山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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平郡島 浅海家菩提寺 並 氏社

2022年07月24日 09時24分59秒 | 大島郡平郡島浅海家
河野姓が伊予國風早郡浅海に住居した時から、河野姓を浅海姓としたとされます。

この当事者は
河野(浅海)能長(浅海兵庫 居於風早郡浅海村因以浅海為称号)

【11世紀末】

とされます。この人は鎌倉時代初期の源実朝の陪臣とされます。

この浅海家から更に河野難波家、能美島の越智山野井家に分家します。

平郡島に移住してきたのは、

浅海能信(後深草御宇有故周防国平郡島滞在中勧請宇佐八幡宮永為鎮守行祭典)

とされます。後深草の時代としますので(1246~1259年)の間とされます。

平郡島の浅海家菩提寺は「防長寺社由来」によると

大島郡平郡島西浦、禅宗 平見山海蔵院 とされます。

この寺の親寺は大島郡屋代村大竜寺(現周防大島町屋代 龍心寺)で大竜寺は
全盛期の村上海賊の総帥、村上武吉の惣領家の菩提寺です。
また、元禄十六年に大修理をしています。
この時の施主は浅海九郎兵衛と記録されます。



又、氏社は宇佐八幡宮を分祀した重通八幡宮です。


海蔵院の弘法大師写しの裏に

 明応九年(1500)卯月二十四日

   越智氏家門浅海通家武運長久祈願

 とありますので浅海通家の祈願ですね。

氏社の大願主は越智浅海大炊助重通とされ寛正四年(1463)の棟札が残っています。

菩提寺、氏社とも後世、代々、越智浅海家が修理保全を行っています。

浅海の発音は

2022年07月24日 09時23分22秒 | 大島郡平郡島浅海家
浅海は本来は伊予の地名浅海(あさみ)からきていますが、時代とともに浅海(あさうみ)や更に転化し
浅海(あさなみ)と呼ばれる人たちが生まれます。

浅海(あさみ)の人たちが集団で伊予から移住したのは大島郡平郡島(現柳井市)です。
同じく平郡に住みついた、鈴木一族と平郡を東と西とに分割して住んでいました。
毛利家の所領になる前の大内の時代までは海民(海賊兼半農半漁)で生活をしていました。
関ヶ原の戦いの敗戦で毛利家は防長二州に押し込められます。
それ以前の秀吉の「海賊禁止令」もあり海賊として生きて行くのは困難になりました。

平郡島は大島宰判の管轄となりましたので久賀の代官所の支配下となります。
鈴木一党も浅海一党も海民ですから、平郡住民を百の家に分け三田尻御船手組専属の船子(かこ)と
なります。後に百二十五家に増加します。
平郡島全体の給与はこの百二十五家が平等に分配する仕組みとなります。
これを「平郡船子給」と言い、長男は島に残り、次男以下は三田尻の御船手組本部に出仕します。
平郡の人の皆が皆、御船手組になったわけではありません。
商都柳井に出て、商売で成功した浅海の人たちもいます。
「浅海屋利右衛門」家などがそうです。

柳井(楊井)は毛利藩ではなく吉川家の岩国藩の版図となりますので、慶長六年(1601)年
藩主吉川広家が京都から岩国に移って来ます。
この時、すでに柳井は商都として繁栄をしており、広家は驚いて

「くぼ くぼた おかだ かめおか あさのうみ さかた あきもと しらがね の つじ」と

狂歌をよみました。これは当時柳井の大金持ちの商人を羅列したものです。実名は

「久甫 久保田 岡田 亀岡 浅海 坂田 秋本 白銀 の 辻」の九家を指します。

この時、浅海(あさみ)を詠む都合上、浅海(あさのうみ)としました。これにより浅海(あさうみ)
が出来、後に浅海(あさなみ)と転化した家があるようです。


尚、浅海氏は平郡島、三田尻(防府)、玖珂郡、大島郡に繁茂します。
明治以降、全国に散らばります。

四境の戦いの大島口の戦いでは三田尻御船手組頭の村上亀之助(兼助・惟庸)隊の二番小隊に

斥候 浅海 謙助 指令 浅海 務が記録されます。

大島宰判 上関宰判の船子(かこ)はすべて村上亀之助の配下です。

船子(かこ)と雖も、士分ですので、明治4年の壬申戸籍編成時は「士(さむらい)」として届けでますから
大島郡では平郡地区が飛び抜けて「士族」が多い所以です。

現在の地元の浅海の人たち

2022年07月24日 09時22分13秒 | 大島郡平郡島浅海家
平郡の人たちは高校は遠く柳井まで行きますので、下宿する人たちも多かった
ですね。
柳井高校で現在までで嫁入りも含め、卒業生は70人を超えます。
他の、柳井商業高校、柳井工業高校、柳井学園高校まで含めますと
ゆうに300名近くになりますので、周東地区では一大グループです。
伊予越智一族の末裔で壬申戸籍上は士族とされる名門グループです。

唯、山口県全体が過疎化が進み、地元の歴史を知る人は段々少なくなります。

平郡の過疎化も著しいものです。限界集落ギリギリです。

大島郡平郡島浅海家

2022年07月24日 09時20分41秒 | 大島郡平郡島浅海家
平郡の浅海家が近頃話題になりましたので「平郡の浅海家」スレッドを立てます。
関係者はこちらに投稿してください。

「喫茶室ゆづき」過去ログ

以前山口県平郡島(現柳井市・元大島郡【現周防大島町】)の越智姓浅海氏の後裔の方が登場されて
先祖探しをされていましたが、最近ようやく「屋代島浅海系図」を見つけましたので一部紹介し
先祖探しの一助とさせて頂きたいと思います。
原本は浅海家から出てますから信憑性は他本より高いと思われます。
ただし神代のことは分りません。

【越智姓浅海世系】

【始祖】饒速日命→宇摩志摩治命→彦湯支命→出石心命→大矢口命→大綜麻杵命→伊香色碓命

 →大新可命→大小市命→天狭貫→天狭介→粟鹿→三并→熊武→伊但島→喜多守→高縄→高箕

 →高埜(野)→三回田→阿次→阿命→伍買香→勝海→久米麻呂百里→百男→益躬→武男→諸飽

 →萬躬→守興(天智天皇御宇遣新羅三年再帰朝)

 →玉興(元正天皇霊亀二年丙辰拠勅建三嶋社)

 →玉澄(宇摩大領 實玉興弟居予州河野邑 聖武天皇神亀五年戌辰奉勅建立安養寺 今石手寺是也)

 →益男(周敷郡司)→實勝(西条御館)→深躬(桑石御館)→息村(桑村御館)

 →息利(伊予押領使)→息方(伊予大目 大井御館)→好方(伊予権守・朱雀天皇天慶二年応命討純  友)

 →好峯(野方押領使)→安国(風早押領使)→安躬(喜多郡使)→安興(温泉郡司)

 →安家(久米権介)→安時(伊予大掾)→為世(伊予権守 浮穴御館)

 →為時(浮穴四郎大夫 伊予権守)→時高(浮穴新太夫 浮穴御館)

 →為綱(伊予権介 風早押領使)→親孝(二郎 北条御館 伊予押領使)

 →親経→盛孝(遠居三郎瀧口)→親宗(四郎)→親遠(五郎)

 →能長(浅海兵庫 居於風早郡浅海村因以浅海為称号)

 →盛長(左衛門)

 →頼季(元久二年将軍実朝附頼季属源氏以下三十二人家人於河野通信公 以来属河野家為旗頭)

 →能信(後深草御宇有故周防国平郡島滞在中勧請宇佐八幡宮永為鎮守行祭典)

 →長清(三郎)→信秀(小太郎)→頼信(孫太郎)

 →通頼(四郎 弘安四年蒙古冠西海時従河野對馬守通有撃之)

 →政能(五郎 沙弥 浄空 以下長文のため略)

 →通政(従父政能来於平郡島子孫平郡島住居 貞治年中軍功有 河野通尭賜通字 傳干子孫用之)

 以下名のみで略す(呑舟)

 →通勝→通雄→重通→通世→通家→通忠→通高→通完→通安→通弘→通国→通桂→通峯→通久→通保

 →通有→通作→通栄

 以上

 本系図は通安の嫡子通明の兄通弘から五代目の浅海儀三郎通春は安永5年(1776)前後に
 書かれたものと思われる。

 ここでも越智始祖は饒速日命と認識されており、孝霊天皇はでてこない。

 「予章記」や「予陽河野家譜」に現れる人物は錯綜する。

 さりながら親孝 親経は出てくるが分りにくい表現がされている。

 頼季(元久二年将軍実朝附頼季属源氏以下三十二人家人於河野通信公 以来属河野家為旗頭)

 は上蔵院予章記と合致します。

 通政(従父政能来於平郡島子孫平郡島住居 貞治年中軍功有 河野通尭賜通字 傳干子孫用之)

 この表現からすると浅海氏は越智姓ではあるが河野一族ではなく河野家に属して軍功によって

 初めて河野通尭から通字「通」が契約されたことが分る。

 後世の人が浅海氏を河野一族と勘違いする遠因と思われる。

 同様なことが河野家重臣平岡家でも発生している。

 ほかにも散見されるので整理が必要かもしれませんね。

 浅海後裔の方見てますかね?