山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

小松町誌  昭和11年発行 17

2023年11月24日 07時04分30秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
       【社 寺 教 会】

   (1) 村社 鹽釜神社

 小松町開作にあり。祭神は鹽土老翁、思姫命、淵津姫命、市杵島比女命の四座である。
本社は小松塩田を築造したる粟屋就貞が、元禄三年塩田の守護神として、陸奥国鹽釜大明神、安芸国
厳島大明神を勧請して祭祀したるもので、爾来地方民の尊崇深く、大正十三年村社に列せられた。
同社の由緒書には左の如く記されている。

  鹽田築造の工を起こすや江渚の地を開き此所に神■を造り鹽田及び地方民守護神として
  陸奥國 鹽釜大明神、安芸國 厳島大明神を勧請して之を祀る 時恰も元禄三年なり
  爾来霊験著しく財貨歳々二倍するを以て一般敬神の念厚きに至る、その後二十有余年を
  経て享保庚子の歳に現在の位置に舊制の儘 神■を覆造して之を祀ること元の如し、
  然る後四十年を経て明和二年に至り舊制を廃せず、領主 地方民相倶に■力相倶に努め
  以て壮大なる社殿の上棟を了り更に山を経営す、現在の山林是なり、その後二十余年を
  経て文化二年にいたり社殿の増築を為す、大正十一年神殿屋根の檜皮葺にその他全部を
  銅板葺に模様替えを為して現在の社殿となる。

小松町誌  昭和11年発行 16

2023年11月23日 08時28分02秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】

       【社 寺 教 会】

   (1) 郷社志駄岸八幡宮

 小松町大字小松にあり、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神の四座で、始め宇佐八幡宮より勧請、
屋代村徳神に祀られたものであるが、弘安5年8月、今の地に移傳され明治6年郷社に列せられたのである。
旧記によれば、

  御当社備前国、宇佐神託によりて八代大壇と云える所に勧請し御國家鎮護の神明と奉斎し、
  貞観の頃大風雨にて洪水逆巻嶺に登りて社寺近辺づえ崩れ御社遥かに小松海上に流れ出で
  宝殿神木ともに見失い人皆之を嘆く、此の崩小松と笠佐の間にて大なる洲となり汐大干の
  時、海草手づから取る程なり此の洲を称して沖の藻といふ。万葉集鳴門の歌に(玉藻かる
  てふ蟹少女)などと読みしも此のあたりのものの海人の為す業を眺望せられての事なるべ
  し、さてその後、夜々神光海原を照らし人々奇異の思いをなせしが、或る夜不思議に神告
  ありて里人に仰せ網をもって引き寄せしかば疑ひもなく神体歯朶の葉に乗らせ給うを引き
  あげ皆人愁の眉を開き神徳あらたなることを感じ、只今の社地に宮柱太しく立て長く氏の
  神と崇奉る彼の乗らせ給ひし、しだの名によりて歯朶岸と称す後に志駄岸と文字を改む

とある。氏子は頗る広く、小松、屋代、蒲野、沖浦四ケ村に約3500戸を有している。

源三・注)志駄岸八幡宮の勧請年は二説あってまだ論争が終わっていません。
川村氏が一石を投じていますがなかなか一次資料が見つかりません。一部東屋代の西連寺に
残っているとされますが、真偽ははっきりしません。志駄岸八幡宮の古い記録のほうは本社
宇佐八幡宮の創建の翌年となっていますので相当な歴史です。宇佐八幡宮に問合せましたが
如何せん古すぎて記録は見つからないとのことでした。
最初の遷座の地が屋代徳神の大壇としていますが、これは現在「日見峠(たお)」の所とさ
れ遺跡も残っていると数年前まで言われていましたが、現在は藪に埋もれているとか、この
場所を整理整頓して欲しいものです。志駄岸八幡宮の古記録を保管する西連寺住職は現在の
周防大島町長ですから「鶴の一声」をお願いしたい。
屋代地区は大雨による被害は多く、最近では「郷ノ坪」の大崩れがあります。
大島の方言で崩れることを「づえ」と云います。「大崩」(おおづえ)は大きくあちこち
が崩れて被害甚大を意味します。
徳神の大崩れは相当大きく、流木や家屋、住人、家畜は小松の沖まで「郷の坪洪水」と同じ
く押し流したと思います。屋代川の河口を瓢箪と現地の人は呼びます。その沖にいまも
「沖の藻」と称する浅瀬があります。大島商船の練習船が係留されているすぐ沖に浮き灯台
があるところがそうです。干潮時は人が立てます。この洲が広がって、大島商船の生徒を迎え
に来てた日本丸や海王丸が小松沖ではなく安下庄湾に停泊するとか。

小松町史では志駄岸八幡宮としていますが、後の法律改正で現在は正式には志駄岸神社と改称
させられています。これも本来の八幡宮に戻すべきでしょう。
本殿に入る宮の下の大鳥居が二つありますが、この鳥居の額が一本は「八幡宮」、もう一本が
「神社」となっています。参拝のついでに見上げてみてください。

小松町誌  昭和11年発行 15

2023年11月19日 07時17分31秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
        経 済
 本町に於ける経済状況は、民風が純朴勤勉である為,甚だ良好である。挽近は経済思想も普及し、
町は昭和11年度に経済更生計画を樹立することになっているが、この更生計画も他地方に見る如く
求済的、消極的なる方針による必要なく寧ろ積極的に樹立されてよいと思われるほどで以て町一般
の経済を知ることができる。

  【産業組合】

小松信用組合は、大正2年五月の創立で、今日まで信用制度のみによっていいた為、その事業は
組合員の金融的利便をはかるにすぎなかったが、昭和11年度から購買販売利用事業を併置するに
決したので、今後における活動は専業組合本来の面目を発揮するものと見られている。
現在の状況左の如し。

   組合員     出資口数     預 金       貸 付 金

    584人     1150口    272779円       116646円 

現在の役員左の如し。

   理事 久保田 勇治(組合長)  河村 直吉(常務)  吉田 紋次郎
      矢田部 安一  佐村 友右衛門  中村 辰三郎  奈良本 壽輔

   監事 矢田部 宗太郎  坂井 竹吉  川村 秀雄  岡村 儀兵衛  山根 宇一


  【公益質屋】

庶民階級の利便に資する為、町は昭和9年6月低利資金、一万一千円を借り入れて公益質屋を開業した。
昭和10年度(12月末現在)に於けるこの利用状況左の如し。

  貸 付 状 況     弁 済 状 況     流 質 状 況

 口数   金額      口数   金額     口数   金額
650口  3380円06銭   507口  2665円00銭   60口  218円61銭


  【大島銀行支店】

株式会社大島銀行は小松支店並び宮の下出張所を経営して本町金融の大動脈として活動している。
同行では銀行一般の業務を掌ること勿論、その為替取り組みも全国的であり、特に布哇(ハワイ)
桑港(サンフランシスコ)等には横浜署正金銀行と連絡して為替取り組みをしていることは海外
在住者を多数有する本町では非常に利便である。


源三・注)町史筆者は経済を金融のみに重点を置いている。町最大の産業は製塩業であり他に
     造船業、運輸業とがあるが、農地は少ないま町なので農業に言及していないのは
     無理のないことでもある。
     大島銀行は地元の産業育成の為に近藤慶一らによって設立し大島郡全土に支店網を
     張り巡らせていた。ハワイ出稼ぎや米本土への転住者が多く大島郡から旅立っていき
     毎月膨大な外貨をホノルルの横浜正金銀行ハワイ支店を通じて大島銀行に送金され
     大島銀行各支店出張所へは毎日のように受取りに親族が列をなしたとされます。
     大島銀行は後に山口銀行に併合されましたので、大島銀行小松支店跡に現在山口銀行
     小松支店寮となっていますね。
     また、山口銀行創始者は西屋代の村上水軍総帥であった村上亀之助の次男親信が
     右田毛利家へ養子に行き山銀の前身銀行の代表を務めました。

小松町誌  昭和11年発行 14

2023年11月17日 06時50分32秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】

        財 政

 財政は新規事業の開始等ある場合には拡張すること無論であるが昭和七年度以来は別次の如し。

 年 度          歳 入                 歳 出
         経常部       臨時部        経常部      臨時部
 昭和7年    34745円       17224円       29247円     22722円
 昭和8年    37961円       30411円       33749円     34622円
 昭和9年    40235円       20042円       33033円     27244円
 昭和10年   41542円       20718円       37110円     25150円
 昭和11年   39968円        6323円       37690円     8601円

 昭和11年の予算額は次の如し  (単位円)
  
   歳 入 総 額   63583円

   歳入経常部
    財産より生ずる収入          107
    使用料及手数料            1115
    交付金                781
    国庫下渡金              7424
    繰越金                981
    雑収入                780
    町税                28780
   
   歳入臨時部       
    財産より生ずる収入          44
    国庫補助金              207
    県補助金              6050
    寄付金                22

   歳出経常部
    神社費               102
    会議費               109
    役場費              8164
    土木費               616
    教育費              23614
    伝染病予防費            556
    隔離病舎費             301
    汚物掃除費             188
    勧業諸費              706
    産業調査費             237
    救助費               356
    警備費               548
    基本財産造成費            52
    財産費               252
    選挙費                49
    諸税及負擔              8
    公金取扱費              12
    兵事諸費              190
    雑支出              1039
    予備費               665

   臨時歳出部
    伝染病予防費            500
    基本財産造成費          4049
    積立金              1940
    公債費               416
    補助費              1396

 源三・注)立派な家が一軒300円程度で作れる時代の予算ですので桁は現在と比べる小さいですが、
      自主財源が八割近くあり、国及び縣からの下付金金は二割にとどまっています。
      現在の周防大島町全体では自主財源は三割しかなく七割は国及び県の援助が頼りになって
      います。これらの交付税はすべてひも付きですので、町民の自由な目的に使用することが
      できませんので所謂自治の自由度は「三割自治」と揶揄されますね。
      昭和11年は戦前ですので、神社費が計上されています。伝染病が多かったので関連経費
      も多く計上されています。小松町の歳費の最大の特徴は町税の大半を教育費に充てられ
      ていることでしょう。如何に教育熱強かったが覗われますね。西の明倫小学校(萩)
      東の明新小学校(小松手崎大川)と並び称された小学校のモデル校の明新小学校関連の
      費用が大半なのでしょう。笠佐島や志佐にも分校を有するマンモス校で、尋常小学、
      尋常高等小学もあわせ持つ学校でした。地名を付けない校名で明治維新胎動を覗わせる
      「明徳新民」から校名がとられましね。小松中学も旧田布施農業高校小松分校(その前は
      久賀高校小松分校)の所にありました。その他、小松には大島商船学校(現大島商船
      高専)もあり、教育費は相当となったのでしょう。
      疫痢、赤痢は日常でしたから隔離病舎費や伝染病予防費は相当かっかったのでしょう。
      汚物掃除費は通常のし尿処理費ではなく伝染病関連でしょうね。

   
        町 會

 明治22年町村制施行とともに第一回村会議員を選挙したが議員定数18名であった。
 明治31年議員定数12名に変更、大正6年再び定員18名となり、大正14年又もや定員12名となった。
 以上いづれも人口五千を境として変更されたものである。大正10年までは等級選挙で本町は
 12両級に分かれ各級半宛選出していたが、大正10年等級制度が撤廃された。有権者は大正10年まで
 は国税納付を条件とされていたが、同年これを撤廃し普通選挙となり今日に及んでいる。
 現在の町会議員左の如し。

    中村 弥助      吉田 紋次郎     木村 本三
    近藤 卯作      玉林 神助      矢田部 三四
    矢田部 宗太郎    坂井 竹吉      中村 辰三郎
    岡村 佐八      久保田 勇吉     田邊 光芳


 次に昭和10年9月15日現在の選挙有権者は次の如し。

   衆議院         1178名
   県会及町会       1144名
   陪審員資格者       105名

小松町誌  昭和11年発行 13

2023年11月13日 09時20分51秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
        町 治

 本町は、維新後の戸長時代は三ケ村一ケ島に分かれていた。
 即ち、志佐村、小松開作村、小松村、笠佐島がそれで、各村に戸長を置き、その戸長の邸宅に
 於いて事務を執っていたが、明治十七年此の四戸長を併合して小松組戸長役場と改称し、事務所
 を開作字小方に設けた。その後明治三十二年四月村役場を志佐字砂堀(長久幸倫氏)方に移傳し
 大正六年二月現在の庁舎を新築移傳したのである。

源三・注)この庁舎は縫製学校をへて現在は個人宅として現存しています。

   町 村 長

 氏名       就職年月      退職年月      在任期間

 木村 善凞    明治22年5月    明治23年4月     一ケ年
 長久 幸世    明治23年5月    明治27年5月     四年一ケ月
 近藤 慶一    明治27年5月    明治29年9月     二年五ケ月
 近藤 慶一    明治29年11月    明治33年12月    四ケ年
 井倉 安次郎   明治33年12月   大正2年7月      十二年七ケ月
 吉田 紋次郎   大正2年8月    昭和8年8月      二十年
 矢田部 宗太郎  昭和8年8月    現在在職中

  助    役

 松岡 宗一    明治22年5月    明治28年2月     五年九ケ月
 美谷 茂太郎   明治29年3月    明治30年
 井倉 安次郎   明治30年9月    明治33年12月    三年三ケ月
 長久 節三    明治34年1月    明治35年2月     一年二ケ月
 福永 義男    明治35年3月    明治39年8月     四年六ケ月
 矢田部 栄三   明治39年9月    大正3年9月      八ケ年
 長久 素彦    大正3年9月    大正6年6月      三年十ケ月
 上領 熊一    大正6年8月    昭和4年11月     十二年三ケ月
 奈良本 壽助   昭和5年1月    現在在職中

  収 入 役

 矢田部 茂作   明治22年5月    明治23年11月     一年六ケ月
 村田 吉次郎   明治23年11月    明治26年3月     二年五ケ月
 美谷 茂太郎   明治26年5月    明治29年3月      二年一ケ月
 原田 満太郎   明治29年3月    明治29年5月      三ケ月
 河原 惣右衛門  明治29年7月    明治31年7月      二ケ年
 松本 唯輔    明治31年9月    明治34年2月      二年六ケ月
 福永 義男    明治34年2月    明治35年3月      一年二ケ月
 弘中 伍六    明治35年5月    明治39年5月      四ケ年
 長久 幸世    明治39年5月    明治42年8月      三年三ケ月
 長久 素彦    明治42年9月    大正3年9月       五ケ年
 奈良本 壽輔   大正3年10月    昭和5年1月      十五年三ケ月
 山根 宇一    昭和5年1月     現在在職中

  行政区画
 
 町は行政上区長制度を採用し、区長は各部落にて予選を行い、町長は之を推薦いて町会の
 承認を得ることになっている。
 現在の区別及び区長は左の如し。

 区名(戸数)          区長名

 笠佐島(24戸)         中島 慶一
 北町第一区(99戸)       川野 常蔵
 北町第二区(77戸)       吉田 岩吉
 南町(93戸)          細田 三太郎
 宮の下(49戸)         岡村 儀兵衛
 沖石丸(73戸)         荒川 林一
 北方石丸(52戸)        中村 辰三郎
 中田(81戸)          坂井 竹吉
 手崎(61戸)          古崎 雛吉
 水車安迫(61戸)        池田 才助
 砂堀(41戸)          佐村 友右衛門
 小方(32戸)          中谷 久四郎
 金屋松ケ崎(63戸)       吉谷 竹三郎
 唐樋(32戸)          新原 坂一
 五反田タデ場(35戸)      原 直吉
 郷串(35戸)          木村 本三
 濱(102戸)           福島 清右衛門
 湯所(65戸)          湯村 才助