山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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小松町誌  昭和11年発行 6

2023年07月30日 16時16分58秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】

       (八) 藩政時代の風俗等

 【教育】

維新以前における教育は系統的なるものはなく、例の寺子屋教育で、素読、習字等が主なるもので
算数も教えられていた。小松に於ける寺子屋として知られているものは左の如くである。

大乗院(四福寺)、萬性院(称念寺)、小松北町・小田源右衛門、妙善寺・玉林玄蕃、
持明院(雲蓋寺)、開作久保・山本湖十郎、自性院(現在廃寺)、玉林権守、濱の寮
歓福寺(以上、両寺とも志佐であるが現在廃寺)

 【産業】

当時は農商の区別が割合に厳重で両者を兼ねることは大体に許されない方針であったらしい。
農産物は米麦を主とし、甘蔗、茶、楮、櫨等の外菠菜類であった。このうち楮及び櫨は之が
植栽多く当年の産物中有数なるものであった。この外に白木綿の製造、藁を材料とする大小
縄の製造がおこなわれており、この産額は白木綿が三万反(屋代村の製造分を含む)縄が
三千束である。尚、塩は年間五万石であった。

 【風俗】

男子は十五歳になると一人前となり、冠婚葬祭に上下を着て扇子を持ったものである。
家屋は主として藁葺であり、門は神社、寺院、士分の家に許され、農工商は特別に階級の
ある者でなければ許されなかった。普通のものは履物でも草履、あしなかであった。
旅行の折には寺送り状を証状(注・手形=パスポート)として請い受けたものである。
当時の女の風習は幼女は左右と後部を残し中央を剃る、十二三才になると髪を延ばし、
十五六歳から幅広の帯を結び、人妻になれば髪に荓をさし、お歯黒をつける子があると
眉をそり落としたものである。

久々のスト権確立

2023年07月26日 06時44分13秒 | 新談論風発
そごう・西武労組が会社の売却を巡り、親会社、セブン・アンド・アイ・Hと交渉するために
スト権を確立したそうな。昔は春闘の時期はストが普通だったが、ここ20数年聞いたことがない。久々の労働者の権利行使であるが、労組執行部も組合員もルールが分っているのか疑問ですね。ストをしたことのない労組とストの対応経験のない実質、セブン・イレブン幹部の対応が見ものです。ブン屋は労組を煽ってます。ことの起こりは儲からない百貨店事業は売却してボロモウケのコンビニに投資すべしとする、もの言う株主に、渡りに船とそごう・西武の売却契約をしてしまい。本来、今年の2月に引き渡し完了の予定でいたが、利害関係者の根回しをせずに売買契約をしたらしく、労組や地主の関係者だけでなく、西武本店所在地の豊島区長まで口だしました。
豊島区長さんは池袋の顔の百貨店が無くなるのは嫌といっているので、であるなら豊島区が西武・そごうを買って維持すればよいだけです。2000億円の買収金と毎年50億円の赤字金を区税からつぎ込めばよい。そんなことも知らない区長は干渉する権限はそもそもないのですが、ここでもブン屋は煽ります。池袋本店は利害関係が複雑で、担当役員は大変でしょうね。

結論から言うとスト権確立してもスト突入は出来ないでしょう。
理由は簡単です。ストをしてる間は、給料は払われませんので、その分は労組執行部は
組合員の積み立て金を取り崩して補填しなくてはなりません。そんな積立金は1日分もないでしょう。よってストを強行したら組合員の給与は減額となるだけです。一ケ月したら組合員が干上がります。どうせ9月以降に解雇ならと自棄のヤンパチのようですが、7&Iの社長はどう判断しますかね。理屈に強く、世情に疎い同社ですから、四面楚歌になるでしょう。
創始者の伊藤さんが逝去したばかりなのに。

プライドだけ高い百貨店組合員と清濁合せ呑めない会社執行部の見っとも無い泥試合が展開されるでしょう。百貨店をヨーカ堂に買収した鈴木氏がいるのだから後始末を頼めばよいのに
同氏を追い出した現執行部なのでなかなか大変。

まあ、9月までには片付くでしょうね。
小売り業のストは組合員が売り場にいないだけで、非組合員がレジを打てばよいだけなので
お客様にはさほど影響はないのですがね。

小松町誌  昭和11年発行 5

2023年07月24日 11時01分59秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
       (八) 藩政時代の風俗等

 【政治】

藩政時代に於ける政治は、組織は極めて幼稚であった。庄屋の下に畔頭(くろがしら)あり、証人百姓がおかれて自治を
掌っており、執務は年貢、商家等の運上、土地売買の証文調査、御法度の触れ等である。租税は銀及び米等によっており
戸籍は五年乃至七年毎に大改と称して各戸の人別を調査していた。死体は僧侶が検するに止まり、戸籍台帳には氏神社の
牛王を氏子たることを証する。明治二年までは「一家一宗」であった。土地売買は永代売渡証文を作り、売買両社の調印
有り。これを尺図帳に添付して年月日を記入し証文を貼箋に契約したものである。

注)筆者は少し筆を滑らせている。
 藩政時代の政治機関はそんなに幼稚ではない。現在の小松地区を含む周防大島町には藩行政の一つである「大島宰判」がおかれ
 代官所は久賀におかれ、代官は年に一度程度しか久賀に来ないので、実質代官代行は大庄屋が宰判全体の行政を掌っていました。
 大庄屋は長くは久賀の伊藤家や屋代の大元家が記録されます。大庄屋の下に御都合庄屋があり、その下に萩本藩の直轄地を管理
 する「庄屋」と直臣たちの給領地を管理する「給庄屋」に分かれ、本浦(漁業)であった久賀と安下庄には別に「浦庄屋」が
 置かれています。尚、漁民は身分上百姓に分類されています。庄屋の下に「証人百姓」がいて触れ等を行っていました。証人百姓
 は本軒百姓の中から選ばれ、半軒や四分一軒百姓はなれなかったとされます。自分の土地を持たない百姓は「盲土百姓(水飲み
 百姓)」と呼ばれ最下位の生活をしていました。尚、大島宰判は現在の柳井市平郡島、旧大畠町遠崎村を含んでいました。
 大島郡は上関や佐合島等も含んでいましたが、そちらは行政上「上関宰判」の管理となっていました。

 明治政府の原動力となった長州藩は政府の司法機関に宰判から採って「裁判所」と命名しました。
 薩長政治の名残りです。

 また、住民の戸籍はそれぞれの氏寺が管理していました。これは徳川幕府が出したキリスト教排除の一環として各氏寺が
 「人別帳」を作成し檀家を管理することでお上に報告していた名残です。本来は寺が檀家の誰々は間違いなく当寺の檀徒
 であることを証明するものでした。個人証明ともなりましたので伊勢参りや道後温泉行のように他国に行くときのパスポート
 (通行手形)は寺が出していました。但し、侍は藩が分限記録として戸籍を管理していましたので手形は藩が出していました。

 ルーツ探しで寺の人別帳を探す人がいますが、親子、孫、祖父母程度で肝心の苗字がないのが殆どで特定できません。

 一般大衆の個人情報を持っていることと城ににた堅固な建物を持っていたので明治政府は反乱を恐れ、廃仏に走った要因
 になったともされます。

 土地は基本的には廃藩置県までは藩もものであり私有地は限られていました。大島の大地主と明治以降に言われる家は
 多くは廃藩で土地の管理権を失った殿様から貰った、家臣や庄屋たちでした。
 明治政府は歳入不足に陥り、新たな地主たちに「地券」(所有権証書)を発行して地税(固定資産税)の徴収を始めました。
 これが現在の土地売買や不動産関連税の原型ですね。

小松町誌  昭和11年発行 4

2023年07月06日 15時01分10秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
       (六) 人口及び産物等

 【戸口】

徳川氏の治政下に於いて調査されたる文書によると、仝年代に於ける人口戸数は、屋代・小松を合一して
屋代小松村となして統計が採られているので判然としないが、次の通りである。

 屋代小松村
   戸数 千七百一戸、 人口八千七百三十二人(内、男、四千二百一人、女、四千三十一人)

 志佐村
   戸数 二百四十三戸、人口千二百三十九人 (内、男六百九人、女六百三十人)

 尚、仝表による部落別戸数は次の通りで、これは部落別にされている為、現在小松町に属する区域だけが
 判明するのである。

 中田 五十軒、安迫 三十一軒、北方 四十六軒、小松西 百六十二軒、手崎 十軒、小松東 百十五軒
 開作 三百二十軒、郷六十八軒、濱 六十五軒、湯所 五十軒、砂堀 五十二軒

  (源三・注)現在の戸数と比べると圧倒的に多い「屋代村案内記」と同様な傾向である。

【産物】
 
 徳川氏時代に於ける産物としては、主なものは米・麦であってしかも当年尚農業知識発達せず、現在の如き
 多角形農業は営まれていなかったが、米・麦の収穫は左の如くである。

 米
  屋代小松村 六千五百五十七石(内訳 三千百六十三石御蔵入高、三千三百四十九石諸給領

  【源三・注】御蔵入高は藩直納分、諸給領分は屋代小松村では、村上図書家、村上一学家、北迫の平岡家の分と思われます。

  志佐村  六百十九石 (内訳 五十三石御蔵入、五百六十五石諸給領)

  【源三・注】志佐の諸給領は内藤家,御郷家の分と思われます。他に塩田石の粟屋帯刀家があります。
        尚、笠佐島でも米を若干算出していますので諸給領石に含まれているのでしょう。
        笠佐島全体は志佐に住んでいた中村の殿様の分ですね。

 その他産物の生産高は次の如し

 麦
  屋代小松村 櫨実 千三百五十貫、白木綿 二万六千九十反、 苫 一万四千四百帖、製塩 四万九千七百石
  半紙 六百六十〆 中保和紙 四十四〆 黒保和紙 百六十五帖 

  【源三・注】粟屋家の製塩石高が飛びぬけており、大名並の収入となっており、開作は大繁盛で屋代村等近隣村
        の妬みともなった。苫等は製塩袋として屋代村から供給していました。
        粟屋家の大番頭は矢田部三家であり、その下に郷の近藤家、濱庄屋として國行家があったとされます。
        御郷家庄屋として冨永家や内藤家庄屋として佐村家等の子孫も現在繁茂しています。

  志佐村 櫨実 千百五十貫、白木綿 四千六百八十反、 大繩 二千束、小縄 壱千束、畳床 五百 

  以上の如くで和紙製造の大半は屋代村であったと思われる。

【船舶】

 宰判制度が施工されて地方の行政に調査されるに至り漸う社会状況は判然とするようになったが当時の小松の
 船舶数を見ると左のようである。

  船舶    小松  通船    四十二隻    漁船 四十四隻

        志佐  通船     -----     漁船 十五隻


  【源三・注】通船とは主に塩を各地に運ぶ大型船で北海道松前や大坂浪花まで行く「北前船」が含まれて
        いるのであろう。小松開作の北前船の多くは矢田部家の支配下にあったと思われます。
        志佐の漁船が少ないのが気になります。志佐の漁民の多くは広島縣竹原市能地ケ浜から
        小早川隆景の移封の影響で屋代島に移動したとされます。皆、同じ姓を名乗りますので
        長いあいだよそ者扱いされていましたが、れっきとした安芸小早川領の漁民です。