秀吉の「海賊禁止令」は瀬戸内海賊の勢力をそぐに十分でした。失業した多くの海賊衆は、秀吉の「朝鮮出兵」にともない
多くの西国武将に仕官することができました。
関ヶ原の戦いは海賊衆を壊滅に追込みました。織田信長を支えた九鬼海賊や、秀吉に寝返った来島村上海賊は大名としては
残りますが、どちらも山奥に押し込められ水軍として力を蓄えないようにしました。「岡に上がった河童」となりました。
毛利家に付いた因島村上衆、能島村上衆は関ケ原の敗戦で防長二か国に毛利家が押し込められことにより、毛利家警固衆と
ともに毛利家御船手組(水軍)として三田尻に出仕します。御船手組の領地の殆どが大島郡となりました。
下記の黒田家分限著帳に残る能島衆は能島村上家をレイオフされて福岡・黒田家に召し抱えられた人たちです。
他に、細川家等の西国大名にも因島村上組も多く召し抱えられました。西国大名家の警固衆と呼ばれる中の「村上姓」の
多くがこの人たちとなります。大船頭、船頭、舟子(カコ)となっていますね。
別家に仕官した小者たちのほうが、能島家に残った人たちより給与がよいことが「能島家家頼分限帳」と比較すると
わかります。
慶長7年の「黒田藩分限帳」
能島衆
弐百五拾石 庄林 七平衛
百五拾石 賀藤 孫四郎
百六十石 宮田 與次平衛
百六拾弐石 浦上 駒之助
百六十石 賀藤 源三郎
百七拾六石 野間 源一郎
百七拾四石 野間 又 六
百五拾九石五斗 西 三郎左衛門
百四拾五石 林 助次郎
百壱石五斗 野間 彦右衛門
百七十四石 下嶋 次郎太夫
百六拾弐石 高瀬 又右衛門
百六拾弐石 野間 五兵衛
百参拾五石 松田 源右衛門
百参拾五石 浦上 新兵衛
百参拾五石 青木 理兵衛
百参拾五石 磯村 市兵衛
百石六斗 久田 鶴松 (弥左衛門倅也)
八拾五石五斗壱合 山田 彦三郎
九十四石五斗 浦上 勝七
右能島衆慶長五庚子九月十三日豊後佐賀関飛久浦ニテ
薩摩船二艘火打取ル働ニ同九月二十三日加増也
〆て 弐千九百五拾六石六斗一合
多くの西国武将に仕官することができました。
関ヶ原の戦いは海賊衆を壊滅に追込みました。織田信長を支えた九鬼海賊や、秀吉に寝返った来島村上海賊は大名としては
残りますが、どちらも山奥に押し込められ水軍として力を蓄えないようにしました。「岡に上がった河童」となりました。
毛利家に付いた因島村上衆、能島村上衆は関ケ原の敗戦で防長二か国に毛利家が押し込められことにより、毛利家警固衆と
ともに毛利家御船手組(水軍)として三田尻に出仕します。御船手組の領地の殆どが大島郡となりました。
下記の黒田家分限著帳に残る能島衆は能島村上家をレイオフされて福岡・黒田家に召し抱えられた人たちです。
他に、細川家等の西国大名にも因島村上組も多く召し抱えられました。西国大名家の警固衆と呼ばれる中の「村上姓」の
多くがこの人たちとなります。大船頭、船頭、舟子(カコ)となっていますね。
別家に仕官した小者たちのほうが、能島家に残った人たちより給与がよいことが「能島家家頼分限帳」と比較すると
わかります。
慶長7年の「黒田藩分限帳」
能島衆
弐百五拾石 庄林 七平衛
百五拾石 賀藤 孫四郎
百六十石 宮田 與次平衛
百六拾弐石 浦上 駒之助
百六十石 賀藤 源三郎
百七拾六石 野間 源一郎
百七拾四石 野間 又 六
百五拾九石五斗 西 三郎左衛門
百四拾五石 林 助次郎
百壱石五斗 野間 彦右衛門
百七十四石 下嶋 次郎太夫
百六拾弐石 高瀬 又右衛門
百六拾弐石 野間 五兵衛
百参拾五石 松田 源右衛門
百参拾五石 浦上 新兵衛
百参拾五石 青木 理兵衛
百参拾五石 磯村 市兵衛
百石六斗 久田 鶴松 (弥左衛門倅也)
八拾五石五斗壱合 山田 彦三郎
九十四石五斗 浦上 勝七
右能島衆慶長五庚子九月十三日豊後佐賀関飛久浦ニテ
薩摩船二艘火打取ル働ニ同九月二十三日加増也
〆て 弐千九百五拾六石六斗一合