山口県周防大島物語

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大野家系譜(伊予上川村大野家本)6

2024年04月15日 06時46分40秒 | 大野家系譜(伊予上川村大野家本)
大野家系譜(伊予上川村大野家本)

【大野直昌庶流】

  『 大野家正統譜図 』

三十五代目 【上川村系譜】
      詮直 (~1399)
      ・宮内少輔
      ・母 直利娘
      ・(足利)義詮朝臣賜御諱詮字応安七(1374)申寅年
       (足利)義満朝臣御進發九州 詮直供奉
       後因島田満貞讒没収於采地詮舎
       恨於満貞 応永六(1399)己卯伹於大内義弘
       播籠干美濃国長森城被謀干土岐康行
       上洛而同年十二月被討卒

       注】「大洲菅田大野家本 」

         於小田土居城連日致合戦之条、悦入候
         就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私
         難有候、當方事可得落居候間、急速陣
         可被竒候、可心安候、恐惶謹言
        卯月十三日     (細川)頼有
       大野十郎左衛門尉(詮直)殿


         『愛媛県編年史(947*本文書大洲随筆にも載す)】

        ・又貞治六年(1366)山名退治仁木為大将被向
         宇和喜多両郡詮直尽粉骨軍忠 四月七日
         小田陣半落着註進其辺状為 
         上意 今川弾正俊通

         今月七日状一九日たうらい(到来)、
         いさひ(委細)きこし(聞食)めされ候、
         抑此方事、ミきち山はた(繁多)寺の上の
         あわちかもりのふる城を御ちん(陣)に
         めされ候て、てきほうハミなミな山へおい
         こまれ候へしほとに、とうこ(道後)のほう
         のハ、のこる物なくなりて、それニつき候てハ
         うわこうり(宇和郡)のせひ出候ハ、そのとき
         ハとう時に参らせくれ候へし、まつそのへん
         の事かつせん(合戦)をととめられ候て
         うわへん(宇和辺)のせひも不存出候やう
         にれうけん候ハ、たうほうのためしるへく
         候へし、兼而又このはた寺の御ちんハ、
         一日夜 御所方はかりにてまつめされ候て
         つきの日につきのする大しやうにて、二百
         よきはせはせくわわり申されて、このちん
         めされ候てのちいさのてきちんハ、ひらきて
         山こへひき入候へし、此ほうの事ハ、いまわ
         のこる所なくしてめてたく候、なをなをその
         へんのかつせんをととめられ、うわせひの
         ふひに参候やうにれうけん候ハンか、
         御忠せつにて候へし、又今月三日
         さわまつ殿へ御つかひをたてられかし。
         それともかさねて御しよをしんせ、それより
         つき申され候ハ、返々めてたく候へし、
         かまへてかまへてとくとくつけ申され候へし
         よし被仰下也、あなかしこ
       四月十九日         俊通 奉
       大野十郎左衛門(詮直)入道殿


      愛媛県編年史(1040*本文書検討を要す)

        如上意依抽忠節為勧賞賜感状又其后
      凶賊依御退治為上意
        於与州致忠節之條、以心神妙也、
        弥可抽戦功状如件
      応安五年十一月十三日
     細川右馬頭 頼有
      大野十郎左衛門尉(詮直)殿


      (946*本文書大洲随筆にも載す)

     為上意所領
       伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
       所領置也 任先例可致沙汰状如件
 細川右馬頭頼有  
      永和元年十一月廿一日
  大野十郎左衛門尉(詮直)殿


       伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
       分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重
       可有其抽賞旨、被仰下状如件
     永徳二年七月十七日
 弾正弼  通俊
      大野十郎左衛門入道殿


        (1039*本文書検討を要す)

   注】【南方紀伝    (新撰美濃志)】
     南朝、元中五年(北朝 嘉慶二年八月 島田伊予守
     満貞、兄土岐康行が代官として都にありて、兄康行を
     ほろびしみづから惣領にたのむ事を望むにより、謀を
     めぐらし、従弟の宮内少輔詮直は康行の婿たるにより
     先 詮直逆意ある旨を将軍よしみつに訴えること延引
     せば、康行 詮直一味し満貞と必合戦有りへし志からば
     満貞おなしつみたらん事をうれへ申す、
     其故に詮直、勘気せられ満貞に尾張の守護を給ふ
     これにより満貞尾張におもむく、然る間 詮直 黒田口
     にて満貞と合戦に及ぶ、康行も人をつかわして満貞を
     討たんとす、
     将軍このよしを聞き給いて、土岐左京太夫頼益に
     命じて康行を征す、元中元年(北朝康陽元年)
     二月 美濃国土岐康行退治として軍勢あまたさしつかわす
     すにより、康行落ち行く、すなわち土岐頼益に
     美濃国守護職を給ふ。

     【久万町誌】
     2・南北朝時代の大野氏
     貞治三年、南朝年号では正平一九年(1364年)の末、阿讃
     の細川頼之が伊予に侵入し、湯月城の河野通朝は周桑郡
     三芳町にある瀬田山に進んで防いだが破れ、自害した。
     その子通堯は北条市難波の恵良城にこもって細川勢を防い
     だが抗しきれず安芸国能美島に逃れ、さらに九州に走って
     南朝方に降り、征西将軍懐良親王に従って名を通直と改め
     筑紫にとどまっていた。正平二十二年一二月に義詮将軍が
     死去し、北朝側の動揺に乗じて伊予国では、河野通堯
     配下の吉岡・大野・森山らが活発な行動を開始した。
     この報を受けた京都では、正平二十三年、仁木義尹を将と
     して伊予国に差し向けた。伊予の北朝方に迎えられた仁木
     軍は宇和・喜多の方から兵を進めて、山方衆の根拠である
     浮穴郡太田で一大決戦を試み、遂に大野・森山らは敗れ
     ことの次第を九州にある通堯に報じた。
     このとき、北朝側の仁木義尹を迎撃ったのは
     二六代義直及び父直頼であって、この時の大野にも二派
     あって、義直の弟、詮義は北朝に通じ、細川頼有の感状
     を貰っている。 南朝側の敗北の報を受けた通堯は、やがて
     九州を立って六月三十日、伊予松前浜に上陸し、北朝側の
     完草入道同出羽守と戦って勝利をおさめた。通堯の軍には
     土居、西園寺、山方衆らが加わって意気おおいにあがり
     温泉郡大空城に完草入道を討ち、花見山城を陥れ府中を
     攻めた。翌正平二四年(1369年)八月には新居・宇摩郡
     に向い十一月には新居郡高外木城でおおいに細川軍を
     破った。こうした通堯を中心とする伊予の南朝方は大いに
     振るい、この年に四国の総大将として若宮良成親王を迎え
     ようとする計画もあり懐良親王も東征を企てられると云うように
     肥後の菊池氏と呼応して優勢となった。建徳二年(1371)
     には征西将軍から通堯は伊予国守護職に補せられている。
     こうした中で大野詮議は、松前合戦に利なく大田に帰城
     したが、やはり細川方にあって働いていたと見え、応安五年
     (1372年)頼有から出された次の文書がある。

     予州に於いて忠節を致すの条、以て神妙也
     弥、戦功を抽んずべきの状如件
 応安五年十一月十三日
  細川右馬頭頼明
    大野十郎左衛門尉殿


    しかし、西国の南朝軍も応安四年(1371年)今川貞世が
    九州探題となってからは振わなくなる。こうした情勢の中に
    あって、通堯も大勢に順応して将軍方に帰したものらしく、
    康歴元年(1379)七月八日、義満から伊予国守護職に補
    せられている。この年の閏四月十四日、管領細川頼之は
    失脚し、讃岐に帰った。同じ将軍方にあっても河野氏と
    細川氏は元来宿敵の関係にあり、加うるに九月五日、義満
    将軍から頼之、誅罰の御教書が通堯にも発せられた関係も
    あってか頼之の軍が伊予国に侵入してきた。
    一方河野通堯は、これを迎え撃つため、宇和郡の西園寺
    公俊とともに周桑郡佐志久原に出陣し、大いに細川勢戦った
    が十一月六日、武運つたなく討死した。この時、通堯のニ子
    兄の亀王は十一歳、弟、鬼王は九歳であったが、これ以後
    二子、兄の亀王は十一歳、弟鬼王は九歳であったが、これ
    以後河野家は全く振るわず、衰亡への道を辿ることとなった。
    また、大野家について言えば、当主義直及び父直頼は
    通堯とともに佐志久原で討死し、二十七代の家督は細川
    頼有の推挙によって詮義と決定した。

  注】 【伊予守護河野通之、同国安国寺をして、同寺領同国余戸庄
    の内大野 森山の地を安堵せしむ。【安国寺文書】

     伊予国余戸庄内、大野、森山、先知領分所領之事
     上方為御寄進被成御教書上者、
     早自寺家御知行不可有相違之状如件
     応永四年(1397)十月十八日   河野六郎通之
     安国寺衣鉢閣


  注】【愛媛県史】
    嘉慶二年(1388)二月二八日、将軍足利義満は伊予国安国寺
    (温泉郡川内町)へ余戸荘(現松山市)をはじめ吉原郷地頭職
    (和気郡)、松崎浜(松前町)を寄進している(安国寺文書・一〇六五)
    ついで応永四年(1397)一〇月、余戸荘内にあった大野・森山
    両氏の知行分の所領が、召し上げられて安国寺へ寄進され、
    河野通之の安堵を得ている(安国寺文書・一一〇四)。
    これからみると、森山氏も大野氏も幕府領(御料所)内で、室町将軍
    から所領を給与されていたことがわかる。守護被官というよりむしろ
    将軍被官として、京都に直結していたのであろう。







大野家系譜(伊予上川村大野家本)5

2024年04月13日 04時06分21秒 | 大野家系譜(伊予上川村大野家本)
大野家系譜(伊予上川村大野家本)

【大野直昌庶流】

  『 大野家正統譜図 』

二十九代目 【上川村系譜】
      成義    【大野改姓】
    ・(太ノ)太郎 實 成清男
    ・母 平氏女
     自実朝公本領安堵之有下文

      注】【屋代系譜三十七代】
        成義
     ・大野太郎
     ・此代ヨリ大野ト改ム 家傳ニ云フ代々
      宇津ノ大野ト 云フ所ニ住居 皇子住ミ
      給フ故ニ王野ト云フ子孫即チ為名字此代
      王ノ字ヲ惶リ大ノ字ニ改ム大野ト名乗ル
       大ノ字ハ一人ニ叶心故用之
     ・母ハ平岡平實ノ女也

      注】宇津の大野とあるから、宇津邑の渓壽寺周辺であろう。
        ホノギとしては後世、宇津邑に吸収される。
        喜多郡大野村出身春厳祖東禅師(伴・大野)【1352~1414)
        にて知れる。「渓壽寺由緒」 2016./7/15呑舟

      注】成義の代で大野改姓を決め、次の養子直義の代で
        正式に大伴姓の使用を止める。2019.6/23 呑舟


三十代目  【上川村系譜】
      直義 (1228~) 【大野家の通字「直」始める】
      ・大野三河守直仲 實上総介直方八世之孫 
       丹治直頼男為婿冑當家 和泉守直義改 
       大野文字又用直字 鼻祖也
      ・安貞二年(1228)誕生 芸州大野三十三歳而
       来於当国矣直義猶在熊谷家謂三河守直仲則
       守護禁裏宿直之砌値鬼怪御簾二重而刺殺之
       有叡感餘賜之木瓜二引之紋也
      ・建長二(1250)庚戊年 成義因志願
       太田本川村惣達妙見宮
      ・文応元(1260)庚申年直義大再興太田五千石
       為氏神智仁勇之将而国民化其徳風
       国中静謐也

       注】直義は関東熊谷より安芸に下ってきた熊谷家であり、熊谷家の「通字」の
         「直」を大野家子孫は踏襲していく。安芸の熊谷家は後、毛利家家臣団に
         編入され毛利家直臣として明治を迎えます。
         尚、大野系図の他本に直仲とある人物と同一人物であるが系図の紛乱が
         起こっている。
         現在に伝わる大野家家紋の「堅木瓜二引き両紋」は直義の条では「京都
         内裏の宿直の時、鬼が襲ってきたから、鬼の首を両手で絞めて殺したから
         天皇に「木瓜二引両紋」を頂戴したとこの系図の作者は書いてあっるが、

         【大洲菅田系譜】では
          直仲
          ・弥次郎
          ・母 村上太郎女也
          ・今度於筑紫尽無ニ戦功其後在京
           御所中御宿直時強盗小林大膳乱入
           紫震殿直仲走出組伏御簾上
           刎頭忽誅伐武勇威名揚於天下
           帝大有御感而勅賜當家紋木瓜二引也
           前自是先紋者鳩穂屋也
                 
          と書いてあるので「大野菅田系図」が時代を経て継承される形で、
          強盗の小林大膳が鬼に置き換わったと思われます。

          但し、これはどちらも脚色でしょう。

          大野家家紋は従来、遠祖大伴家が使用していた大伴家氏神、「八坂神社」
          の神紋の「木瓜紋」であり、これが、木瓜の下に「二引き両」を加えた
          のは
          【三河冨永系図】 が語る
          建武三年(1336)3月2日
          冨永直郷の弟、資直は足利尊氏に従い、九州南朝方
          菊池氏と戦った多々良浜の合戦で戦功を挙げ、
          尊氏から足利紋の二引両を賜り、大伴木瓜に併せ
          木瓜二引紋と改紋する

          が正史でしょう。木瓜紋が歪んでいない「正木瓜」ではなく首を絞めた 様な
          「堅木瓜」であったことから、宮中の首絞めが脚色されたのでしょう。
          三河の冨永も設楽も大伴支族で、伊豫の冨永、設楽も縁戚です。
          愛媛県史に大野は建武三年の条で設楽の若党であるので、設楽の家来であったと
          単純に断定していますが、設楽も大野も冨永も同じ家です。
          こんな論理が通れば、得能家は河野家家来にされます。得能家は河野家長男ですが
          庶子なので河野家が名乗れず得能を称したとされます。

          また伊豫大野家家紋の変遷は
          大伴系冨永氏・同伴善男系近江伴大原氏使用
          大伴系冨永氏は伴善男の男清平が甲賀富永祖
          弟、清助は三河幡豆郡司となり親兼が三河富永氏祖
          資兼が設楽太夫で設楽姓も名乗り後三年の役で
          源義家に従い軍功あり。その子が親兼三河冨永祖
          二引両は多々良浜の戦いの軍功により尊氏より
          拝領とある。二引両は足利家の家紋。

          となります。

           「前自是先紋者鳩穂屋也 」とは
          熊谷家家紋が「鳩穂屋」であったからです。


三十一代目  【上川村系譜】
      直国
      ・大野弥次郎  任左近将監
      ・母 成義娘 
      ・弘安四(1281)辛己年 蒙古来舩筑紫直国有
       軍功因賜肥前国神崎郷矣
       干時直国移干波州自実朝公本領
       安堵之有下文

       注】ここでは直国が「軍功因賜肥前国神崎郷矣 」とされます。


三十二代目  【上川村系譜】
       直頼 (~1379) 【南朝】
       ・太田三郎 四郎 次郎 中川十郎入道
       ・属河野通堯 当国吉岡佐志久原打死
        干時康暦元(1379)己未十一月六日

        注】【河野通堯・通直】
           https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E5%A0%AF

        直瀬弟
         満直 (~1367)
         九右エ門
         貞治六(1367)丁未年楯籠高縄城打死卆

        満直子
         直包
         ・左エ門四郎

        直瀬弟
         【上川村系譜】 【北朝】
         直朝
         ・彦二郎 太田三郎
         ・中川猪這野城主 
         ・貞和元(1345)乙酉年八月廿九日
          帝行幸干天龍寺将軍随兵

          注】【貞和元(1345)乙酉年八月廿九日天龍寺落慶供養】
            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%BE%8D%E5%AF%BA%E8%88%B9

         直朝子
          直基
   ・左エ門四郎 東三郎

          注】【太平記】
            康永四年(1345)の足利尊氏の天龍寺の随兵の中に
            富永四郎左衛門尉の名が見えるが、直朝か直基か?
            貞和五年(1349)の高師直に従った富永孫四郎とは?
            冨永孫四郎とは直遠(中川)の子、冨永孫三郎か?

         直基弟
          直次
    ・喜三郎

         直次子
          直資
      ・今窪四郎

          直範
      ・城戸三郎


三十三代目  【上川村系譜】
       直利
       ・土居二郎 宮内少輔 太田土居城主
       ・母 高井兵平衛尉高茂女
       ・家兄移於肥前後冑家矣 注】兄→直國
       ・建武三(1336)丙子年 六月十四日
        尊氏朝臣有下文

        注】 建武3年6月14日は足利尊氏 光厳上皇を奉じ入京する。
           なら設楽資直も同一従軍であるから直利も
           多々良浜の合戦に資直と活躍している可能性がある。
           木瓜二引両紋は同族すべてが共有したとも考えられる。
           ならば、6月5日の比叡山の戦いで設楽兵藤左衛門と
           大野忠直が戦う記録はあるが、この時直利も、一緒に
           居ることになる。次郎左衛門尉と記録されているので
           忠直は十郎左衛門尉直利と同一人物かもしれない。
           大伴、伴、設楽、冨永、兵藤、土居、大野は一族である。
           (呑舟 2013・11・27)


三十四代目  【上川村系譜】
       直氏(1300~1380){北朝}
       ・幼名 弥六 土居宮内少輔 
        任伊豫守為当国守護職
       ・實 土岐太郎頼清五男五郎頼氏冑當家
        改直氏 観応三(1352)壬辰三月十日 義詮
        朝臣有下文 正慶貞治迄数度有戦功
        延文四年(1359)十二月廿三日義詮朝臣
        南方大手御發向随兵 同二年四月十一日
        畠山式部太夫 今井伊豫守 細川左近将監 
        小笠原備前守 佐々木判官 芳賀伊賀守
        等発向於紀伊国責落於龍泉城 同五年
        師三千余騎団於尾州小川城而渡旬月
        終責落之打取小川中務丞而後任伊豫守
        貞治六年(1367)二月廿九日 中殿御會
        将軍義詮朝臣参内之時供奉後陣随兵 
        康暦二年(1380)庚申十一月四日行年
        八十歳卒 法名信慶

注】イ・今井伊豫守→今川伊豫守
イ・佐々木判官→佐々木山内判官

         注】「大洲菅田本」
           於御方致忠節者 伊豫国守護職之叓 可宛行
           之由 先度被仰出矦定令到来矦□所詮
           昨日九日立江前四十九院宿己所発向京都也
           継夜於日可責上之状如件
       観応三年 三月十日  義詮
  土居宮内少輔殿

         注】【土岐美濃と久万山】「久万町史」
           美濃の土岐氏の惣領家が鎌倉末期~南北朝期に
           荏原郷(松山市)居住したことがあり(群書類従本土岐系図)。
           それに随行して庶流のいくつかが久万山に諸職を持っていた
           らしい。文明四年(1472)11月の足利義政御判御教書に
           「土岐深坂松寿丸申・・・・・伊予国荏原郷西方・久万山内
           青河等地頭職」とあり土岐庶流深坂氏が、久万山の内の
           一分地頭職を保持している。(前田家所蔵宝菩提院文書/編年史4)。        
           また文明~明応頃と推定される10月13日付土岐成頼(池田
           氏)書状にも、「就分領 荏原・林・久万山等事」とあり
           (東京都大野文書)、土岐氏庶流池田氏が荏原(松山市)
           林(拝志、重信町)とともに所領している。
           応仁の乱後、大野氏が土岐氏の所領確保に尽力したこと
           がうかがわれ(同前)おそらく土岐氏領久万山は、大野氏
           などの在地土豪層にとって代わられたのであろう。

         注】「土岐系図」
            直氏 伊予守 宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶
   康暦二庚申年(1380)十一月十四日卒
   (1331~1380)

            直氏 伊予守 宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶
   康暦二庚申年(1380)十一月十四日卒
   (1331~1380)

       【依田・山名・土岐系図】
(内務省地理局地誌課)
            直氏子
             道守 僧
             満直
             満康 左馬助
             詮直 宮内少輔 肥田瀬



















          










大野家系譜(伊予上川村大野家本)4

2024年04月13日 02時38分14秒 | 大野家系譜(伊予上川村大野家本)
大野家系譜(伊予上川村大野家本)

【大野直昌庶流】

  『 大野家正統譜図 』

二十二代目 【上川村系譜】
      藤行
    ・次郎 胄家兄宗成跡
    ・母 當女房 號織部左衛門尉
    ・冨永宮内少弼純頼共 
     源頼義公奥州御進發御陣隋兵

      注】前九年の役(1051)(呑舟)

           注】【源 頼義】(新日本古典文学大系・平治物語注釈)
             永延二年(988)~承保二年(1075)。清和源氏
             頼信の嫡男。母は修理命婦。八幡太郎義家の父。
             左馬頭、左衛門少尉、兵部丞、小一条院(敦明親王)
             の判官代、相模守などを歴任、永承六年(1051)
             陸奥国に発生した反乱鎮定のため、陸奥守に任ぜ
             られて陸奥国に赴き、鎮守府将軍を兼ね、義家と
             ともに、安倍頼時、貞任、宗任らを征討、苦戦の末、
             所謂、前九年の役を鎮定、その功により伊予守に
             任ぜられた。頼義は河内、武蔵、下野等の守も
             歴任、前九年の役に従軍した東国武士との間に
             主従の絆を強め、源氏の勢力の東国への扶殖に
             成功した。発心集三に、みのわ入道なる者の言を
             聞き、発心、出家、往生極楽を願ったことを記し、
             古事談五には奥州の俘囚討伐の後、耳納堂を
             建立し、滅罪と往生極楽の営みを行ったことを記す
             など、晩年は仏道に深く帰依した。最後は臨終正念
             して往生したという。



二十三代目 【上川村系譜】
      藤元
    ・彌太郎 任宮内少輔


二十四代目 【上川村系譜】
      有藤
    ・五郎
    ・任左衛門尉


二十五代目 【上川村系譜】
      具有
    ・称太田五郎
    ・源蔵人仲綱烏帽子
    ・治承四年(1180)五月廿三日宇治橋打死卒

        注】 ・源蔵人仲綱(~1180/6/20新歴)→源頼政嫡子
            討死は治承4年5月26日(旧暦)。
            大洲随筆は5月23日とする。また五郎とする。

           ・元有の二男の有頼が源頼政の烏帽子子なら、具有が頼政
            の烏帽子子とは違う、混乱カ?
            元有、具有、有頼、綱頼、有藤、経武らは【大洲大野系図】が
            示すように兄弟では?(2015/10/30 呑舟)

           【玉葉】 治承四年(1180)五月二十六日の条(平家に敗ける)
            ○以仁王(高倉帝)、源頼政等、宇治で平氏軍と戦い敗死する【玉葉】。
             宇治川にて合戦、源頼政(76歳)は自害し、以仁王(30歳)は討死


二十六代目 【上川村系譜】
      有頼
    太田五郎大輔 頼政烏帽子子
    實 元有次男冑当家
    三位入道頼政一味合戦討死

          注】・源頼政(1184~1180/6/20新歴)→源仲政嫡子
             https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF

            ・源蔵人仲綱(~1180/6/20新歴)→源頼政嫡子
             https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1

             【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦い
              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

             【承久の乱】
              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

              【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの戦功者名簿
            六月十四日(1221)宇治合戦に敵を討つ人々
               勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等これを打つ) 
               勅使河原の四郎(一人手討ち)
               太田の五郎(一人、手打ち)
               香河の三郎(一人、手討ち)
               河匂の小太郎(一人手討ち)
               波多野の彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟すと)

              【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの討死者名簿
              六月十四日宇治橋合戦の間、越河懸けの時御方の人々死日記
               内嶋の七郎     荏原の六郎
               荏原の彌三郎   太田の六郎


二十七代目 【上川村系譜】
      綱頼 (~1221)【幕府鎌倉方】
    ・太田六郎
    ・源蔵人仲綱烏帽子子
    ・承久三年(1221)六月十四日於宇治橋打死卒

      ↓
      綱頼弟
       【上川村系譜】
       義有
       ・太田十郎  當国地頭職
       ・元暦年中 源朝臣義経有陣中戦功有矣
        其後仰頼朝公本領安堵賜干御教書畢

      ↓
      義有子兄
       【上川村系譜】
       定武
       ・太田八郎
       ・母 源姓女
       ・興父共依抽於忠功如父地頭

      義有子弟
       【上川村系譜】
       経武
       ・太田八郎
       ・右京之進


二十八代目 【上川村系譜】
      成俊
      ・称久万弥太郎 實者久万権頭
       安清男 其身三十三歳而冑当家
      ・一世無妻譲成義帰住干久万山弘安年中
       百余歳而有軍功因其切天盃頂戴云々

       注】【予陽河野家譜】
【河野通有 弘安の役出陣ス】

         後宇多院弘安四年五月廿一日、蒙古襲来充満干
         筑前国志賀鷹嶋鹿島等海上、此時蒙勅命、通有主
         同嫡子千宝丸、伯父伯耆守通時主、一族別府七郎
         左衛門尉通高、執事 久万弥太郎成俊以下、進発
         干彼所、日本兵者博多箱崎二三十里海岸高築 
         築地附乱杭逆茂木雖然当家陣者、海面者幕一重
         而後設築地、是輒引入敵兵、可決一戦勝負、後背
         有道則士卒必有怠慢之気、却而可失(致)利雖為
         一騎不得引退謀也、自爾謂河野後築地、望夷賊
         十万八千艘船、如向呉山蜀嶺、通有主兼志先魁
         祈念日本大小神祇別而三嶋八幡等於心中、砕丹
         誠之処、沖方白鷺一羽飛来当家陣上、所被置楼上
         百矢之中、加以山鳥之羽作征矢翔行唐船之上従
         両陣見之夷国大将之乗船楼閣重々磨金銀、旌旗
         方々飄風、落大船之上、夷賊者所天与喜、日本之
         陣者呑固唾怪之、通有主曰知是天神地祇予感
         忠貞、所教示敵将之船給也、勿疑再拝、伯州対州
         千宝丸通高 成俊己下士卒百余人乗戦舸漕入干
         夷賊陣中、日本兵者大驚、各雖可制之、曽不聞之
         異賊者下人歟怪、更不発矢見之、乗移一大船、
         対州者大太刀、伯州者長刀、士卒百余人不惜
         身命相戦、終生捕着玉冠者、放火於敵船而漕
         返本陣、被虜者異賊三将之中一人也云々、
         同七月朔日夜半暴風俄起、異賊舟船大半破損
         漂波亡命、残兵避危難漕返干本国之間、九州
         残兵避危難漕返干本国之間、九州既属無為畢、
伯州負深手而卒干船中、対州親子 通高 成俊
己下堅固帰国給、彼所虜之賊将者刎首使成俊
彼所虜之賊将者刎首使成俊伝干京師、此時
天子者為異賊征伐之御祈行幸男山八幡宮、
被悩叡慮於九州之事之処、成俊持蒙古頸参上
矣、乃召階下有勅問、仍九州合戦次第達叡聞、
蒙御感賞、子孫為眉目、蓋所斬蒙古之首刀者、
伝干久万家、重宝大和寿命之作也、
対州此時海陸七十余度合戦、毎度依究高名蒙
叡感、為勧賞賜肥前国神崎庄小崎郷、同加納
郷下東、同荒野、肥後国下久々村以上三百町、
後日拝領予州山崎郷、氏族別府通高者賜
筑前国長渕庄

【河野系譜】
  河野通有 (六郎 對馬守 、母は井門三郎長義が女)
後宇多院の御宇弘安四年、三韓より蒙古襲来たり、
大軍志賀能古等の海岸に充満す。
異族退治の事先例たるの故、勅命をかうぶり、大将軍と
なりて筑前国にはせむかひ、伯父伯耆守通時と通有と
二艘敵船の中にまぎれいり、大将一人を生捕、敵船に
放火す。伯耆守疵をかうぶり船中において死す。
通有も所々疵をこうぶり、伊予国に帰り蒙古人が首を通有
が家人 久萬彌太郎成俊 京都に持参す。
この時の忠恩として 肥前国神崎庄のうち小崎郷 同、
加納下東郷を賜ふ。
後日 又同庄餘残 同荒野 肥後国下久々村以上三百
町と伊予国山崎庄を賜る。海陸七十余度の合戦に毎度
軍忠を抽て感賞の宣旨をかうぶる。徳治二年また西海の
賊を搦め捕うべきむね、関東より御教書をたまいて賊党を
追罰す。これ先祖好方純友を退治せし例によりてなり。

   【おさき 尾崎(神崎町)】
   弘安8年(1285)6月25日付 将軍家政所下文案に
   よれば鎌倉幕府は伊予国御家人越智(河野)通有に
   筑前国弥富郷の替所として「肥前国神崎庄内尾崎郷」
   を宛行った(山城淀稲葉文書/神崎荘史料)。
   河野通有は弘安4年の蒙古合戦の際、敵船へ夜襲を
   試み、戦功として郎党5人を討死させ、自身も深傷を
   負った活躍で有名である。ところでこの通有の替地と
   なった尾崎には古来蒙古屋敷と称される一角が
   あったといい、江戸中期に著された「北肥戦誌」
   異賊襲来の事には「爰に叉、伊予国住人河野
   蔵人太夫通有も伯父伯耆守通時と同じく筑前国
   野子浦・志賀島に於て、蒙古が船に切掛り、賊船
   二艘を切り取り、大将一人生虜り、大いに功を
   現し、通有疵を被り、通時討死しけり、蒙古亡びて
   後通有、彼の討取る首共を、己が領地肥前神崎庄
   尾崎という所にして大なる楠の枝に掛け、一々是を
   実験す。其所今に蒙古屋敷実験場というなり」と
   記されている。
   永仁5年(1297)、さらに河野通有は蒙古合戦の恩賞地
   として「神崎庄内尾崎郷内荘余残分、同庄内荒野分」
   を給付された。(伊予三嶋縁起)
   正和5年(1316)2月24日付北条種時書下案に
   よれば、河野通有は小崎郷に課せられていた肥前国
   一の宮河上社の造営用途を勤めず、同社雑掌から
   訴えられ、北条種時は通有に履行の急務を命令して
   いる。(実相院文書/佐史集成15)。
   元亨2年(1322)4月27日付前対馬守某下知状案に
   よれば、河野通有と推定される前対馬守某は当時
   肥前の山岳仏教の一大拠点であった背振山の僧成舜
   に対して「小崎郷加納下東□□□(橋カ)瓜里三坪
   二仗〈免田取出〉水町二丈中」ほかの地の知行を安堵
   している。(修学院文書/同前5)。南北朝期に入って
   建武2年(1335)10月4日、新政府は越智(河野)通盛に
   「神崎庄内荒野」の替所として伊予国吉原郷地頭職を
   宛がった(河野文書/神崎荘史料)これ以降河野氏は
   この地を離脱したものか神崎関係史料には現れない
   ようである。文和元年(1352)11月、将軍足利義詮は
   宗像大宮司氏正に軍功の賞として肥前尾崎保小地頭
   職を与え、また貞治4年(1365)10月9日には同じく
   大宮司氏俊に「楠橋荘替地軍功之賞」として「神崎荘
   河野対馬入道跡地頭職」を与えている。
   (応永社家文書惣目録/宗像神社文書)
   河野の所領は宗像氏にひき継がれたことがわかる。







昭和11年発行 【小松町誌】26

2024年04月12日 06時13分33秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌】

     【 官 公 衛 及 団 体 】

【四】 専売局小松出張所

 広島地方専売局字開作にあり、塩及び煙草の専売事業に従事しているが、同管内に於ける塩業は
左の如き数字を示している。

    『 塩 収 納 高 』

年   次      一等塩       二等塩      三等塩      賠償金

昭和八年度     109650瓩(キロ)   2210910瓩    3244800瓩     212782円

昭和九年度     269610瓩     2438820瓩    3507360瓩     244510円

昭和十年度     203820瓩     2873910瓩    2162310瓩     207966円

    『 塩 売 渡 高 』

年   次      一等塩       二等塩      三等塩      輸移入塩    譲渡代金

昭和八年度     682280瓩(キロ)    252200瓩     396300瓩     34200瓩    41193円

昭和九年度      80480瓩     372000瓩     315000瓩      49200瓩    40291円

昭和十年度      99000瓩     357000瓩     249000瓩      40200瓩    36866円

    『 煙 草 売 渡 高 』
                  同所に於いて十年度売り渡したる煙草代金は次の如し。

 口付      両切     刻み     その他      小計

 32297円    4975円    49938円    284円     87494円

    【煙草小売人組合】

 小松出張所管内を一円とする小松地方煙草小売人組合が創立されている。
現在組合長 相川清右衛門、副組合長は世良政助 両氏である。
尚、本町に於ける煙草消費量は一ケ年で約二万円である。


  注】 当時小松町に於ける塩は最大の産業で、明治維新で粟屋の殿様領から離れ、粟屋家の塩商人の矢田部家が 
     独占していたが、権利が分散し、十近い浜利権者が発生しました。戦後輸入塩に押され、瀬戸内の塩田は
     次々と廃しされ、現在は、屋代ダム造立で家を立ち退いた人たちのための埋め立て住居地と養魚場になって
     います。屋代川を挟み、志駄岸神社側の塩田も埋め立てられ現在は大島商船高等専門学校地となっています。
     水が溜まって効率の悪かった塩田跡は今も商船学校旧校舎と昔の国鉄小松港の間に水溜まりとして残っています。

     専売公社の出張所は開作、塩釜神社の裏に崩れかかっていまもあります。煉瓦作りの壊れた建物が
     それです。昭和10年の煙草の販売量が、87494円と記録されています。内2万円が小松町とされますから
     87千円は大島郡全体の消費量となります。やはり安かった「刻み煙草」がダントツで売れていますね。
     今は殆ど刻みは見ることができませんし、吸う方法も分からない人も多いでしょうね。
     道具に煙管(キセル)がなければ吸えません。煙管の先にわずかな刻みを入れて火をつけてすいますが、
     精々、三ぷくしか吸えません。残り火を手の甲に置いて次の刻みを詰めて、その残り火でまた火をつけます。
     手の甲が火傷で硬くなっていますので本人は火を乗せても平気でした。本当に「煙草は一服」でしたね。


 【五】 小松消防組

 小松消防組は大正5年5月10日、私設小松志佐消防組として創設され、大正3年2月27日公設の認可を経て大正5年
 6月1日小松消防組と改称され今日に至っている。組織は左の如し。

  組 頭   坂井 竹吉 

  第一部長  徳岡 新之助    小頭 武末 三郎     消防手  三十名

  第二部長  新原 坂一     小頭 廣田 豊一     消防手  三十名

  第三部長   金田 政一     小頭 吉田 正夫     消防手  三十名

  歴代組頭   氏名        就職年月
    
        村田 吉次郎     大正2年5月

        岡村 廣吉      大正6年11月

        矢田部 三四     大正11年1月
 
        坂井 竹吉      現在組頭

  【私設】 右公設の他に私設消防組あり、笠佐消防組組頭、中島慶一、志佐消防組頭、中山好太郎、小松消防組頭、田中梅吉


 【六】巡査駐在所

  本町には巡査駐在所は久賀署管内で大字小松及び大字開作の二か所に設けられている。

 【七】電気散宿所

  山口県電気局散宿所は大字小松中田に設けられている。
  





大野家系譜(伊予上川村大野家本)3

2024年04月05日 05時36分11秒 | 大野家系譜(伊予上川村大野家本)
大野家系譜(伊予上川村大野家本)

【大野直昌庶流】

  『 大野家正統譜図 』

十一代目 【上川村系譜】
      武虎
    ・太郎舘舎宇津村蝶地森之森麓
    ・久米郡兼押領使美濃守


十二代目 【上川村系譜】
      国兄
      ・喜多郡柚ノ木村構於城郭
     ・(太ノ)太郎 任美濃守
     ・母者 風早大領安国女

    注】【徳山藩大野系図】
      大井御舘 大伴國兄(クニエ)

    注】【河野系図】(続群書類従系図第167)
    ・・・好方・・・好峰・・・安国・・・安射・・・元興・・・
    ・・・元家・・・家時・・・為世・・・為時・・・

      【予陽河野家譜】 (風早大領安国)
     玉興子玉純………其の子息方
     大井舘  嫡子好方
     越智押領使  次男好峰 野間押領使
     好峰子安国  風早郡大領 三嶋大祝…….


 十三代目  【上川村系譜】
       吉国
     ・次郎 任右兵衛尉 相続家兄跡
     ・初住大井舘

    注】 【大洲系譜十二代】
       良国
     ・次郎 右兵衛尉
     ・越智押領使
     ・実武虎二男国兄同母弟也


 十四代目 【上川村系譜】
       泰平
     ・太郎 任右兵衛尉 

    注】 【大洲系譜十三代】
       時泰
     ・又太郎
       ・西条御舘
       ・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘 
     ・母 越智宿禰和気太夫家時女也
       ・良国無男子故為養子当家大伴氏令継

    注】 【屋代系譜十三代】
       時泰
     ・西條御館
     ・実人皇五十二代嵯峨天皇第十ノ
       皇子 伊豫ノ国エ下り住給フ其子孫良国
       ノ養子トナリ給フ云

    注】 【予陽河野家譜】(嵯峨天皇第十八皇子為世)
        頃人皇五十二代
       嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
       造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、越智家時
       成婿君、有三子、越智為時 浮穴太夫
       次男今治為頼 中太夫別宮祖
       経与 新居氏祖是也

    注】 嵯峨天皇に文化人天皇で空海らとも親交あり。
       また、嫡庶を含め29人の子があり、台所が賄えないので
       多くの臣家を産み、源氏となのらせた最大の天皇でも
       ある。第十皇子は皇統譜には記録されないが、実態は
       はあったのであろう。(呑舟2021.6.15)


十五代目 【上川村系譜】
      武平
    ・喜多郡之郡司
    ・五郎太夫


十六代目 【上川村系譜】
      純平
    ・三郎 實者純友之次男八世之孫
    ・任従五位下伊豫守為当国司


十七代目 【上川村系譜】
      泰行
    ・太郎 民部少輔 實武平男 胄當家
    ・賜芸州沙田郡云々

   注】【大洲系譜】
      泰行
      ・太郎 民部少輔
      ・母 藤原氏女也
      ・芸州沙田郡有凶賊
       依勅命而発向干沙田安々誅伐
       有御感為勧賞賜沙田

   注】 安藝(広島県)
      「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
       豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
       平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した

       素行弟 【上川村系譜】 『分家 冨永系』
            純行
       ・称 富永九郎次郎

           注】【大洲系譜】
              純行
             ・次郎 称富永 太田押領使
             ・母 大伴姓女也
             ・干時天慶二己亥(丑カ)年(939) 
              筑紫有逆乱当国八家士
              依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
              天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
              八家同前也
       ↓
       純行子 【上川村系譜】
            純宗
        ・荒次郎
         ・富永雅楽

           注】【大洲系譜】
             純宗
         ・雅楽 伊豫大領
         ・母 越智氏女也
       ↓
       純宗子 【上川村系譜】
            吉雅
       ・三郎左衛門尉
       ・称 富永

           注】【大洲系譜】
              吉雅
            ・久米御舘
            ・母大伴氏女
       ↓
       吉雅子 【上川村系譜】
            純頼
            ・宮内少弼
       ↓
       純頼子 定雅
           ・富永左京進
           ・母 平種元女
           ・定雅室法名立花院殿 天壽院殿 
            喜多郡中居谷村安楽寺太鼓寄進
            干山有天養元年(1144)八月廿三日

            注】【肱川町誌】
               中居谷の安楽寺に伝わる太鼓の胴の内側には、

         當寺住持心源叟
              天養元年八月二十三日
           立花院殿
           天寿院殿  寄進

               と書いてあり、同寺に残る過去帳には、次のように
               書かれている。

        立花院殿安山月心大居士
                開基 天養元年甲子年八月二十三日没

       天壽院殿
     立山花庭大姉
     天養元年甲子年七月七日没

                また、冨永芳雄所蔵の銅鏡には「冨永氏立花天壽院
                七邑之守」の銘がある。
                岩屋地区の本願寺の過去帳には、寿永元年(1182)
                冨永右近守昌光(月の尾城主)逝去のことが記され
                ている。

              定雅は大洲・屋代系譜は別の所に出てくる。【呑舟】
              安楽寺は宇津大野渓壽寺創建時の後見寺である。(大洲旧記)
       ↓
       定雅子 定行
         ・富永七郎
         ・初久万住而久万傑将也 従者多居
          平郷構城郭故謂定行城矣
       ↓
       定行子 定経
         ・富永八郎
         ・左京之進
       ↓
       定経子 経行
         ・太田八郎 右京進
       ↓
       経行子 武清 (~1221)【幕府鎌倉方】
           ・太田五郎
           ・承久三年(1221)宇治橋合戦打取敵一人矣
            肥後有凶賊令追討揚武名
            先父死 年二十一歳

           注】 【吾妻鏡】承久の変(1221)6月13日 宇治橋の戦い
              六月十三日 丙寅 雨降る
              相州以下、野路より方々の道に相分つ。相州は先ず勢多に向かうの
              処、橋の中二箇間を曳き、楯を並べ鏃を調え、官軍並びに叡岳の
              悪僧列立し東士を招く。仍って挑戦威を争うと。酉の刻、毛利入道
              駿河の前司淀手上等に向かう。武州は栗子山に陣す。
              武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村武州に相触れず、宇治橋の辺に
              向かい合戦を始む。官軍矢石を発つこと雨脚の如し。
              東士多く以てこれに中たり、平等院に籠もる。夜半に及び、前の
              武州兼仗六郎保信等を以て、武州の陣に示し送りて云く、
              暁天を相待ち、合戦を遂ぐべき由存ずるの処、壮士等先登に進むの
              余り、すでに箭合戦を始め、殺戮せらるる者太だ多してえり。
              武州驚きながら、甚雨を凌ぎ宇治に向かいをはんぬ。この間また
              合戦し、東士二十四人忽ち疵を被る。官軍頻りに勝ちに乗る。
              武州、尾崎左近将監景綱を以て、橋上の戦いを止むべきの由加制
              するの間各々退去す。武州は平等院に休息すと。

             【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの戦功者名簿
           六月十四日(1221)宇治合戦に敵を討つ人々
              勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等これを打つ) 
              勅使河原の四郎(一人手討ち)
              太田の五郎(一人、手打ち)
              香河の三郎(一人、手討ち)
              河匂の小太郎(一人手討ち)
              波多野の彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟すと)

             【吾妻鏡】承久の変、6月14日 宇治橋の戦いの討死者名簿
             六月十四日宇治橋合戦の間、越河懸けの時御方の人々死日記
             内嶋の七郎     荏原の六郎
             荏原の彌三郎   太田の六郎

           *武清の条が正しければ、この大田六郎は父の経行ならん。
           八郎か六郎かは許容の範囲 (呑舟 2019/8/25)

              【予陽河野家譜】
              通信四男通末 河野八郎、母二階堂信濃民部入道女也
              五男通久 九郎左衛門尉 母北條時政女 承久兵乱之時、
              為関東方、渡宇治川先陣十騎之中第三番、賜阿州富田庄、


      ↓
      純頼弟 【上川村系譜】 『分家久万系』
           安雅
            ・富永五郎太夫
            ・母 越智氏女
      ↓
      安雅子 【上川村系譜】
           安綱
           ・久万弥太郎  久万祖
           ・母 同定雅

           注】 【予陽河野家譜】
               河野通信相共候後家人三十二名の中に
               久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
               (伊予史談会会長、景浦氏曰く後世の加筆)と
      ↓
      安綱子 【上川村系譜】
           安仲
           ・久万小太郎 八郎太夫
           ・母 源義夏女権頭
      ・源義夏→源義貞

          注】源義夏は別本の義貞(新田義貞)【1300~1338/8/17】
            旧暦建武5年閏7月2日卒
            弟、脇屋義助、義夏を義貞なら時代が合わない(2015/10/30)

            【予陽河野家譜】
             河野通信相共候後家人三十二名の中に
             久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
             と注記あり(伊予史談会会長景浦氏曰く後世の加筆)と断ず
      ↓
      安仲子 【上川村系譜】
            安行
            ・新太夫 久米太夫
             ・母 大江氏女
      ↓
      安行子 【上川村系譜】
           安清
           ・権頭 實定経二男
           ・河野通清 烏帽子子 於高縄城戦死

          注】【越智系図】(群書類従系図部167所収)
             河野通清  河野新太夫 伊予権介
            (中略)治承比賜後白河院宣致伊予国務又不随平家
             故奴可入道攻入於高繩天神森討死也

            【予陽河野家譜】
           河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
           なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
           同一人物カ?
     ↓
     安清子 【上川村系譜】
          成清
       ・久万五郎太夫 
       ・任右エ門太夫
       ・母 源姓女
       ・於鎮西討死
         ・文治三年頼朝公有下文


十八代目 【上川村系譜】
      時泰
    ・次郎 任右兵衛左實院御子
     越智為世男泰行為婿養子胄當家 
     河野家有 是泰児孫也

     注】越智為世は安清の烏帽子親河野通清の7代前であるから
       大洲・八代とも13代としている時泰の段が正当であろう。
       系図転写時の錯乱かすでに元本が誤写されていたか、
       であると上川村本の前後関係は訂正が必要である。【呑舟】


十九代目 【上川村系譜】
      行泰
      ・七郎 號権頭  武勇ノ人也
      ・母 泰行娘


二十代目 【上川村系譜】
      宗行
    ・太郎 任右兵衛尉
    ・母 大江良元娘

     注】大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
       実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
       として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
       はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟


二十一代目 【上川村系譜】
      宗成
    ・太郎  早世