山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

【南海治乱記】に見る福岡藩大野三兄弟

2023年03月22日 07時44分07秒 | 筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図
【南海治乱記】は黒田家に中津で仕官した大野氏について下記の
ように記します。ただ、この本は戦記物ですので一時史料にはなりませんが
福岡県史は概ね、下記のように従っています。
屋代島大野系譜とは異なります。
資料として見ていきましょう。(呑舟)


【南海治乱記】 香西成資 寛文3年(1663)発行

「 天正十三年秀吉公四国征伐有て、故家旧姓の領主を
追放し、伊予国を小早川に給ふ。大野左馬右衛門直吉は
本領を奪われ、浪人となり、安国寺に服従す。
左馬右衛門本姓は村上氏也。大野の名跡を継ぎて、   ←これは間違い
大野領を受る。大野は本、河野の別種(家)也。    ←これも間違い
故の家の紋折敷にゆり三文字也。天正十五年秀吉公   ←これは来島村上関係の間違い
九州征伐有て、筑前国を小早川に給ふ故、豫州より所替す。
安国寺も筑前国鞍手郡に移る。其の後高麗の陣起りて、
安国寺も出陣す。文禄二年正月隆景王城軍の時、安国寺も
其の先手の目代として、柳川侍従統虎、久留島侍従秀包、
筑紫上野介、高橋主膳、各相倶に進て、南大門より押出し
二里の先にて明の李如松が先鋒と相對す。彼我の兵互に
命を軽んじ挑戦す。安国寺五百余人を三手に分、大野左
馬右衛門、軸賀治(部)各二百人に長として、恵慶百余人
を以、せかき旗を以、梯子を採て兵卒を指揮し、攻戦ひ、
火花を散す。軸賀治部、大野左馬右衛門能戦て敵陣を
破り、其の長男 大野勘右衛門、次男 久太夫氏重、
三男 三郎左衛門吉乗、真先進で合戦し、各首級を得たり。
諸将戦勝て勝どきの上、兵を止む.夫より凡二里計にして,
李如松が本軍有、隆景自人衆を合て押向。彼我相遭て
闘乱す。其勝敗いまだ不決して、諸卒苦戦して終る處を
不知。先陣の諸将援ひ来て、如松が陣の傍より突撃す、
隆景の兵卒力を得て大いに奮撃し、終りに勝事を得たり。
隆景の勇謀和漢に顕。秀吉公戦功を感じ、天子に奏して
中納言に任じ給ふ。隆景其功を眉目とし秀吉公に申て
筑前国を金吾中納言秀秋に譲て備後の三原に隠居す。
其時安国寺も奉行所を辞して京東福寺に住職となる。
其下の諸卒金吾殿へぞくすも有、又他邦へ行くも有、其頃
大野左馬右衛門病死す。其子勘右衛門直生、久太夫、
三郎左衛門は、朝鮮國の挙動を黒田長政知給ふ故に、
彼家を慕、豊前中津に来住す、時に関ヶ原の陣起て天下
大乱す、黒田如水公兵衆を催し、豊後へ赴給ふ。
大野兄弟三人戦場の供せん事を乞。黒田公喜悦し、井上
九郎右衛門手に組合せ、豊州石垣原に至、豊後大友義統
と一戦に及、大友方の先手急に駈り来て、中津方の先手を
追立て、二の手の兵将久野治左衛門、其介副 曾我部
五衛門追懸り槍を合、一足も去らず戦死す、(大)友方勢を
得て折布、三の手の懸るを待、井上九郎右衛門手の旗頭
大野三郎右衛門、柏樹の紋の旗を押立兵衆を進て、鉄砲
一放にして諸手一同に槍を入、大野勘右衛門、大友方
先陣の兵将小田原又左衛門、白母衣の武者と名乗合せて
槍を合、太刀下にて又左衛門を討取、如水公の実験に入
しかば、則感状を給はり、水懸村におゐて四百七石の地を
下し給。翌年長政公より采地五百石に改めらる。弟久太夫
は安国寺京東福寺住山之時隠邇し休也と號し、中津に
来住す。今度天下大乱に成たるを聞、二度戦場をふまん事
を悦、如水公に其旨を達す、感悦し給ひ、兄弟一所に井上
手にしよくし給ふ。休也今更具足指物はいな(や)なりとて、
白湯帷に着込しくさりはち巻に大なけ頭巾し異体に出立して
先陣に進、大友方あかねの母衣懸たる武者陣頭に進む
振廻常人に過たり。此武者を目がけ進みより、互に名乗合、
槍を合、深江七右衛門を組討にして首を取、隠遁者の
立返て一番首を取高名神妙也とて感状を給り、兄と同村にて
五百石を給ふ。翌年長政公より采地七百石を下し給ふ、
三男三郎左衛門は井上手の旗頭を給はりしが、其働よく
勝利有しとて、采地三百石下し給ふ。翌年長政公よりほめ
給ひ、眉目被しと也。然共、三郎左衛門、今度如水公
いかなる思めしにや俄に老人役を命し給ひて兄弟一所の
高名にはづれ,一世の心外と常に申せし、今築後の國に
おゐて、食禄足りて高門を並、子孫繁昌し相存せり。」


注・冨永(大野)彦三郎は「大洲旧記」を著すにあたり、上記「南海
 治乱記」の大野三兄弟の条を転写している。
 「大洲旧記巻八 (立石村)」の庄屋の始祖で大野家分家
 大野加賀守直義を直吉と同一人物としての引用であるが
 これは屋代島大野系図、野島村上系図が示す、
 村上又兵衛こと村上左馬右衛門(後、大野直秀・隆直の
 家司で大野の名跡を継ぐ)が正しい。
 呑舟2014・3・16

【村上源氏大野家由緒書】(大野秀幹編纂)

2023年03月22日 07時33分20秒 | 筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図
福岡藩大野三兄弟のうち長男家に伝わる「大野家由緒」です。

大野直秀の養子、村上直吉からの伝承でなぜか村上源氏流となっているが、戦国期の混乱時にはよくあること
なので、ひとまづ茲に置きます。(呑舟)


【村上源氏大野家由緒書】(大野秀幹編纂)「大野守之蔵」

村上右衛門太夫通康
 第六十二代
●村上天皇  二十七代 村上蔵人兵衛吉景

村上和泉守

○大野左馬右衛門直吉  初名 村上市左衛門
 直吉は村上蔵人兵衛吉景之男也、本姓は村上
 にて大野の名称を続て大野領を受く、大野は元
 河埜の別称也、世々大野を領されたる故に大野
 氏とす、又村上家にも内證ありと云々

一、我本家の紋は往古より角切折敷に三文字にて候、
 又根引のたち花 これも家の紋にて候 祖父泡雪
 (三代)の時三引両に直し申され候 又裏桔梗の紋
 は親父(四代市太夫)宗壽の時よりつけ来り候
 然共いまにおゐて武具の紋は角切折敷に三文字
 用ひ申し候、宗壽の指物にうら桔梗の紋付たる
 しるし有之候

一、大野休太夫氏重入道休也家に付く紋は丸の内
 に大の字にて候 是は石垣原にて休太夫陣羽織
 につけ候 其後用ひ来り候と相傅へ候
 休太夫と申し候は勘右衛門(初代)弟にて候
 是も生國伊豫にて候 浪人の後安国寺同宿にて
 居申候 勘右衛門豊前へ落着候 後上方より
 来り兄にかかり居申候 石垣原御陣(1605)の時 働能し
 故召しだされ還俗致候 其子左馬右衛門、貞右 
 衛門、孫兵衛にて四代にて候
 委敷事は孫兵衛方之書類に候

一、大野三郎右衛門吉景家に付く紋は丸の内に上
 の字にて候 是は先祖村上よりの紋にて候
 三郎右衛門と申候は勘右衛門、休太夫弟にて候
 勘右衛門同前に豊前へ参候 石垣原御陣の節
 井上周防備の籏奉行にて候 籏を預りおりし故
 石垣原にて自分の働は無之候得共其節御恩下
 され候 其子忠右衛門 初の名久太郎と申し候
 是は右に仰候 村上右衛門太夫弟村上和泉守と
 申候 其子村上右京、其子村上彦市と申候
 實は彦市子にて候を三郎右衛門、男子無之に付
 養子にいたし清左衛門娘(二代)と取合せし者、
 今の忠右衛門にて三代にて候 委敷事は
 忠右衛門家に書類可有之候

一、天正一三年 秀吉公四国征伐有之 伊予国
 三十五万石を小早川左衛門佐隆景に賜 
 其内大野近辺二万三千石 安国寺恵慶隆甫に
 賜り安国寺以初十二萬石 故に大野一家皆本領
 を奪はれ浪人となり隆甫に従属す。

 【秀幹・注】安国寺恵慶は慶長五年九月十五日美濃国
        関ヶ原の戦いに敗軍した上方勢石田三成
        小西行長と共に捕へられ京都市中引廻し斬首

一、天正十五年 秀吉公九州征伐有之 後同年
 六月十八日 小早川隆景筑後國並肥前之内
 元律養父二郡 筑後の内三斗三原二郡を賜り
 其時安国寺も伊予を改て筑前国鞍手郡の内
 二萬石を賜り大野も又共に筑前に移り住む

一、文禄元年(1592)朝鮮陣の時、安国寺も出陣故に
 左馬右衛門直吉も従行す、同二年正月朝鮮國城
 南大門戦の時、左馬右衛門籏頭として施餓鬼籏
 を揚ぐ大明人と相戦則敵陣を破る此時長男勘右
 衛門 二男休太夫 三男三郎右衛門真先に進て
 粉骨をつくし各首級を得たりける

初代 大野勘右衛門直秀 一名直生 幼名孫三郎 勘介

 一、弘治三年(1557)豫州に生る、安国寺恵慶に属す

 一、文禄二年(1593)朝鮮南大門合戦の時高名あり。

 一、文禄四年(1593)小早川隆景筑前國を養子
   金吾中納言秀秋に譲り備後の三原に隠居せり
   安国寺も武家を止て京州東福寺の貫主と成る
   其時安国寺領の士卒 秀秋へ従属するも有
   又他方へ行も多し 勘右衛門兄弟三人は黒田
   家へ相知られ故に豊前中津川に来り居住す

 一、「又一説に」   直秀は弘治三年豫州に生る、
   其頃伊予国の屋形を河野伊豫守通直候と申候
   一族に村上右衛門太夫通康と申す人御座候
   勘右衛門は通康の為に娚にて候之由 初は
   名字を脇坂又は越知と申候由承り候
   大野と改る子細は村上右衛門太夫通康弟に
   村上蔵人太夫吉景と申人の子 大野大野市左
   衛門と申て有之候 勘右衛門男子を持ち
   不申候に付 市左衛門子を養子に致し娘に
   めあわせ家を継ぎ清左衛門と申し候
   直秀黒田家に参り候は前に記す通直公御運
   末に相成其氏族悉浪人いたし候に付、直秀も
   四国を退き彼方こなた仕り候処 黒田如水公
   その頃天下に隠れなき名将にて渡らせ給ふに
   より お家を望み豊前へ罷越候 如水公大阪へ
   お上りなされ候時分 お船中下関にて初て
   お目見仕先浪人分にて豊前へ行 少許の
   お扶持にてご領内へ在宅仕居申し候由

 【秀幹・注】文禄四、五年の頃成るか

 一、高麗御陣の時お供いたし彼地に於ても
   能働仕候 證文共有之由に候得共紛失いたし
   持傳之不申候 其外伊豫國以来度々の働有之
   其比の人大野三兄弟と唱へ申し候由 細川
   越中守殿より兄弟三人を壱萬石の領地にて
   お使有之由お内状下され候 其状も勘右衛門
   手前に有之由これも紛失いたし候
   総て彼是書付共有之候を大野竹殿と申人
   預り居り候て失い来たる物多々候由 祖母
   妙雪(三代妻)我等に折々吐きて候
   右の次第共は證文無之故 人多く信用痛く
   おこがましき事に候しても元来他見なき物に候故
   加様な事も聞傳へたる事を幸に書付け候
   其時分は證文等も日廉末にいたし候に漸く
   お感書斗り残り申し候
   是も祖父泡雪様お代に改めしと申されし由 失ひ
   申たる物多く今更残りおしき事に候
   只今所持いたし候備前忠光と申し傳へ候刀
   大わざ物にて候 勘右衛門若年より指申され
   石垣原にても陣刀にて候
   祖父泡雪死去之年の春 我等を呼 此刀は
   先祖勘右衛門殿陣刀にて覚へ有之道具にて
   譲候由仰せられ候 秘蔵の道具にて候

 【秀幹・注】明治七年佐賀の乱の節 十二代清左衛門
 直矩出陣の時 従者行衛不明となり持参の刀又不明
 となる。右陣刀が備前忠光か。

一、慶長五年の秋 屋形大友左衛門督義統 秀頼公
  のお下知にて石田冶部少輔三成に與して九州に
  籏をお揚候て豊後國へ下り旧臣を集めて立石に
  陣を置 如水公と侍て合戦せんとす 此時大野
  兄弟三人供奉せんことを乞ければ悦びて井上九郎
  右衛門之房手に付罷立候 此一戦の儀は所々の
  記録に出居り申候に付委敷書付に不及候
  只先祖の働斗り聞及候之通書類候 自余の記録
  に有之候趣とは相違可有之候

一、大友家臣吉弘加兵衛 宗像掃頭 小田又左衛門
  源柄七右衛門 吉良傳右衛門 此五人は大友家
  にて名ある侍大将にて有之候由 其外 木付田原
  など申備も有之候由にて右の者めいめい備を立申
  し候 此方の先手は母利四兵衛 時枝平太夫
  久野治左衛門 曾我部五右衛門 細川越中殿の
  家臣松井佐渡 有吉頼母 相加り三備に成して
  防戦有之候 如何いたしても此方籏色あしく配(敗)
  軍になり治左衛門 五右衛門打死いたされ敵方
  きほい申候 其節井上周防手にてもり返しはなく
  敷一戦有之候 終に周防守切勝申候

一、吉弘加兵衛は周防と槍を合せ知人なりし故 詞を
  かけ戦申され候 初周防手負申され候得共終に
  吉弘周防に槍つけられ打たれ候 入乱の儀故
  吉弘首は後に後藤又兵衛家来何某(小栗次右衛
  門)あけ申候由に候

一、宗像掃頭は鐵砲にあたり打死之由に候

一、小田原又左衛門鑑信は勘右衛門組打にて首を
  得申し候

一、源柄七右衛門は休太夫組打にて首を得申候

一、吉良傳右衛門は大村六太夫打取申し候

一、勘右衛門 小田原氏を打取候次第は右之通
  入乱合戦最中の節 休太夫兄弟連真先かけて
  かせき申候処 黒具足着たる馬武者何様大将と
  みて候に付 勘右衛門よせ合候 其節勘右衛門
  は歩行立にて候之由又左衛門家来にて候か
  又左衛門と勘右衛門間を押隔て勘右衛門に組合
  候を組臥せ首を取候処又左衛門馬より飛下り
  勘右衛門ふり仰き候内甲を切り付け申し左の目の
  上より鼻口賝まで筋違に切付しを其よく飛入り
  組合臥様に一刀突申して組臥に致候 おもての
  手傷の血 眼に入り首を取申べき様も無之候処
  弟休太夫かけ付敵の首をあげ兄を介抱いたし
  兄弟つれ如水公御本陣に参り候 此時の働き勝て
  御感なされ於戦場同年九月二十日如水公より
  水懸村の内四百七石二斗の御感書折紙下され候
  翌年長政公筑前の國御拝領の上 井上周防之房
  遠賀郡黒崎の城御預りなる時 勘右衛門兄弟三人
  は之房の寄構仰付られ同年十一月十一日豊後
  立石表の勲功を賞され長政公より五百石の御感状
  折紙頂戴仕り候

一、勘右衛門は遠賀郡則松村に住居 一生観楽を
  究め寛永十九年(1642)九月九日卒 八十二歳

一、則松村松月院三省山正願寺
  右は直秀子清右衛門孫勘太夫島原にて戦死せる
  冥福の為直秀取立の寺なり
  同郡長生村弘善寺の末寺と致し住持居り 田畠
  つけ置候 右は直秀三省殿死去三四年前より
  ぼだひの為建立せられしものに候 寛永十六年
  (1639)と有之候

 【大野秀幹・注】由来等沼田氏由緒書参照之事

福岡藩大野三兄弟義祖父 大野隆直(直秀)

2023年03月22日 05時05分51秒 | 筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図
福岡藩大野三兄弟の義祖父 大野隆直(直秀)について屋代島大野系図の記述。


【大野屋代系譜五十三代】
【屋代大野初代】
 隆直 (直秀) (1530~1595)
・備前介  左近大輔  久万王   
・一ニ直秀トモ云フ  
  
・流浪後傳兵衛ト称ス (後世加筆)

・妻ハ曽根信孝娘 後妻大友氏ノ娘 輝元公ノ
 妾竹ノ丸殿 牧村九左衛門母ト三人兄弟也
・天文十一年(1542)大内従二位義隆卿
 依裁許受領 應大内ノ命 軍功有リ
・受領證文天文十一(1542)七月廿ニ日ナリ
 小湊後誥等書翰有之
・此時迄久万小田ノ地古給六千貫ヲ領ス
・伊豫久万山ノ城ニ住ス
・法名一露上珍ト号
・文禄四年(1595) 己未十月二日歿

*徳山本には上記没年はない。後世の加筆か?

一、傳云 永禄年中四国乱逆 大野久万山ハ
土佐境故一条家伊予働ニハトカク取掛ケ毎時
戦勝無之候 其頃毛利元就公御武勇強
御座候 故加勢ヲ頼ム為メ親交透之時節
一族相談ノ上大野左近太夫嫡子兵庫久万王ト
申十四才ノ霜月ニ藝州ヲ志シ海上ニ向 風波強ク
島々ニ漂白ノ折柄 野島倹使船出相候
其時代海上一円能島掌握ニ付 茶巾ト云丸ノ内ニ
上文字付其長印ヲ船一艘ヘ一本宛用申候 此印
有之ヲバ無碍無之船ヲ糾明ノ時節ニ而左近乗船
右ノ方便無之ニ付及問答候 兎角ハ能島ヘ行向候
而可相断トテ父子共ニ能島ヘ参入スノ所能島村上
大和守武吉 掃部頭元吉丁寧ニ饗応有之
数日逼留久万王能島ニテ元服 兵庫助ニ成申候
則武吉ノ三女元吉ノ妹ヲ兵庫助ヘ縁結之所望
無所辞許諾畢 浅野長政御取持ニテ相済候
然ハ大野(左?)近代ハ一家ノ内曽祢ト互ニ縁結他姓ヲ
不求時節流筏也 右ノ分殊更藝州エハ指置
能島ニ滞在ノ儀偏ニ一族ヲ離シ悪心ヲ企候トテ
一族蜂起怨ヲ成候 左近驚立帰意趣ヲ可理トテ
帰帆ノ所 直重其外出張シテ不近(在)
左近矢文筆談ヲ以一族ニ野心不挟能島ニ而急雖
黙止ニ依而右ノ落着也ト被書送弥別心無之
候バ帰城迄モ無之弥毛利方ヘ之親交
御方便候ヘ其内ノ義ハ少モ御気遣無之様ニ篭城可
仕ト有之故左近又能島ヘ被参候兎角ノ間月日
押移本国大乱ニ相成此時ヨリ久万城左近弟
甚内山城守直重居住ナリ

一、左近能島ヘ滞留ノ留守ニ天正元年酉弟直之
敵方ヘ内通シ左近弟直昌ヘ不足ヲ云立不和成リ
土佐エ欠込ミ仝ニ年八月元親ヨリ大野ヘ使者ヲ立
偽リ和解ヲ為ス 同二年閏八月廿五日両方
伊予土佐境笹ケ峠ニテ出合ノ約束ニ成 双方
五十丁ヲ隔テ互ニ礼儀ノ使者アリ
其時元親方ヨリ急ニ伏兵起ル戦争ニ及ヒ
味方歴々ノ侍大将惣頭七十余人討死
及ヒ味方歴々ノ侍大将惣数七十四人討死
此ヨリ大野家モ大ニ落弱ス

一、左近能島ニ滞留上下百八十人程ナリ 大友家
黒田家懇切ニテ方々遊旅ノ内筑前黒崎ニテ
病死ス 此時付添家司大野左馬右衛門
本姓ハ村上氏ナリ大野ノ名跡ヲ継テ大野領ヲ受ル
黒田家ヨリ五百石給ル 所々ニ戦功アリ
子孫彼地ニ住ス左馬右衛門長男大野勘右衛門
直主次男久太夫氏重三男三郎左衛門吉乗トアリ


注) 傳兵衛隆直が黒崎で病死したとするは
黒崎の名は1603年黒崎城築城により名付けられて
いるから、隆直歿年は1603年以降となり 1595年説と合致
しない。無理であるが大野(今元)直光1600年生誕説と
矛盾はしなくなる。  【呑舟】

*この時大野隆直領はなく家督の間違いか?
大野吉乗子孫黒田藩重臣にありて現存す。
されど現存子孫越智姓と称す。(2011・7 呑舟)

筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図

2022年07月25日 11時17分14秒 | 筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図
筑前黒田藩 大野勘右衛門直生(直秀)家略系図

先々代     大野直秀(隆直)[冨永傳兵衛] 【伊予→野島村上→黒田藩】

先 代     大野(村上)左馬衛門直吉 【黒田家七百石】

初 代     大野勘右衛門直生(直秀)【石垣原参戦四百石から七百石へ、葬 遠賀郡利松村 正願寺建立】

二 代     大野清左衛門直幸    【島原の乱にて討死】

三 代     大野惣兵衛直種(泡雪)

四 代     大野市太夫直氏(直利)

五 代     大野惣兵衛直恭

六 代     大野勘八直盛

七 代     大野清太夫直俊

八 代     大野市右衛門直敏

九 代     大野惣右衛門直哉

十 代     大野孫太夫直涼

十一代     大野清左衛門直愛  【戊辰戦争新政府方参戦】

十二代     大野清左衛門直矩(清砥)

十三代     大野茂樹

十四代     大野直躬

北九州市 利松村 正願寺(菩提寺)






初代から三人分の供養塔


則松観音の元墓地後(家紋はなぜか河野村上家紋を踏襲している)