玖珂郡八代村(現周南市)の山野井氏より能美島山野井氏との関係の問合せがありました。
能美島の山野井氏は越智河野氏族を称していますが、下記、古資料等は藤原氏を元祖として
います。ただこの家は毛利と供に陶家を追って周防に入りこんだ家なので、元祖が藤原氏か
越智氏か分かりにくい。周りの情報を丁寧に探す必要があるでしょう。
『防長風土注進案7熊毛宰判』
福泉庵
桁行三間梁行三間茅葺
本尊 薬師如来 脇立 不動 毘沙門
本寺、當村太陽寺八世寶寶永珍和尚開基、永禄六年亥ノ三月建立、庵主山野井家開基也
傳曰、當村山野井家元祖大織冠鎌足公ゟ四拾貮代之後胤、就中依命山野と改む、山野新兵衛尉盛兼代弘治元年卯年従元就公大内家ニ傳ふ雪舟等楊之墨書を給ふ
壹ニ月見の布袋 貮蘆ニ雁 三蓮ニ鷺 四ニ菊ニ雀 五ニ人物 六ニまつニ鳩
雪舟、備渓齋、諱ハ等楊、姓ハ小田、備中の國赤濱の人、幼年米元山寶福寺ニ居ス、其後入唐して帰朝之後防州山口大内義隆の館にあり、其後雲州尼子晴久の家ニ在と傳
永禄元年元就公ゟ後奈良院御宸筆の色紙を給ふ、其文ニ曰
關路雲
われもまたこえなんものかあしからや
關路の空の岑のしら雲
右色紙半分破滅と相見候事
人皇百六代後奈良院永禄元年午の年と添書有之、永禄貮年盛兼故ありて御暇給り、依之防州熊毛郡八代村之内須の河内という所迄来り、此所ニおゐて乗馬相煩滞留保養を加るといへとも終に此所にて死す、黒キ鹿毛古今駿足也、則此所に埋めて椎の木を植置、忽此木に馬の尾生る事諸人の知る所也、依之馬塚荒神と崇奉りて牛馬の病あるときハ此神に祈り、此尾を守りと尊敬せは忽平癒霊験あらた也、後年此地ニ村々鎮守勧請し着の森といへとも元来馬森と称す、追年馬の霊出て種々妙薬の法を授く今山野井家嫡流相傳也、永禄四酉年八代村之内岡村といふ所へ住所を定、前名ニ依て山野井と再改す、山野井甚右衛門盛高代異霊の事ありて永禄六亥年池ヶ迫といふ所へ一庵建立、則當庵開山永珍和尚、其後宝暦十貮午年只今の地ニ再建、盛高ゟ五代之孫山野井瀬兵衛澤榮と名乗、村人俗ニ千石瀬兵衛と異名す、是千石の石高を持故也、六人子供ありて貮軒別家を建、三人に配地をして他家を相続せしむ、六男神田屯と名乗宍戸様御家人也、早世ニ依て配興之田畠を以庵禄とし、諸修復等仕来山野井三軒の位牌を建置、只今岡村と申所ニ有之候事』
ただ、福泉庵の前の記述で『「河内大明神」の条で永禄年中、山井盛兼が鎮守とする』と書いてあります。
また、天保13年(1842)の風土注進案に福泉庵が詳しく書かれ、それ以前に調査した「防長地下上申」や「防長寺社由来」の八代村の条では全く触れられていないのか不思議です。他の寺はきちんと報告されているのに不思議です。注進案の報告者は多分当時の庄屋と思われます。この人は山野井家の由緒は知っていたと思われます。前の二書を報告する時には福泉庵は存在していなかったのでしょう。唯、注進案報告者の庄屋は山井と山野と山野井と
同じ文書で使い分けています。
山野の表示が気になります。
考えられるのは三つ、
1,最初は山野であった。
2,庄屋が書く時に山井を山野と書き間違った。
3,庄屋は正しく山井と書いたが、山口県文書館が刊行するとき
ミスプリントした等が考えられます。
元本は山口県文書館に有りますので確認する必要があるでしょう。
能美島の山野井氏は越智河野氏族を称していますが、下記、古資料等は藤原氏を元祖として
います。ただこの家は毛利と供に陶家を追って周防に入りこんだ家なので、元祖が藤原氏か
越智氏か分かりにくい。周りの情報を丁寧に探す必要があるでしょう。
『防長風土注進案7熊毛宰判』
福泉庵
桁行三間梁行三間茅葺
本尊 薬師如来 脇立 不動 毘沙門
本寺、當村太陽寺八世寶寶永珍和尚開基、永禄六年亥ノ三月建立、庵主山野井家開基也
傳曰、當村山野井家元祖大織冠鎌足公ゟ四拾貮代之後胤、就中依命山野と改む、山野新兵衛尉盛兼代弘治元年卯年従元就公大内家ニ傳ふ雪舟等楊之墨書を給ふ
壹ニ月見の布袋 貮蘆ニ雁 三蓮ニ鷺 四ニ菊ニ雀 五ニ人物 六ニまつニ鳩
雪舟、備渓齋、諱ハ等楊、姓ハ小田、備中の國赤濱の人、幼年米元山寶福寺ニ居ス、其後入唐して帰朝之後防州山口大内義隆の館にあり、其後雲州尼子晴久の家ニ在と傳
永禄元年元就公ゟ後奈良院御宸筆の色紙を給ふ、其文ニ曰
關路雲
われもまたこえなんものかあしからや
關路の空の岑のしら雲
右色紙半分破滅と相見候事
人皇百六代後奈良院永禄元年午の年と添書有之、永禄貮年盛兼故ありて御暇給り、依之防州熊毛郡八代村之内須の河内という所迄来り、此所ニおゐて乗馬相煩滞留保養を加るといへとも終に此所にて死す、黒キ鹿毛古今駿足也、則此所に埋めて椎の木を植置、忽此木に馬の尾生る事諸人の知る所也、依之馬塚荒神と崇奉りて牛馬の病あるときハ此神に祈り、此尾を守りと尊敬せは忽平癒霊験あらた也、後年此地ニ村々鎮守勧請し着の森といへとも元来馬森と称す、追年馬の霊出て種々妙薬の法を授く今山野井家嫡流相傳也、永禄四酉年八代村之内岡村といふ所へ住所を定、前名ニ依て山野井と再改す、山野井甚右衛門盛高代異霊の事ありて永禄六亥年池ヶ迫といふ所へ一庵建立、則當庵開山永珍和尚、其後宝暦十貮午年只今の地ニ再建、盛高ゟ五代之孫山野井瀬兵衛澤榮と名乗、村人俗ニ千石瀬兵衛と異名す、是千石の石高を持故也、六人子供ありて貮軒別家を建、三人に配地をして他家を相続せしむ、六男神田屯と名乗宍戸様御家人也、早世ニ依て配興之田畠を以庵禄とし、諸修復等仕来山野井三軒の位牌を建置、只今岡村と申所ニ有之候事』
ただ、福泉庵の前の記述で『「河内大明神」の条で永禄年中、山井盛兼が鎮守とする』と書いてあります。
また、天保13年(1842)の風土注進案に福泉庵が詳しく書かれ、それ以前に調査した「防長地下上申」や「防長寺社由来」の八代村の条では全く触れられていないのか不思議です。他の寺はきちんと報告されているのに不思議です。注進案の報告者は多分当時の庄屋と思われます。この人は山野井家の由緒は知っていたと思われます。前の二書を報告する時には福泉庵は存在していなかったのでしょう。唯、注進案報告者の庄屋は山井と山野と山野井と
同じ文書で使い分けています。
山野の表示が気になります。
考えられるのは三つ、
1,最初は山野であった。
2,庄屋が書く時に山井を山野と書き間違った。
3,庄屋は正しく山井と書いたが、山口県文書館が刊行するとき
ミスプリントした等が考えられます。
元本は山口県文書館に有りますので確認する必要があるでしょう。