これも防長医家 重宗家 山根家 秋本家の中の関係者で長州藩の医師伊達道伯(道延)の息、
小田村信之進について語りましょう。
小田村信之進
名を敬一に惜行と云、長藩の医師伊達道延の長男となるがその家業を継ぐことを嫌い、同藩
小田村何某の養子となる。この人身の丈すぐれて高く、力量あり、しかもその性僕直にして
読書を好み、剣道の達人たり、文久三年の夏、藩主攘夷の勅諚をかしこみ、赤間が関に漕寄
せたる異船を討つ、時に信之進は明倫館中に物学びしてありけるが、概然として案を拍ち、
かねて文武両道を修行せしは、今日の為なりといひ、その筋に上書して兵隊に加えられん事
を請いけるに、速やかに聞き届られ、すなわちかしこに馳せ作き、必死となりて相戦う、
かかる折しも、都より七卿防州三田尻に下向あり、信之進等命を受けて、その旅館を護衛せ
り、されど先に奇兵が禁闕守衛の任をとかれし事を憤り、遂に十が月の始めころ、川上弥一
郎等八人と、血をすすりて盟約し、沢宣嘉に附従い、三田尻より但馬に赴き兵を挙げしに
討手の勢に攻め立てられ、妙見山に分け登り、臂を攘げ歯をくいしばり喉に刃を貫てうせぬ。
實に十四日のこととかや、年二十六と聞ゆ、後、沢宣嘉帰京の折、こがね若干を其の家に
つかわしたりなん。
明治三十五年十一月八日、特旨を以て従五位を贈らる。
源三注 (小田村信之進の親族でもある周防大島町屋代の高城 俊氏所蔵の系図には
父伊藤道延を伊藤道伯と記述せり、また「防長人物百年史」は道延長男と
しているが、同家所蔵の系図には次男とあり、長男は静造と云い、
大楽源太郎殺害容疑で家督を継げず別家内海家を建てるとある。
長門忌宮宮司・古曽原に漢学塾開塾とも。子は内海幸太郎氏
明治維新直前の但馬生野事件として有名である、主、沢宣嘉氏については
別頁を設ける予定です。明治維新の記録となります。)
御役に立てて何よりです。
(伊藤道伯)は、竹屋道伯と同じ人物でしょうか。
確認したわけではありませんが多分同じでしょう。