【福岡県史】近世史料編 福岡藩初期(上) 昭和58年は
福岡藩士大野氏について下記のように述べている。
これは主に次男久也についての記述であり、三男吉乗家
については触れていない。編者は三男家は別家と思った
いるのかも知れない。三兄弟の中で最大の千石を賜る家
なのであるが・・・。
ただ、六通の書簡は一次史料として貴重である。
長男家と三男家にも残っている筈なのだが。(呑舟)
【大野家文書】 (大野家譜) 福岡県文化会館蔵
大野家の本貫は伊予国大野であり、初めは村上姓を
名乗っていたと云う。天正十三年、大野近辺が安国寺恵瓊
領となったのを機に恵瓊に従属し、天正十五年恵瓊が伊予
より筑前国鞍手郡の内に転封された際、大野直吉もまた移住
したと云う。その嫡子大野直生の代、文禄四年に小早川秀秋
が隆景の跡を襲ったとき、直生兄弟は豊前中津に至り、黒田
孝高に仕え、黒田氏の筑前入国に伴い御牧郡則松村に
移住している。そして慶長五年、大友義統の侍大将、小田原
鑑信とその家人を討ち捕えた功により五百石宛行われたの
が本書に収めた史料である。
なお本書には,筑女蔵「黒田御用記」より大野久平所持分
五点を収録しているが、その宛名人大野直成は直生の弟
であって、牢人以後禅門の姿になって豊前に赴き、黒田
孝高の連歌の相手となり、また慶長五年の豊後の陣でも
高名を立てて、黒田長政より七百石宛行されたと云う。
(松下)
【大野家文書】 (筑女蔵 「黒田御用記」大野久平分
『251』
黒田如水書状写
以上
珎敷うこき壱盆到来、祝着候、今程暖気成候由、
可加養生候、又十九日ニ被越候て、点取連歌遊行
左候て廿日之連歌ニ出座尤候、猶(小寺)宗有可申候、
恐惶謹言 二月十五日
如水 御書判 休也(大野直成)
『252』
黒田如水書状写
猶々、廿三日ニハ早々待申候、 已上
熊申候、来廿四日ニなたの休閑殿ニ連歌被成興行候間、
廿三日ハ此方ヘ可被越候、左様候ハハ大龍寺馬ニのり
候て可被越候、馬をも見可申候間、此状をけん坂殿へ
相届、見せ可被越候、又一昨(順カ)仕候て可越候、
為其申候、 恐惶謹言
卯月二十日 円清(黒田如水) 御書判
休也 まいる
『253』
黒田如水書状写
已上
珎敷鯉壱組被指越、祝着申候、
此中普請ニ情被入候通尤ニ候、当年知行なと悪敷候ハん間、
不如意之儀候ハハ可申越候、如在有間敷候
恐惶謹言 十月十四日 如水 御書判
大野休也(直成) まいる
『254』
黒田如水書状写
以上
就火事、為見廻、使幷樽壱ツ被差越、祝着候
則賞翫候、昨之由一段出来候、其元仕合能由尤候
弥商売無油断肝要候、 恐惶謹言
極月十六日 如水 御黒印
久也老
『255』
黒田如水判物写
以上
煩為見廻、一人指上せ、幷知行之初穂・南蛮餅・白米参斗到来、
祝着ニ候、気色之儀弥本復候間、不可有機(気)遣候、
猶下国之節可申候也
十二月廿九日 如水 御書判
大野久大夫(直成)殿
右大野久也(後久大夫と改)大野久平ゟ六代前の祖ニテ
御座候、
『1573』
黒田長政知行宛行状写
去年於豊後立石表、致粉骨之忠節候条神妙也、
仍為動功之賞、井上九郎右衛門(之房)内を以、
五百石之地宛行异 全可令領知者也
慶長六年 十一月十一日
長政 御判
大野勘右衛門(直生)とのへ
福岡藩士大野氏について下記のように述べている。
これは主に次男久也についての記述であり、三男吉乗家
については触れていない。編者は三男家は別家と思った
いるのかも知れない。三兄弟の中で最大の千石を賜る家
なのであるが・・・。
ただ、六通の書簡は一次史料として貴重である。
長男家と三男家にも残っている筈なのだが。(呑舟)
【大野家文書】 (大野家譜) 福岡県文化会館蔵
大野家の本貫は伊予国大野であり、初めは村上姓を
名乗っていたと云う。天正十三年、大野近辺が安国寺恵瓊
領となったのを機に恵瓊に従属し、天正十五年恵瓊が伊予
より筑前国鞍手郡の内に転封された際、大野直吉もまた移住
したと云う。その嫡子大野直生の代、文禄四年に小早川秀秋
が隆景の跡を襲ったとき、直生兄弟は豊前中津に至り、黒田
孝高に仕え、黒田氏の筑前入国に伴い御牧郡則松村に
移住している。そして慶長五年、大友義統の侍大将、小田原
鑑信とその家人を討ち捕えた功により五百石宛行われたの
が本書に収めた史料である。
なお本書には,筑女蔵「黒田御用記」より大野久平所持分
五点を収録しているが、その宛名人大野直成は直生の弟
であって、牢人以後禅門の姿になって豊前に赴き、黒田
孝高の連歌の相手となり、また慶長五年の豊後の陣でも
高名を立てて、黒田長政より七百石宛行されたと云う。
(松下)
【大野家文書】 (筑女蔵 「黒田御用記」大野久平分
『251』
黒田如水書状写
以上
珎敷うこき壱盆到来、祝着候、今程暖気成候由、
可加養生候、又十九日ニ被越候て、点取連歌遊行
左候て廿日之連歌ニ出座尤候、猶(小寺)宗有可申候、
恐惶謹言 二月十五日
如水 御書判 休也(大野直成)
『252』
黒田如水書状写
猶々、廿三日ニハ早々待申候、 已上
熊申候、来廿四日ニなたの休閑殿ニ連歌被成興行候間、
廿三日ハ此方ヘ可被越候、左様候ハハ大龍寺馬ニのり
候て可被越候、馬をも見可申候間、此状をけん坂殿へ
相届、見せ可被越候、又一昨(順カ)仕候て可越候、
為其申候、 恐惶謹言
卯月二十日 円清(黒田如水) 御書判
休也 まいる
『253』
黒田如水書状写
已上
珎敷鯉壱組被指越、祝着申候、
此中普請ニ情被入候通尤ニ候、当年知行なと悪敷候ハん間、
不如意之儀候ハハ可申越候、如在有間敷候
恐惶謹言 十月十四日 如水 御書判
大野休也(直成) まいる
『254』
黒田如水書状写
以上
就火事、為見廻、使幷樽壱ツ被差越、祝着候
則賞翫候、昨之由一段出来候、其元仕合能由尤候
弥商売無油断肝要候、 恐惶謹言
極月十六日 如水 御黒印
久也老
『255』
黒田如水判物写
以上
煩為見廻、一人指上せ、幷知行之初穂・南蛮餅・白米参斗到来、
祝着ニ候、気色之儀弥本復候間、不可有機(気)遣候、
猶下国之節可申候也
十二月廿九日 如水 御書判
大野久大夫(直成)殿
右大野久也(後久大夫と改)大野久平ゟ六代前の祖ニテ
御座候、
『1573』
黒田長政知行宛行状写
去年於豊後立石表、致粉骨之忠節候条神妙也、
仍為動功之賞、井上九郎右衛門(之房)内を以、
五百石之地宛行异 全可令領知者也
慶長六年 十一月十一日
長政 御判
大野勘右衛門(直生)とのへ