山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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沖家室島出稼漁業 台湾漁業

2023年06月11日 15時30分41秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
沖家室島出稼漁業 台湾漁業

 朝鮮海に於ける漁業上の調査研究が進むと共に各府県競って出漁を奨励し、為に著しく
出漁宣数が増加し、従って漁獲高を激増するに至り果たしてその総数総量に於いて増加す
れども、一艘分に対する収穫は昔日の如くならず漸減の傾を呈し、是まで多額の収入に
甘んじたる漁業者は新漁場の発見に力むる折柄、明治二十八年戦役の結果、台湾が我が領有
に帰したるにより己に漁場遠きに求むるの利益を知れる漁業者にして試みに出漁する者あり。
その漁況宜しく成績謙著なるを見てこれまで朝鮮海に出漁せるもの、或いは初めて郡外の
漁業に従事せんと欲するものも一艘二三人乃至三四人乗り組み基隆を根拠として漁業を
営むに至り、同四十三年に至り初めて石油発動機付漁船を新造して漁業する者を出し
大いに成績を挙げたるを以て之に倣うて従来の漁船に代る石油発動機付漁船を以てするに
至り更に進んで打狗を根拠としてその沿海並びに膨湖島に出漁する者を出し魚況極めて
良好なるにより普通船はいづれも根拠地付近に於いて漁業すれども、発動機付漁船は、
或る期間は基隆を根拠とし、或る期間は打狗を根拠として漁業をして、今や本組合員のみ
ならず、本郡営業者は台湾漁業開発に注目するに至れり。現在に於いて基隆を根拠とする
漁船十艘(一艘平均五人乗り組)、打狗を根拠とする漁船十五艘(一艘平均五人乗組)
内石油発動機船六艘(一艘平均七人乗組)にして漁業場所は基隆、打狗、膨湖島沿海並び
に東方面約十里の沖合、せんかく(尖閣)列島及び南沿岸カショー島、コウショー島、
基隆の北方四十浬、カビン島、綿花島、膨佳島、基隆の東南二十浬(カイリ)の沖合及び
打狗の西南、鳶鑾鼻、七星岩にして漁業種類、漁業時期等左の如し。

漁業種類    漁獲物   時期           数量       価格

鰆一本釣   サワラ   自九月上旬至翌年三月下旬  1万貫     20000円

鰹一本釣   カツオ   自四月上旬至八月下旬             4000円

鰤一本釣   ブリ    自十月上旬至十二月下旬            5000円

𩺊一本釣   アラ    自四月上旬至十二月上旬   五千貫      5000円

鱶延縄    フカ    自四月上旬至六月下旬            15000円

鮪延縄   シビ(マグロ)  自四月上旬至九月下旬            15000円

羽魚延縄   ハウヲ   自九月上旬至翌年三月下旬  四千八百貫    6000円

鯛(一本・延縄) タイ  一本釣り 周年
             延縄・自三月上旬至五月下旬  六千貫    15000円

鯵一本釣   アジ    自十一月上旬至翌年二月下旬         15000円


  明治三十九年 大島郡沖家室島 馬関組 共同勤検貯金組合員

    山田 松蔵
    山田 弥助
    大久保 金次郎
    柳沢 勘次郎
    古釜 政助
    大久保 重助
    山田 繁松
    磯部 虎吉
    松原 庄太郎
    小野原 仙松  


・・・・・・・・

(注)
    上記は大正12年に大島郡役所が編纂した資料であるが、当時の沖家室の漁業者は尖閣諸島を台湾の譲受により
あらたな漁場としたと認識しています。これは現在の台湾当局の見解と同じになり、台湾は中華人民共和国の一部で
あるから、尖閣諸島は中国領土であるとの主張と矛盾しません。日本政府は尖閣諸島領有を宣言する時、いづれの国か
らも異議申し立ては無かったので領土宣言をして国際法上の手続きの上、領有したと説明します。
確かに、中国が領有を主張し始めたのは尖閣諸島近海に地下資源(石油・ガス等)の発見があってからで、日本の
領有後ですね。沖家室の出稼ぎ漁民は尖閣まで漁に行ってますので当時は島に日本人が住んでいました。


沖家室島はとても小さな島ですから農業で生計が立てられませんので、漁業に生活の糧を求めましたが端浦ですので
大島郡沿岸の漁は制限があり、しかも今治、松山ら伊予から入漁者が来漁しましたので、出稼ぎ漁業として九州沿岸
そして朝鮮沿岸、そして台湾譲渡により台湾沿岸まで出稼ぎ漁業が広がりました。

ハワイへのサトウキビ畑への官約出稼ぎが始まると沖家室を含む多くの大島郡人がハワイに渡ります。
三年の年季の明けた沖家室で漁業の覚えのある人たちはホノルルを中心にハワイ沿岸漁業を始め、マーケットの拡充
為、魚市場を開場し、日本式のセリ売買を確立してハワイ州の魚市場を拡充していきました。
大谷松次郎氏はその貢献者の一人となります。

言葉の分からない、気候も習慣も違うところへ平気で出て行くのは当時は領土拡張期でもあり国内の新天地へ
行く程度のものだったのでしょう。
第一次対戦後に日本は南太平洋の広大な地域を「信託統治領」としていましたのでハワイ程度は近い国だった
のかも知れません。

沖家室島出稼漁業 朝鮮漁業

2023年06月11日 07時34分15秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
沖家室島出稼漁業 朝鮮漁業

 前述の如く漁業拡張に窺々たる漁業者は内地近海を探りて遂次遠きに及ほし
明治十二年に至り、初めて今の朝鮮時の韓国沿海に出漁者を出たさるものにして
原勘次郎、仲山辰之助両人、各一艘五人乗り組み九州沿岸より対州沿海に試漁し
長崎県人この二人に告げるに朝鮮国釜山浦は本邦人の居留地にして幸に我知友も
此にありこれを縁因として朝鮮国沿海の漁業を営み捕獲の魚類は釜山にて販売す
べしと此の二人は喜び勇みて直ちに意を決し同時に不完全なる漁船を操縦して
狂亂怒涛と戦い能く百難を排して漸く釜山に着し、その近海に鯛一本釣り及び
延縄を試みて漁獲夥しいなれどその国の事情に暗く言語は不通にして漁獲物の
販路を窮し止むことを得ず総て漁獲物は塩蔵と為して伊万里に輸送し販売して
巨利を博したり、之を以て沖家室島漁業者の朝鮮海漁業の鼻祖と為す。爾来時
を遂へて出漁者を増加し漁場を拡張せり。茲に朝鮮近海通魚沖家室漁業者の規約
並びに申し合わせ事項を掲記し、また明治十七年より十ケ年毎出漁漁船人員並び

に漁獲金額を挙げてその状況を示さん。

    十ケ年毎出漁漁船数漁獲金高表

年次     船数    乗組員   漁場       漁獲物   漁獲高

明治16年   7艘    40人    釜山近海猪仇浦   鯛等    4,200円 

明治26年   35艘    21人    欲知島巨文島    仝    22,750円 

明治36年   20艘    120人   巨文島済州島欲知島  仝   21,000円

大正2年   19艘    114人    巨文島済州島     仝   13,150円 

沖家室島出稼漁業 筑前組

2022年07月20日 18時39分59秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
沖家室島出稼漁業 筑前組

 今より数十年前、何れも祖父の業を継ぎ福岡県博多を根拠として、小呂島沿海
六別當見付そね笠そね横そね等に於いて毎年通漁す、其の頃十余艘通漁船を出たし
たれとも去三十七年六月大暴風雨に遭遇して漁船を破壊し又は損傷して通漁を断念
し、又は死亡者を出たし通漁者を減少せるも是等漁船は種々の支障灘苦を経て能く
通漁を継続し其の漁業の種類は鯛、鰤、ヒラメ、アラ、鱶、イサキ等一本釣漁業
鯛延縄鯖釣柔魚釣等にて時期は毎年五月上旬より十一月下旬に至る間にして、一艘
六人乗りにして、毎年一ケ年平均壱千圓の漁獲を為し来たりたれとも彼等も亦
大正元年七月三十日福岡県関係漁業組合と左の契約を締結して基礎を鞏固にす。

   入漁協定書

 福岡県遠賀郡白鳥より糸島郡に至る間の沖合末處分漁場に於て筑豊四十六箇浦
島漁業組合と沖家室島漁業組合との間に入漁の協定を為すこと左の如し

 一、入漁区域は既許専用漁場より五海里以内とす、但し小呂島の周囲は既許専用
   漁場より二海里以外、沖の島周囲は既許専用漁業以外とす

 二、入漁の種類は鯛一本釣、及いさき一本釣の二種とす

 三、入漁の期間は毎年五月一日より七月三十一日迄の間とす

 四、入漁船数は十艘以内とす、但し双方合意の上増加することあるへし

 五、入漁料は一艘一ケ年に付金五圓とす

 六、入漁料は沖家室島漁業組合に於て取纏め入漁前に筑豊水産組合事務所に送付し
   筑豊水産組合は直に入漁旗、入漁標証を公布すること

本協定を証するため正本五通を作成し内三通は監督官庁に提出し二通は関係組合に
各一通宛保管す

     大正元年七月三十日

      山口県大島郡沖家室島漁業組合理事  柳原 甲子蔵 印

      福岡県宗像郡津屋﨑町漁業組合外
      四十五箇浦島漁業組合入漁協定委員  卜部 文蔵  印
      筑豊水産組合長

      同副組長第三支部箱崎漁業組合理事  山崎 親次郎 印

      同第一支部長脇田浦漁業組合理事   亀津 亀太郎 印

      同 第 二 支 部 長            大島 貞次郎 印

      同第四支部長唐泊浦漁業組合理事   原田 種美  印

      同第一支部委員山鹿浦漁業組合理事  井上 吉次郎 印

      同第二支部委員神港漁業組合理事    磯部 又三郎 印

      同第三支部委員伊崎浦漁業組合理事  河島 基地兵衛 印

      同第四支部委員西浦漁業組合理事    柴田 文太郎 印

沖家室漁業  馬關組

2022年07月20日 18時38分25秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
沖家室島出稼漁業 馬關組

今を去る四十年前より下関市を根拠地として福岡県下白島附近、六郎瀬地の島附近
大島附近鰛ケ曾根等に於いて、鯛、鰤、ヒラメ、鰈、鱶、イサキ一本釣鯛延縄柔魚
釣漁業に従事し、一艘六人乗にて毎年平均一ケ年壱千圓の漁獲を挙げつつ現今に至る
まで毎年一定の漁期に地元を出帆して下関に出て通漁するものにしてその漁業の盛衰
あるも常に漁船十艘を以て一團體を組織し通漁を中止したることなく数年より前より
一艘漁業者の増加と漁業の発展は出稼地元漁業者のために排斥せられたれども数十年
間の慣行を有する漁業者頑として動かず漁業を営み来たりたれとも大正元年七月に至り
沖家室島漁業組合の名義を以て関係漁業組合と左記契約を締結して馬関組の基礎を
鞏固にせり

   契約書

 福岡県遠賀郡波津浦漁業組合外八ケ浦漁業組合と山口県大島郡沖家室島漁業組合と
一本釣漁業(漁獲物の種類 鯛 鯖 柔魚 其の他磯魚)及び延縄漁業(漁獲物の
種類 鯛 鰤 磯魚)に就き契約すること左の如し

 一、漁業権者は福岡県遠賀郡波津浦漁業組合外八ケ浦漁業組合協同出願専用漁場
    区域内へ毎年馬関組漁船十二艘以内の入漁を承諾す

 二、入漁料金は漁船一艘に付一ケ年金拾圓と定め馬関組大船頭より直に漁業権者
   代表に相渡すものとす

 三、入漁料の額は明治五十六年以後十ケ年毎に其の当時の実況により相互協議の
   上之を定む

 四、入漁権者は漁業権者より与ふる入漁標章を船上に掲くるものとす

 五、入漁権者に於いてその年の入漁料金を収めさるときは漁業権者は入漁を拒むものとす

 六、入漁権者は漁業権者漁業を妨けさる様注意するものとす

 七、入漁期間は漁業権者の漁業権存続期間とす

 本契約は正本二通を作成し双方一通宛保有するものとす

     明治四十五年七月二十九日

  漁業権者 福岡県遠賀郡波津浦漁業組合外八ケ浦漁業組合代表者

       福岡県脇田浦漁業協同組合理事    亀津亀太郎  印

  入漁権者 山口県大島郡家室西方村沖家室漁業組合理事

                                柳原甲子蔵  印

沖家室漁業 事 蹟

2022年07月20日 18時37分03秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
現今漁業種類と平均一か年の漁獲数量価格を示すと、

漁業種類     漁獲物    時期            価格

 鯛一本釣     鯛      周年            15000圓

 烏付漕釣漁業   鯛     自二月一日~五月三十一日   10000圓

 鯵一本釣     鯵     自六月一日~九月十五日     7000圓

 魬一本釣     魬     自六月一日~十一月三十日    1000圓

 ア魚一本釣    タケ    自十月一日~十一月三十日    1000圓

 鯖一本釣     サバ    自六月一日~九月三十日      500圓

 柔魚甲烏賊釣   イカ    自六月一日~十月三十一日     1500圓

 カワギ一本釣   カワハギ  自六月一日~十月三十一日      600圓

 鯛延縄      鯛     自十一月一日~一月三十一日    3300圓

 雑魚業      雑魚     周年


(注)地元漁業は魚種ごとに入漁期間を定め魚種の保護に務めていることが分かります。
 金目になるのは鯛と烏賊だったことが分かります。タケと云う魚がどんなのかわかりません。
 誰か教えてくれませんか? 蛸(タコ)が無いので雑魚扱いなのでしょうか?
 いずれにしろ、現在のような冷凍技術はありませんので、女性たちが1日二日で
 天秤棒で売り歩く形だったのでしょうね。網元があったか否か知りませんが、あった
 なら大きな生け簀に魚を囲い注文販売もできていたでしょうね。
 生け簀のことを「ダブ」と言っていたように記憶します。
 今はもう見当たりません。注文が入るとダブと岸との間を伝馬舟で子供が取りに
 他の地区では行かされてました。伝馬と一本釣り舟は櫓の漕ぎ方が違うので難儀した
 記憶もあります(笑