一、念願の完済
昭和13年に、厖大な借財も19年かかってようやく整理がついた。
そしてその年の暮れには、店等もきれいに支払い2.000円の余剰も生じこれは預金したが、これも養父母の厳格なる指導のもとに健康でしかも、家庭も円満となり、信望の仕甲斐があったと、暮れには一同揃って神仏にお供物を上げて、ご先祖様のお陰と感謝して、年越しを済ませた。
昭和11年2月9日、永年川西の開拓に従事して苦労をされた養母が永眠(享年80歳)されたが厳しかったといいながら、私達をよく導いて下さったことに対し感謝をしたのである。
結局は第二次世界大戦に突入の兆も見え始め、それから数年間は、日支事変から大東亜戦争更に太平洋戦争と、我が国はじまって以来の非常時に突入することになる。
二、家の焼失と養父の死
借金を完済した喜びも束の間、昭和14年7月6日夜、養父がカンテラを倒し、またたく間に火は襖に燃え移り、拡がって、丸焼けになってしまった。
運の悪いときには致し方ないもので、折りからの暴風雨であった。
豪雨のために湧別橋は洪水のため流失しており、消防自動車は渡れず、区の人々や消防手も駆けつけていただいたものの手の施しようもなく、見る見る中に、母屋(46坪)、離家(12.5坪)、厩(28坪)の3棟が灰燼となったのである。
夜は土砂降りで、夜が明けてようやく止んだが養父と勝、初枝、重利の4人はお隣の黒田さん宅に避難させ、大変お世話になった。 幸い人畜に被害がなく、不幸中の幸いであった。
私は夜が明けてから火事の原因調書を作製するから、警察分署(湧別)に出頭せよと連絡があったので警察へ行き調書の作製を終わり部長が親切に 「友人が道庁の建築課に居るから、農家にふさわしい設計をしてもらってやる」 と云って下さった。 色々と話しをしている中に、昼になったので帰ろうとした処本間義路君が来てくれて、
「お爺ちゃんの容態が変わった」 とのことで大急ぎで帰ったが、死に目に会えず、黒田さんで死亡(享年87歳)太田医師の診断では心臓麻痺で息を引き取ったとのことで、川西の方々には、火災のあとかたづけ、養父の葬儀等大変なお世話になったことは忘れられない。
吹貫小屋(現在の裏の小屋)21坪が焼け残ったので小屋の中に 「佛」を安置して、燕麦桿を敷きならべその上にむしろや畳を敷いて告別式を執行し、橋が通れないので中湧別5の3区川西の渡船に渡してもらって葬儀を終了したのであった。
三、家屋再興へ
市男は高等2年、千代子、徳子は卒業して働いており、後4人は小学校に通学、皆が心を合せよく働き再興に専念してくれた。
金は2千円の預金があるのみだが家を建築するのに相当の金がかかる。 私は借金にはコリゴリしているので適当な古家を探したが、思わしい家は見つからず、厩舎で3年暮らした。
幸いにも昭和16年8月、志撫子の奥に居る岡田さんが内地に引越すので、「建築してまだあまり年数が経っていない良い家だからどうか」 と志撫子の多田さんから聞いて早速訪問して離した結果同情してくれ、総坪数38坪5合、畳、建具全部付けて2.000円で売買成立翌17年5月建前9月15日、湧別神社祭の日完成引越してやっと3年余にして気楽に足を延ばして起居できるようになったのである。
四、むすび
私の生涯を語ればまだまだ長い、だが真剣な生活との戦いの記録といえば以上の事が主体であろう。 その中で特殊なことは 「養子という立場での複雑なからみ合いの中での川西の全般的な姿が見ていただければ幸いである。
過去をふり返って見て私はやはり川西に住んだことに対して何等悔いはない。 かえって、川西を中心にした地域の結びつきから 「湧別村」に対する愛郷心が生まれ、公共に奉仕することの大切さ、喜びも、悲しみも苦しみも、今になって見れば、大きな満足感が残るのである。
此の主機はあくまでも私の歩んだ一時期について述べたものであるが、その中に世の中の様々なことが捉えられ何等かの意義がある。 親戚といいながら、ふとした出会いが南の温暖な故郷をあとに、北海の開拓地にまで来て、家族の暖か味のない中で成人したが、養父母もやはり世間からお人好しといわれる通り、養子の私に対してもやはり一面では息抜きのできる人だったと思う。
だから当時として勉強するのに石油が惜しいといい乍らも、夜学に通わせたり、剣道を習わせたり、青年としての資質をのばす面には特別強い制約はなかったと思う。
兵隊から帰ったときに養親はもはや60歳に近く一人前の濃厚は無理な年であった。
以降の借金整理については、私達夫婦で力を併せて一生の中で最も大きなエネルギーを費やした20年であったが、これも川西という地味豊かな土地であったればこそ大きな借財も返納することが出来たのである。
水田でも耕作していたら、恐らく冷害の下で生活が破滅していたであろう。 ここにすべてを精算して、あとは子供の成長を見守りながら多くの公職を得て世間の皆々様に御恩返しができたことを幸せに思わずには居られない。
昭和13年に、厖大な借財も19年かかってようやく整理がついた。
そしてその年の暮れには、店等もきれいに支払い2.000円の余剰も生じこれは預金したが、これも養父母の厳格なる指導のもとに健康でしかも、家庭も円満となり、信望の仕甲斐があったと、暮れには一同揃って神仏にお供物を上げて、ご先祖様のお陰と感謝して、年越しを済ませた。
昭和11年2月9日、永年川西の開拓に従事して苦労をされた養母が永眠(享年80歳)されたが厳しかったといいながら、私達をよく導いて下さったことに対し感謝をしたのである。
結局は第二次世界大戦に突入の兆も見え始め、それから数年間は、日支事変から大東亜戦争更に太平洋戦争と、我が国はじまって以来の非常時に突入することになる。
二、家の焼失と養父の死
借金を完済した喜びも束の間、昭和14年7月6日夜、養父がカンテラを倒し、またたく間に火は襖に燃え移り、拡がって、丸焼けになってしまった。
運の悪いときには致し方ないもので、折りからの暴風雨であった。
豪雨のために湧別橋は洪水のため流失しており、消防自動車は渡れず、区の人々や消防手も駆けつけていただいたものの手の施しようもなく、見る見る中に、母屋(46坪)、離家(12.5坪)、厩(28坪)の3棟が灰燼となったのである。
夜は土砂降りで、夜が明けてようやく止んだが養父と勝、初枝、重利の4人はお隣の黒田さん宅に避難させ、大変お世話になった。 幸い人畜に被害がなく、不幸中の幸いであった。
私は夜が明けてから火事の原因調書を作製するから、警察分署(湧別)に出頭せよと連絡があったので警察へ行き調書の作製を終わり部長が親切に 「友人が道庁の建築課に居るから、農家にふさわしい設計をしてもらってやる」 と云って下さった。 色々と話しをしている中に、昼になったので帰ろうとした処本間義路君が来てくれて、
「お爺ちゃんの容態が変わった」 とのことで大急ぎで帰ったが、死に目に会えず、黒田さんで死亡(享年87歳)太田医師の診断では心臓麻痺で息を引き取ったとのことで、川西の方々には、火災のあとかたづけ、養父の葬儀等大変なお世話になったことは忘れられない。
吹貫小屋(現在の裏の小屋)21坪が焼け残ったので小屋の中に 「佛」を安置して、燕麦桿を敷きならべその上にむしろや畳を敷いて告別式を執行し、橋が通れないので中湧別5の3区川西の渡船に渡してもらって葬儀を終了したのであった。
三、家屋再興へ
市男は高等2年、千代子、徳子は卒業して働いており、後4人は小学校に通学、皆が心を合せよく働き再興に専念してくれた。
金は2千円の預金があるのみだが家を建築するのに相当の金がかかる。 私は借金にはコリゴリしているので適当な古家を探したが、思わしい家は見つからず、厩舎で3年暮らした。
幸いにも昭和16年8月、志撫子の奥に居る岡田さんが内地に引越すので、「建築してまだあまり年数が経っていない良い家だからどうか」 と志撫子の多田さんから聞いて早速訪問して離した結果同情してくれ、総坪数38坪5合、畳、建具全部付けて2.000円で売買成立翌17年5月建前9月15日、湧別神社祭の日完成引越してやっと3年余にして気楽に足を延ばして起居できるようになったのである。
四、むすび
私の生涯を語ればまだまだ長い、だが真剣な生活との戦いの記録といえば以上の事が主体であろう。 その中で特殊なことは 「養子という立場での複雑なからみ合いの中での川西の全般的な姿が見ていただければ幸いである。
過去をふり返って見て私はやはり川西に住んだことに対して何等悔いはない。 かえって、川西を中心にした地域の結びつきから 「湧別村」に対する愛郷心が生まれ、公共に奉仕することの大切さ、喜びも、悲しみも苦しみも、今になって見れば、大きな満足感が残るのである。
此の主機はあくまでも私の歩んだ一時期について述べたものであるが、その中に世の中の様々なことが捉えられ何等かの意義がある。 親戚といいながら、ふとした出会いが南の温暖な故郷をあとに、北海の開拓地にまで来て、家族の暖か味のない中で成人したが、養父母もやはり世間からお人好しといわれる通り、養子の私に対してもやはり一面では息抜きのできる人だったと思う。
だから当時として勉強するのに石油が惜しいといい乍らも、夜学に通わせたり、剣道を習わせたり、青年としての資質をのばす面には特別強い制約はなかったと思う。
兵隊から帰ったときに養親はもはや60歳に近く一人前の濃厚は無理な年であった。
以降の借金整理については、私達夫婦で力を併せて一生の中で最も大きなエネルギーを費やした20年であったが、これも川西という地味豊かな土地であったればこそ大きな借財も返納することが出来たのである。
水田でも耕作していたら、恐らく冷害の下で生活が破滅していたであろう。 ここにすべてを精算して、あとは子供の成長を見守りながら多くの公職を得て世間の皆々様に御恩返しができたことを幸せに思わずには居られない。