石川県立歴史博物館の藤井館長から「関ケ原の戦い」は「青野ケ原の戦い」とする研究リポートが送付されました。
田島公編『禁裏・公家文庫研究』第六諿 前久が手にした関ケ原情報 と題する報告書でした。
同じ「青野が原の戦い」を記した、現場に居た細川家の文書や、伊予土居家文書の青野ヶ原の戦いに、出典が触れられて
いなかったのが残念でした。
当ブログのスレッド「能島家家頼分限帳」の巻頭にある青野ケ原の戦いについては私の情報を取り入れて下さり、
出典注記として「毎日新聞読者情報、今治市村上水軍博物館から史料の提供を受けた。記して感謝する」とあります。
青野ヶ原は今の大垣市郊外にあるが、元々西軍は、大野が原を主戦場として構え、小早川、吉川らの裏切りにより
十数キロ離れた、後世関ケ原と呼ばれるところまで押し込まれたのが史実なのでしょう。
開戦が青野ヶ原、終戦が後の関ケ原と思った方が良いかもしれない、細川文書は同様な書き方をしている。
西軍総大将の毛利家の三矢の二つ、小早川家と吉川家の裏切りで青野ヶ原での決戦は持たなかったでしょう。
圧倒的な西軍の勢力が総崩れとなった一因で長期戦の構えが数日で勝敗が決してしまった。
二家の裏切りが無ければ西軍が勝っていたでしょう。そうすれば、伊予正木の戦いも豊前石垣原の戦いも有利に
運んだことでしょうね。
そうであれば首都は大坂になっていたでしょう。
吉川家の史料を収蔵する岩国徴古館では吉川広家公は裏切ったわけではなく、毛利家の本領安堵が約束された
ので東軍に協力したとしています。
確かに家康の毛利家への本領安堵は約束されていたのでしょうが、それは調略だっただけで、家康は勝利するや
否や、毛利家を中国八か国から防長二国に押し込めてしまった。
この約束を守らなかったことが、以後江戸時代を通じて徳川幕府への恨みとなり、明治維新の原動力になったこと
は地元では有名ですね。
慶長五年以降毛利家新年の挨拶、筆頭家老より藩主へ
家老 「新年明けましておめでとう御座います。今年こそ徳川家を討つべきでは?」
藩主 「まだまだ、まだまだ」
が毎年繰り返され、250年続いた後、幕末に「よし、よきに計らえ!」で討幕が始まりましたね。
●関ケ原の戦いは「青野ケ原の戦い」とする一次史料を吉川家歴代の古文書を所蔵する
岩国市徴古館にて確認致しました。
徴古館学芸員北野氏に調査を依頼しておりましたが、返答があり、
慶長五年九月十七日付けの吉川広家より、西軍総大将であり同門である毛利輝元宛の
書状(控)には「青野ヶ原の戦い」と記されているとのことでした。
勿論原本は輝元のいた大坂城へ送られたものであり、控えの筆跡と花押の確認を再度
お願い致しましたが、この控え原本は徴古館金庫に厳重に保管されているので学芸員と
雖も簡単に取り出せないとのことでした。
この吉川広家書簡は石川県立歴史博物館の藤井館長が根拠とする「近江前久書状」は
九月二十日付けなので、吉川広家書簡はそれより3日前の一次史料となります。
吉川広家は戦いの始まる前の八月八日時点では、一門の西軍ではなく家康の東軍に寝返る
ことを黒田長政に約束していますので、9月17日も輝元宛の書簡は何の意味があったのしょうか?
吉川広家は元々毛利家の元々の所領は安堵されるとの約束で寝返ったと後に弁明していますが
徳川方の調略にひかかったのでしょう。この徳川家への約束違反行為が明治維新まで長州藩では
続きます。
ただ、後、岩国藩主となる吉川広家公は徳川に騙されたと萩毛利本家に弁明しますが
岩国徴古館発刊の「岩邑年代記(がんゆう)」の9月15日の条において
「一、九月十五日 濃州関ケ原合戦。広家公、濃州南宮山御在陣、御勝利之義、公関東に
御加り也。十四日、赤坂へ御使三浦伝右衛門、人質には粟屋十郎兵衛〈三浦伝右衛門黄金
一枚拝領被仰付、黒田・福島より侍壱人づつ被添、此御方御陣へ被差越候、粟屋十郎兵衛は
内府公御陣にて受取、堀尾信濃守に御預也〉」
と記録されています。「岩邑年代記」が関ケ原の戦いと記していることは、殿様は「青野が原」の戦い
と認識しているのに家来が「関ケ原ノ戦い」と記したことは年代記が遅れて書かれたからと思われます。
徳川方がお勝になったので、家康側へ加わり、人質まで差出して忠誠を誓ったとの記述と
徳川方に騙されたと後に毛利家へ弁明することは違和感を感じますね。
吉川が徳川方に寝返る条件は「毛利家の領土を吉川に安堵する」とのささやきに乗ったのに
外ならないと思います。この事が岩国藩を立藩するも、萩本藩からは裏切り者として扱われる
事になったものと思われます。
田島公編『禁裏・公家文庫研究』第六諿 前久が手にした関ケ原情報 と題する報告書でした。
同じ「青野が原の戦い」を記した、現場に居た細川家の文書や、伊予土居家文書の青野ヶ原の戦いに、出典が触れられて
いなかったのが残念でした。
当ブログのスレッド「能島家家頼分限帳」の巻頭にある青野ケ原の戦いについては私の情報を取り入れて下さり、
出典注記として「毎日新聞読者情報、今治市村上水軍博物館から史料の提供を受けた。記して感謝する」とあります。
青野ヶ原は今の大垣市郊外にあるが、元々西軍は、大野が原を主戦場として構え、小早川、吉川らの裏切りにより
十数キロ離れた、後世関ケ原と呼ばれるところまで押し込まれたのが史実なのでしょう。
開戦が青野ヶ原、終戦が後の関ケ原と思った方が良いかもしれない、細川文書は同様な書き方をしている。
西軍総大将の毛利家の三矢の二つ、小早川家と吉川家の裏切りで青野ヶ原での決戦は持たなかったでしょう。
圧倒的な西軍の勢力が総崩れとなった一因で長期戦の構えが数日で勝敗が決してしまった。
二家の裏切りが無ければ西軍が勝っていたでしょう。そうすれば、伊予正木の戦いも豊前石垣原の戦いも有利に
運んだことでしょうね。
そうであれば首都は大坂になっていたでしょう。
吉川家の史料を収蔵する岩国徴古館では吉川広家公は裏切ったわけではなく、毛利家の本領安堵が約束された
ので東軍に協力したとしています。
確かに家康の毛利家への本領安堵は約束されていたのでしょうが、それは調略だっただけで、家康は勝利するや
否や、毛利家を中国八か国から防長二国に押し込めてしまった。
この約束を守らなかったことが、以後江戸時代を通じて徳川幕府への恨みとなり、明治維新の原動力になったこと
は地元では有名ですね。
慶長五年以降毛利家新年の挨拶、筆頭家老より藩主へ
家老 「新年明けましておめでとう御座います。今年こそ徳川家を討つべきでは?」
藩主 「まだまだ、まだまだ」
が毎年繰り返され、250年続いた後、幕末に「よし、よきに計らえ!」で討幕が始まりましたね。
●関ケ原の戦いは「青野ケ原の戦い」とする一次史料を吉川家歴代の古文書を所蔵する
岩国市徴古館にて確認致しました。
徴古館学芸員北野氏に調査を依頼しておりましたが、返答があり、
慶長五年九月十七日付けの吉川広家より、西軍総大将であり同門である毛利輝元宛の
書状(控)には「青野ヶ原の戦い」と記されているとのことでした。
勿論原本は輝元のいた大坂城へ送られたものであり、控えの筆跡と花押の確認を再度
お願い致しましたが、この控え原本は徴古館金庫に厳重に保管されているので学芸員と
雖も簡単に取り出せないとのことでした。
この吉川広家書簡は石川県立歴史博物館の藤井館長が根拠とする「近江前久書状」は
九月二十日付けなので、吉川広家書簡はそれより3日前の一次史料となります。
吉川広家は戦いの始まる前の八月八日時点では、一門の西軍ではなく家康の東軍に寝返る
ことを黒田長政に約束していますので、9月17日も輝元宛の書簡は何の意味があったのしょうか?
吉川広家は元々毛利家の元々の所領は安堵されるとの約束で寝返ったと後に弁明していますが
徳川方の調略にひかかったのでしょう。この徳川家への約束違反行為が明治維新まで長州藩では
続きます。
ただ、後、岩国藩主となる吉川広家公は徳川に騙されたと萩毛利本家に弁明しますが
岩国徴古館発刊の「岩邑年代記(がんゆう)」の9月15日の条において
「一、九月十五日 濃州関ケ原合戦。広家公、濃州南宮山御在陣、御勝利之義、公関東に
御加り也。十四日、赤坂へ御使三浦伝右衛門、人質には粟屋十郎兵衛〈三浦伝右衛門黄金
一枚拝領被仰付、黒田・福島より侍壱人づつ被添、此御方御陣へ被差越候、粟屋十郎兵衛は
内府公御陣にて受取、堀尾信濃守に御預也〉」
と記録されています。「岩邑年代記」が関ケ原の戦いと記していることは、殿様は「青野が原」の戦い
と認識しているのに家来が「関ケ原ノ戦い」と記したことは年代記が遅れて書かれたからと思われます。
徳川方がお勝になったので、家康側へ加わり、人質まで差出して忠誠を誓ったとの記述と
徳川方に騙されたと後に毛利家へ弁明することは違和感を感じますね。
吉川が徳川方に寝返る条件は「毛利家の領土を吉川に安堵する」とのささやきに乗ったのに
外ならないと思います。この事が岩国藩を立藩するも、萩本藩からは裏切り者として扱われる
事になったものと思われます。