昨日(12/12)から三夜連続でBS朝日は「忠臣蔵」を再放送中です。
豪華なキャストとコテコテに浪花節に訴える演出は「正調忠臣蔵」のファンにとってはたまらない。
このブログ「伊予大野家」では別な意味で興味深々です。
第一夜で赤穂を出奔する、経済閣僚・家老「大野九郎兵衛」をボロカスに描き、深謀遠慮の「大石内蔵助」を
目立てさせる演出です。また、別場面では赤穂藩出入りの商人「天野屋利兵衛」が赤穂藩札の回収を求めない
とする「男気」を演出します。天野屋利兵衛はのちに「討ち入り」の武器調達等で陰に日向に赤穂浪士を援ける
「義人」として描かれます。
これらの原作は後に大坂で戯曲化(歌舞伎)されたシナリオです。
筆者はモデルとなった、この悪役「大野九郎兵衛」と善者「天野屋利兵衛」は伊予大野家出身者と見ています。
即ち親戚同士です。
史実では大野九郎兵衛は浅野が赤穂に移封してからの仕官組で譜代ではありません外様です。
経済官僚として有能であったらしく、めきめき頭角を現し経済担当家老までなり、幕府の許可を受け
初めて藩札を発行します。それらで赤穂塩田を広げ赤穂塩を一流ブランドにします。
忠臣蔵では吉良の領地三河塩が赤穂塩に劣るので上野介が内匠頭に製造方法を聞いたが教えてくれなかったので
その腹いせに意地悪したとする話がありますが、それは嘘です。当時赤穂藩以外の周りの藩も製塩していましたが
製造技術はOPENにしていました。
当時、大野九郎兵衛の屋敷は城内にあり、現在は野っぱらです。
後で作った大石神社と隣の大石内蔵助屋敷がにぎわっているのも「忠臣蔵」のせいでしょう。
大野屋敷とは目と鼻の先なのですが・・・。
大野九郎兵衛が赤穂浅野家に仕官した時期は伊予河野家が滅亡し河野家配下にあった家やその他の伊予の
武士家が流浪する時期にあたります。また、「九郎兵衛」は伊予大野家各家の跡取りが名乗る「通り名」です。
また、大野九郎兵衛知房と名乗り、後大野家の旧姓伴(伴閑精)を名乗り1703年に京都で卒去します。
まだはっきりしませんが伊予大津(大洲)城主大野直之の子孫の一人と思われます。
昨夜の忠臣蔵で大野九郎兵衛の家紋を見ていましたが、はっきりしないらしく変な家紋でお茶を濁して
いました。これが「桔梗に二引き」であればばっちしなのですが。
一方の天野屋利兵衛は史実上は赤穂浅野の大坂出入りの商人名簿にはありませんので有力ではなかったでは
ないかと思われます。
歌舞伎では当初「天川屋」ですが、いつの頃からか「天野屋」となります。
当時の大坂のタウン誌「浪速雀」に天野屋は大坂天満の肝煎り(商人組合大幹部)として記録されています。
こちらの方はほぼ大野家系図で確認できます。曰く
最後の大除城主、大野直昌(なおしげ)が大津(大洲)宇都宮を併合するのあたり、一条家から出戻りの娘
章子を、前妻を離縁にし、嫡男直綱を廃嫡にしてまで、後妻として迎えます。章子はこの時、前夫、一条内政の胤を
身ごもっていましたが、男児誕生(天正11年1月17日)で直常と命名し惣領としました。
ただ天正13年の秀吉の四国征伐により伊予の城は総下城となり、河野、宇都宮、西園寺らも流浪となります。
天正15年に小早川隆景の伊予からの国替えにより一部の河野家家臣は小早川の領地、竹原に引っ越します。
「予陽河野家譜」は河野牛福通直と船に乗るとしますが、通直は天正15年7月13日に突然、竹原で自害していますので
一緒に行った河野家代表は通直母「春禅院」と思われます。
後に、大野直昌は竹原の地で亡くなり竹原の薬師寺に葬られます(現在この寺はなく墓と位牌は近くの成井観音に移しました。位牌は昭和になり子孫達の懇願により久万の地に帰りました)
父親を失った直常は仕方なく、伊予の河野家ゆかりの寺にあづけられていましたが、不憫と見た、大野家出入りの
商人天野屋が引き取っていきました。直常はのちに天野屋を継ぎ、天野屋九兵衛と名乗り1660年逝去します。
法名は天徳院殿圭厳常白大居士とします。忠臣蔵に登場する天野屋利兵衛は孫の天野屋利兵衛直治(大野九郎兵衛直之、
天野屋利兵衛直之・宗悟(松永))とされます。こちらは1733年逝去し、「思案橋濱(内平野)居住・葬京・椿寺」
とされ、法名は法正院空譽土斉善士とされ、さすがに「院殿号」ではなくなっています。
さて、映画「忠臣蔵」で藤田まこと演ずる「天野屋」が大坂奉行所の拷問に耐えて耐えて
「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフを吐くシーンを見ましょう。
豪華なキャストとコテコテに浪花節に訴える演出は「正調忠臣蔵」のファンにとってはたまらない。
このブログ「伊予大野家」では別な意味で興味深々です。
第一夜で赤穂を出奔する、経済閣僚・家老「大野九郎兵衛」をボロカスに描き、深謀遠慮の「大石内蔵助」を
目立てさせる演出です。また、別場面では赤穂藩出入りの商人「天野屋利兵衛」が赤穂藩札の回収を求めない
とする「男気」を演出します。天野屋利兵衛はのちに「討ち入り」の武器調達等で陰に日向に赤穂浪士を援ける
「義人」として描かれます。
これらの原作は後に大坂で戯曲化(歌舞伎)されたシナリオです。
筆者はモデルとなった、この悪役「大野九郎兵衛」と善者「天野屋利兵衛」は伊予大野家出身者と見ています。
即ち親戚同士です。
史実では大野九郎兵衛は浅野が赤穂に移封してからの仕官組で譜代ではありません外様です。
経済官僚として有能であったらしく、めきめき頭角を現し経済担当家老までなり、幕府の許可を受け
初めて藩札を発行します。それらで赤穂塩田を広げ赤穂塩を一流ブランドにします。
忠臣蔵では吉良の領地三河塩が赤穂塩に劣るので上野介が内匠頭に製造方法を聞いたが教えてくれなかったので
その腹いせに意地悪したとする話がありますが、それは嘘です。当時赤穂藩以外の周りの藩も製塩していましたが
製造技術はOPENにしていました。
当時、大野九郎兵衛の屋敷は城内にあり、現在は野っぱらです。
後で作った大石神社と隣の大石内蔵助屋敷がにぎわっているのも「忠臣蔵」のせいでしょう。
大野屋敷とは目と鼻の先なのですが・・・。
大野九郎兵衛が赤穂浅野家に仕官した時期は伊予河野家が滅亡し河野家配下にあった家やその他の伊予の
武士家が流浪する時期にあたります。また、「九郎兵衛」は伊予大野家各家の跡取りが名乗る「通り名」です。
また、大野九郎兵衛知房と名乗り、後大野家の旧姓伴(伴閑精)を名乗り1703年に京都で卒去します。
まだはっきりしませんが伊予大津(大洲)城主大野直之の子孫の一人と思われます。
昨夜の忠臣蔵で大野九郎兵衛の家紋を見ていましたが、はっきりしないらしく変な家紋でお茶を濁して
いました。これが「桔梗に二引き」であればばっちしなのですが。
一方の天野屋利兵衛は史実上は赤穂浅野の大坂出入りの商人名簿にはありませんので有力ではなかったでは
ないかと思われます。
歌舞伎では当初「天川屋」ですが、いつの頃からか「天野屋」となります。
当時の大坂のタウン誌「浪速雀」に天野屋は大坂天満の肝煎り(商人組合大幹部)として記録されています。
こちらの方はほぼ大野家系図で確認できます。曰く
最後の大除城主、大野直昌(なおしげ)が大津(大洲)宇都宮を併合するのあたり、一条家から出戻りの娘
章子を、前妻を離縁にし、嫡男直綱を廃嫡にしてまで、後妻として迎えます。章子はこの時、前夫、一条内政の胤を
身ごもっていましたが、男児誕生(天正11年1月17日)で直常と命名し惣領としました。
ただ天正13年の秀吉の四国征伐により伊予の城は総下城となり、河野、宇都宮、西園寺らも流浪となります。
天正15年に小早川隆景の伊予からの国替えにより一部の河野家家臣は小早川の領地、竹原に引っ越します。
「予陽河野家譜」は河野牛福通直と船に乗るとしますが、通直は天正15年7月13日に突然、竹原で自害していますので
一緒に行った河野家代表は通直母「春禅院」と思われます。
後に、大野直昌は竹原の地で亡くなり竹原の薬師寺に葬られます(現在この寺はなく墓と位牌は近くの成井観音に移しました。位牌は昭和になり子孫達の懇願により久万の地に帰りました)
父親を失った直常は仕方なく、伊予の河野家ゆかりの寺にあづけられていましたが、不憫と見た、大野家出入りの
商人天野屋が引き取っていきました。直常はのちに天野屋を継ぎ、天野屋九兵衛と名乗り1660年逝去します。
法名は天徳院殿圭厳常白大居士とします。忠臣蔵に登場する天野屋利兵衛は孫の天野屋利兵衛直治(大野九郎兵衛直之、
天野屋利兵衛直之・宗悟(松永))とされます。こちらは1733年逝去し、「思案橋濱(内平野)居住・葬京・椿寺」
とされ、法名は法正院空譽土斉善士とされ、さすがに「院殿号」ではなくなっています。
さて、映画「忠臣蔵」で藤田まこと演ずる「天野屋」が大坂奉行所の拷問に耐えて耐えて
「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフを吐くシーンを見ましょう。