因島村上文書の中で一番注目されるのは下記の文書である。
この文書をめぐって過去に大論争が起こり現在も決着を見ていません。
この文書は元弘三年(1333)五月八日付の 【大塔宮護良親王 令旨】です。
大塔宮令旨写
度々合戰捨身命致
軍忠之刻去四月三日同八日
廿七日等合戰之時子息己下郎從
討死之条尤以不便次第
所有御感也早可有恩賞者
大塔二品親王令旨如此悉之
以状
元弘三年五月八日 左少辯(ママ)判
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館
「度々の合戦に身命を捨て、軍忠を致すの刻、去る四月三日、同八日、同二十七日、
など合戦の時、子息以下郎従討死の条、尤ももって不便の次第、御感有る所也。
早く恩賞有るべき者(てへれば)、大塔二品親王令旨、かくの如し、
之を悉せ。以て状す。
元弘三年五月八日 左少将 (花押)
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館
(びんごのくにいんのしまほんしゅじぶほうきょうこがのたち)
意訳
『度々の合戦に、身命を捨てて、よくも軍忠をとげた。すなわち、去る四月三日、同八日、
同二十七日の合戦にさいしては、子息以下郎従の者までも討ち死にさせたとと云う、
誠にもって不便(びん)の至りであると同時に、感激にたえない。いづれ恩賞の沙汰も
有るであろう』
これは左少将、吉田貞恒から備後国因嶋本主治部法橋幸賀館に宛てたものであるが、この
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館が誰かで論争が巻き起こり現在も決着を見ていない。
令旨の中にある戦いは赤松円心の加勢に加わった時の敗走する京都・六波羅軍を追って
の京都での合戦と多くの歴史家がします。(森本繁)ただ因島は重要な拠点なので空白に
したまま出掛けることがあるかな?と「因島市史」は疑問を呈す。
問題なのは中身ではなく「備後国因嶋本主治部法橋幸賀館が誰か」である。
因嶋本主の【本主】は「因島の主」とのイメージであるがこの時の因島の領主は、宣陽院、
常光院であるから、領主、領家の言葉が使えないから南朝の造語として本主が使われた
可能性があるとします(因島市史)。確かに南北朝の戦いは天皇家が二つに割れて双方が「我が主なり」と戦っているので国の中で二制度が併存する奇怪な体制でもあります。
それぞれが元号を公布するので一次史料の元号が南朝元号と北朝元号でバラバラになって
しまいます。南北朝時代の史料は元号を確認しないとミスリードします。後世多くの歴史書
が間違って現在に引き継がれていますので要注意です。私も自家の系図や書簡の資料を整理
していますが、本家と分家で南北朝元号が違う場合がありますので立場が違うことが分ります。又、領地や官位もそれぞれが勝手に授けますので、同じ場所で領主が二人いる錯覚が
起こります。
【治部】は治部省の管轄下であったが武家時代になると勝手に幕府が任命することが多い。
ただ治部とは大録、少禄、少属の下のランクで末端管理職程度である。今で云うと主任か係長
なみか?
【法橋】は仏僧の階級で武士が入道する例も少なくない。
【幸賀】は入道後の仏名であるから出家名となります。
【館】は領主が住んでいる場所、や領主そのものを指す場合が多い。
所謂、お館様はは後世の殿様と同じで、単に館に参るとすれば屋敷に行くことである。
西日本の多くは館を(やかた)と発音し、東北では(たて)と発音する場合が多い。
音読みでは(カン)である。
となると「備後国因嶋本主治部法橋幸賀館」が誰を意味するか具体的には分からない。
政府が大正時代に南朝の忠臣村上義弘に位記を与えようとした時、村上義弘の出自を示す
一次史料がなかったので喧々諤々の末、取り合えず「金蓮寺」に預託することで現在収まって
います。
村上義弘と因嶋本主治部法橋幸賀館が同一人物と証明されれば良いのですがはっきりしないのでくすぶっています。
①山口県長府の因島村上家系図に先祖「因嶋本主治部法橋幸賀館」の名が見えることから
位記は因島村上家末裔を与えられるべきとしましたが横やりが入ります。
②大塔宮令旨は元弘三年五月八日で発行されているので因島で村上が確認されるのは
天授三年(1377)であり元弘三年(1333)と年代が違うとし、北条時宗の弟宗政と
する説もあり。
③また、上原前監入道佑信とする説有り(周防大島嶋家文書)
他いろいろ説があるのでまとまりません。
三島村上(来島・能島・因島)は同じ村上天皇子孫師清から分かれた分家と後世されます。
因嶋本主治部法橋幸賀館は能島村上、来島村上系譜には見当たらない。
ただ南朝の忠臣として村上義弘ははっきりしている。義弘と治部法橋幸賀館が同一人物であれば義弘直系子孫とされる周防大島村上嶋家に位記は与えられるべきでしょう。
ただ村上嶋家は清和源氏流で能島村上の村上源氏流ではありませんが、村上義弘没する時
子供は幼児だったので村上師清が養育するとします。後世の歴史書は村上義弘に子は居なかったと決めつけますので話がややこしくなります。
この文書をめぐって過去に大論争が起こり現在も決着を見ていません。
この文書は元弘三年(1333)五月八日付の 【大塔宮護良親王 令旨】です。
大塔宮令旨写
度々合戰捨身命致
軍忠之刻去四月三日同八日
廿七日等合戰之時子息己下郎從
討死之条尤以不便次第
所有御感也早可有恩賞者
大塔二品親王令旨如此悉之
以状
元弘三年五月八日 左少辯(ママ)判
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館
「度々の合戦に身命を捨て、軍忠を致すの刻、去る四月三日、同八日、同二十七日、
など合戦の時、子息以下郎従討死の条、尤ももって不便の次第、御感有る所也。
早く恩賞有るべき者(てへれば)、大塔二品親王令旨、かくの如し、
之を悉せ。以て状す。
元弘三年五月八日 左少将 (花押)
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館
(びんごのくにいんのしまほんしゅじぶほうきょうこがのたち)
意訳
『度々の合戦に、身命を捨てて、よくも軍忠をとげた。すなわち、去る四月三日、同八日、
同二十七日の合戦にさいしては、子息以下郎従の者までも討ち死にさせたとと云う、
誠にもって不便(びん)の至りであると同時に、感激にたえない。いづれ恩賞の沙汰も
有るであろう』
これは左少将、吉田貞恒から備後国因嶋本主治部法橋幸賀館に宛てたものであるが、この
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館が誰かで論争が巻き起こり現在も決着を見ていない。
令旨の中にある戦いは赤松円心の加勢に加わった時の敗走する京都・六波羅軍を追って
の京都での合戦と多くの歴史家がします。(森本繁)ただ因島は重要な拠点なので空白に
したまま出掛けることがあるかな?と「因島市史」は疑問を呈す。
問題なのは中身ではなく「備後国因嶋本主治部法橋幸賀館が誰か」である。
因嶋本主の【本主】は「因島の主」とのイメージであるがこの時の因島の領主は、宣陽院、
常光院であるから、領主、領家の言葉が使えないから南朝の造語として本主が使われた
可能性があるとします(因島市史)。確かに南北朝の戦いは天皇家が二つに割れて双方が「我が主なり」と戦っているので国の中で二制度が併存する奇怪な体制でもあります。
それぞれが元号を公布するので一次史料の元号が南朝元号と北朝元号でバラバラになって
しまいます。南北朝時代の史料は元号を確認しないとミスリードします。後世多くの歴史書
が間違って現在に引き継がれていますので要注意です。私も自家の系図や書簡の資料を整理
していますが、本家と分家で南北朝元号が違う場合がありますので立場が違うことが分ります。又、領地や官位もそれぞれが勝手に授けますので、同じ場所で領主が二人いる錯覚が
起こります。
【治部】は治部省の管轄下であったが武家時代になると勝手に幕府が任命することが多い。
ただ治部とは大録、少禄、少属の下のランクで末端管理職程度である。今で云うと主任か係長
なみか?
【法橋】は仏僧の階級で武士が入道する例も少なくない。
【幸賀】は入道後の仏名であるから出家名となります。
【館】は領主が住んでいる場所、や領主そのものを指す場合が多い。
所謂、お館様はは後世の殿様と同じで、単に館に参るとすれば屋敷に行くことである。
西日本の多くは館を(やかた)と発音し、東北では(たて)と発音する場合が多い。
音読みでは(カン)である。
となると「備後国因嶋本主治部法橋幸賀館」が誰を意味するか具体的には分からない。
政府が大正時代に南朝の忠臣村上義弘に位記を与えようとした時、村上義弘の出自を示す
一次史料がなかったので喧々諤々の末、取り合えず「金蓮寺」に預託することで現在収まって
います。
村上義弘と因嶋本主治部法橋幸賀館が同一人物と証明されれば良いのですがはっきりしないのでくすぶっています。
①山口県長府の因島村上家系図に先祖「因嶋本主治部法橋幸賀館」の名が見えることから
位記は因島村上家末裔を与えられるべきとしましたが横やりが入ります。
②大塔宮令旨は元弘三年五月八日で発行されているので因島で村上が確認されるのは
天授三年(1377)であり元弘三年(1333)と年代が違うとし、北条時宗の弟宗政と
する説もあり。
③また、上原前監入道佑信とする説有り(周防大島嶋家文書)
他いろいろ説があるのでまとまりません。
三島村上(来島・能島・因島)は同じ村上天皇子孫師清から分かれた分家と後世されます。
因嶋本主治部法橋幸賀館は能島村上、来島村上系譜には見当たらない。
ただ南朝の忠臣として村上義弘ははっきりしている。義弘と治部法橋幸賀館が同一人物であれば義弘直系子孫とされる周防大島村上嶋家に位記は与えられるべきでしょう。
ただ村上嶋家は清和源氏流で能島村上の村上源氏流ではありませんが、村上義弘没する時
子供は幼児だったので村上師清が養育するとします。後世の歴史書は村上義弘に子は居なかったと決めつけますので話がややこしくなります。