山口県周防大島物語

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Re: 「関ケ原の戦い」は「青野ケ原の戦い」

2022年07月28日 08時03分16秒 | やはり関ケ原の戦は青野ケ原の戦い
石川県立歴史博物館の藤井館長から「関ケ原の戦い」は「青野ケ原の戦い」とする研究リポートが送付されました。

田島公編『禁裏・公家文庫研究』第六諿 前久が手にした関ケ原情報 と題する報告書でした。

同じ「青野が原の戦い」を記した、現場に居た細川家の文書や、伊予土居家文書の青野ヶ原の戦いに、出典が触れられて
いなかったのが残念でした。
当ブログのスレッド「能島家家頼分限帳」の巻頭にある青野ケ原の戦いについては私の情報を取り入れて下さり、
出典注記として「毎日新聞読者情報、今治市村上水軍博物館から史料の提供を受けた。記して感謝する」とあります。

青野ヶ原は今の大垣市郊外にあるが、元々西軍は、大野が原を主戦場として構え、小早川、吉川らの裏切りにより
十数キロ離れた、後世関ケ原と呼ばれるところまで押し込まれたのが史実なのでしょう。
開戦が青野ヶ原、終戦が後の関ケ原と思った方が良いかもしれない、細川文書は同様な書き方をしている。

西軍総大将の毛利家の三矢の二つ、小早川家と吉川家の裏切りで青野ヶ原での決戦は持たなかったでしょう。
圧倒的な西軍の勢力が総崩れとなった一因で長期戦の構えが数日で勝敗が決してしまった。
二家の裏切りが無ければ西軍が勝っていたでしょう。そうすれば、伊予正木の戦いも豊前石垣原の戦いも有利に
運んだことでしょうね。

そうであれば首都は大坂になっていたでしょう。

吉川家の史料を収蔵する岩国徴古館では吉川広家公は裏切ったわけではなく、毛利家の本領安堵が約束された
ので東軍に協力したとしています。
確かに家康の毛利家への本領安堵は約束されていたのでしょうが、それは調略だっただけで、家康は勝利するや
否や、毛利家を中国八か国から防長二国に押し込めてしまった。
この約束を守らなかったことが、以後江戸時代を通じて徳川幕府への恨みとなり、明治維新の原動力になったこと
は地元では有名ですね。

慶長五年以降毛利家新年の挨拶、筆頭家老より藩主へ

 家老     「新年明けましておめでとう御座います。今年こそ徳川家を討つべきでは?」

 藩主     「まだまだ、まだまだ」

が毎年繰り返され、250年続いた後、幕末に「よし、よきに計らえ!」で討幕が始まりましたね。


●関ケ原の戦いは「青野ケ原の戦い」とする一次史料を吉川家歴代の古文書を所蔵する
岩国市徴古館にて確認致しました。

徴古館学芸員北野氏に調査を依頼しておりましたが、返答があり、

慶長五年九月十七日付けの吉川広家より、西軍総大将であり同門である毛利輝元宛の
書状(控)には「青野ヶ原の戦い」と記されているとのことでした。

勿論原本は輝元のいた大坂城へ送られたものであり、控えの筆跡と花押の確認を再度
お願い致しましたが、この控え原本は徴古館金庫に厳重に保管されているので学芸員と
雖も簡単に取り出せないとのことでした。

この吉川広家書簡は石川県立歴史博物館の藤井館長が根拠とする「近江前久書状」は
九月二十日付けなので、吉川広家書簡はそれより3日前の一次史料となります。

吉川広家は戦いの始まる前の八月八日時点では、一門の西軍ではなく家康の東軍に寝返る
ことを黒田長政に約束していますので、9月17日も輝元宛の書簡は何の意味があったのしょうか?

吉川広家は元々毛利家の元々の所領は安堵されるとの約束で寝返ったと後に弁明していますが
徳川方の調略にひかかったのでしょう。この徳川家への約束違反行為が明治維新まで長州藩では
続きます。

ただ、後、岩国藩主となる吉川広家公は徳川に騙されたと萩毛利本家に弁明しますが
岩国徴古館発刊の「岩邑年代記(がんゆう)」の9月15日の条において

「一、九月十五日 濃州関ケ原合戦。広家公、濃州南宮山御在陣、御勝利之義、公関東に
 御加り也。十四日、赤坂へ御使三浦伝右衛門、人質には粟屋十郎兵衛〈三浦伝右衛門黄金
 一枚拝領被仰付、黒田・福島より侍壱人づつ被添、此御方御陣へ被差越候、粟屋十郎兵衛は
 内府公御陣にて受取、堀尾信濃守に御預也〉」

と記録されています。「岩邑年代記」が関ケ原の戦いと記していることは、殿様は「青野が原」の戦い
と認識しているのに家来が「関ケ原ノ戦い」と記したことは年代記が遅れて書かれたからと思われます。

徳川方がお勝になったので、家康側へ加わり、人質まで差出して忠誠を誓ったとの記述と
徳川方に騙されたと後に毛利家へ弁明することは違和感を感じますね。

吉川が徳川方に寝返る条件は「毛利家の領土を吉川に安堵する」とのささやきに乗ったのに
外ならないと思います。この事が岩国藩を立藩するも、萩本藩からは裏切り者として扱われる
事になったものと思われます。

「関ケ原の戦い」は「青野ケ原の戦い」

2022年07月28日 08時00分38秒 | やはり関ケ原の戦は青野ケ原の戦い
「天下分け目の関ケ原」と人口に膾炙されているが、誰が関ケ原の戦いと言い始めたのか分からない。
勝軍の将の徳川家康は言っていない。「徳川実記」を作成するあたりで編集者が創作したのかなあ~。

「能島家家頼分限帳」も関ケ原の戦いを「青野御陣」とする。吉川家古文書も同様とする。

肥後細川家を調べてみると、戦記ものではあるが、やはり関ケ原の戦いは「青野ケ原」の戦いとする。

曰くで、

「九月十三日に家康公岐阜へ被成御着明十四日御在陣之御衆十四日之未明青野原へ御押出 被成候事」

として9月14日未明青野原へ家康本陣が移動したと書かれます。
以下前後をUPしましょう。


『細川忠興軍功記』は慶長5年9月の条で・・・・

【前略】九月十日頃に伊勢口より毛利殿人数土佐長曾我部長束大蔵秀頼様御弓鉄炮衆此人数都合 三萬にて南宮山へ押上け陣取申候其時忠興公左馬殿御両人様
長範松之塚之近所へ物見 御座候て人数押上け申候以後山之下足懸能御乗込被成可申と忠興公被仰候其時歩之御供 ハ大槻才兵衛吉住半四郎二人被召連候事

大垣之城水攻に成可申由西尾豊後殿被申に付豊後殿承水堰上け早町江水上け申時分村腰 茂助殿江戸より上使に赤坂へ着被申茂助殿被申ハ水御仕懸候儀可
有御待候左様に成候て 御威勢無之急度御出馬被成候様に可仕と被申に付水堰止候頃九月三日四日にて可有御 座候事

九月十三日に家康公岐阜へ被成御着明十四日御在陣之御衆十四日之未明青野原へ御押出 被成候事

家康公御本陣ハ福島殿御陣屋へ御入被成候金森法印ハ忠興公御陣屋へ御入候事

青野原之御衆十四日之五つ時分に御本陣へ御目見に御出被成候然ハ中村式部少殿之衆大 垣近邊へ刈田に出申候を大垣より追拂申候式部少殿衆取合
大垣之者追込申引取申候へハ 大垣より付申候追拂引取候得ハ又つけ申候故敵分れ成兼申候家康公御覧被成被仰候は主 なし候故敵わかれ不仕候井伊兵部殿
本多少書殿へ御出候て敵わかれ仕候と可申旨被仰付 御両人御乗出し被成内に敵わかれ仕候故御両人も御本陣へ御帰之由是ハ忠興様御物語承 申候事

明日之御働如何可被仰付と何も被得其意候へ共無別に候合戦にて候可有其心得と被仰出 候被得其意候て暫御咄之内に式部少殿衆御前へ被召出明日
之合戦被成候間大垣之押御頼 被成旨式部殿舎弟彦左衛門一栄へ被仰付候彦左衛門御請申立可申と仕候時薮内匠御幕之 外に居申候御幕を打上け
彦左衛門待可申と太閤之御代先手仕式部少と世間に知れ申候も 皆共かせき申故にて御座候式部少こそ相果申候皆共罷在候上ハ先手可被仰付と如何にも
目高に急度申上候色々御挨拶御座候へハ主なしにて御座候間如何様に成共不苦候と申様 體無心元様に忠興公思召兵部殿へ被仰候は主なし無紛候兎角
御あいづけ被成可然と被仰 候と玄蕃殿へ御物語被成候を承り申候事】以下略。


●またまた、「関ケ原の戦い」を「青野原の戦い」とする古書を見つけました。

こちらは伊予(愛媛県)の名門、土居家に残る「清良記」で土井清良の手に
なるものとされます。内容が、生物の観察記録の部分も多いので「農業専門古書」
と分類されるむきもありますが、本来は南予の領主ですので、中世伊予史の歴史書
としても利用されます。

曰く

『一(中略)慶長五年庚子九月、美濃の国、青野合戦を田舎にては関ケ原合戦とも、

 治部少輔乱とも云いしが、その反逆人は石田治部少輔、毛利輝元、土佐長曾我部

 なと一味して、将軍家康公との取合の時 (後略)』

とあり、本来は「青野の戦い」であるが、地方では「関ケ原の戦い」とも言われて
いるとして「関ケ原の戦い」の呼称は俗説としています。


●石川県立歴史博物館の藤井館長へ追加の2件情報をお知らせしようと電話しましたが、不在でした。

秘書の方らしき方にお聞きするとまだ本としては出版はしていないとのことでした。残念!

このブログを案内しておきました。

話変わって、昨日の「なんでも鑑定団」の番組で、毛利輝元の書簡が鑑定に15通出され、千三百万円の評価
となりましたね。萩藩閥閲録、毛利十六代史にも所収されていない「新発見」のことでした。
買わないまでも本物なら「山口県文書館」は写しを採るべきでしょうね。

大坂夏の陣に於いて、毛利輝元ら一族は徳川方にあって、せっせと大坂城への生命線の水を止めるために
河止めの作戦について書いてあるとか、新発見でした。

関ケ原は青野ケ原

2022年07月28日 07時55分36秒 | やはり関ケ原の戦は青野ケ原の戦い
以前から「関ケ原の戦い」は本来は「青野ケ原の戦い」であると主張していたが
よた話のように皆さんには思われていました。

今回、石川県立歴史博物館 館長(京大名誉教授)藤井譲治先生の『前久書状』
に関ケ原の戦いを「青野が原の戦」とあることに注目され研究成果を発表された
もようである。毛利両川である吉川公も「青野ケ原」の戦いと認識しているので
もう片方の小早川隆景配下であった村上水軍家の文書に「青野御陳」と後世の
関ケ原の戦いを記録していることは当然のことであったのでしょう。

この文書は大正時代に九州帝国大学(九州大学)の長沼教授が屋代島村上家を
訪れ転写までしているのに、「青野御陳」の説明がされなかったのも、関ケ原
の戦いのことであると思わなかったのでしょうね。

上記の視点で「萩藩閥閲録」等の毛利関係古文書を見直すと「青野ケ原戦い」
「青野御陣」の記述が見いだせるかもしれませんね。

もし「青野ケ原の戦い」の史料を見出している方は、出典等の投稿をお願い
したいと思います。

藤井館長に敬意を表し、石川県立歴史博物館に「能嶋家家来分限帳」に青野御陳
の記述がありますよと、援護射撃しておきました。本人は出れませんでしたが
担当の学芸員の方が、少なくても開戦時には徳川家康は「関ケ原の戦い」との認識は
なく、その後もその固有名詞は使用していないと教えて頂きました。


●【村上水軍博物館 御中】
『青野御陳』のが記述のある、毛利側の古文書として、「能嶋村上分限帳」を石川県立博物館 藤井館長へ
紹介しました。原本蔵は貴館である旨、伝達してありますので、貴館への資料提供が求められるかもしれません
ので宜しくお計らい下さい。

当方も貴館のおかげで、該当書を入手することができ、このブログに細々とコメントを書いて
います。おかげさまで色んな情報が集まり勉強になります。


●先ほど、石川県立歴史博物館の藤井館長より連絡を頂いて、直接、「能嶋家家頼分限帳」に記録される、
「青野御陣」の背景説明をさせて頂きました。興味を示され、早速、原本保管の村上水軍博物館に問合わせ
をするとのことでした。毛利家家臣団古文書に「青野ケ原の戦い」の記述はないかと、山口県文書館に問い合わせ
ましたが、現在あるともないとも認識していないとのことでした。
「吉川文書」に記述があると、藤井教授は述べられているので「吉川資料館」へ問い合わせましたが、本日は
学芸員不在のため、またの機会に問い合わせることにしました。
どのような背景の時に「青野ケ原の戦い」が出てくるのか分れば、面白いのですが。

藤井先生は少なくても、徳川家康は「関ケ原の戦い」と呼称をした形跡は無いとしますので、誰がいつから
「関ケ原の戦い」と言い始めたのか気になる所です。


●【村上水軍博物館 さま】
藤井館長へは、「能嶋家家頼分限帳」の原本保管は今治(旧宮窪町)の村上水軍博物館ですと案内しましたので
以前、同館には行きましたが、該当書の紹介はありませんでしたので認知していないことなので、再度史料提供の
要請をすると言っていました。

今回の関ケ原の戦いは実は「青野ケ原の戦い」について、年末までに論文を出されるそうです。

何故か私を村上水軍博物館の関係者と勘違いしたようで、発行の暁には私の分も貴館に送付すると
おっしゃっていましたので、届きましたら、連絡してください。貴館は私の住所は知らないと思いますので
そのとき、別途対応させて頂きたいと思います。 よろしく! 館長様

やはり関ケ原の戦は青野ケ原の戦い

2022年07月28日 07時51分52秒 | やはり関ケ原の戦は青野ケ原の戦い
本日の新聞報道によると、巷間、天下分け目の最重要合戦である「関ケ原の戦い」は実は合戦当時は
「青野ケ原」と呼ばれていたと報道されました。主張したのは石川県立歴史博物館長で、根拠として
「関ケ原の戦」の10日のちの信頼できる古記録には「青野ゲ原ノ戦ニテ・・・・・」とされていること
を出典としています。

この場所は能嶋村上水軍の祖とする、北畠顕家が戦い、その時も「青野が原」とされています。

このブログの別スレッドにある「能嶋家家来分限帳」の冒頭にも、巻尾にも本隊は家康軍と戦っている時
地方戦の「正木(松前)の戦」で村上武吉の嫡男、元吉が討ち死にします。この時の能嶋家の記録も
「関ケ原の陣」ではなく「青野御陳」と書かれていますので、慶長期では「青野ケ原の戦い」が正しかった
のでしょう。

このことからも「能嶋家家来分限帳」は最終編纂は1600年代後半ですが、1600年初頭に書かれた
ものに転記と追補をしていったものと思われます。