能島村上家を宗家とし因島村上家、来島村上家と分家しこの三家を総称して三島村上とされます。
こちらは、能島村上家に残る「村上系図」が語ります。
片や歴史家とか民族学者とされる方の研究では三島村上海賊は同一系統ではなく、当時、瀬戸内海に繁茂した
海賊集団のムラグミが訛って、村上と名乗り始め、後に共通の利益のため海賊連合を作ったに過ぎないが
重み付けのために村上天皇の末裔で北畠氏末裔を加冒したにすぎないとします。
この主張は能島村上家の江戸期の地元である屋代島の民族学者、宮本常一氏がしています。
歴史家によっては前期村上、後期村上と分けて記述するのも出自がはっきりしないことからと思えます。
早い話が決定的な一次史料がないことが原因と思われます。
一つの一次史料とおもわれるものが見つかりました。
かって、禅宗曹洞宗永平寺開祖、道元禅師が南宋で修行し1227年に帰朝します。
この時色んな物を持ち帰りますが、その中に観音様があります。
この観音様は現在、山口県大島郡周防大島町、曹洞宗永平寺直末、龍心寺(元大龍寺)に安置されています。
本堂の左側の長い石段を上ると瀟洒な観音堂があります。その中に厳重に管理されています。
右側に降りて行くと能島村上宗家図書家の歴代の墓が真ん中の村上武吉の供養塔を囲むようにあります。
最後の当主村上兼助・亀之助・惟庸の墓で村上図書家の墓は終わります。その右側に羽越村上家の墓所群です。
すなわち道元禅師の南宋から持ち帰った観音様が親族の北畠家に贈与したとされます。
道元禅師は村上天皇から続く、土御門流久我家三代目久我通宗、弟とされます。
これに対し、能島村上系図は遠祖を土御門通方の息が北畠を名乗り、北畠雅家とします。もちろん同門です。
道元禅師は(1200.1/19~1253.9/22)とされ、1227年帰朝とされますのでこの時の南宋の観音が親族北畠家に渡ったのは
北畠雅家(1215~1274.3/27)か子の北畠師親(1241~1315.10/6)の代と思われます。
この観音様が帰朝して795年を経て龍心寺に今、あることになります。
これらの経緯は現住職の渡辺氏はご存じですが、南宋物かは鑑定したことはないそうです。
秘仏ですので現在拝観することはできません。住職曰く、開帳の予定もないとのことです。
これらの経緯を永平寺に問合せましたら、小僧を通じて、先輩小僧が「昔の事はわかりません」とけんもほろろ。
史実であれば永平寺にとっては「寺宝」にほかならないのに。
10年くらい前に他の件で永平寺に問いあわせたら真剣に対応してくれました。
何故かと聞いたら、「質問に真剣にお答えするのも修行の一つです」との話でした。
観光有名寺が多い時代に、修行に勤しむ姿に心を打たれた記憶があっただけに、永平寺も観光寺に
なったなと、寂しく感じました。
余談ながら、能島村上一学家前当主村上保一郎氏が永平寺にお参りした時は、永平寺のご重役僧が総出で
開祖道元禅師の親族が見えられたとして下にも置かぬ対応した(村上S氏談)と伝えられます。
竜心寺は一学家の兄家、図書家の菩提寺ですので、代々、漢音様は宗家が引き継いできたことになります。
このような話は地元でも一部の人しかしれません。
白黒つけるには観音様の鑑定しかないでしょう。
記憶がきえないように記録します。
こちらは、能島村上家に残る「村上系図」が語ります。
片や歴史家とか民族学者とされる方の研究では三島村上海賊は同一系統ではなく、当時、瀬戸内海に繁茂した
海賊集団のムラグミが訛って、村上と名乗り始め、後に共通の利益のため海賊連合を作ったに過ぎないが
重み付けのために村上天皇の末裔で北畠氏末裔を加冒したにすぎないとします。
この主張は能島村上家の江戸期の地元である屋代島の民族学者、宮本常一氏がしています。
歴史家によっては前期村上、後期村上と分けて記述するのも出自がはっきりしないことからと思えます。
早い話が決定的な一次史料がないことが原因と思われます。
一つの一次史料とおもわれるものが見つかりました。
かって、禅宗曹洞宗永平寺開祖、道元禅師が南宋で修行し1227年に帰朝します。
この時色んな物を持ち帰りますが、その中に観音様があります。
この観音様は現在、山口県大島郡周防大島町、曹洞宗永平寺直末、龍心寺(元大龍寺)に安置されています。
本堂の左側の長い石段を上ると瀟洒な観音堂があります。その中に厳重に管理されています。
右側に降りて行くと能島村上宗家図書家の歴代の墓が真ん中の村上武吉の供養塔を囲むようにあります。
最後の当主村上兼助・亀之助・惟庸の墓で村上図書家の墓は終わります。その右側に羽越村上家の墓所群です。
すなわち道元禅師の南宋から持ち帰った観音様が親族の北畠家に贈与したとされます。
道元禅師は村上天皇から続く、土御門流久我家三代目久我通宗、弟とされます。
これに対し、能島村上系図は遠祖を土御門通方の息が北畠を名乗り、北畠雅家とします。もちろん同門です。
道元禅師は(1200.1/19~1253.9/22)とされ、1227年帰朝とされますのでこの時の南宋の観音が親族北畠家に渡ったのは
北畠雅家(1215~1274.3/27)か子の北畠師親(1241~1315.10/6)の代と思われます。
この観音様が帰朝して795年を経て龍心寺に今、あることになります。
これらの経緯は現住職の渡辺氏はご存じですが、南宋物かは鑑定したことはないそうです。
秘仏ですので現在拝観することはできません。住職曰く、開帳の予定もないとのことです。
これらの経緯を永平寺に問合せましたら、小僧を通じて、先輩小僧が「昔の事はわかりません」とけんもほろろ。
史実であれば永平寺にとっては「寺宝」にほかならないのに。
10年くらい前に他の件で永平寺に問いあわせたら真剣に対応してくれました。
何故かと聞いたら、「質問に真剣にお答えするのも修行の一つです」との話でした。
観光有名寺が多い時代に、修行に勤しむ姿に心を打たれた記憶があっただけに、永平寺も観光寺に
なったなと、寂しく感じました。
余談ながら、能島村上一学家前当主村上保一郎氏が永平寺にお参りした時は、永平寺のご重役僧が総出で
開祖道元禅師の親族が見えられたとして下にも置かぬ対応した(村上S氏談)と伝えられます。
竜心寺は一学家の兄家、図書家の菩提寺ですので、代々、漢音様は宗家が引き継いできたことになります。
このような話は地元でも一部の人しかしれません。
白黒つけるには観音様の鑑定しかないでしょう。
記憶がきえないように記録します。