沖家室島出稼漁業 台湾漁業
朝鮮海に於ける漁業上の調査研究が進むと共に各府県競って出漁を奨励し、為に著しく
出漁宣数が増加し、従って漁獲高を激増するに至り果たしてその総数総量に於いて増加す
れども、一艘分に対する収穫は昔日の如くならず漸減の傾を呈し、是まで多額の収入に
甘んじたる漁業者は新漁場の発見に力むる折柄、明治二十八年戦役の結果、台湾が我が領有
に帰したるにより己に漁場遠きに求むるの利益を知れる漁業者にして試みに出漁する者あり。
その漁況宜しく成績謙著なるを見てこれまで朝鮮海に出漁せるもの、或いは初めて郡外の
漁業に従事せんと欲するものも一艘二三人乃至三四人乗り組み基隆を根拠として漁業を
営むに至り、同四十三年に至り初めて石油発動機付漁船を新造して漁業する者を出し
大いに成績を挙げたるを以て之に倣うて従来の漁船に代る石油発動機付漁船を以てするに
至り更に進んで打狗を根拠としてその沿海並びに膨湖島に出漁する者を出し魚況極めて
良好なるにより普通船はいづれも根拠地付近に於いて漁業すれども、発動機付漁船は、
或る期間は基隆を根拠とし、或る期間は打狗を根拠として漁業をして、今や本組合員のみ
ならず、本郡営業者は台湾漁業開発に注目するに至れり。現在に於いて基隆を根拠とする
漁船十艘(一艘平均五人乗り組)、打狗を根拠とする漁船十五艘(一艘平均五人乗組)
内石油発動機船六艘(一艘平均七人乗組)にして漁業場所は基隆、打狗、膨湖島沿海並び
に東方面約十里の沖合、せんかく(尖閣)列島及び南沿岸カショー島、コウショー島、
基隆の北方四十浬、カビン島、綿花島、膨佳島、基隆の東南二十浬(カイリ)の沖合及び
打狗の西南、鳶鑾鼻、七星岩にして漁業種類、漁業時期等左の如し。
漁業種類 漁獲物 時期 数量 価格
鰆一本釣 サワラ 自九月上旬至翌年三月下旬 1万貫 20000円
鰹一本釣 カツオ 自四月上旬至八月下旬 4000円
鰤一本釣 ブリ 自十月上旬至十二月下旬 5000円
𩺊一本釣 アラ 自四月上旬至十二月上旬 五千貫 5000円
鱶延縄 フカ 自四月上旬至六月下旬 15000円
鮪延縄 シビ(マグロ) 自四月上旬至九月下旬 15000円
羽魚延縄 ハウヲ 自九月上旬至翌年三月下旬 四千八百貫 6000円
鯛(一本・延縄) タイ 一本釣り 周年
延縄・自三月上旬至五月下旬 六千貫 15000円
鯵一本釣 アジ 自十一月上旬至翌年二月下旬 15000円
明治三十九年 大島郡沖家室島 馬関組 共同勤検貯金組合員
山田 松蔵
山田 弥助
大久保 金次郎
柳沢 勘次郎
古釜 政助
大久保 重助
山田 繁松
磯部 虎吉
松原 庄太郎
小野原 仙松
・・・・・・・・
(注)
上記は大正12年に大島郡役所が編纂した資料であるが、当時の沖家室の漁業者は尖閣諸島を台湾の譲受により
あらたな漁場としたと認識しています。これは現在の台湾当局の見解と同じになり、台湾は中華人民共和国の一部で
あるから、尖閣諸島は中国領土であるとの主張と矛盾しません。日本政府は尖閣諸島領有を宣言する時、いづれの国か
らも異議申し立ては無かったので領土宣言をして国際法上の手続きの上、領有したと説明します。
確かに、中国が領有を主張し始めたのは尖閣諸島近海に地下資源(石油・ガス等)の発見があってからで、日本の
領有後ですね。沖家室の出稼ぎ漁民は尖閣まで漁に行ってますので当時は島に日本人が住んでいました。
沖家室島はとても小さな島ですから農業で生計が立てられませんので、漁業に生活の糧を求めましたが端浦ですので
大島郡沿岸の漁は制限があり、しかも今治、松山ら伊予から入漁者が来漁しましたので、出稼ぎ漁業として九州沿岸
そして朝鮮沿岸、そして台湾譲渡により台湾沿岸まで出稼ぎ漁業が広がりました。
ハワイへのサトウキビ畑への官約出稼ぎが始まると沖家室を含む多くの大島郡人がハワイに渡ります。
三年の年季の明けた沖家室で漁業の覚えのある人たちはホノルルを中心にハワイ沿岸漁業を始め、マーケットの拡充
為、魚市場を開場し、日本式のセリ売買を確立してハワイ州の魚市場を拡充していきました。
大谷松次郎氏はその貢献者の一人となります。
言葉の分からない、気候も習慣も違うところへ平気で出て行くのは当時は領土拡張期でもあり国内の新天地へ
行く程度のものだったのでしょう。
第一次対戦後に日本は南太平洋の広大な地域を「信託統治領」としていましたのでハワイ程度は近い国だった
のかも知れません。
朝鮮海に於ける漁業上の調査研究が進むと共に各府県競って出漁を奨励し、為に著しく
出漁宣数が増加し、従って漁獲高を激増するに至り果たしてその総数総量に於いて増加す
れども、一艘分に対する収穫は昔日の如くならず漸減の傾を呈し、是まで多額の収入に
甘んじたる漁業者は新漁場の発見に力むる折柄、明治二十八年戦役の結果、台湾が我が領有
に帰したるにより己に漁場遠きに求むるの利益を知れる漁業者にして試みに出漁する者あり。
その漁況宜しく成績謙著なるを見てこれまで朝鮮海に出漁せるもの、或いは初めて郡外の
漁業に従事せんと欲するものも一艘二三人乃至三四人乗り組み基隆を根拠として漁業を
営むに至り、同四十三年に至り初めて石油発動機付漁船を新造して漁業する者を出し
大いに成績を挙げたるを以て之に倣うて従来の漁船に代る石油発動機付漁船を以てするに
至り更に進んで打狗を根拠としてその沿海並びに膨湖島に出漁する者を出し魚況極めて
良好なるにより普通船はいづれも根拠地付近に於いて漁業すれども、発動機付漁船は、
或る期間は基隆を根拠とし、或る期間は打狗を根拠として漁業をして、今や本組合員のみ
ならず、本郡営業者は台湾漁業開発に注目するに至れり。現在に於いて基隆を根拠とする
漁船十艘(一艘平均五人乗り組)、打狗を根拠とする漁船十五艘(一艘平均五人乗組)
内石油発動機船六艘(一艘平均七人乗組)にして漁業場所は基隆、打狗、膨湖島沿海並び
に東方面約十里の沖合、せんかく(尖閣)列島及び南沿岸カショー島、コウショー島、
基隆の北方四十浬、カビン島、綿花島、膨佳島、基隆の東南二十浬(カイリ)の沖合及び
打狗の西南、鳶鑾鼻、七星岩にして漁業種類、漁業時期等左の如し。
漁業種類 漁獲物 時期 数量 価格
鰆一本釣 サワラ 自九月上旬至翌年三月下旬 1万貫 20000円
鰹一本釣 カツオ 自四月上旬至八月下旬 4000円
鰤一本釣 ブリ 自十月上旬至十二月下旬 5000円
𩺊一本釣 アラ 自四月上旬至十二月上旬 五千貫 5000円
鱶延縄 フカ 自四月上旬至六月下旬 15000円
鮪延縄 シビ(マグロ) 自四月上旬至九月下旬 15000円
羽魚延縄 ハウヲ 自九月上旬至翌年三月下旬 四千八百貫 6000円
鯛(一本・延縄) タイ 一本釣り 周年
延縄・自三月上旬至五月下旬 六千貫 15000円
鯵一本釣 アジ 自十一月上旬至翌年二月下旬 15000円
明治三十九年 大島郡沖家室島 馬関組 共同勤検貯金組合員
山田 松蔵
山田 弥助
大久保 金次郎
柳沢 勘次郎
古釜 政助
大久保 重助
山田 繁松
磯部 虎吉
松原 庄太郎
小野原 仙松
・・・・・・・・
(注)
上記は大正12年に大島郡役所が編纂した資料であるが、当時の沖家室の漁業者は尖閣諸島を台湾の譲受により
あらたな漁場としたと認識しています。これは現在の台湾当局の見解と同じになり、台湾は中華人民共和国の一部で
あるから、尖閣諸島は中国領土であるとの主張と矛盾しません。日本政府は尖閣諸島領有を宣言する時、いづれの国か
らも異議申し立ては無かったので領土宣言をして国際法上の手続きの上、領有したと説明します。
確かに、中国が領有を主張し始めたのは尖閣諸島近海に地下資源(石油・ガス等)の発見があってからで、日本の
領有後ですね。沖家室の出稼ぎ漁民は尖閣まで漁に行ってますので当時は島に日本人が住んでいました。
沖家室島はとても小さな島ですから農業で生計が立てられませんので、漁業に生活の糧を求めましたが端浦ですので
大島郡沿岸の漁は制限があり、しかも今治、松山ら伊予から入漁者が来漁しましたので、出稼ぎ漁業として九州沿岸
そして朝鮮沿岸、そして台湾譲渡により台湾沿岸まで出稼ぎ漁業が広がりました。
ハワイへのサトウキビ畑への官約出稼ぎが始まると沖家室を含む多くの大島郡人がハワイに渡ります。
三年の年季の明けた沖家室で漁業の覚えのある人たちはホノルルを中心にハワイ沿岸漁業を始め、マーケットの拡充
為、魚市場を開場し、日本式のセリ売買を確立してハワイ州の魚市場を拡充していきました。
大谷松次郎氏はその貢献者の一人となります。
言葉の分からない、気候も習慣も違うところへ平気で出て行くのは当時は領土拡張期でもあり国内の新天地へ
行く程度のものだったのでしょう。
第一次対戦後に日本は南太平洋の広大な地域を「信託統治領」としていましたのでハワイ程度は近い国だった
のかも知れません。