山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 5

2023年12月22日 03時58分53秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟

      屋代村の史蹟 目 次

 屋代村史年表

(一) 大島総鎮守 志度石神社

(二) 古い時代の遺物

  一、 石器時代の遺物

  二、 古墳群 (附 屋代村古墳発見地名)

  三、 公文所の跡

  四、 其の昔海岸であった所

  五、 吉井の城山

  六、 宮の坊跡

  七、 代官所跡 (附 北迫神社)

  八、 四境戦屋代口本陣

  九、 郷之坪大洪水記念碑

  十、 謎の鍛冶屋ケ段と畑の杵舞


(三) 村上氏と屋代

  一、 村上氏略系

  二、 村上兼助邸宅

  三、 村上祖先の忠誠

  四、 節ある義ある村上武吉

  五、 日本海軍の母 三島戦術

  六、 村上家菩提寺 龍心寺


(四) 出色の人物

  一、 血染の肩札 岡本松右衛門

  二、 傍城先生の墓

  三、 神童大野氏を祭る大友様

  四、 維新の三傑 木戸公の母 (附 宗家河野氏を思う平岡氏)
     天保十三年調べ屋代領主

  五、 弓大将 寺町総兵衛

周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 4

2023年12月17日 05時15分42秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟
      屋 代 村 史 年 表


先史 時代     〇神領、西連寺後方蜜柑畑より石器時代の遺物たる石斧敲石発見せらる。
           これ本村が大古民族の居住せしことを證するものなり。

          源三・注)これらの歴史的貴重品、屋代小学校に保管展示されていたが
               平成の大合併以降行方不明。

神   代     〇日本書紀の大洲即ち大島は古事記の大島で、諾册二神の御子大多満流別命が
           祭らるるにより、社島即ち屋代島と云ふ。

大和朝時代     〇成務天皇五年、 國縣の制樹てられし時、大島の國あり。
           穴倭古命を大島國造と定め、其の國廰の位置は本村ならむ。
           本村字北迫に古墳群あり、大島國造のものなるべし。
           推古式古墳本村より多数発見せらる。
            〇推古天皇三年、志度石神社創立

          源三・注)これらの古墳、殆ど現・北迫に集中、保全状態甚だ悪し。

王朝 時代     〇聖務天皇、天平三年、宇佐八幡宮より分祀、本村徳神大峠に社殿を建つ。
           これ即ち志駄岸八幡宮の前身此美神社なりと云ふ。
          〇宝亀三年、別に宇佐八幡宮より勧請して、本村大壇に小祠を設け
           寺院宮の坊と共に奉祠せしが、大同四年三月これを大峠に遷座して
           右,比美神社と合わしたりと。【志駄岸八幡宮縁起】
          〇清和天皇 貞観九年,比美神社に正五位下を授くとあり【三代実録】
           實運の彫刻せし神體五智如来三尊は神仏分離の際本村西連寺へ安置す。
          〇醍醐天皇、延喜式に大島郡の名顕れる。
          〇村上天皇、天歴五年、源順の編纂に係る倭名類聚抄に大島に屋代・
           美敷・務理の三郷のある旨記載しあり。而して屋代郷は本村、蒲野、
           小松、沖浦の総称なり。郷は公地なれど未開墾地を開拓して私有地を生じ
           荘園となる。本郡は屋代庄、島末庄、安下庄の三箇荘園ありて、屋代庄は
           安倍成清が開発して、右大臣藤原良房に寄進してその荘園となしたるものなり。
           成清屋代庄総公文職に任ぜられ、爾来、安倍氏公文職を世襲し、藤原氏
           (後九条家)此の地を傳領して屋代御庄と称す。
           後、源頼朝天下を統一して、大江廣元を三庄の地頭となす。
           廣元は毛利氏の先祖なり。毛利氏との関係既に此の時より生ず。

鎌倉吉野朝時代   〇屋代村字小田なる、公文山得蔵寺の山号は当時公文所ありしの遺物なり。
           〇源平時代 安徳天皇、寿永三年十月 平智盛、屋代源三・小田三郎等の
           同意を得て本城を本村に築く。吉井城、吉兼城か。海岸に要塞二ケ所築く。
           津永浜(矢倉山の城跡現存)丸山これなり。
           義経、兵戦八百を率いて西下、大島津に泊ったと云う。大島津とは屋代港
           の事で小松なる地名はその時駒を繋ぎし津より始まるとの説あり。
           本村は古より北方・南方に分たれ、北方は本村北部北迫方面より小松北方
           方面、南北朝時代僧慈観は南方観音寺にありて南朝の為に大般若経を書寫
           したりと。

           源三・注)源平合戦時代の平智盛の築城は、【吾妻鏡 寿永三年十月条】
           が出典と思われます。ただ屋代地区ではこの城は屋代に築城したとしますが、
           旧東和町では島末に築城したとします。ただ実際に築城したのは屋代小田の小田三郎と
           屋代の屋代源三であるので、今でも遠い島末に築城に出かけるとは考えにくい。
           ただ、どれが本城かは諸説あって定まらない。この城は半年程度しか機能していない
           ので実戦には役立たなかったと思われる。
           余談ながら、出典吾妻鏡の十月の表現も変である。どのバーッジョンの吾妻鏡かは
           不明ですが、寿永三年四月十六日に寿永三年は無くなり、元歴元年と改元されますので
           改元が後鳥羽天皇が京都で執行したとしても鎌倉の吾妻鏡の記録者が認識しなかったとは
           思えない。吾妻鏡には寿永四年の記事もあるので、転写を重ねるうちに誤記が引き継がれた
           ものと思われます。正史の写本がこの有様ですから、日本の古文書等に年月日は注意が
           必要です。近くは山口県史編纂年表は改元年の正確さは無視しています。
           同じく東京大学史料編纂所の年表も同様ですので要注意です。
           当たり前ですが歴史の年月日時間を間違うと歴史上の因果関係が狂います。


室町桃山時代    〇村上水軍中興の英主、武吉、大島へ入る。死後、内入、大龍寺に葬る。
           子、元吉、慶長六年安下庄より屋代に入る。(誤)
           元武、片山に大龍寺を移す。
           毛利氏の海軍組頭に任ぜられ明治維新に至る。

          源三・注)村上武吉がいつ大島和田に入ったかははっきりしないが厳島合戦以後であること
          は間違いない。天正十五年7/24日の書状では武吉、元吉は大島に居る。
          慶長六年に大島に入ったのは元吉ではなく武吉である。元吉は前年に正木の戦いで戦死して
          いる。武吉は慶長九年8/22日卒去【北畠正統譜図】

江戸時代      〇徳川初期には屋代庄、屋代浦、屋代港などあり。
          〇元禄年間、小松開作後、小松港、小松浦など出来たり。
          〇四境の戦いには本村は諸隊駐屯し、西連寺を本陣として久賀、安下庄境にて
           激戦し幕兵を撃退せり。
          〇四境の役後、本村には大島宰判の勘場(代官所)が置かれ(防長十八宰判)
          〇明治六年本郡を第一大区(周防十大区)と称し本村に大区取扱所を置く。
           (慶安四年、宰判制度を設け大島郡を大島宰判及び上関宰判の両所に分けたが
           上関宰判は維新以後、熊毛郡へ編入されたり。

          源三・注)同本の屋代浦とは添付図によると、現在の北迫、砂田辺りを指して居り、
          屋代港とは現在の水車あたりを指している。ここは源平合戦の折、源義経が上陸して
          一夜を過ごしていたとされる場所でもあります。この時、柳井津よ柳井氏(楊井)が
          兵船を率いて馳せ参じたと吾妻鏡にはあるので、大島津が柳井津(湊)であるとの後年
          の説は当てはまらない。当時は柳井湊から平生湾までは水道があったので翌日、壇之浦  
          へ到着は地理的に矛盾しない。

明治時代      〇大永、天文の頃より神代、大島、遠崎は大島郡に属していたが、明治九年
           玖珂郡に移管した。同時に屋代小松村より現在の小松を分離す。
          〇明治十二年、大島郡役所置かる。
          〇明治十九年、郷ノ坪の大洪水。
          〇明治二十九年郡役所を久賀へ移傳の代りに、大島商船学校設立さる。
           同校、明治三十五年小松へ移傳。
          〇明治三十四年、村上第十九代村上兼助、本村川地の自宅で死す。(右田毛利の次男)
           毛利藤内の子、藤枝、村上家を継ぎ三田尻新宅に移る。

          源三・注)村上藤枝の子孫が能島村上宗家の本流です。
          現在の和田の村上家は武吉の次男家流ですので、宗家ではなく分家となります。

周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 3

2023年12月17日 04時31分36秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟
『 序 』

〇 大島開闢の神、大島総鎮守の神の鍞りますお宮のある村、その名も古き屋代島発祥の村は
  吾が屋代村である。

〇 大島で発見された石器三個の内二個は、古墳十八箇内十箇所は屋代村、本郡での古い由緒
  ある村は吾が屋代村である。

〇 北畠親房卿を祖とし、瀬戸内海水軍の王として、世よ節あり義ある、雄々しき歴史を残した
  所謂、村上海賊と因縁浅からぬは吾が屋代村である。

〇 古くは大島國、屋代庄、屋代郷の中心、さては公文所、近くは大島宰判の勘場、大島郡役所
  大島の政の中心地であったのは吾が屋代村である。

   □

 げに屋代は歴史の村である。
 榮ある皇紀二千六百年を迎ふるに當り、諸册二神の此国此島を生み給ひし、肇國の昔を偲び
 奉り尊き歴史を持つ吾が村の古きを温ぬる事は、興亜の国策に一段の活力を添ふる所以であって
 何は措いてもなさねばならぬ事である。
  
   □

 矢田部輿一氏名利を越えて大島の史蹟の研究に一生を捧げらる。此の小著の編纂にも亦幾多の
 資料の提供と指導下されしを深謝する次第である。


     昭和十四年六月

             屋代村長  藤 山 康 一
 

周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 2

2023年12月16日 16時35分55秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟
 「古文書に表れたる大島・屋代島の名」

一、【日本書紀】 「諸册二神生大洲(オオシマ)」

二、【古事記】  「生大島」

三、【東大寺正倉院文書】 周防國正税帳、 「大島郡、天平九年定正税壱拾萬玖秤肆伯拾玖束伍把五分、」

四、【今昔物語】 「今昔周防國大島の郡(こほり)に基燈と云う聖人有けり・・・略」

五、【吾妻鏡】  「大島者平家謀反之時、新中納言構城居住 云々」

六、【忽那一族軍忠次第】 「周防国屋代嶋大将忠院殿」
 
七、【忽那島開発記】  「興国三年四月十八日右凶徒退治為勲功之賞、至社島(ヤシロジマ)四方領家職云々」

八、【村上文書】  「屋代嶋」

九、【村上家蔵 厳島合戦図】  「付右御感ニ御弓箭勝利ノ上防州矢代島可被遣通被仰渡候」  

十、【屋代生産風土記】 「他国より八代嶋と唱ふ」・・・文字を屋代とは文政初年の頃にて俗に書き来たり誤りにて・・。

十一、【倭名鈔】   「三郷  屋代 三敷、務理、」



源三・注)筆者は古文書に表れる大島、屋代島を抜粋してしている。文中に屋代との表記は文政初年(1818年)以降から
     と結論付けているが、これは紹介文書から矛盾する結論である。
     【忽那家軍忠次第】(1330年代以降に成立)にはもう屋代島と記録されている。
     同時代とされる伊予河野家の顛末を書いた「予章記」も南北朝の兵乱の中で「屋代島の中子氏が河野通堯を
     屋代島和田に受け入れた」と記録します。

     上記の旧記を大まかな成立順に並び変えると、

     ① 古事記 (712年以降~)
     
     ② 日本書紀 (720年以降~)

     ③ 東大寺文書 (727~776年)

     ④ 和名鈔  (935年頃)

     ⑤ 今昔物語 (1120年代以降~)

     ⑥ 吾妻鏡 (1180~1266年)

     ⑦ 忽那一族軍忠次第 (1330年代以降)

     ⑧ 忽那島開発記  (1330年以降)

     ⑨ 村上文書   (戦国時代)
 
     ⑩ 厳島合戦図  (1555年以降)

     ⑪ 屋代生産風土記  (不詳)

     流れから見ると大島が最初で途中から八代、社、屋代(ヤシロ)等に変化していったもようである。

      ただ、大島と称する島は全国に数多くあり、周防長門だけも五か所あるので屋代島の方が区別
      しやすかったのではないだろうか?
      しかし現在でも地図では周防大島と屋代島が併記されているものも多い。




 

周防大島発祥の地 屋代村の史蹟 1

2023年12月16日 08時25分17秒 | 周防大島発祥の地 屋代村の史蹟
 小松町史から遅れること三年、昭和十四年、隣接の大島郡最大の村であり周防大島の中心地と
されていた、屋代村長、藤山康一氏は役場公刊として「大島発祥の地 屋代村の史蹟」を発刊する。
現在と違い当時の認識での編纂であるので、現在の史実とは異なる場合があります。
この点は(源三・注)として付記します。また旧大島町誌とは異なる発見があるのも面白い
ですね。著作の指導は江戸期に周防・長門の三大金持ちとされる開作の矢田部家の輿一氏の
史料によるものが多いです。


 【表紙】       大島発祥の地
                   屋代村の史蹟


【本文】
 
 「屋代の名の起源二説」 

 一、栗田寛郷名同唱考に「屋代は神を祭る為に神霊をませ奉る家代の意にて、即ち社(やしろ)
   なりと見ゆ。按るに屋代郷は大多満流別の宮につきての名なるべし。屋代・蒲野村・小松・
   沖浦に亘る古郷域なり。屋代村を本郷とす」

 二、屋代生産風土記及び志度石神社由来書に「八社拓かせ玉ひしが故に近辺を八社村と云うを
   いつの頃よりか言い誤りてヤシロ村と云い、文字を改めて八代と書す。・・・・諸人は
   屋代村を島元と云い、他国よりは本島を八代村とト唱う。後世屋代とせしは後、世俗に書き
   たるなり」と。


源三・注)現在は二、の説の採用が多い。二、志度石神社由来は「昔むかし、八人の天女が舞い降りた
     ことから八の社を祀ったことが八社(やしろ)の始まり」とします。この流れを組むのが志度
     石神社で、一の鳥居から本宮までの道のりは現代でも大島郡最大の領域である。この領域の
     一部に神領と云う巨大な部落がある。
     一、の大多満流別の宮は現在の小松瀬戸の大多麻流神社のことで往古は現在の飯の山の
     山頂付近にあったものを現在の地に遷座したとされます。名の大多満流別は古代の国造
     時代の人の名であろうと推察する。多分、大島国造時代の国造の名ではないかと思われます。
     志度石神社と大多満流神社のどちらが古いかはよく分かりませんが、國造時代の大多満流神社
     の方が古いのではと思われます。その後に志度石神社が創建されたと考えます。
     大島國が周防大島のどこまで支配していたかは今後の研究にまちますが、旧大島町の大半で
     あったと思われます。和名鈔に出る「屋代郷」でこの時代では屋代を記します。
     周防大島の旧社に小松の志駄岸八幡宮がありますが、こちらは由緒によると親社は
     宇佐八幡宮で宇佐八幡宮創建の翌年に東屋代の日見峠(ひみたお)に分祀したとされます。
     旧大島町を古くは「島元」、久賀、安下庄を「島中」旧東和町を「島末」とするのは
     「島末庄」が発生したあたりの時代からの呼称と思われます。旧橘町は「安下庄」として
     現在も名が残り、庄時代は久賀は庄ではなく「保」とされます。郷土の宮本常一先生は
     「保」を湊、浦の意味と解釈していますが、長野県にも「保」がありますので港を意味
     するものではないと思われます。歴史好きな皆さんと考えていきましょう。