山口県周防大島物語

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昭和11年発行 【小松町誌】27

2024年05月31日 14時55分15秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌】

     【 名 所 旧 跡 】

 ① 大 島 鳴 門

   日本二鳴門の一つとして昔から有名な航海上の難所である。 俗謡に

    『阿波の鳴門と小松の瀬戸は、汐のとろみを見ておろせ』

   とあるに知られる如くその急瑞奔流は高潮時にはもの凄いもので海上一面無数の渦を
   起こして白泡相撃する有様は何と言っても一大壮観である。
   この瀬戸は海底に大小幾多の岩礁が介在しており、潮流がそれに衝突して渦を巻き起こす
   のである。「水路誌」に曰く。

    『大畠瀬戸、その最狭部は半海里未満にして笠佐其の中央にあり、数礁ありて海底険悪
    なり、この瀬戸の漲潮流は東に向い、落潮流は西に向い、その速力最も強し、憩汐は
    数分間に過ぎずと雖も、小舟は常に憩潮の時のみ通過する云々』

   この海峡は往時より瀬戸内海航路の要路に当たっており、航行の士人が詠じたる歌も
   少なくない、左に二三を記す。

    『これやこの名におふ鳴門のうつしほの、玉藻刈るてふ、あま乙女とも』   【万葉集】

    『大島のなだの鳴門のうつしほも、なりとろきておさきつかへし』      【藤原厳雄】

    『人しれず思ふ心は大島の、なるとはなしになけくところか』        【後選集】

    『聲をたにかよわんことは大島や、いかに鳴門の浦とかはみし』       【和泉式部】

    『思ふかとななほしきなみに大島の、鳴門はなくて年の経ぬらむ』      【正三位知家】

    『都にといそくかいなく大島のなたのかけちは潮みちにけり』        【恵瓊法師】

   *源三注) 現在大畠瀬戸と呼び習わせている瀬戸は「大畠瀬戸」ではなく、古代は「小松瀬戸」
    「大島瀬戸」と呼ばれていたことが古歌よりしれます。瀬戸(鳴門)は古くは阿波鳴門と大島鳴門
    が有名とされ、他の急流の瀬戸に言及していない(来島や音戸等)のは古代に航海上のルートでは
    なかったことによるものであろう。古代の航海は「地乗り」と云う航法で沿岸沿いに辿る航海で
    あり、帆が丈夫になったことにより「沖乗り」航法が可能になり、大島(小松)瀬戸を通過せずに
    上関から、沖屋室を経由して、伊豫や安芸を経由して摂津(大坂)へ行けるうようになりました。

    古歌に大島瀬戸、小松瀬戸とありますが、大島の別名、屋代島は出てこないので、平安期までは
    大島で室町期以降、屋代島と呼ばれまた大島に戻ったものと思われます。鎌倉幕府の正史「吾妻鑑」
    は現在の屋代平野を「大島津」と呼び、義経の兵舟八百余艘が滞在したと語ります。

    今、一般に「大畠瀬戸」と呼ばれるようになったのは近年の事と思われます。
    現在の大畠は、柳井市に併合されて柳井市大畠とされていますが、維新時代は大島郡遠崎村と神代村
    に挟まれた鳴門村の一字名でした。神代村、鳴門村、遠崎村が合併し玖珂郡大畠町となり平成の合併
    で柳井市に組み込まれました。現在、石神(しかみ)と呼ばれる地域は旧神代村で、今のJR大畠駅は
    旧神代村内でしたが、隣に神代駅があるので同名にするわけにもいかず大畠駅としたと思われます。
    しかし、同村内の名の「石神(しかみ)駅」と名付けてもおかしくないのですが謎です。