「ハワイに渡った海賊たち」によると・・・
『ハワイに枝村を作ろうとした人』(明治十八年)
周防大島の小松村出身の岡村広吉(安政五年生まれ)は、本来なら戸長の息子(岡村浅吉の長男)として村のまとめ役として人生を送る筈だった。
しかし自ら第一回漢訳移民に応募し、小松村の三十九名(男二十四名、女十五名)を連れてハワイに渡った。
ホノルルに小松村の枝村を築くと言った戸長の息子ならではの使命感による行動だった。
岡村広吉がホノルルに上陸したのは、久賀出身の川崎喜代蔵と同じ明治十八年の二月であった。二十六歳の岡村広吉はハワイの暖かさに驚き、
妻の重枝と二歳の長女、守枝と共に郷土出身者たちを引き連れて耕地に赴いた。そして白人監督のルナと小松村の人たちの仲介役を買って出た。
次女の道枝が生まれたのはそれからしばらくしてだった。
彼女が後にハワイの邦字新聞「ハワイ報知」を創刊する牧野金三郎(フレッド・マキノ)の妻となり、1949年(昭和24年)に夫が死去してから
は自身が社長を務めた人物である。
【ハワイ報知社屋】
ちなみに三女が菊枝、四女が春枝、四姉妹全員に「枝」がついているのは、母親の重枝に因んでいた。ハワイで生まれた男兄弟は
長男が日布人(ひふと)、次男が日下人(ひかと)、三男が日出人(ひでと)、四男が日勢人(ひせと)五男が
日栄人(ひえと)でいづれも「日」の字がついている。これは父親である広吉の日本への思いによるものであった。
『ハワイ報知、』「二世命名に寄せた母国への思い」(昭和60年7月18日号)によると、岡村広吉は耕地労働を終えると
明治26年にホノルルに出てパウアヒ街で風呂屋を開業し、後に料理屋「檀山亭」を開いたそうである。そして上の娘を残し
明治41年に妻の重枝、と菊枝、春枝の娘たち、日布人、日下人、日勢人、日栄人、と言った息子たちを連れて帰国した。
『山口県大島郡ハワイ移民史』によれば帰国後の岡村広吉が周防大島で村会議員や消防組の組頭などの要職を務めたという
ことだ。次男、日下人の妻であるアサエは「お父さん(岡村広吉)は小松村へ大きな家を建て、子供も立派に養育しました。
お姉さん(道枝)の結婚には最初親は反対でしたが、それでも日本に引き上げる時には娘に纏ったお金を渡していたので
それが新聞社創立の資金の一部となったようです」と語る。
大畠から大島大橋を渡って周防大島に入り、飯の山を正面に見て右折し、中国JRバス株式会社大島支店の処から
左折すると、そこが岡村広吉の生まれた小松の町筋であったが、通りに面して鳥居を建てている志駄岸八幡宮の境内に
「ホノルル」と言う住所とともに岡村広吉の名前がある以外、今では彼を偲ぶものは無い。
・・・・・・・・・・
『日布時事社』発行の「官約日本移民布哇渡航 五十年記念誌」によれば、
労働契約番号 654番 山口県大島郡小松村 岡村弘吉夫妻、労賃十五弗、カウアイ島 ケアリア耕地
と記録されている。
日布時事社のライバル紙「ハワイ報知」のスポンサーの一人である岡村に意識したわけではないだろうが
「広吉」を「弘吉」とミスプリントしている。もっとも労働契約原本が間違っていたのかも知れない。
筆者注)
『ハワイに枝村を作ろうとした人』(明治十八年)
周防大島の小松村出身の岡村広吉(安政五年生まれ)は、本来なら戸長の息子(岡村浅吉の長男)として村のまとめ役として人生を送る筈だった。
しかし自ら第一回漢訳移民に応募し、小松村の三十九名(男二十四名、女十五名)を連れてハワイに渡った。
ホノルルに小松村の枝村を築くと言った戸長の息子ならではの使命感による行動だった。
岡村広吉がホノルルに上陸したのは、久賀出身の川崎喜代蔵と同じ明治十八年の二月であった。二十六歳の岡村広吉はハワイの暖かさに驚き、
妻の重枝と二歳の長女、守枝と共に郷土出身者たちを引き連れて耕地に赴いた。そして白人監督のルナと小松村の人たちの仲介役を買って出た。
次女の道枝が生まれたのはそれからしばらくしてだった。
彼女が後にハワイの邦字新聞「ハワイ報知」を創刊する牧野金三郎(フレッド・マキノ)の妻となり、1949年(昭和24年)に夫が死去してから
は自身が社長を務めた人物である。
【ハワイ報知社屋】
ちなみに三女が菊枝、四女が春枝、四姉妹全員に「枝」がついているのは、母親の重枝に因んでいた。ハワイで生まれた男兄弟は
長男が日布人(ひふと)、次男が日下人(ひかと)、三男が日出人(ひでと)、四男が日勢人(ひせと)五男が
日栄人(ひえと)でいづれも「日」の字がついている。これは父親である広吉の日本への思いによるものであった。
『ハワイ報知、』「二世命名に寄せた母国への思い」(昭和60年7月18日号)によると、岡村広吉は耕地労働を終えると
明治26年にホノルルに出てパウアヒ街で風呂屋を開業し、後に料理屋「檀山亭」を開いたそうである。そして上の娘を残し
明治41年に妻の重枝、と菊枝、春枝の娘たち、日布人、日下人、日勢人、日栄人、と言った息子たちを連れて帰国した。
『山口県大島郡ハワイ移民史』によれば帰国後の岡村広吉が周防大島で村会議員や消防組の組頭などの要職を務めたという
ことだ。次男、日下人の妻であるアサエは「お父さん(岡村広吉)は小松村へ大きな家を建て、子供も立派に養育しました。
お姉さん(道枝)の結婚には最初親は反対でしたが、それでも日本に引き上げる時には娘に纏ったお金を渡していたので
それが新聞社創立の資金の一部となったようです」と語る。
大畠から大島大橋を渡って周防大島に入り、飯の山を正面に見て右折し、中国JRバス株式会社大島支店の処から
左折すると、そこが岡村広吉の生まれた小松の町筋であったが、通りに面して鳥居を建てている志駄岸八幡宮の境内に
「ホノルル」と言う住所とともに岡村広吉の名前がある以外、今では彼を偲ぶものは無い。
・・・・・・・・・・
『日布時事社』発行の「官約日本移民布哇渡航 五十年記念誌」によれば、
労働契約番号 654番 山口県大島郡小松村 岡村弘吉夫妻、労賃十五弗、カウアイ島 ケアリア耕地
と記録されている。
日布時事社のライバル紙「ハワイ報知」のスポンサーの一人である岡村に意識したわけではないだろうが
「広吉」を「弘吉」とミスプリントしている。もっとも労働契約原本が間違っていたのかも知れない。
筆者注)