山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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周防國玖珂郡八代村  山野井家

2022年12月17日 19時05分31秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
玖珂郡八代村(現周南市)の山野井氏より能美島山野井氏との関係の問合せがありました。
能美島の山野井氏は越智河野氏族を称していますが、下記、古資料等は藤原氏を元祖として
います。ただこの家は毛利と供に陶家を追って周防に入りこんだ家なので、元祖が藤原氏か
越智氏か分かりにくい。周りの情報を丁寧に探す必要があるでしょう。


『防長風土注進案7熊毛宰判』

福泉庵
桁行三間梁行三間茅葺
本尊  薬師如来   脇立  不動 毘沙門
本寺、當村太陽寺八世寶寶永珍和尚開基、永禄六年亥ノ三月建立、庵主山野井家開基也
傳曰、當村山野井家元祖大織冠鎌足公ゟ四拾貮代之後胤、就中依命山野と改む、山野新兵衛尉盛兼代弘治元年卯年従元就公大内家ニ傳ふ雪舟等楊之墨書を給ふ
 壹ニ月見の布袋 貮蘆ニ雁 三蓮ニ鷺 四ニ菊ニ雀 五ニ人物 六ニまつニ鳩
 雪舟、備渓齋、諱ハ等楊、姓ハ小田、備中の國赤濱の人、幼年米元山寶福寺ニ居ス、其後入唐して帰朝之後防州山口大内義隆の館にあり、其後雲州尼子晴久の家ニ在と傳
  永禄元年元就公ゟ後奈良院御宸筆の色紙を給ふ、其文ニ曰
    關路雲
   われもまたこえなんものかあしからや
    關路の空の岑のしら雲
     右色紙半分破滅と相見候事
人皇百六代後奈良院永禄元年午の年と添書有之、永禄貮年盛兼故ありて御暇給り、依之防州熊毛郡八代村之内須の河内という所迄来り、此所ニおゐて乗馬相煩滞留保養を加るといへとも終に此所にて死す、黒キ鹿毛古今駿足也、則此所に埋めて椎の木を植置、忽此木に馬の尾生る事諸人の知る所也、依之馬塚荒神と崇奉りて牛馬の病あるときハ此神に祈り、此尾を守りと尊敬せは忽平癒霊験あらた也、後年此地ニ村々鎮守勧請し着の森といへとも元来馬森と称す、追年馬の霊出て種々妙薬の法を授く今山野井家嫡流相傳也、永禄四酉年八代村之内岡村といふ所へ住所を定、前名ニ依て山野井と再改す、山野井甚右衛門盛高代異霊の事ありて永禄六亥年池ヶ迫といふ所へ一庵建立、則當庵開山永珍和尚、其後宝暦十貮午年只今の地ニ再建、盛高ゟ五代之孫山野井瀬兵衛澤榮と名乗、村人俗ニ千石瀬兵衛と異名す、是千石の石高を持故也、六人子供ありて貮軒別家を建、三人に配地をして他家を相続せしむ、六男神田屯と名乗宍戸様御家人也、早世ニ依て配興之田畠を以庵禄とし、諸修復等仕来山野井三軒の位牌を建置、只今岡村と申所ニ有之候事』

ただ、福泉庵の前の記述で『「河内大明神」の条で永禄年中、山井盛兼が鎮守とする』と書いてあります。

また、天保13年(1842)の風土注進案に福泉庵が詳しく書かれ、それ以前に調査した「防長地下上申」や「防長寺社由来」の八代村の条では全く触れられていないのか不思議です。他の寺はきちんと報告されているのに不思議です。注進案の報告者は多分当時の庄屋と思われます。この人は山野井家の由緒は知っていたと思われます。前の二書を報告する時には福泉庵は存在していなかったのでしょう。唯、注進案報告者の庄屋は山井と山野と山野井と
同じ文書で使い分けています。

山野の表示が気になります。
考えられるのは三つ、
1,最初は山野であった。
2,庄屋が書く時に山井を山野と書き間違った。
3,庄屋は正しく山井と書いたが、山口県文書館が刊行するとき
 ミスプリントした等が考えられます。
元本は山口県文書館に有りますので確認する必要があるでしょう。

安芸能美島の山野井氏と能美氏は同じ家

2022年09月05日 11時39分36秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
記録により山野井だったり、能美だったりしていますので、別系統かと思っていましやが、同じでした。
例えば、永禄年間に生きた九代目
山野井四郎民部景秀 (万菊、千寿丸、又四郎、民部卿丸)
は「山野井系図」上は上記の通りですが、 
 永禄元年(1558/8来島通康書状)、永禄6年7月5日付の通康からの能美島宛行状は
 【能美 民部卿丸殿】となっていました。
同一人物でした。
来島通康は能美島の人と言う意味で「能美殿」としたのでしょう。
山野井系図は自分ちを「能美」とは認識していませんので、第三者が「能美」としたのでしょう。
このような例は結構あります。
記録により、山野井氏と能美氏は別家のように江戸期の郷土史が書きますので混乱して
しまいました。


南北朝時代に浅海、久枝、桑原、多賀谷らの伊予の海賊衆が能美島、厳島等に渡ってきます。
山野井は浅海家の分家とされ、久枝と山野井は同門か一統と思われます。
浅海の一部は屋代島や平郡を拠点としました。
屋代島で後、大内海賊となる桑原も元々は伊予衆と思われます。

安芸能美島 山の井家 家紋

2022年09月04日 16時57分35秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
能美島の古族、山野井氏は河野家から派生し、浅海氏流から山野井を名乗るとされます。
能美島山野井氏より提供を受けた同家家紋はとても興味深い。
河野家古紋である「州浜紋」でもなく次の「折敷三文字紋」でもなく江戸期以降の「傍折敷縮三文字紋」
でもない。本来の「折敷三文字紋」の古典形を有していると思われます。



安芸 能美島 山野井氏由緒

2022年08月28日 08時34分24秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
安芸能美島 山野井氏を語るに当たり同家の由緒から始めたいと思います。
今から10年以上前に、能美島山野井氏の子孫の方とルーツ探しをしたのが始まりでした。
山野井家秘伝の「山野井系図」をベースに他文書、他文献から少し肉付けしてみました。

山野井系図は伊予河野家一門をあることから、元祖を当然ながら、孝霊天皇より始まります。


時代は下がり、父親は、北条太夫 越智親孝 甲成氏長者の子とされます。
長男は河野宗家跡取り北条新太夫河野親経で、次男が河野高井家祖、河野(高井太夫)兼孝、
三男が河野遠藤家祖、河野瀧口家祖、河野浅海家祖、河野山野井家祖
河野盛孝となります。河野盛孝の長男家が河野遠藤親家(宗)、次男家が河野瀧口盛長、
三男家が河野浅海家祖 浅海能長となります。浅海能長から順に辿ります。

河野浅海家祖 浅海能長
   ↓
浅海頼季 (文久2・1205/32人組)浅海太郎 同舎弟等
   ↓
浅海信季(秀)
   ↓
【能美島山野井系図】
浅海秀清      (弟)浅海山野井通重(後久枝祖)「河野山野井江田島祖」
   ↓
河野山野井能美島祖
初代   山野井源平衛清景 イ【能美城主】
     源八兵衛 後源兵衛 能美島開基 始称山野井氏 当家元祖  
   ↓
二代目  山野井八郎左馬進景親 イ【能美城主】
     八郎左馬進 源兵衛                     

   ↓
三代目  山野井三兵衛景真 イ【能美城主】
     三兵衛 後 源兵衛                     
   ↓    
四代目  山野井縫殿真氏 イ(帰農?庶人)
     縫殿 後 源兵衛                       
   ↓
五代目  山野井八郎氏重
     八郎 後 源兵衛                       
   ↓
六代目  山野井四郎若狭守重秀  イ(有大内義弘感状)
     四郎 後縫殿充 若狭守                    
   ↓
七代目  山野井縫殿充仲次 イ(秀依)
     後秀 依縫殿充 後四郎                   

   ↓
八代目  山野井加賀守四郎景頼 イ(世次)
     後賢次 又世次 称三郎 後四郎 加賀守          
   ↓
九代目  山野井四郎民部景秀  イ永禄元年(1558/8来島通康手紙有)
     万菊千寿丸又四郎民部卿丸                
      イ 永禄4年(1561)厳島真柱建立 永禄6(1563.6/10 来島通康能美島安堵 )  
   ↓
十一代目 山野井源平衛景重     イ(従朝鮮文禄ノ役1593年)
     輿三又四郎 右近之助 又源兵衛            
   ↓
十二代目 中興祖 山野井源平衛重久    イ 360石
     前景親 異本有之後改重久 三兵衛後源兵衛     ↓
     帰農 庄屋(里正) 於山野井屋敷天正16年(1588)大野直房【是水】誕生【屋代島大野系図】
     慶長17年(1607)八幡社再建 寛永5年(1628)宝持寺再興開山                    
      イ 転封により、紀州浅野家広島下向砌、海上之先達、尚、蜜柑献上ス
     慶安四年(1651)4月7日卒 法名 宝持寺殿融安宗和大居士
     重久 妻、承応二年(1653)二月十五日卒 墓 能美島大原山野井家墓地
   ↓
十二代目 山野井源平衛重吉
     右衛門又 源七郎 後源兵衛               
   ↓
十三代目 山野井源平衛重次
     庄右衛門 後源兵衛                   
    
   ↓
十四代目 山野井源平衛重也
     右衛門市 後源兵衛 輿四郎              
   ↓
十五代目 山野井源平衛重廣
     源五郎 後源兵衛                    

   ↓
十六代目 山野井源三郎重仍
     重次次男 源三郎                   
   ↓
十七代目 山野井源三郎景休
     重也次男 世之丞後右衛門七後 源兵衛三兵    
     宝暦5(1755)割庄屋 山井三兵衛景休与頭中村利七同山井要助       
   ↓
十八代目 山野井源平衛景忠
     源太後利平太 源太平衛 源兵衛 隠居号壱起 
   ↓
十九代目 山野井源平衛景箆
     豹吉 後源兵衛                    
   ↓
二十代目 山野井傳右衛門景直
     岩吉 後伝右衛門                    

   ↓
  数代ヌケ
   ↓

明治期  山野井源次郎
(山野井準平と「山野井文書」の所有権確認訴訟有)

*これは山野井分家順平が宗家源次郎宅より家宝の文書を持ち出した事により所有権確認訴訟が起こされた
 ものと思われます。訴訟費用八百円とされますので、当時は立派な家が数軒建つ価格ですので、
 現在では二億円相当程度と思われます。順平所蔵の山野井文書を謄写した、明治政府の史料編纂所
 (現東京大学史料編纂所)はこの経緯を別編で「所有権未定」としてあります。

 山野井家には、「山野井文書」の他、「山野井本予章記」「河野山野井系図」を所蔵し、
 伊予史談会会長景浦氏は乱丁ではあるが、伊予河野家研究には欠かせないとしています。

尚、十数年前より能美島山野井家のルーツ研究に協力して頂いた、山野井家子孫は
広島にて山野井工務店を経営されているとか。

相次ぐブログの閉鎖で「山野井研究」はままなりませんが、広島の山野井さんご連絡下さい。

また、山野井氏の旧姓、河野浅海氏は大島郡では平郡の半分を支配し、江戸期は三田尻御船手組に属し、平郡舟子(カコ)として
殿様の参勤交代の海上輸送と警護にあたります。朝鮮通信使の時は大島郡各地から3000人の舟子を集め鞆の浦まで輸送警護
します。平郡の他の半分は鈴木氏の支配地でしたが、江戸期は同じく、平郡舟子とします。
浅海は伊予の浅海が浦に住んだ河野氏故、浅海と言います。鈴木は本貫地は和歌山県海南市で兄たちは源義経について平泉に
行きますが、弟たちは伊予河野家を頼り伊予に落延びますが、後に平郡島に移動し明治を迎えます。
大島郡の古い、浅海、鈴木家はこれらの系統の家が多いですね。

屋代島大野家と能美島山野井家

2022年08月28日 08時17分48秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
伊予の大野家と安芸能美島の領主山野井家との直接の関係は下記、「屋代島大野系図」に

『大野直房、天正十六(1588)戌子年 直政領地
 藝州能美島庄屋 山井源兵衛宅ニテ誕生』

とあります。これは少し説明すると、伊予大除城(現久万高原町)から安芸(広島)の毛利へ
援軍を頼みにに出かけた、大野直昌(なおしげ)の兄、直秀(なおひで)が故有って、能島村上武吉の許
に身を寄せ、そこで息子の直政(なおまさ)は元服しました。後に直秀は九州に赴きますが直政は
そのまま能島村上家に残り、村上武吉、息子の元吉に仕え家老職を務めます。

彼の職務の中で最大のターニングポイントは天正10年4月10日に行われたとされる、
能島村上を伊予河野家と毛利家と小早川家との離反を促す、秀吉による姫路会談でした。
この会談は来島村上家と能島村上家しか招待されていません。
因島村上家は口説いてもダメと最初から諦めていたのでしょう。

この会談は織田信長の先兵としての秀吉が企画したことで、備中高松攻めの直前の工作です。
会談が行われたのは姫路の浅野屋敷と伝わります。

結果はの来島村上家は河野家相続が認められない状態でしたので、秀吉の話に乗り織田信長に
付きます。能島村上家代表の直政は、能島村上家は伊予河野家とも毛利家とも切っても切れない
関係故、懐柔には応じられないとしてきっぱり断ります。

その後すぐ、明智光秀の信長暗殺により、いち早く光秀を成敗した秀吉が天下を取ります。

バランスが崩れた毛利、小早川、河野はその後、秀吉の猛攻を受けます。

村上家の能島城等の総下城を余儀なくされ、小早川の領地の竹原へ引っ越しします。
その時、大野直政は能美島大原に逗留します。この時生まれた息子が大野直房です。

逗留していた先が能美島大原の山野井源兵衛宅と記録されます。

前置きが長くなりましたが、ここでは能美島の山野井家にスポットを当ててみたいと思います。

余談ながら、能美島と江田島は地続きの同じ島です。
この島から泳いでやって来たイノシシが現在周防大島に繁殖し3万頭を超えるとか、
宮本常一氏時代にも泳いで渡ってきた記録がありますが、和田の浜にたどり着くや、ご馳走とばかりに
住民が打ち殺し「しし鍋」にして食べたそうです。
大島の猪はイノブタ系なので美味しいそうです。本土(大畠・柳井方面)の猪とは違うそうです。

皆で大島の猪を食べましょう。