東京医科大学 庶務課経由 学長殿
「日本医科大学 実質創始者 山根正次の名誉回復についての要請」
主旨
当方は山口県郷土史を研究している者ですが、郷土人の中に貴校に関与する人物で山根正次氏がいます。
調べてみると殆どの書が日本医科大学創始者との評ですが、貴校のHPや学長挨拶には全く山根正次に言及
がありません。何故でしょうか?確かに済生学舎の創始者は長谷川泰氏でありますが、長谷川氏は自ら
済生学舎の廃校宣言をし大混乱に落としいれています。その時の在校生の収容受け皿となったのは山根正次が
川上元次郎氏の要請を受け政財界を奔走し日本医科大学の前身日本医学校を設立したのは史実です。
ウイキペヂアは「長谷川泰」の条で山形有朋に戊辰戦争の恨みで廃校に追い込まれたとの論調で語られて
いますが笑止千万の記事です。尤も「ウイキペヂア」は原則信用できない電子辞典ですが、現在は信用する人
が多いのも事実です。
山根正次の父、山根(重宗)孝中も軍医として会津征討軍に従軍していますので、山形有朋と同じ状況に
置かれていますので、息子の正次が済生学舎を放り出された在学生の救援に向かうとは思われません。
決して、長谷川泰、憎しの感情が長州人、ましてや宰相たるもの拘るとも思えません。
長谷川泰氏と山根正次が出会うのは長崎医学校で長谷川校長と生徒の関係ですから以後子弟関係を
維持しています。長谷川氏が廃校宣言した後の対応は恩師への気遣いです。
廃校により大学運営組織は消滅し、行き場の失った済生学舎生を受け入れに奔走します。
よって貴校創始者は長谷川泰氏でも誤りではありませんが、実質的創始者は山根正次ではないでしょうか?
確かに、昭和八年に山根正次の部下であり、公務多忙持に日本医学校、日本医学専門学校の運営を任せて
いた、磯部検三が「自分が実は創始者である」と学内闘争を図り混乱させたことがあるので、それを引きづり
総括できていないのではないでしょうか。学内の山根正次に関する資料が殆ど無いことは上記磯部氏からみ
の闘争で失われていったのではと邪推しております。
山根正次の資料は、国立国会図書館、国立公文書館に多く残されています。他に市井の中にも多く残されて
います。これらの史料を総覧し総括して、ゆがんでいるとされる日本医科大学校史を改訂して頂けませんか?
僭越ながらこれらの改訂決定は学長及び経営陣しかできませんので伏してお願い申し上げます。
まずはホームページの学長挨拶並びに沿革の改訂をお願い申し上げます。
PS 一部資料を添付させて頂きます。
また、これらの依頼に対して出来ればメールあるいは文書でお返事を頂きたくぞんじます。
今後も研究の糧とさせて頂きます。
日本医科大学設立者、山根正次 一代記(長谷川泰との関連年譜)
恩師長谷川泰 天保13年6月8日(1842年7月15日) - 明治45年(1912年)3月11日)
山根正次 安政4年12月23日 [新暦](1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)
【誕生地】長門国萩香川津(萩市椿東)
安政4年誕生(1857) 萩香川津医師、山根考中の次男【重宗・山根家譜】(親族・山口県周防大島町 高城 俊氏蔵)
新暦(1858年生) 0歳 妻・萩藩士島田良岱娘、スエ
幼名・吉太、殿山と号す
明治3年(1870) 12歳 藩の医学校で蘭学を修め、萩中学(藩校明倫館の後身)でドイツ人教師ヒレルに学ぶ。
年少、長崎に遊学し洋学を修む。
明治4年(1871) 長谷川泰、ミュルレル、ホフマンについてドイツ医学を学ぶ。
明治7年(1874) 16歳 明治 7 年長崎医学校に入 学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入
以来長谷川との親交が続くが同 15 年 4 月, 東大医学部を卒業,森鷗外の 1 年下にあたる
明治7年8月27日(1874) 長谷川泰、明治7年(1874年)8月27日長崎医学校校長に就任。征台の役に伴い長崎医学校が廃校となると辞して、
学生を東京医学校に転学させた。
明治8年12月27日(1875) 長谷川泰、明治8年(1875年)12月27日東京府知事から済生学舎開業願が許可される。
明治9年4月(1876) 長谷川泰 明治9年(1876年)4月本郷元町1丁目66番地に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎
(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)を開校する。
明治15年4月(1882) 24歳 明治15年東京大学医学部卒、
明治15年12月(1882) 24歳 長崎医学校 1 等教諭に任命さる。
明治18年(1885) 27歳 明治18~19年同地コレラ流行し、検疫委員や伝染病予防委員に任じらる。
死体を解剖し「虎列刺病汎論」を刊行。本邦に於けるコレラ菌発見の先駆者。
明治18年(1885) 27歳 また長崎の地上水道敷設の必要性を唱え、長崎市は採用す。(共用開始明治24年)
明治19年(1886) 28歳 長崎での清国水兵の暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田 顕義司法大臣に説き受け入れらる。
明治20年9月(1887) 28歳 【虎列剌病汎論】を刊行、監修は恩師、長谷川泰氏である。
明治20年09月08日(1887) 28歳 雇医学士山根正次私費独逸国留学ノ件【内閣閣議議案】「原本国立公文書館」
『私費洋行願之儀に付請議 司法省雇月俸150円医学士山根正次 右之者裁判医学研究の為め
雇之侭3ヶ年間独逸国に留学致度旨別紙之通願出候処本人儀は前途目的ある者に有之該国に
渡航し碩学の師に従ひ蘊奥を叩き且実地に就き練磨を加へは将来法衙に裨補する者鮮浅ならずと
思惟候条特別の御詮議を以て雇之侭私費にて該国留学願之通御許可相成候様致度此段請閣議候也』
司法大臣伯爵 山田顕義 総理大臣 伊藤博文殿
明治20年12月(1887) 29歳 長崎医学校を辞め、長崎医学校を辞めて司法省雇となり、ヨーロッパへ派遣されて法医学、
衛生行政などを学んだ。
明治21年(1888) 30歳 プロイセン王国(現ドイツ)留学中の面々、下記の如し。【添付写真参照願います】
1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と前列左より河本重次郎、山根(日本医科大学創始者)
田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一中列左から森林太郎(後作家・森鴎外)、武島務、
中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙、瀬川昌耆、
北里柴三郎(北里大学)、江口襄。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎
明治23年(1890) 済生学舎長谷川泰 第1回衆議院議員総選挙から衆議院議員を3期務める
長谷川泰は、東京府病院長・東京癲狂院長・避病院院長・脚気病院事務長・警視庁医長など多くの役職を兼任する
明治24年11月(1891) 33歳 明治24年に帰国後、警察医長、内務省検疫委員などを歴任し、明治35年まで11年間、
日本及び東京市の衛生行政に 尽力する
明治25年04月26日(1892) 34歳 内閣・警察医長山根正次恩給ニ関スル医術上ノ審査嘱託ノ件
警察医長山根正次、恩給に関する医術上の審査を嘱託する。
明治25年10月12日(1892) 34歳 警察医山根正次中央衛生会臨時委員被命ノ件
警察医長山根正次 中央衛生会臨時委員を命ず
内務大臣伯爵 井上馨 内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
明治25年12月23日(1892) 34歳 警察医長山根正次ニ報酬金ヲ贈与ス。金七十円【内閣・官報】
明治26年12月21日(1893) 35歳 警察医長山根正次ヘ報酬金下賜ノ件【内閣・官報】
明治26年(1893) 済生学舎長谷川泰は北里柴三郎のために大日本私立衛生会付属伝染病研究所設立の演説を度々行って実現させる。
明治27年05月19日(1894) 36歳 警察医長山根正次外二名恩給局顧問医嘱托ノ件【内閣・官報】
恩給局顧問医嘱托の件 常務顧問医 警察医長山根正次 顧問医 陸軍1等軍医正森林太郎、
医科大学教授青山胤通 右本年勅令第49号に依り書面之通嘱托致度尤各本属庁へ
照会候処差支無之旨に付此段相伺候也
明治28年12月18日(1895) 37歳 恩給局顧問医ヘ手当金支給ノ件【内閣・官報】
明治28年12月 恩給局長 顧問医手当の件 常務顧問医 金150円山根正次
顧問医 金30円青山胤通、金30円森林太郎 右明治27年勅令第49号に依り
各頭書之通手当金給与相成度候也
明治29年12月08日(1896) 38歳 恩給局顧問医山根正次外二名ヘ手当金給与ノ件【内閣・官報】
常務顧問医 金150円山根正次
顧問医 金50円青山胤通、金50円森林太郎(後・作家、森鴎外)
明治29年12月23日(1896) 38歳 警察医長山根正次外二名官等陞叙ノ件【内閣・官報】
警察医長正七位山根正次 高等官五等
明治30年09月27日(1897) 39歳 警察医長山根正次外四名任官ノ件【内閣・官報】
警察医長従六位山根正次 兼任臨時検疫局事務官
内閣総理大臣 松方正義
明治31年3月(1898) 済生学舎長谷川泰、内務省衛生局長(1898年3月から1902年10月)就任
明治31年09月16日(1898) 40歳 警察医長山根正次医術開業試験主事被仰付陸軍一等軍医能勢静太以下三十二名
医術開業試験委員被仰付並衛生試験所技師齊藤寛猛以下六名薬剤師試験委員被仰付ノ件
明治31年12月20日(1898) 40歳 臨時検疫事務官山根正次外三名 ○造神宮主事藤井鼎外三名○非職北海道集治監分監長
八田哉明○東京府参事官田所美治賞与ノ件【内閣・官報】
明治32年01月12日(1899) 41歳 警察医長兼臨時検疫事務官山根正次以下十二名官等陞叙ノ件
内閣総理大臣伯爵山縣有朋【内閣・官報】
明治32年4月1日(1899) 41歳 警察医長山根正次印刷局医務嘱托ニ付金員給与ノ件
山根正次 一か年 金弐百円【内閣・官報】
明治32年(1899) 内務省衛生局長長谷川泰は文部省に掛け合い、聖護院近くの2万坪を買収させ、京都帝大医学部および
付属病院を造らせている
明治32年12月21日(1899) 41歳 恩給局常務顧問医山根正次以下三名ヘ手当金給与ノ件【内閣・官報】
明治33年4月(1900) 済生学舎長谷川泰、日本薬局方調査会長(1900年4月から1902年7月)等を務める
明治33年(1900) 42歳 功績頗る多し。明治33年また巴里大博覧会に赴き体育衛生の諸会に出席
万国法医学名誉副会頭、並びに万国体育会日本医員に挙げらる。
帰朝後、本邦医会の公私諸会の委員乃至顧問として活躍。
明治33年12月21日 42歳 恩給局常務顧問医山根正次以下二名ヘ手当金下賜ノ件【内閣・官報】
明治34年2月2日 43歳 警察医長山根正次以下二十二名官等陞叙ノ件
警察医長正六位山根正次 高等官三等
明治34年2月16日 43歳 印刷局医務嘱託山根正次依願解嘱ノ件
明治34年8月7日 警察医長山根正次印刷局衛生医務ヲ嘱託ノ件
一か年 金弐百円
明治34年12月20日 43歳 恩給局顧問医山根正次以下二名ヘ手当金下賜ノ件【内閣・官報】
明治35年1月13日 44歳 印刷局衛生事務嘱託山根正次自今一箇年金参百円給与ノ件
明治35年8月(1902) 44歳 明治35年、山口県より衆議院議員に当選す。仝議員に選ばれること前後六回に及ぶ。
所属(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)また東京市議会議員も兼ねる。
明治35年10月10日 44歳 警察医長山根正次以下二名依頼免本官ノ件
内閣総理大臣伯爵桂太郎
明治35年11月6日 44歳 警察医長兼臨時検疫事務官山根正次依願免兼官ノ件
内閣総理大臣伯爵桂太郎
明治35年12月6日(1902) 元警察医長兼臨時検疫事務官従五位五等 山根正次叙勲裁可【官報】
明治35年12月22日 44歳 恩給局常務顧問医山根正次以下二名ヘ手当給与ノ件
山根正次百五十円
明治36年(1903) 45歳 衆議院議員としては明治 36 年「慢性及急性伝染病
予防ニ関スル質問書」や明治 38 年ハンセン病の予 防を一般法の中に含める「伝染病予防法中改正
法律案」,明治 39 年「癩予防法案」等を提出し,明治 40 年の法律第 11 号「癩予防ニ関スル法律」に
繋げ,その後の同法律改正に影響を与えた大正 5 年に設立 された内務省保健衛生調査会第 4 部会
の主査も務めている.
明治36年5月31日 45歳 衆議院議員山根正次提出慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問ニ対シ内務大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件
『衆議院議員山根正次君提出慢性及急性伝染病予防に関する質問に対する答弁書
一.肺結核、癩病、トラホームの予防措置及花柳病予防上現行法令以外の事項に関しては
夙に其必要を認めたるも其関係する所の範囲広汎にして且つ実行上困難なる点尠からす
故に能く地方の状況に鑑み時宜に適応せる措置を実施せんか為め目下其方法講究中に属せり
一.ペストの予防に就ては伝染病予防法制定の当時と今日とは其の状況を異にする所あるを以て
予防法の完備を期せむか為め目下之か調査中に属せり 一.虎列剌予防注射は客年少数の
流行地に於て実施したるに過きさるを以て其成績は未た公表し得るの域に達せす
右及答弁候也 内務大臣男爵内海忠勝』
明治36年8月30日(1903) 長谷川泰は済生学舎廃校の決心を固め、1903年8月30日、『東京日日新聞』等に
「済生学舎廃校の理由に付広告」を掲載して廃校宣言を行った。
しかし、実際には済生学舎は既に1884年東京医学専門学校として届け出て認められており、
1887年には文部省令第五号による文部大臣森有礼の布達で済生学舎が官立府県立学校と
同等であることが認められている。また1896年の卒業式において坪井次郎が済生学舎の
顕微鏡実験室は設備完全にしてドイツの大学よりも遥かに優れていると指摘している様に、
設備・環境とも整っていたのである。そして直ちに勉学の道を失った学生達の中から有志が集り、
その10日後に校長は変わったが同じ教師により同じ教科書を用いて旧済生学舎の生徒へ済生学舎
同窓医学講習会として授業が行われ、それが「医学研究会」、日本医学校の設立や東京医学校と
の合併等を経て今日の日本医科大学に至っている。【ウイキ】
明治36年9月(1903) 【日本医学専門学校沿革史】 (国立公文書館蔵)
明治三十六年九月私立済生学舎ノ廃止セラルルヤ多数医学生カ就業ノ機関ヲ失ヒタルニ依リ此等学生救済ノ為
各所ニ医学講習会相継起リ、明治三十七年四月ニ到り本郷区駒込千駄木町ニ東京医学校及ヒ神田区淡路町ニ
日本医学校設立セラレタリ、爾来是等医学校ニ於ヒテ各設備ノ改善ヲ謀り、四十三年ニ至り日本医学校ハ
東京医学校ト合併シ校舎を本郷区駒込千駄木町五九番地ニ定メタリ、此間千有余名ノ医師ヲ出スニ至レリ
明治四十五年三月専門学校令ニ依リ、山根正次他六名、財団法人私立日本医学専門学校設立ヲ出願シ
(校舎は本郷区駒込千駄木町五九番地、付属病院ハ眞泉病院敷地及び建物全部)
校長ニ医学士山根正次
大正元年九月 第一回本科第一学年志願者百三十二名入学ヲ許可ス。
大正三年四月、 山根校長離任、医学博士青柳登一校長ニ就任。
大正三年七月、 青柳校長離任ス
大正三年十二月、 医学博士天谷千松校長ニ就任ス
大正五年十月 天谷校長離任ス。
大正五年十二月、 山根正次校長ニ就任ス。
大正七年四月、 理事長山根正次、理事磯部検蔵、吾妻傳、増野豊離任ス、山根正次校長離任ス
小比木信六郎、医学博士中原徳太郎、仝塩田廣重、法学士近藤達見、理事就任ス
(注)理事磯部検蔵 この人が山根卒後「私が日医大の創始者」と唱え内紛を起こし
現在の日本医科大学の校史を歪める。
大正十三年五月、 校長中原徳太郎東京府第九区衆議院選挙当選ス。
明治36年(1903) 45歳 済生学舎は28年間の活動の後、明治36年(1903年)に廃校。
済生学舍の突然の廃校で行き場を失った学生達の救済の為,済生学舍とも浅からぬ因縁のある
日本週報 社主の川上元治郎は長州出身で長州閥の領袖山県有朋の部下で国会議員の山根正次に懇請して
日本医学 校を創立させた.創立した学校の初代校長として 15 年も在籍したが何故かその資料が乏しい
明治37年(1904) 46歳 明治37年、私立日本医学校(現在の日本医科大学)を創設し初代校長となる。
初代校長(以後足かけ15年勤む)となり後進を育成した
日本医学校長兼任のまま「韓国衛生事務顧問」 国会議員でもあり多忙を極める山根に無理を承知で
学校の設立経営を懇願した川上であったが済生学 舍廃校の経緯を熟知していただけに長州派の協力
がなければ基盤の脆弱な日本医学校の創立は無理とみ てその篤実な性格や長州閥を背景に
その政治的手腕に期待したものと推察する.山根を補佐すべく 15 才年下の元書生,長州人の
磯部検三が幹事(事務長役)に起用される.かくて同 37 年 4 月に「私立日本医学校」は開校した.
明治39年3月15日 48歳 山根正次提出不良薬品ノ取締ニ関スル質問ニ対シ内務大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件
『衆議院議員山根正次君提出に係る不良薬品取締に関する質問に対する答弁書 政府か
本期議会に薬品営業並薬品取扱規則改正法律案を提出せさるは尚調査を要する処ありと
認むるに由る右及答弁候也』
明治39年(1906) 48歳 明治39年、帝国議会に帝国聨合医会草案の「医師法案」を提出「医師法」が発布・施行される。
明治41年3月17日 50歳 山根正次提出脚気及伝染病予防方法ニ関スル質問ニ対シ内務陸軍両大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件
『衆議院議員山根正次君提出の脚気及伝染病予防方法に関する質問に対する答弁書
一.先年衆議院建議に係る脚気調査会は財政の都合に依り未た設置の運に至らす従て
之に伴ふ調査の程度成績等を報告するに由なし脚気病の病源未た発見せられすと雖も
軍隊に於ては従来の実験に基き輓近の学説を参酌して左の方法を実施しつゝあり
1.衣食住の一般衛生を改善し苟も脚気病を誘発すへしと認むることは之を避けしむ
2.兵の主食を米麦(米7、麦3の割)混食となし米と麦との差額を以て副食物を増し麦食の養価を補ふ
3.患者は之を隔離し相当の消毒を施す一般の脚気予防方法は一般衛生の改良進歩を図るに在り
右及答弁候也 明治41年3月11日 内務大臣原敬、陸軍大臣子爵寺内正毅』
明治42年2月18日 衆議院議員山根正次提出沖縄県医師会役員解職ニ関スル質問ニ対スル答弁書衆議院ヘ回付ノ件
『衆議院議員山根正次君提出の沖縄県医師会役員解職に関する質問に対する答弁書
明治41年5月沖縄県医師会役員会は同県立中学校長大久保周八同校教諭高良隣徳か
生徒に対し種痘を行ひたるは不当の所為なりと決議したるに依り沖縄県知事は之を以て
権限を越えたる違法の行為なりとし取消処分を為したり然るに医師会総会は更に知事の
取消処分を不当の所為なりと決議したるを以て知事は又之か取消処分を為したるに
役員会は重ねて右取消処分は不当なりと決議したり依て知事は右役員の行為は其の
権限を超え法令に違背したるものにして解職処分の必要あるを認め之か認可を申請したる
を以て内務大臣は知事申請の正当なるを認め医師会規則第15条に拠り之を認可したるものとす
質問理由書に依れは医師法に基ける医師会の建議に対し取消処分を為したるか如く
記載しあるも該建議と前項の決議とは各別箇のものにして右建議に関し取消又は解職の
処分を為したるものに非らす』
明治43年4月(1910) 52 明治43 年 8 月 29 日遂に日本は韓国を併合 し
総督府を設置した.同 43 年 4 月山根は現職の儘「韓国衛生事務顧問」として赴任し以後 5 年も
滞在す る.韓国での山根は各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
助産婦の養成等医 学教育の振興をはかり,衛生施設の改善をする。
明治44年(1911) 53歳 明治44年満州でのペスト大流行に際しては北里柴三郎ら と協力して朝鮮侵入阻止等大きな功績をあげている.
明治45年3月11日 長谷川泰、1912年、大腸狭窄症(大腸癌)のため東京市本郷区本郷元町の自宅で死去
明治45年3月25日 54歳 衆議院議員山根正次提出結核病予防ニ関スル質問ニ対シ内務、司法、文部農商務
四大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件
『衆議院議員山根正次質問に対する答弁書
一.結核病予防に関しては曩に内務省令を発布し必要なる元締を為しつゝあるも尚ほ進んて
予防の方策を講するの必要を認め目下調査中に属す又伝染病研究所は結核治療に関する
研究を怠らさるも未た其成績を公表するに至らす
一.小学校其の他の教員にして結核病に罹れる者の処置に関しては目下慎重調査中に属す
一.結核病予防に関しては内務省令を適用して相当の措置をなし尚ほ監獄医結核予防に付ては
特別の注意を加へ予防上違算なきを期しつゝあり
一.工場に於ける結核病其他の伝染病予防に関しては工場法の実施を俟て相当の取締を
為さんことを期す 右及答弁候也 明治45年3月25日 内務大臣原敬』
大正5年5月16日(1916) 60歳【日本医学専門学校の異変】 山根は大正 4 年 1 月韓国衛生顧問を辞任しているのでその頃帰国した
ものと思われる.設立時いずれ 指定医学専門学校に昇格し卒業すればそのまま医師になれる筈で
入学してきた学生はそれが実現不能と 知って憤激し山根、磯部らの不信を詰って大正 5 年 5 月 16 日
遂に総退学を決行した.(約 450 名)事態を 重く見た文部省は同年 8 月に再建指導の為,江原素六,
中原徳太郎,早川千吉郎ら政財界の錚々たる大 物を含む 17 名から成る評議員会を設置し事態の
収拾を計った.
国事に奔走していた山根には苦境に手を拱いて傍観する当局や長州閥には我慢ならぬ
ものがあった. 強力な評議員会の後押しや,山県傘下の桂太郎,寺内正毅らの援助で学校は蘇った.
大正7年9月(1918) 62歳 学校騒動の後大正 7 年 4 月日本医学専門学校校長を辞し,中原徳太郎を校長に推薦する。
大正8年3月19日 63歳 衆議院議員山根正次提出東京帝国大学医科大学内ニ精神病学教室及病室新設ニ関スル
質問ニ対スル文部大臣答弁書衆議院議長ヘ送付ノ件
『衆議院議員山根正次君提出東京帝国大学医科大学内に精神病学教室及病室新設に関する質問に対する答弁書
東京帝国大学医科大学に於ては精神病学の研究に付目下巣鴨病院を使用しつゝあり
尚将来の事に関しては十分之を考慮せむとす右及答弁候也 大正8年3月19日 文部大臣中橋徳五郎
大正9年(1920) 64歳 大正9年、政界を引退後、東京駒込の特許消毒株式会社社長となった。
大正11年7月22日 66歳 恩給局顧問医 山根正次賞与ノ件
『山根正次賞与の件 一金五百円
山根正次は明治四十一年以来十五カ年間、恩給局顧問として格別奨励為、
今回仝嘱託を解除せらるるに付き前記の金額を賞与する。
大正11年7月22日 66歳 文官高等懲戒委員会顧問医 山根正次手当給与ノ件
山根正次 金百円
大正14年8月4日(1925) 69歳 大正14年8月4日脳卒中で没、69歳
【墓】萩市前小畑 東京都港区(青山霊園)
現住所 東京府下豊多摩郡落合村字下落丸山三五五 (目白停車場付近)
大正14年9月1日(1925) 叙勲 正五位勲三等特旨
大正15年(1926) 小此木,中原らの新体制のもとに
悲願の大学昇格を果たす が山根はこれを見届ける事なく大正 14 年 8 月 29 日他界した
大正15年2月25日 財団法人日本医科大学ニ於テ大学令ニ依リ日本医科大学ヲ設立ス【国立公文書館蔵】
『財団法人日本医科大学に於いて、大学令により日本医科大学を設立するの件
右謹んで裁可を仰ぐ
大正十五年二月二十五日 内閣総理大臣 若槻禮次郎
日本医科大学 設立要領
名称 日本医科大学
設立者 財団法人日本医科大学 代表理事 小比木 信太郎
大学代表者 大学長 中原 徳太郎
「以下長文の為略」
昭和9年 日本医学校の事務長として山根を支えていた同郷の磯部検三が
昭和 9 年,自 らが私立日本医学校の設立者であると名乗り出て実権を握り,校史が歪められて記述
されてきた. 結果的に山根は様々な社会的な業績を残しているにもかかわらず今日まで不当に過小
評価されてきた 点について明らかにする。【日医大G】
『磯部検三 【ウイキペヂア】
磯部 検蔵(いそべ けんぞう)は、日本の医師、医学者。日本医科大学の創立者。
長門国(現在の山口県)に生まれる。長谷川泰の創立した済生学舎に学び、医術開業試験に合格し医師となる。
1903年、長谷川が済生学舎の大学昇格を文部省によって拒絶されたことに憤慨し済生学舎を閉校した際、
残された学生・教員と共に翌年、日本医学校を創立する。校長には山根正次を就任させ、磯部は学監として
日本医学校の基礎を築いた。』
磯部検三の大正六年の取材記事「近代防長人物誌」(井関九郎著)には済生学舎の突然の閉校に対し
山根正次を中心として受け皿の日本医学専門学校設立に関与し、山根は校長であり磯部は部下
にしかすぎないとされる。よって上記ウイキの日本医科大学創立者とするは誤りである。
下記日本医科大学教育推進室のレポートが正鵠を得ている。【筆者注】
第 111 回 日本医史学会総会 一般演題 257 塩田広重学長と「磯部検三日記」
殿﨑 正明,唐澤 信安,志村 俊郎 日本医科大学 教育推進室 医史学教育研究会
1.はじめに 塩田広重は自らの著書『メスと鋏』(昭和 38 年,桃源社)における「略歴」中で,
「昭和 9 年 8 月日本 医科大学理事辞任同月再任」と記述している.磯部検三は「この大学の前身たる
日本医専の創立者は実 に我輩である」と昭和 9 年に名乗り出て,2 ヶ月間の激しい闘争の末,塩田は敗れた.
磯部は「日本医 学校」の創立者と拡大解釈させて今日に至る.塩田は苦しみに耐えた.日本医科大学の理事で
学長であ る塩田を退任させて即就任させた経緯について磯部日記をもとに考察する.
2.磯部検三 磯部は元々山根正次の書生で山根が警察医長時代にはその秘書を務め,山根が川上元治郎に
乞われて 日本医学校を創設した際には幹事として学校事務にあたった.
大正 5 年 5 月日本医学専門学校の文部省 指定問題で 4 百余名が総退学を決行した責任をとり,
大正 6 年 2 月に退任して 4 月から昭和 3 年 2 月ま でに 4 回衆議院選挙に出馬し何れも落選する.
その後満州に渡り昭和 8 年冬に帰国し,日本医科大学の 独裁主義者として知れ渡っていた塩田広重学長兼理事長に
不満を持つ同窓生達と結託して「この大学の 前身たる日本医専の創立者は実に我輩である」と昭和 9 年に
名乗りを上げる.その前後の経緯を「磯部 検三日記」は伝えている.
3.「磯部検三日記」 磯部日記には,昭和 9 年 5 月前後に磯部を日本医科大学の創立者として祭り上げる
密談が頻繁に磯部 宅で行われていたこと,5 月 12 日目黒雅叙園にて日本医科大学創立 30 周年を記念した
祝賀会を開催し た際に撮られた約 100 名からなる集合写真が見つかり,その上部に差出人を
「財団法人日本医科大学創 立者磯部検三」と書かれた 4 月 18 日付けの祝賀会開催案内書を読むことが出来る.
6 月 2 日には,同窓 生 30 余名を紅葉閣に集めて日本医学校創立当時の情況を語り一同感激した事,
6 月 21 日には「日本医 科大学発達史の編纂」を行う確認を行った後に,7 月 23 日大学史檄印(草稿完成)し
塩田との闘争が開 始され,いずれも塩田宅で同 24 日塩田大恚(たいい,大いに怒る),
26 日塩田を面詰極諌(面と向って 諌め),首服(罪を認める),反省を促し,悔謝させ,塩田は許しを求め,
27 日塩田慙悔(ざんかい,恥 じ悔い改め),28 日には塩田磯部宅にて日頃の不敬を陳謝し,
磯部は学校創設以来の心境と日頃の態度 を非難し,塩田は悉く認め謝り,30 日塩田大学で態度を一新させ,
闘争は終結となっていく. 塩田が磯部に敗れた原因は,明治 45 年 2 月の「専門学校設立願」,「財団法人設立願」
の筆頭署名が それぞれ磯部となっている書類による. 明治 45 年,日本医学校を日本医学専門学校とする際に
山根は朝鮮衛生顧問として日本にいなく留守 中に磯部の手で磯部を筆頭名として申請が行われ,
以後日本医科大学は日本医学校を前身とし,創立者 は磯部であると拡大解釈する誤った歴史を磯部派が定着させて行く.
4.塩田広重 塩田は浜口雄幸・鈴木貫太郎首相をはじめとする手術で有名であるが,その略歴を本学の歩みに
関連 させて述べると,明治 32 年 12 月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業,明治 34 年 4 月済生学舎講師,
大正 3 年 9 月日本医学専門学校教授,大正 7 年 4 月財団法人日本医学専門学校理事,大正 11 年 2 月
東京 帝国大学教授,大正 15 年 2 月日本医科大学理事・教授,昭和 3 年 3 月日本医科大学学長,
昭和 11 年 5 月学位審査権の取得,昭和 29 年 11 月文化功労者,昭和 35 年 2 月日本医科大学学長を
退任した日本医科 大学の歴史を生き抜いた大恩人である.
5.まとめ 日本医科大学の大学案内パンフレットには昭和 40 年代まで「本学の沿岸をたずねると,極めて古く,
明治 37 年 4 月磯部検三氏によって神田淡路町に日本医学校として創立された.」と誤った校史が書かれ
来ていた.その背景を,磯部検三日記をもとに考察した
【資料 ③】
【日本医学史総会 演題】「藩閥政治の日本医学校に与えた影響」
1)はじめに 日本医学校創立者の山根正次は今日の日本医科大学の基礎を作ったにも不拘,資料が非常に少ない.
済生学舍の突然の廃校で行き場を失った学生達の救済の為,済生学舍とも浅からぬ因縁のある
日本週報 社主の川上元治郎は長州出身で長州閥の領袖山県有朋の部下で国会議員の山根正次に懇請して
日本医学 校を創立させた.創立した学校の初代校長として 15 年も在籍したが何故かその資料が乏しいが
残され た資料を参考にその苦難の経営の跡を辿ると共に私立医学校の存続にも権勢を誇る長州閥の影が
見え隠 れする事実にも注目した.
2)渡韓以前の日本に於ける山根の活動 山根正次は安政 4 年現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の
次男として出生,明治 7 年長崎医学校に入 学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,
以来長谷川との親交が続くが同 15 年 4 月, 東大医学部を卒業,森鷗外の 1 年下にあたる.同年 12 月
長崎医学校 1 等教諭に任命され同 18 年~19 年 にかけ同地方でのコレラ大流行時には検疫委員として
活躍し流行の原因が水源にあるとして上下水道の 設置を願い出る.また同 19 年長崎での清国水兵の
暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田 顕義司法大臣に説く.同 20 年 8 月同校辞任,
司法省に出仕するが法医学研究の為渡欧,同 24 年 11 月帰 国後は内務省から警察医長,医務局長に
任命され同 35 年迄 11 年間日本及び東京市の医事衛生に尽力し た.同 35 年 8 月山口県から
衆議院選に出馬,以後 6 回も当選している.性格は温厚篤実,恭謙で礼譲を 尚び清廉かつ郷党後進の
指導に懇切であったと伝えられている.
3)日本医学校長兼任の「韓国衛生事務顧問」 国会議員でもあり多忙を極める山根に無理を承知で
学校の設立経営を懇願した川上であったが済生学 舍廃校の経緯を熟知していただけに長州派の協力
がなければ基盤の脆弱な日本医学校の創立は無理とみ てその篤実な性格や長州閥を背景に
その政治的手腕に期待したものと推察する.山根を補佐すべく 15 才年下の元書生,長州人の
磯部検三が幹事(事務長役)に起用される.かくて同 37 年 4 月に「私立日 本医学校」は開校した.
当時韓国では日本の強引な干渉の為不穏な情勢が続いていたが同 42 年 10 月 26 日初代総監
伊藤博文はハルピン駅で韓国人安重根に射殺され,同 43 年 8 月 29 日遂に日本は韓国を併合 し
総督府を設置した.同 43 年 4 月山根は現職の儘「韓国衛生事務顧問」として赴任し以後 5 年も
滞在す る.韓国での山根は各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
助産婦の養成等医 学教育の振興をはかり,衛生施設の改善,また同 44 年満州でのペスト大流行に
際しては北里柴三郎ら と協力して朝鮮侵入阻止等大きな功績をあげている.
4)日本医学専門学校の異変 山根は大正 4 年 1 月韓国衛生顧問を辞任しているのでその頃帰国した
ものと思われる.設立時いずれ 指定医学専門学校に昇格し卒業すればそのまま医師になれる筈で
入学してきた学生はそれが実現不能と 知って憤激し山根磯部らの不信を詰って大正 5 年 5 月 16 日
遂に総退学を決行した.(約 450 名)事態を 重く見た文部省は同年 8 月に再建指導の為,江原素六,
中原徳太郎,早川千吉郎ら政財界の錚々たる大 物を含む 17 名から成る評議員会を設置し事態の
計った.
5)おわりに 国事に奔走していた山根には苦境に手を拱いて傍観する当局や長州閥には我慢ならぬ
ものがあった. 強力な評議員会の後押しや,山県傘下の桂太郎,寺内正毅らの援助で学校は蘇った.
慧眼な川上元治郎 の読みは当ったといえよう.大正 15 年には小此木,中原らの新体制のもとに
悲願の大学昇格を果たす が山根はこれを見届ける事なく大正 14 年 8 月 29 日他界した.
行年 69 才であった
【日本医学史総会 演題】
山根正次(以下山根)は安政 4 年 12 月 23 日現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の次男として出生,
明治 7 年長崎医学校に入学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,同 15 年 4 月,
東 大医学部を卒業,同年 12 月長崎医学校 1 等教諭に任命され,同 18 年~ 19 年にかけての同地方
でのコレ ラ大流行時には検疫委員として活躍し,流行の原因が水源にあるとして上下水道の設置を願い
出る.ま た同 19 年長崎での清国水兵の暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田顕義司法
大臣に説く. 同 20 年 8 月長崎医学校を辞任し司法省に出仕するが法医学・衛生学研究の為渡欧,
同 24 年 11 月帰国 後は明治 29 年内務省から警察医長,医務局長に任命され,同 35 年迄 11 年間
日本及び東京市の医事衛 生に尽力した.同 35 年 8 月山口県から衆議院議員となり政治家として活躍
し,以後 6 回当選している. 性格は温厚篤実,清廉かつ郷党後進の指導に懇切であったと伝えられて
いる.後に日本医学専門学校の 学校騒動時校是「克己殉公」の制定を行って学校の再建を行い,
日本医科大学の初代学長,第 3 代学長 となる中原徳太郎および塩田広重の学生時代に山根は保証人
となっている. 日本医学校創立者である山根は今日の日本医科大学の基礎を作った.済生学舍の廃校
で行き場を失っ た学生達の救済の為,済生学舍と縁のある日本医事週報社主の川上元治郎は長州閥
の山県有朋の部下で 国会議員である山根に懇請して明治 37 年 4 月に日本医学校を創立させ,
山根は初代校長として 15 年も 在籍した.明治 43 年 3 月 31 日同郷の二代目韓国総督の曽称荒助の
懇願により,総督府衛生顧問につき, 各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
助産婦の養成等医学教育の振興をは かり,衛生施設の改善に尽くし,また同 44 年 3 月満州でのペスト
大流行に際しては北里柴三郎らと協 力して朝鮮半島侵入阻止等大きな功績をあげ,日本医学校長との
兼任生活は大正 2 年 4 月まで 5 年間続 いた. 衆議院議員としては明治 36 年「慢性及急性伝染病
予防ニ関スル質問書」や明治 38 年ハンセン病の予 防を一般法の中に含める「伝染病予防法中改正
法律案」,明治 39 年「癩予防法案」等を提出し,明治 40 年の法律第 11 号「癩予防ニ関スル法律」に
繋げ,その後の同法律改正に影響を与えた大正 5 年に設立 された内務省保健衛生調査会第 4 部会
の主査も務めている. 山根は学校騒動の後大正 7 年 4 月日本医学専門学校校長を辞し,中原徳太郎
を校長に推薦する.大正 9 年衆議院議員選挙に落選し,東京府駒込の「特許消毒株式会社」の社長を
務め,大正 14 年脳卒中に罹 り,8月29日永眠する.その際,新聞に追悼記事は一切書かれていない.
山根は,政治家,医学校長,朝鮮総督府の衛生顧問として多くの役割を果したために日本医学校校長
から日本医学専門学校校長時代に学校経営が疎かになり,日本医科大学の校史には山根についての
記述 が僅かにしか存在しない.日本医学校の事務長として山根を支えていた同郷の磯部検三が
昭和 9 年,自 らが私立日本医学校の設立者であると名乗り出て実権を握り,校史が歪められて記述
されてきた. 結果的に山根は様々な社会的な業績を残しているにもかかわらず今日まで不当に過小
評価されてきた 点について明らかにする。
【参考】
山根正次 著書(一部)
国立国会図書館蔵 婦人の生活 山根正次, 明34.11
国立国会図書館蔵 要説歯科材料学 第4版 山根正次,平沢忠訳 医歯薬出版, 1973
国立国会図書館蔵 旦堂遺稿 山根正次, 明30.6
国立国会図書館蔵 裁判的及警察的医事ニ就テ 山根正次, 明25
国立国会図書館蔵 実用検毒学1.2 誠之堂, 明27.4
国立国会図書館蔵 改正伝染病予防法論 : 日独比較 清水書店, 明39.6
国立国会図書館蔵 乃木大将言行録 : 通俗講話 山根正次著 文光堂書店, 大正4
国立国会図書館蔵 改良服図説 3版 山根正次著 伴鶴堂明治36.3
国立国会図書館蔵 梅毒蔓延論 洲崎遊廓事務所, 明27.4
国立国会図書館蔵 処方及製剤類集 : 三医科大学各府県病院 同済号書房, 明42.4
須子太一 編, 山根正次 閲
国立国会図書館蔵 医権論 オツペンハイム 著, 山根正次 訳 志村薬局, 明26.6
国立国会図書館蔵 虎列剌病汎論 山根正次 著, 長谷川泰 閲 英蘭堂, 明20.9
国立国会図書館蔵 改良服図説 山根正次 述, 磯部検三 記 伴鶴堂, 明35.1
国立国会図書館蔵 法医学会雑誌 (106~110号) 法医学会, 1894-03
国立国会図書館蔵 弥生会医務月報 (1~15号) 弥生会, 1892-04
国立国会図書館蔵 衛生新報 (11) (39) 衛生新報社, 1905-05
国立国会図書館蔵 経済時報 (10月號)(94)「朝鮮の衞生狀態 / 山根正次 / p20~21 」 経済時報社, 1910-10
国立国会図書館蔵 経済時報 (60)衛生飮料 ヱレート水と松村祥一郞氏――(代議士山根正次氏 経済時報社, 1907-09
国立国会図書館蔵 日本花柳病予防会報告「花柳病予防予防の方法如何・山根正次君」 日本花柳病予防会, 明38.8
国立国会図書館蔵 虎列剌病予防講話「伝染病流行と公徳・警視庁警察医長医学士・山根正次」 菅源次郎, 明35.10
国立国会図書館蔵 国家医学 (3)「屍塲設陳立の必要を論ず / 山根正次」 国家医学社, 1892-07
国立国会図書館蔵 国家医学 (2))「裁判醫私議 / 山根正次」 国家医学社, 1892-06
国立国会図書館蔵 衛生談話 (21))「日本に於ける火葬に就て 山根正次」 日本通俗衛生会, 1902-09
国立国会図書館蔵 産科婦雑誌 (71) 「韓國衛生と產科婦の關係 / 山根正次」 日本産科婦協会, 1905-11
国立国会図書館蔵 育児と衛生「水道の水と井戸の水 山根正次氏談 」 民友社, 明36.4
国立国会図書館蔵 済生学舎医事新報 (57)「痲疹ニ就テ / 山根正次」 済生学舎医事新報社, 1897-09
「病豫防接種法ニ就テ / 北里柴三郞 」
国立国会図書館蔵 済生学舎医事新報 (60) 「天然痘豫防槪况 / 山根正次」 済生学舎医事新報社, 1897-12
国立国会図書館蔵 日本学校衛生 2(7) 「結核死亡率と體育 / 山根正次」 大日本学校衛生協会, 1914-07
国立国会図書館蔵 成功 12(3)第5周年紀念臨時增刊 「余の特性養成徑路/山根正次 」 成功雜誌社, 1907-09
国立国会図書館蔵 成功 10(6)新年臨時增刊「予の實驗せる處世法/山根正次」 成功雜誌社, 1907-01
国立国会図書館蔵 成功 10(1)秋季臨時增刊 「働け働け働け、慈母の敎訓。/山根正次 」 成功雜誌社, 1906-09
国立国会図書館蔵 成功 5(6)「醫學は獨學し得べき乎/山根正次 」 成功雜誌社, 1904-12
国立国会図書館蔵 日本花柳病予防会報告「花柳病予防の方法如何 衆議院議員 山根正次君 」 日本花柳病予防会, 明38.8
国立国会図書館蔵 一大帝国 1(臨時増刊)「私娼撲滅は多年の宿望也 / 山根正次」 一大帝国社, 1916-07
【資料 ⑤】
山根正次評傳
国立国会図書館蔵 萩の生んだ近代日本の医政家山根正次
国立国会図書館蔵 私立日本医学校設立者・山根正次の医学教育の失敗 日本医史学会, 2005-06-20
殿崎正明, 唐沢信安, 岩崎一
国立国会図書館蔵 藩閥政治の日本医学校に与えた影響 : 日本医史学会, 2009-06-20
日本医学校創立者山根正次校長と苦難の学校経営
岩﨑一, 唐澤信安, 殿﨑正明
国立国会図書館蔵 伯林1900 : 玉井喜作・R.ヒレル・山根正次ほか : ベルリン人物交差点 吹田 : 大阪学院大学通信教育部
郡司 健
国立国会図書館蔵 日本医事新報 (1659)「山根正次略傳 」 日本医事新報社, 1956-02
国立国会図書館蔵 醫海時報 (1622)「山根正次先生逝く」 醫海時報社, 1925-09-05
国立国会図書館蔵 日本の精神医療史 : 明治から昭和初期まで 青弓社, 2012.1
朝鮮半島初の精神科病棟―大邱、ソウル//117済生院//117山根正次
国立国会図書館蔵 現代百家名流奇談 「山根正次 」 実業之日本社, 明36.9
国立国会図書館蔵 明治医家列伝 第4編「山根正次先生之伝」 近藤修之助, 明25-27
国立国会図書館蔵 伊藤博文文書 第92巻会計検査院事務章程/ 恩給局審査医員事務規程私議草案 ゆまに書房, 2013.11
内閣恩給局医務審査嘱託 山根正次
国立国会図書館蔵 写真集明治大正昭和萩 : ふるさとの想い出237 国書刊行会, 1982.3
「萩独逸寮生徒 旧師ヒレルを訪問した山根正次」
国立国会図書館蔵 桂太郎発書翰集「大正(2)年8月30日//43393 山根正次宛て」 東京大学出版会, 2011.1
増補 近世防長人名辞典(吉田祥朔著) マツノ書店
近代防長人物誌(井関九郎著) マツノ書店
山口県史、萩市史、山口市史 他多数の郷土史書