【南海治乱記】は黒田家に中津で仕官した大野氏について下記の
ように記します。ただ、この本は戦記物ですので一時史料にはなりませんが
福岡県史は概ね、下記のように従っています。
屋代島大野系譜とは異なります。
資料として見ていきましょう。(呑舟)
【南海治乱記】 香西成資 寛文3年(1663)発行
「 天正十三年秀吉公四国征伐有て、故家旧姓の領主を
追放し、伊予国を小早川に給ふ。大野左馬右衛門直吉は
本領を奪われ、浪人となり、安国寺に服従す。
左馬右衛門本姓は村上氏也。大野の名跡を継ぎて、 ←これは間違い
大野領を受る。大野は本、河野の別種(家)也。 ←これも間違い
故の家の紋折敷にゆり三文字也。天正十五年秀吉公 ←これは来島村上関係の間違い
九州征伐有て、筑前国を小早川に給ふ故、豫州より所替す。
安国寺も筑前国鞍手郡に移る。其の後高麗の陣起りて、
安国寺も出陣す。文禄二年正月隆景王城軍の時、安国寺も
其の先手の目代として、柳川侍従統虎、久留島侍従秀包、
筑紫上野介、高橋主膳、各相倶に進て、南大門より押出し
二里の先にて明の李如松が先鋒と相對す。彼我の兵互に
命を軽んじ挑戦す。安国寺五百余人を三手に分、大野左
馬右衛門、軸賀治(部)各二百人に長として、恵慶百余人
を以、せかき旗を以、梯子を採て兵卒を指揮し、攻戦ひ、
火花を散す。軸賀治部、大野左馬右衛門能戦て敵陣を
破り、其の長男 大野勘右衛門、次男 久太夫氏重、
三男 三郎左衛門吉乗、真先進で合戦し、各首級を得たり。
諸将戦勝て勝どきの上、兵を止む.夫より凡二里計にして,
李如松が本軍有、隆景自人衆を合て押向。彼我相遭て
闘乱す。其勝敗いまだ不決して、諸卒苦戦して終る處を
不知。先陣の諸将援ひ来て、如松が陣の傍より突撃す、
隆景の兵卒力を得て大いに奮撃し、終りに勝事を得たり。
隆景の勇謀和漢に顕。秀吉公戦功を感じ、天子に奏して
中納言に任じ給ふ。隆景其功を眉目とし秀吉公に申て
筑前国を金吾中納言秀秋に譲て備後の三原に隠居す。
其時安国寺も奉行所を辞して京東福寺に住職となる。
其下の諸卒金吾殿へぞくすも有、又他邦へ行くも有、其頃
大野左馬右衛門病死す。其子勘右衛門直生、久太夫、
三郎左衛門は、朝鮮國の挙動を黒田長政知給ふ故に、
彼家を慕、豊前中津に来住す、時に関ヶ原の陣起て天下
大乱す、黒田如水公兵衆を催し、豊後へ赴給ふ。
大野兄弟三人戦場の供せん事を乞。黒田公喜悦し、井上
九郎右衛門手に組合せ、豊州石垣原に至、豊後大友義統
と一戦に及、大友方の先手急に駈り来て、中津方の先手を
追立て、二の手の兵将久野治左衛門、其介副 曾我部
五衛門追懸り槍を合、一足も去らず戦死す、(大)友方勢を
得て折布、三の手の懸るを待、井上九郎右衛門手の旗頭
大野三郎右衛門、柏樹の紋の旗を押立兵衆を進て、鉄砲
一放にして諸手一同に槍を入、大野勘右衛門、大友方
先陣の兵将小田原又左衛門、白母衣の武者と名乗合せて
槍を合、太刀下にて又左衛門を討取、如水公の実験に入
しかば、則感状を給はり、水懸村におゐて四百七石の地を
下し給。翌年長政公より采地五百石に改めらる。弟久太夫
は安国寺京東福寺住山之時隠邇し休也と號し、中津に
来住す。今度天下大乱に成たるを聞、二度戦場をふまん事
を悦、如水公に其旨を達す、感悦し給ひ、兄弟一所に井上
手にしよくし給ふ。休也今更具足指物はいな(や)なりとて、
白湯帷に着込しくさりはち巻に大なけ頭巾し異体に出立して
先陣に進、大友方あかねの母衣懸たる武者陣頭に進む
振廻常人に過たり。此武者を目がけ進みより、互に名乗合、
槍を合、深江七右衛門を組討にして首を取、隠遁者の
立返て一番首を取高名神妙也とて感状を給り、兄と同村にて
五百石を給ふ。翌年長政公より采地七百石を下し給ふ、
三男三郎左衛門は井上手の旗頭を給はりしが、其働よく
勝利有しとて、采地三百石下し給ふ。翌年長政公よりほめ
給ひ、眉目被しと也。然共、三郎左衛門、今度如水公
いかなる思めしにや俄に老人役を命し給ひて兄弟一所の
高名にはづれ,一世の心外と常に申せし、今築後の國に
おゐて、食禄足りて高門を並、子孫繁昌し相存せり。」
注・冨永(大野)彦三郎は「大洲旧記」を著すにあたり、上記「南海
治乱記」の大野三兄弟の条を転写している。
「大洲旧記巻八 (立石村)」の庄屋の始祖で大野家分家
大野加賀守直義を直吉と同一人物としての引用であるが
これは屋代島大野系図、野島村上系図が示す、
村上又兵衛こと村上左馬右衛門(後、大野直秀・隆直の
家司で大野の名跡を継ぐ)が正しい。
呑舟2014・3・16
ように記します。ただ、この本は戦記物ですので一時史料にはなりませんが
福岡県史は概ね、下記のように従っています。
屋代島大野系譜とは異なります。
資料として見ていきましょう。(呑舟)
【南海治乱記】 香西成資 寛文3年(1663)発行
「 天正十三年秀吉公四国征伐有て、故家旧姓の領主を
追放し、伊予国を小早川に給ふ。大野左馬右衛門直吉は
本領を奪われ、浪人となり、安国寺に服従す。
左馬右衛門本姓は村上氏也。大野の名跡を継ぎて、 ←これは間違い
大野領を受る。大野は本、河野の別種(家)也。 ←これも間違い
故の家の紋折敷にゆり三文字也。天正十五年秀吉公 ←これは来島村上関係の間違い
九州征伐有て、筑前国を小早川に給ふ故、豫州より所替す。
安国寺も筑前国鞍手郡に移る。其の後高麗の陣起りて、
安国寺も出陣す。文禄二年正月隆景王城軍の時、安国寺も
其の先手の目代として、柳川侍従統虎、久留島侍従秀包、
筑紫上野介、高橋主膳、各相倶に進て、南大門より押出し
二里の先にて明の李如松が先鋒と相對す。彼我の兵互に
命を軽んじ挑戦す。安国寺五百余人を三手に分、大野左
馬右衛門、軸賀治(部)各二百人に長として、恵慶百余人
を以、せかき旗を以、梯子を採て兵卒を指揮し、攻戦ひ、
火花を散す。軸賀治部、大野左馬右衛門能戦て敵陣を
破り、其の長男 大野勘右衛門、次男 久太夫氏重、
三男 三郎左衛門吉乗、真先進で合戦し、各首級を得たり。
諸将戦勝て勝どきの上、兵を止む.夫より凡二里計にして,
李如松が本軍有、隆景自人衆を合て押向。彼我相遭て
闘乱す。其勝敗いまだ不決して、諸卒苦戦して終る處を
不知。先陣の諸将援ひ来て、如松が陣の傍より突撃す、
隆景の兵卒力を得て大いに奮撃し、終りに勝事を得たり。
隆景の勇謀和漢に顕。秀吉公戦功を感じ、天子に奏して
中納言に任じ給ふ。隆景其功を眉目とし秀吉公に申て
筑前国を金吾中納言秀秋に譲て備後の三原に隠居す。
其時安国寺も奉行所を辞して京東福寺に住職となる。
其下の諸卒金吾殿へぞくすも有、又他邦へ行くも有、其頃
大野左馬右衛門病死す。其子勘右衛門直生、久太夫、
三郎左衛門は、朝鮮國の挙動を黒田長政知給ふ故に、
彼家を慕、豊前中津に来住す、時に関ヶ原の陣起て天下
大乱す、黒田如水公兵衆を催し、豊後へ赴給ふ。
大野兄弟三人戦場の供せん事を乞。黒田公喜悦し、井上
九郎右衛門手に組合せ、豊州石垣原に至、豊後大友義統
と一戦に及、大友方の先手急に駈り来て、中津方の先手を
追立て、二の手の兵将久野治左衛門、其介副 曾我部
五衛門追懸り槍を合、一足も去らず戦死す、(大)友方勢を
得て折布、三の手の懸るを待、井上九郎右衛門手の旗頭
大野三郎右衛門、柏樹の紋の旗を押立兵衆を進て、鉄砲
一放にして諸手一同に槍を入、大野勘右衛門、大友方
先陣の兵将小田原又左衛門、白母衣の武者と名乗合せて
槍を合、太刀下にて又左衛門を討取、如水公の実験に入
しかば、則感状を給はり、水懸村におゐて四百七石の地を
下し給。翌年長政公より采地五百石に改めらる。弟久太夫
は安国寺京東福寺住山之時隠邇し休也と號し、中津に
来住す。今度天下大乱に成たるを聞、二度戦場をふまん事
を悦、如水公に其旨を達す、感悦し給ひ、兄弟一所に井上
手にしよくし給ふ。休也今更具足指物はいな(や)なりとて、
白湯帷に着込しくさりはち巻に大なけ頭巾し異体に出立して
先陣に進、大友方あかねの母衣懸たる武者陣頭に進む
振廻常人に過たり。此武者を目がけ進みより、互に名乗合、
槍を合、深江七右衛門を組討にして首を取、隠遁者の
立返て一番首を取高名神妙也とて感状を給り、兄と同村にて
五百石を給ふ。翌年長政公より采地七百石を下し給ふ、
三男三郎左衛門は井上手の旗頭を給はりしが、其働よく
勝利有しとて、采地三百石下し給ふ。翌年長政公よりほめ
給ひ、眉目被しと也。然共、三郎左衛門、今度如水公
いかなる思めしにや俄に老人役を命し給ひて兄弟一所の
高名にはづれ,一世の心外と常に申せし、今築後の國に
おゐて、食禄足りて高門を並、子孫繁昌し相存せり。」
注・冨永(大野)彦三郎は「大洲旧記」を著すにあたり、上記「南海
治乱記」の大野三兄弟の条を転写している。
「大洲旧記巻八 (立石村)」の庄屋の始祖で大野家分家
大野加賀守直義を直吉と同一人物としての引用であるが
これは屋代島大野系図、野島村上系図が示す、
村上又兵衛こと村上左馬右衛門(後、大野直秀・隆直の
家司で大野の名跡を継ぐ)が正しい。
呑舟2014・3・16