山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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中村様

2022年07月24日 10時55分49秒 | 屋代島友澤家
中村様

もう少し詳しく貴家の事情を教えて頂けませんか?

現在の居住地。元の居住地、かって誰の配下であった?

仏教の宗派は?等もう少し情報がないと手がかりがございません。

よろしく

中村家について 投稿者:中村家の者

2022年07月24日 10時54分47秒 | 屋代島友澤家
はじめまして。中村朝宗の子孫と言われる家の者です。
苗字は中村で、昔は定紋が左三ツ巴、替紋が丸ニ剣片喰だってようです。

家系は、

中村弾正忠通日-中村太郎日政-中村太郎日文-中村太郎日方-中村太郎日久-中村七郎左衛門入道浄運

と続くようですので、こちらのスレッドに書かれている方々の家系と関係があるようですが、上記の家系の人物に関して、何か情報はございますでしょうか?
名前の違いや各人物の分かっていることなどをご教示いただければ幸いです。

伊予松山藩士友沢家

2022年07月24日 10時53分57秒 | 屋代島友澤家
友近弥八様ようこそお越し頂きました。
横合いとか遠慮されずどんどん投稿して頂きたいものです。
出来るだけ多くの意見が投稿されることにより真実に近づいていけます。

友澤も友沢も同じと認識しています。宮本常一先生は友澤も友沢も同列にあつかっています。
読みも「ともさわ」なのか「ともざわ」なのかバラバラですが、西日本は濁らないのが多いですね。

松山藩の友沢家の譜録はどこかにありませんかね?

「伊予史談会史料」で友澤(友沢)で独立した資料が無かったもので思案投げ首でした。

江戸期の松山藩にあったのですね。

友沢家の住居はどこであったか分かりませんか?
家門とか宗派がわかれば教えて下さい。

松山藩の友沢氏 投稿者:友近弥八

2022年07月24日 10時52分05秒 | 屋代島友澤家
屋代様、横合いから失礼いたします。伊予松山藩士に友沢姓の家がございます。
差し出がましいこととは存じますが、ご参考までに投稿いたす次第です。
姓の表記は、一件のみ「友澤」とありますが、大半は「友沢」でございました。
なお、史談会双書と松山市史料集とでは資料の重複がございますので
重複分は省きました。また、名前の後の数字は掲載ページでございます。

〇松山藩御役録 伊予史談会双書19
 『懐中便覧 松山役録』(宝永元年・1704年)
    大賄組?預共
      六石五斗二人フチ 友沢長右衛門 83

 『松山分限録』(寛政元年・1789年)
    大小姓 六組
     桑山文右衛門組
      十四石三人フチ 友沢覚右衛門 102

 『松山俸録』(文化五年・1808年)
    寄合大小姓
     渡部嘉内組
      拾四石三人扶持 友沢覚右衛門 121

 『松山歴俸略記』(弘化年間・1844-1847年)
      十四石 友沢長兵衛 216
       初代長兵衛、延宝五年四組中間ニ出、後次料理人、
       苗字友沢ト改、後十石定英公附、二代目徒歩目付、
       宝暦十三年十四石奥附、
        ※弥八注 延宝五年・1677年 宝暦十三年・1763年

 『松山武鑑』(嘉永五年・1852年)
    大小姓 六組
     上代左内組 三番
      十四石 友沢右衛門 291

 『松山御役録 幕末』(安政六年・1859年)
    小普請奉行 加扶持一人扶持
     丸ニ唐花
      十四石 友沢覚右衛門 314

〇松山市史料集第三巻
 『伊予松山藩大小姓以上役録』(文化・文政・天保頃の動きがあり天保三年・1832年頃の成立か)
    小普請奉行 役中一人加扶持
      十四石 友澤覚右衛門 928
    大書院 隠居
      友沢茂右衛門 933

通字の紛乱

2022年07月24日 10時51分07秒 | 屋代島友澤家
>  ご教示ありがとうございます。

●こちらこそ勉強になります。

>  まず、私は石﨑・友澤の遠い先祖が中村姓だったということは特段疑っておりません。ただその遠祖が北畠顕家や伊達朝宗だったということにはやはり疑問を感じております。

● 成程、中村姓を疑ったわけではなく、その遠祖の伊達と北畠を疑っているとのでしたか?
   だだ、どちらかも何らかの根拠があってのことではないでしょうか?
   推測するに、伊達朝宗(ともむね)【1129~1199】は伊達家元祖とされる人物ですが、
   おっしゃるように芳賀郡中村荘に住居したことから中村太郎と呼ばれています。
   朝宗の朝は源頼朝の偏諱とされます。鎌倉幕府の御家人ですね。
   宗家は仙台伊達家と思いますが、一族の一部が伊予に渡ってきた可能性がありますね。
   同じような例が同じ現栃木県下の宇都宮、芳賀、祖母井家で発生しています。
   伊予中世に宇都宮家(大洲城主)その配下の芳賀氏、祖母井氏(祖母井城主)がいます。
   宇都宮、芳賀、祖母井(うばがい)は中村と同じ栃木県の住所で、当時は宇都宮家の臣とされています。
   宇都宮家の一部は九州を経由して伊予大津(大洲)に落着し、周辺を支配します。
   本来伊予は宇都宮家が守護ですので、同じ守護を名乗る河野家と対峙していました。
   伊予の半分づつ支配した形になっていますので、半国守護とも双方後世言われる所以です。
   宇都宮の領地の中に興居島は入っていますので、宇都宮氏家臣中村家があったと思われます。
   こちらの伝承を持つ家が伊達(中村)家の通字の一つ「為」と使用している家なのでしょう。

   北畠顕家を元祖とする系図は能島村上家に従った家の伝承なのでしょうね。
   「能島殿に仕える」とする系図の上で発生していませんか?
    能島村上家の通字の一つが「顕」です。
   能島村上は屋代島の和田と屋代の村上家のことです。長男家が図書家、次男家を一学家と分けています。



>  石﨑総系譜は複数の家々の系図や過去帳を元に作成されたものですから、虚実ない交ぜという側面もありますし、混乱している部分もあります。私が見ても明らかに年代が一致しないと思える部分があります。
>
>  遠祖と思われる中村弾正忠道日(友澤家系図略伝では「道日」ですが、興居島総本家の石﨑家譜、油宇石﨑家の系図ではご指摘の通り「通日」となっています)が下野国、現在の栃木県真岡市の中村城主だったとされていますが、石﨑家譜では大龍院殿紅顔道日居士、至徳元年(1384年)7月14日没という戒名や命日の記載があります。


●同族各家に残る系図は結構間違っています。ですから一次史料とされませんね。
  私もある一族の調査をしていますが、それぞれの系図がてんでバラバラです。
  原則一次史料と同時期の他家の史料で裏付けがある項目のみ信用しています。
  それ以外はもっともらしくても信用していません。
  私は友澤家の子孫ではありませんが、同じ時代にそばにいた人物の子孫とされていますので
  友澤家や石崎家に興味を持っています。納得できる他家の史料はこちらの研究の上で裏打ちとなるからです。

  中村弾正忠道日(通日)は大龍院殿紅顔道日居士、至徳元年(1384年)7月14日没とされていることは
  この時点に於いては道日は河野家に属していた可能性がありますね。「通日」の通は時代からすると
  河野九郎伊予守通能(義)【河野宗家】か河野六郎対馬守通之【河野豫洲家】からの偏諱と考えられます。
  中村氏の支配地は中予か南予と思われますので河野通之に従っていた可能性が高いと思われます。
  ただ、戒名には道日居士とあるので道日も間違いではないのでしょう。この系図は至徳元年と書いてある
  のであれば、中村道日(通日)は北朝側に属していたと思われます。当時の伊予は南北朝時代で同じ家でも
  北朝(武家方)南朝(皇家方)に分かれて血肉の争いをしている時ですね。南朝系でしたら、南朝の元号の
  「元中」と書かれるのが常ですね。
  戒名の「大龍院」とは気になりますね。和田の大龍寺を彷彿させます。こちらは能島村上宗家の菩提寺ですが。



>  沖家室島開拓前後の石﨑家の当主についての記載は、石﨑総系譜ではかなり混乱しています。
  以下、石﨑総系譜に記載されている、沖家室島開拓前後の石﨑家の当主について、順に転載します。
>
>  中村弾正忠通日(道日)-日政-日文-日方-日久-石﨑四郎三郎尉日宗
>
>  油宇石﨑家の系図と友澤家系図略伝では、通日(道日)と日宗の間が抜けており、
  石﨑家譜に記載されていた分です。
>  残念なことに、四郎三郎日宗の戒名と没年はどの系図にも記載されていません。
>
>  日宗の後ですが、油宇石﨑家の系図では兄の四郎左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)と
  弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)に分かれ、日為の子孫が興居島総本家、
  日行の子孫が油宇と沖家室に分かれたことになっています。日為・日行の兄弟は、友澤家系図略伝、
  石﨑家譜にも記載されています。そして石﨑家譜には、日行が「油宇浦浄西寺に奉安セラル、
  文明6年7月8日死、徳孝院浄光日行居士」とあります。文明6年は1474年ですので、
  これは父である四郎三郎日宗が天正8年(1580年)頃に活躍していたのであれば明らかに間違いです。
  私はこれは文禄3年(1594年)の間違いではないかと思います。過去帳や位牌には干支で没年が記載
  されることがありますので、同じ甲午に当たる文禄3年であればつじつまが合わないことはありません。

  ●兄の四郎左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)は河野牛福通直の家臣であったのでしょうね。
   弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)は能島村上武吉か元吉の家臣だったのしょう。
   なら油宇が在所に意味がわかります。ただ、能島家の「給人行衛覚書」には石崎も中村姓も見出せません。

   「石﨑家譜には、日行が「油宇浦浄西寺に奉安セラル、
  文明6年7月8日死、徳孝院浄光日行居士」

   の一部は間違いでしょう。

   「石崎家譜」というのは明治以降に再編纂された新しい家譜ではありませんか?

    油宇浦浄西寺というのが屋代島油宇の浄西寺であるなら、この寺は明治初年の
    廃物毀釈により、西乗寺と浄土寺が合併して、それぞれの字の一字を採って
    浄西寺としましたので、文明6年にも文禄3年にもこの寺はなく、この寺の
    前身である浄土寺もありません。
    明治以降に系図を書く時に当時の常識で判断したのと、底本の解釈間違いをした
    と思われます。


>  油宇石﨑家の系図では、日行の長男が直宗(油宇浦切開住居)、次男が石﨑勘左衛門(家室エ参切開住ス)と記載されています。勘左衛門の諱と子孫は記載されていませんが、沖家室を開拓したことになっています。
>  一方友澤家系図略伝では、日行が勘左衛門と名を改めたことになっています。その嫡男が勘左右衛門惟昭、「庄太郎是也」とあります。友澤開基・惣右衛門徳昭の父に当たるわけですが、日行と「勘左右衛門惟昭」の間が一代抜けていると思います。「惟昭」という諱も間違いだと思います。
>  石嵜系譜は勘左衛門顕宗から始まっており、この開祖が慶長11年(1606年)に沖家室を開拓したことになっています。元は善兵衛と言ったとあります。没年は不詳ですが、5月18日が命日で、(本性院)月山道清居士という戒名です。嫡子は勝太郎とあります。そして二代勘左衛門宗政の項には「幼名少太郎」とあります。寛文10年(1670年)7月8日没です。
>  二代勘左衛門が若いときは「しょうたろう」と名乗ったのは間違いないのかもしれません。
>
>  それと「通字」ですが、中村姓時代は「日」、三田尻友澤本家(萩友澤)は幕末に至るまで当主は「昭」で間違いありません。友澤開基・惣右衛門徳昭(のりあき)の祖父が勘左衛門顕宗(あきむね)ですから、「あき」という読みでは共通していると思います。
>  石﨑家はいくつにも分かれていますから、「宗」で統一はされていないようです。興居島総本家は「忠」、沖家室の宗家は「政」、油宇は「直」です。
>
>  以下、石﨑総系譜で整理された系図です。
>
>  日宗 ┬ 日為 ─ 為忠(興居島)
>      │
>      └ 日行 ┬ 直宗(油宇)
>             │
>             └ 顕宗(沖家室) ─ 宗政 ┬ 徳昭(友澤)
>                                │
>                                └ 政家

 ●惟昭が間違いとするのはどのような根拠からでしょうか?