、京極主殿正高富が広島から三津に着き、ただちに松山城下に入り、久松家菩提寺大林寺を宿舎とする。

藤舟本 10時ころ 6月7日 ●突然、熊毛郡上関沖に軍艦富士山丸(艦長・井出春房)が現れ、大砲を発砲しながら、阿月まで侵入し、 大島郡荷内島の瀬戸を抜け安下庄へ。
藤舟本 新歴 (7月18日)  安下庄、外入、島末の油宇を砲撃して午後4時に松山藩軍港興居島へ帰港する。
谷直吉記録 ○上筋より軍艦一艘襲来、10発ほと打ちかかる。
藤舟本 ●夕方、富士山丸と大江丸は相前後して由良港に入港した。大江丸には幕将河野伊予守が乗り込んでいた。
 河野は広島本営では大島攻撃の用意は済んでおり、厳島まで出陣している、明日8日、先鋒は久賀に向って進発する予定で前線基地を前島に置く予定であるから、松山藩も津和島まで出張って欲しい、以後は前島と津和島間で連絡を取り合いましょうと進言した。 この時、管の命令で雑役夫は経費がかかるとのことから総て松山へ返され、戦闘員1500名のみで出征する。

藤舟本 ●松山藩は後軍として服部正範が旗本の遊軍、御部屋備付属隊を率い三津に到着する。城の守りは藩主勝成公が当たり総動員体制となった。
富士山丸日記 ■朝五ツ半廣島表旅宿出立御船ヘ帰る。午後宇品抜錨、厳島hへ夕四ツ半過着。(富士山丸艦長望月大象 長州征伐日記)
富士山丸艦長・肥田浜五郎説あり。(土屋重朗説)
柴誠一履歴 芸州表江引戻候途中、防州領上ノ関、安下ノ庄辺砲撃およひ、同日松山領奥居島之内由良之内前乗通候処、同処ニ大江丸御船 碇泊罷在候ニ付、同御船一同ニ相成、松山勢為乗組、同八日大島郡之内所々砲撃および、同日芸州宇品島江乗廻、長防所々
戦争砲撃或陸軍兵運送之御用、日々相勤、同月晦日御船御修復として長崎表戻候処、於同所お買上相成候御軍艦回天御船江乗組、・・

富士山丸日記 ■宮島から富士山丸、翔鶴丸、朝日丸、八雲丸の四隻、陸軍乗り込み千石船1艘、百石、二百石積船7艘、小船3艘で大島へ出帆久賀着。
藤舟本 6月8日 ●芸州藩は出陣出来ない旨の届出書を総督府へ出すとこの日、単に国境の守備のみで良いとし中立の立場となる。(芸州口)。
(7月19日) 幕府は芸州藩の征長先鋒の令を解き、藩境等の守衛に任じせむ。
谷直吉記録 ○7日同様、上筋より軍艦一艘襲来、10発ほと打ちかかる。敵兵2000人程上陸。
藤舟本 ●興居島の海軍司令部は富士山、大江の2艦へ大島郡斥候を命じ、和船10隻を率いて油宇村に現れる。
夕刻より雨  松山藩管五郎右衛門の船は梅鉢入りの12反帆の帆船で長沼吉兵衛の船も定紋入りの帆船であった。
先頭は管の船で油宇到着は卯の下刻(6時)であった【従軍日記】
富士山丸、大江丸は陸から10丁(凡そ1000M)に近づき砲撃を油宇村に加える。
砲弾は浄光寺近くに落ち、農夫の深次郎の家内、みつと二才のおぶっていた子の傍で破裂した。
松山兵は和船10余艘に200の兵を載せ、上陸し、内火縄をもつもの50人あまりで乱暴狼藉を働く。

谷直吉記録 6月9日 6月9日、10日 大雨。
(7月20日)

中原勲 6月11日 朝○安下庄砲撃上陸、決戦、放火(松山兵凡1500名・被放火・690戸)【天保年間、1410戸】
大島郡大観(7月22日) ○安下庄危うしの報に村上河内隊は平良居村より日前の譜門寺迄行くとすでに安下庄は火の海であった。
谷直吉記録 ○五ツ時、軍艦2艘、小早商船取合100艘位参り、軍艦より数発撃ちかけ、三松庄の沖、洲鼻(スバナ)より200人位、3手で上陸する。
中原勲 ○久賀砲撃上陸 決戦、放火(幕軍2000兵)
中原勲 ○大嶋兵遠崎へ引く(大洲、田村、三国、沓屋等活躍)
中原勲 戦死者 ★大谷 八郎  35才 護国団 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
大島郡大観 ィ ★大谷八郎秀乗 25才 戸田村照林寺僧、護国団機械方、久賀畑にt戦死。
中原勲 ★松岡 茂太郎 20才 三番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
大島郡大観 ィ ★松岡 茂太郎盛久 20才 小松庄屋松岡源兵衛の子、三番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。
中原勲 ★冨山 勇記  21才 五番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
大島郡大観 ィ ★冨山 勇記義貞  20才 久賀農兵、大島軍六番小隊 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。
大島郡大観 ィ ★岩本 直吉敬信 27才 久賀村農兵 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。
大島郡大観 ィ ★赤川蔵人従者・川村 文庵方矩 72才 大島郡医 安下庄の戦いで戦死。
大島郡大観 ィ ★藤本 鹿之助常義 41才 久賀村農兵 幕軍侵入時、久賀にて戦死。
大島郡大観 ィ ★岡本 新太郎忠良 年齢不詳 村上亀之助小隊士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。
大島郡大観 ィ ★ 熊三 46才、椋野村農兵、幕軍侵入時、久賀国木峠にて戦死。

大島郡大観 ィ 6月12日 ★ 磯右衛門 61才、安下庄農兵、幕軍侵入時、安下庄で負傷し後、死亡。


中原勲 ◎回復戦 6月13日 ○久賀・前島沖の幕艦を夜襲する(高杉晋作(谷潜蔵) 丙寅丸【ヘイインマル】(オテントー号)で)
(7月24日)
毛利家編纂所 6月12日 原紙は毛利家編纂所の正式な印刷用紙に書かれています。当時は東京・三田で使用されたものと思われます。
(慶應2年6/12日を消し14日に直す。名称欄の「丙寅丸乗組員山田顕義報知書」を消し「丙寅丸幕艦砲撃事件」と改めている。
6月14日  その後に続けて「丙寅丸乗組員山田顕義報知書」と改定しています。
題名は「大島郡戦記全所載」の内、全所載を消している。備考欄に【毛利家編纂所所蔵】とありさらに【校正済】とあるので
 色んな資料を纏めて編纂し正規の書とした跡が窺えます。よって一次史料としては扱えないこととなります。

『寅六月十四日丙寅丸乗組山田市之充報知
 過る十二日朝 丙寅丸にて大嶋郡小松沖江、停泊致候処、最早県令を始、村上一手農兵共、
 地方遠崎邊迠渡海致し応援之期に後れ、不堪憤懣、其夜月落而賊艦江乗懸、砲発七八發も
 打懸候得共、狼狽致候哉、賊艦よりハ砲発不致候処、其後追々打出候へ共、此方にハ矢留致し、
 小松沖へ乗戻候へ共、其日富士山と申、幕之大軍艦、伊予路江向け出航致候由。
 彼船立帰り出口を絶候てハ運洋難、俄に相成候故、又々賊艦より壱弐町沖通り芸洋に向け出懸々々
 七八發打押出帆致し、尤日落暗夜に付、玉付□(舟ヘンに定)と相成不申候へ共、灯火を目懸
 拾四五發打候ニ付、大小當りも有之様、相咄候事。』

中原勲 6月14日 ○本土兵、遠崎に集結(第二奇兵隊【世良修三・白井小介】、洪武隊【小笠原弥右衛門】、大野隊、浦隊、三丘隊、清水隊、上関隊)
大島郡大観 (7月25日) ○反撃軍を笠佐島で編成する。
 屋代進撃軍  第二奇兵隊、洪武隊、清水一小隊、大島土兵一小隊、〆て八小隊は屋代へ向かう。(約400名)
 沖浦進撃軍  大野小隊、上関小隊【小川市右衛門】、大島小隊、等七小隊は沖浦へ向かう。(約350名)
 三蒲椋野口進撃隊  浦一小隊、村上亀之助五小隊及び砲隊、村上河内三小隊、村上太左衛門、飯田孫七郎各一小隊
           平岡甲太郎一小隊半、三蒲椋野口へ向かう(約625名)

中原勲 6月15日 ○長州兵、大島へ入る。(本陣・西蓮寺、屯所・大元家・宮の坊、大龍寺) *大島上陸は14日とある。
(7月26日) ○久賀木台で決戦(長州兵死5名・負傷18名)
大島郡大観 ○松山藩の敵牒、松本定右衛門、岩岡己之助が京屋金満(後の金満為之助宅)に滞在中を、森品蔵【大島鬼一】は松本を
 銃の台尻で打ちすえ、後、斬殺し、岩岡を生け捕りにし引き立てる。
○名刹譜門寺が兵火にあう。敵兵の放火によるものである。
大島戦石碑 ○夜、敵は前線基地の譜門寺に火を放す。
○沖浦口は不戦。
中原勲 戦死者 ★松永熊蔵  46才 椋野村軍夫  幕軍侵入時、国木峠にて戦死。
  ★岡本 新太郎 年齢不詳 村上亀之助小隊士 幕軍侵入時、国木峠にて戦死。

中原勲 6月16日 ○笛吹峠、源明峠、三ツ石峠で決戦。松山兵撤退(死・12名、負傷者23名)長州兵(死者4名・負傷者不明)
大島郡大観 (7月27日) ○16日は濃霧であり戦況を有利とした。
中原勲 戦死者 ★野村 吉蔵 23才 奇兵隊小隊戦士 久賀三ツ石にて重傷、8月10日病死。
大島郡大観 ィ ★野村 吉蔵 都濃郡須々万村農兵 久賀清水峠にて重傷、8月10日死亡。
  ★国行 雛次郎  33才 奇兵隊司令士  幕軍侵入時、久賀にて戦死。 
大島郡大観 ィ ★国行 雛次郎寛政  23才 第二奇兵隊小隊司令  幕軍侵入時、久賀にて戦死。 
  ★波多野 五郎  30才 毛利隠岐司令士 幕軍侵入時、久賀清水峠にて戦死。
大島郡大観 ィ ★波多 五郎忠政  30才 大野毛利の臣、小隊司令 幕軍侵入時、清水峠にて戦死。
  ★竹中 甚之助 19才 洪武隊戦士 久賀三ツ石にて戦死。
大島郡大観 ィ ★竹中 甚之助直行 19才 洪武隊戦士 久賀清水峠にて戦死。
  ★山脇 種蔵  19才 九番小隊戦士 幕軍侵入時、笛吹峠にて銃の暴発により即死。
  ★大波野 市蔵 年齢不詳 上関大波村軍夫 幕軍侵入時、笛吹峠にて戦死。
大島郡大観 ィ ★田村 国松  西屋代農兵 村上亀之助の砲兵、発砲訓練の際負傷し後死亡。
大島郡大観 戦死日不明で別に、村上手の小物・兵左衛門、東蒲野農兵 常次郎 傷死、あり。
大島郡大観 松田 作右衛門 地方組、卒日不明、用務にて駆けまわる中、敵の間者と間違われ屋代村において殺害さる。
精忠不朽ノ碑 同碑に他の戦死者はあるが、★川村文葊の墓や名が洩れている。

中原勲  6月17日 ○久賀総攻撃、幕軍撤退(長州兵死者9名、幕軍死70名、負傷30名)
中原勲    戦死者 (7月28日) ★金谷 磯右衛門 46才 安下庄軍夫  幕軍侵入時、国木峠にて戦死。
中原勲 ★久行 丈之助 年齢不詳 宍戸備前小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。
中原勲 ★泉 徳太郎 20才 毛利隠岐の臣 幕軍侵入時、久賀地区において戦士。
大島郡大観 ィ ★泉 徳太郎純成 20才 第二奇兵隊 幕軍侵入時、久賀地区において戦士。
中原勲 ★仲木 直太郎 39才 洪武隊戦士 幕軍侵入時、久賀地区で戦死。
大島郡大観 ィ ★仲木 直太郎近明 39才 洪武隊戦士 幕軍侵入時、久賀地区で戦死。
中原勲 ★山本 与吉郎 23才 六番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて重傷、後、病死。
大島郡大観 ィ ★山本 与吉良久 31才 久賀農兵 六番小隊戦 久賀にて重傷、後、病死。 八月
中原勲 ★藤本 鹿之助 42才 久賀村軍夫 幕軍侵入時、久賀地区にて戦死。
中原勲 ★岩本 直吉 25才 久賀村軍夫 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。  
大島郡大観 ィ ★山脇種蔵重秋 19才 遠崎村農兵 六番小隊、久賀にて戦死。
大島郡大観 ィ ★久行 丈之助定信 三丘宍戸隊、銃卒 久賀にて戦死。

大島郡大観 6月18日 ○久賀及び安下庄からは敵軍を放逐したが、以前沖の軍艦留まりて
 (7月29日)  に睨みあいが継くが戦闘はなし。

中原勲 6月19日 ○幕府兵再び久賀へ上陸。略奪・放火(1000戸)【天保年間1600戸在り】
 (7月30日)

中原勲   戦後始末 6月20日 幕軍残兵斬首  14名  小者7人は返還、後、大島の村人15人返還
理由制札「皇国の大道を乱し、妄りに正義の国へ立入り、乱暴を致したるその罪をもって、誅伐を加うるものなり」

大島郡大観 ○大嶋口の戦利品はフランス式砲2門、臼砲2門、、小銃、和銃、鎧等数知れず。
生け捕りの14名を斬首【小松手崎大川】松山藩士岩岡己之助以下11名、長沼吉助、田中某、松本定右衛門以下14名)

中原勲 10月29日 安下庄焼き払い賠償金返還(150両)「小銭を持って来たので突き返す」【なめんなよ 松山藩!】

中原勲 11月15日 松山藩士、開作にて相対、(謝罪、和睦)
「兵士の罪ばかりとは申されぬ、その点は合見外のこと、寛大に処置されるがよかろう」

四境の役・大島口 講演会(過去記事)

2022年07月29日 19時16分21秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
「伊予松山藩から見た大島口の戦い」と題する講演会が開かれます。

日時  5月26日(土)午後1:45~3:30
講師  井原恒久   愛媛県立図書館長
場所  橘総合センター (安下庄)
料金  無料
主催  橘郷土会 周防大島町文化振興会
問合せ 橘郷土会事務局 尼崎 090-4751-6218

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大島口の戦いは長州側サイドで語られることが多いのですが、幕軍側(松山藩)サイドでの見解は
あまり語られることはありませんので興味深い講演となります。

松山藩は徳川親藩の立場で他の四国諸藩が出兵をためらう中で大島口に攻め込んできました。
もともとは大島を素通りして徳山上陸を果たし、山口、萩に兵を進める予定だったと
されるのになぜ無防備な大島に侵入してきたのか知りたいものです。

安下庄を中心に市街を焼き打ちにし、村上兼助隊の島を捕虜にしたいきさつや、その後の
和平使節の内情も知りたいものです。

伊予側の資料に基づきレポートを出されている、大島商船の田口先生が知らない秘話が
でることを期待したいと思います。

橘郷土会の皆様よろしく。

四境の役 平岡兵部隊陣中報告

2022年07月29日 19時14分53秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
 【原文は古文で書かれていますが、勝手に現代風にします。】

  平岡甲太郎5月25日大島郡屋代村へ出張の事(慶應2年〔1866〕)

一、6月11日、同郡久賀村へ賊兵来襲につき、久賀畑村へ出張しました。

一、同12日暁、遠崎(大島郡本土側の前線基地)へ渡海しました。

一、同13日、遠崎に滞陣しました。

一、同14日夜、遠崎より小松開作へ渡海、すくに、三蒲村、椋野村、久賀村境
  国木峠にて賊兵と出会い、昼の12時くらいから夕暮れ時まで戦い、遂に賊兵
  を国木峠より追い落とすことができました。

一、同夜は垢の水山上にて夜陣いたしました。

一、同16日、碇ケ峠より国木峠へ出張、同夜は垢の水で野陣いたしました。

一、同17日、椋野村、久賀村境平原峠にて夜の8時くらいまで戦いました。
  海と陸との賊兵を相手にしましたので苦戦しましたが、終いには平原峠
  から追い落とし、庄地村まで追い詰めましたら賊兵は敗走いたしました。

一、同18日、碇ケ峠へ出張しました所、本陣より「戦い止め」と伝達して
  きましたので、屋代村へ下り、この日は屋代村で宿陣しました。

一、同19日、三蒲村へ出張せよとの布告がでましたので、三蒲へ行きました。

一、同26日迄、三蒲村へ兵卒ともども出張して昼夜廻り番を勤めました。

一、同27日、兵卒を少し分散させても宜しいとの布告がありましたので、すぐに
  行軍をして屋代村まで引き返し、昼夜、時々廻り番を致しました。

一、(平岡)甲太郎は11月17日まで屋代村へ出張しておりました。

一、我が一手の内、優れた働きをした者たち

   家来
      猪口 直人

      佐川 多喜人

      山中 益男

      三木 諒

      岡本 林右衛門

   足軽
      浜田 宇七

      岡谷 源二郎

      峰村 坂二郎

右、私の一手、慶應2年寅ノ6月、大島郡に於いて、賊兵襲来の時の人数と戦争の
次第、前に書いたとうりでございます。

  (慶應3年)3月    平岡 兵部(通義)
              (石州御内用、浜田町方、寺社方兼帯奉行役の心得)

四境の役 平岡兵部隊

2022年07月29日 19時13分29秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
大島郡の在郷部隊に平岡兵部隊があります。
平岡兵部とは島末の和佐と島元の北迫に領地があった萩藩士となります。
諱は通義、仲之助、藤馬、兵部、兵吉も名乗り、後、功あって従三位勲二等に
叙せられます。四境の役の時は彼は大島口ではなく石州口の軍監参謀として
戦っています。よって大島口は養子の平岡甲太郎が隊長を勤めます。

平岡兵部隊の面々

軍監駆引    兵部嫡子(兵部は嫡子ではなく系図によると三蒲の村上太左衛門の二男)
        平岡 甲太郎

参謀司令兼帯
        猪口 直人   (家来)

半隊司令
        佐川 多喜人  (家来)

右嚮導
        岡本 仙輔   (家来)

左嚮導
        山中 益男   (家来)

鼓手
        相原 虎太郎

兵糧弾薬繰出方
        岩田 義衛
        佐川 直人
        山中 巌
        田中 清介

医師
        岩松 春水

手伝
        藤武 菊介

           右役配 拾壱人

戦士
        三木 諒
        岩松 金也
        猪口 勝之進
        岡本 林右衛門
        岡原 政吉

足軽
        藤武 与太郎
        坂本 二助
        岡谷 源次郎
        藤元 政三郎
        岡村 藤吉
        中村 伸蔵
        岡村 国蔵
        岡野 伝助
        中谷 吉右衛門
        山中 庄次郎
        松本 仙吉
        桐本 国蔵
        峰村 坂次郎
        藤井 藤吉
        岡本 為蔵
        富田 武兵衛
        岡山 仁三郎
        東谷 栄次郎
        山中 近槌
        橋本 万蔵
        笹村 貞助
        国重 良助
        山根 吟蔵
        大久 由太郎
        藤谷 坂次郎
        藤山 卯吉
        竹内 力松
        田口 与吉
        大浜 勝五郎
        松原 甚右衛門
        浜田 宇七
        山崎 丹蔵
        佐々木 栄次郎
        栗田 弥吉
        山田 兼松
        佐藤 甲助
        松田 弁次郎

           右戦士並足軽 四拾弐人

以上、病気を除キ、惣人数 五拾参人

(上記の人たちは殆ど屋代か和佐の人達と思われます。現在も子孫はいます。)

村上亀之助、家来に切腹を命ず

2022年07月29日 19時12分12秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
村上亀之助(兼助・惟庸)は大島口の戦いの折、敵幕府軍(松山藩)へ内通とも
とれる、不審な動きをしたとして、家来の木原平内兵衛に委細を糾明した上で
罪ありとして切腹を申し付けました。

屋代島(周防大島)の住民の多くは伊予から渡って来た者も多く、伊予に親族やルーツの
有る者も多く、伊予軍に寝返ったり、協力する者も少なくなく、後に始末された人々がいた
ことも事実です。

「村上亀之助の切腹始末の報告書」

  拙者家来木原平内兵衛事、戦争中敵国豫洲津和(地)島より三津え令往還、
  万端武士道を失い、其上御国辱ニも相成候儀ニ付、糾明之上切腹申付候、
  此段致御届候、以上

     七月十二日            村上亀之助

   石川幹之助殿
   (大島郡一手軍監参謀心得)