『千々にくだけて』リービ英雄
『哀歌』曾野綾子
この2冊を、一気に読んでしまいました。
その感想が書きたくなって、ブログをはじめた次第です。
『千々にくだけて』は9.11、『哀歌』はルワンダ虐殺。
どちらも大量虐殺を素材にしているんですが、対照的な小説です。
リービ英雄は、非常に美しい日本語で、私小説を書く在日アメリカ人作家です。70年安保世代、いわゆる団塊の世代、でしょう。
一方、曾野綾子は、リービ英雄の母親に近いくらいのお年。保守的なカトリック信者で、構成が緻密な、つまり、感覚を重視する私小説とは対極にあるような、西洋的な小説を書いてきた女性です。
私はもともと、私小説を好みませんでした。湿気がありすぎる、とでもいうんでしょうか、じっとりと湿ったような感触が嫌いで、ほとんど読んでなかったのですが、リービ英雄はちがいました。日本語が本来の母語ではなかっただけに、距離感が作用しているのでしょうか。突き放したような、乾いた感覚で、しかし、しっかりと臨場感のある、美しい表現になっているんです。
wev上で偶然、彼の9.11関するアメリカの妹への書簡を見てから、『千々にくだけて』の発行を待ちかねていました。
現実にリービ英雄は、年に一度の恒例で、アメリカにいる母と妹に会うため、日本からカナダ経由でNYに飛ぼうとして、飛行機の中で、9.11の事件を知ったそうです。
9.11を「大量虐殺事件」と呼ぶことには、抵抗がある方もいるかもしれません。アメリカ合衆国は、その強大な国力ゆえに、日本では通常、「被害者の立場にある」という想念とは、結びつけて報道され辛いからです。
しかし、『千々にくだけて』によれば、日本からバンクーバーに向けて飛んでいた飛行機の機長は、直訳すれば「アメリカ合衆国は被害者となった。甚大なテロ攻撃の。したがって合衆国は、その国境を全部閉鎖しました」と放送したのだそうです。続いた日本人スチュワーデスのアナウンスにはもちろん、「被害者となった」という表現はありません。「アメリカ合衆国はテロリストの攻撃を受けました」と、「自分とは特に関係のない事柄だ、といった事務的な」声のアナウンスだったといいます。
9.11事件の最初の報道は、日本では夜中でした。
私がなにをしていたかというと、当時行きつけだったチャットをのぞいていました。しかしいつもの常連はいなくて、しばらく様子を見ていると、久しぶりに見る(おそらく1、2年ぶり)、ネット上の知り合いの男性が、顔を出しました。9.11のニュースを知って、だれかと話したくなったのだそうです。
私は、さっぱりニュースを見ていなかったので、知って驚かなかったわけではないのですが、まだ、なにが起こったのかよくはわからない段階でしたし、それこそ「自分とは特に関係のない事柄」というのが、第一印象でした。それより、その久しぶりのチャット相手が、いまなにをしているのかといった個人的な話題がはずんで、明け方近くまで語らっていました。
実感がわいたのは、寝て起きて、貿易センタービルがくずれ落ちる映像を、テレビで見てからです。それでも、「アメリカ合衆国は被害者になった」という実感は、わかなかったように記憶しています。
『千々にくだけて』という題は、芭蕉の句、「嶋々や千々にくだけて夏の海」からとったのだそうです。
リービ英雄、いえ、『千々にくだけて』の主人公エドワードは、カナダ西海岸の海岸線を機上から見下ろし、この句の英訳を思い浮かべていました。着陸後、余儀なく留まることとなったバンクーバーの宿で、テレビ画面の貿易センターの崩壊を見て、「ちぢにくだけて」という日本語と、「Broken into thousands of pieces」という翻訳が、彼の頭の中を走りまわります。
芭蕉の句! あの映像を見て芭蕉の句、というのは、ちょっとした驚きでした。
それはおそらく、アメリカ国籍を持ち、アメリカに親族がいる著者と、ごく普通の日本人である私との、9.11事件に対する距離感のちがい、なんでしょう。
ようやく電話連絡がとれたブルックリンの妹は、震える声で、そのときの様子を語ります。
マンハッタンの方向から、空を流れてくる灰の川。デッキにふりつもる灰に、焼けた紙切れがまじり、その紙切れの一つに「Miss Kato at Fuji Bank」の文字。富士銀行のミス・カトーは、どうなったのか‥‥‥。
印象的な描写です。
私が事件の重大さを実感したのは、妹の知り合いの肉親の女性が、出張で貿易センタービルを訪れていて行方不明だと聞き、同ビルで開業していた母の知り合いの医者が、当日、緊急の往診に呼ばれていたおかげで助かった、という話を聞いたあげく、だったでしょう。
「ミス・カトー」は、妹の知り合いの肉親の女性だったでしょう。
日本の地方都市の日常は、否応もなくアメリカ合衆国の貿易センタービルの日常とつながっていて、アラブのテロリストの日常と、つながってはいないのです。
ただそれは、たまたま出かけていた先の国で、地震や津波などの天災にまきこまれることもあると実感することと、あまりちがいはないような気がします。
少なくとも、エドワードがバンクーバーのテレビで見たイギリスやカナダの追悼式で、星条旗をかざし、あるいは「星条旗よ永遠なれ」を歌う人々のような、「私たちは悪意による攻撃の被害者の一員になった」という一体感とは、大きくずれているでしょう。
そういった日本人の距離感も、著者は、カナダに来ていて足止めされた日本人観光客を描くことで、見事に表現しています。
もっとも印象的な日本人の登場人物は、飛行機で、エドワードが隣あわせた老女でしょうか。「エドワードの母よりは若い」そうですが、おそらくは、曾野綾子と同年代でしょう。ブランドものの派手な花柄のドレスを着て、強い香水の匂いをまとった厚化粧の老女は、豪華客船によるアラスカ・クルーズに参加するため、バンクーバー行きの飛行機に乗っていたのですが、9.11を報じる機内放送で、はじめてエドワードは老女と会話をかわします。
アメリカ行きの飛行機は飛ばない、というアナウンスに、エドワードが「今日の夜は空港のベンチで寝ることになるかもしれない」と笑うと、老女は、「戦争が終わったときのことを、あなたは知らないでしょう」と応じます。
この言葉に、エドワードは不意をつかれます。
「戦争が終わったとき、わたし、三日間も駅のホームで寝たことがある。いざとなったときは大丈夫ですよ」
続いた老女の言葉に、エドワードは、「焼け跡の中で家へ帰ろうとしているもんぺ姿の女学生」を思い浮かべるのです。
これは現実にあったことだと、著者が週刊文春のインタビューで答えていましたが、実際、この老女の描写には、肉親や知り合いのこの年代の日本女性のだれであってもおかしくないような、リアリティがありました。
米軍の爆撃で学徒動員先の工場を焼かれ、機銃掃射に追われたもんぺ姿の女学生は、家も焼かれていて、両親の疎開先へ向かおうとする途中、列車が動かなくなり、駅のホームで寝たのでしょうか。
それは、当時の女学生のだれにでも起こったことなのですが、その女学生たちは戦後教育を受け、教師になったか、サラリーマンの妻になったか、商店や中小企業のおかみさんになったか、ともかく、日本の高度成長をささえて乗り越え、子供たちを育てあげ、豊かな蓄えを持って、少女時代にかなわなかった夢のかけらでも満たそうと、世界中へ出かけています。
そして、彼女たちの多くは、美しい外国の風景や珍しい風俗、あるいは昔読んだ小説や映画の舞台、本場のオペラやバレーなどに満足の吐息をもらし、帰国して言うのです。「すばらしかった。だけど日本が一番いい。日本に生まれてよかった」と。
彼女たちは、同年代の曾野綾子が、『哀歌』において、主人公であるルワンダの日本人修道女を、「日の丸とパスポート」に命を守られている、と描写したように、菊の紋章のパスポートに守られていることを、強く意識しています。国民を守るに足る国力を、焼け跡の中から再び築き上げたのは自分たちだ、という自負とともに。
老女がエドワードに、自分の息子を重ねていたのは確かでしょう。
「大丈夫ですよ」に続く言葉は、老女にとっては、自明のものだったはずです。
「あなたは、星条旗とアメリカのパスポートに守られているから」
エドワードがテレビで、アメリカの追悼式に出席した歴代大統領を見て、「かれらのために、だれが死ぬものか」と思うとき、私の頭に真っ先に浮かんできたのは、日本人の老女の姿です。彼女が、そんなエドワードをもし見たならば、苦笑とともにもらす言葉は、やはり、「でもあなたは、星条旗に守られている」でしょう。
著者は、そこまで計算して、日本人の老女を登場させたのでしょうか。だとするならば、舌を巻くうまさです。
登場人物それぞれの事件への距離感の的確な描写は、著者が、日本語で小説を書く在日アメリカ人でなければ、なしえなかったことでしょう。
老女に近い場所に身を置きながら、私小説という、近代日本が生んだ独特のジャンルが、これほどまでに実り豊かなものであったと気づかせてくれた著者の技に、感嘆を禁じえません。
リービ英雄と曾野綾子の対談を読んでみたい、と、いま、思っているのですが、曾野綾子の作品は、これまでに、『不在の部屋』しか読んでいませんでした。
『不在の部屋』は、おそらく著者の曾野綾子よりも10歳くらい若い、つまり、太平洋戦争の最中あたりに生まれた小川多枝子を主人公として、第二ヴァチカン公会議の結果にゆれる、日本のある地方都市の修道女の世界を描いたもので、書かれたのは1970年代です。
オードリー・ヘプバーン主演の『尼僧物語』という古い映画をご存じでしょうか。私もテレビで放映されて見ただけなのですが、その前に、アメリカのベストセラー小説である原作の翻訳を読んでいました。
舞台は戦前のベルギーです。主人公のガブリエラは、医学者の父を持ち、母を早くに亡くして、修道女の道を歩みます。信仰心と修道生活の不合理との狭間で葛藤しつつ、熱帯医学を学び、植民地コンゴの伝道に生き甲斐を見出しますが、修道院は彼女を、内地へ呼び返します。やがて第二次世界大戦が始まり、ベルギーはドイツに占領されて、修道院も戦争と無縁ではいられなくなります。ガブリエラは「敵を愛せよ」という神の教えに、どうしても従えない自分を発見し、ついに還俗することを決意します。神への絶対の服従を誓った修道女にとって、愛国心は私情であり、その私情に溺れることは許されないのです。
曽野綾子は当然、『尼僧物語』を読んでいたでしょう。
『不在の部屋』の主人公、多枝子は、1950年代に、聖心女子大を思わせる地方都市のカトリック系女子大で英文学を学び、修道女になる道を選びます。修道生活の不合理に驚きつつ、勝ち気な多枝子は、それを、打ち勝たなければならない試練と受け止め、修道院での地位を築きつつありました。
『不在の部屋』の最後に出てくる言葉ですが、修道院はなにも「特別」な場所ではなかったのです。個人の能力や実家の勢力による待遇の差もあれば、ねたみや偏見もありうる、社会の縮図でさえあったのですが、しかし、それでもやはり「特別」な場でありえたのは、神への絶対の服従を表明するために、修道女たちが耐え忍んでいた不合理でした。
1962年にはじまった第二ヴァチカン公会議は、修道会が中世から引きずっていた修道女間の身分差を無くし、修道女たちの生活をおおっていた不合理、つまり、新聞やテレビ、ラジオのニュースとも無縁で、個室もない集団生活、蒸し暑い日本の夏でも入浴は週二回、食べるにも着るにも個人の好みはすべて排除される、そんな服従の不合理を、解消する方向へと進みました。
それは当初、いいことずくめであるように見えたのです。たしかに、不合理な不自由はなくして、人並みな生活をしつつ世間にまじわる方が、より世の中の役に立つことができて、神の御心にもかなう、という理屈は、成り立ちそうに思えます。
しかし、抑圧からの解放は、かえって修道女たちに、修道生活の意味を見失わせてしまいます。『不在の部屋』の「不在」は、神の不在を示しているのです。
『不在の部屋』が、修道院という特殊な世界を舞台にしながら、確かなリアリティを持って迫るのは、曾野綾子の描くそれが、戦後の日本そのものの縮図であるから、でしょう。
50年代の地方都市で、カトリック系の女子校は、戦前の公立女学校にとってかわってお嬢さま学校となり、戦後教育を受ける少女たちは、西洋文化の具象を、西洋人の修道女に見て、憧れます。やがて高度成長の中、洋式化は進み、生ハムや手作りのチョコレートといった贅沢品が地方でも手に入るようになり、海外旅行も普通のこととなる一方、「平等」のはきちがいが始まり、義務は忘れ去られ、権利の要求のみが声高に叫ばれるようになります。
1970年代、修道女たちが神を見失ったように、一般の日本人もまた、合理性と快適のみを追い求めるあまりに、なにかを見失いつつあったのです。
最初、私は『哀歌』を、『不在の部屋』の続編として読もうとしたのですが、70年代から90年代へ、その落差を克明に描くことを、著者はしていませんでした。
『哀歌』の前半、ルワンダにおける主人公・春菜の修道生活と、ルワンダの社会、虐殺の過程は、具象性をもって緻密に描かれるのですが、一般の日本人にとっては非日常にすぎるその世界と、帰国した春菜が住む90年代の日本は、大きく断絶していて、ルワンダでの強姦の結果を引き受けて還俗した春菜の暮らしは、むしろ修道女であったとき以上に、日本の現実からは離れて、神に献身する世捨て人のように受け取れるのです。
日本の今を描くことにかけては、『哀歌』は『千々にくだけて』に劣っているでしょう。これは、二人の著者の年代の差なのでしょうか。
曾野綾子の最近の発言を見ていると、現在の日本を小説として構築することに、関心をなくしているのではないか、という気もします。
したがって、作品の完成度からすれば、『哀歌』は『不在の部屋』に劣るのです。ただ、「これだけは言っておきたい」という、荒削りな迫力のようなもの、ちょうど、『千々にくだけて』でエドワードが隣席の老女の言葉に「思わぬ力がこめられていた」と感じたと同じような感慨が、強く残りました。
『哀歌』曾野綾子
この2冊を、一気に読んでしまいました。
その感想が書きたくなって、ブログをはじめた次第です。
『千々にくだけて』は9.11、『哀歌』はルワンダ虐殺。
どちらも大量虐殺を素材にしているんですが、対照的な小説です。
リービ英雄は、非常に美しい日本語で、私小説を書く在日アメリカ人作家です。70年安保世代、いわゆる団塊の世代、でしょう。
一方、曾野綾子は、リービ英雄の母親に近いくらいのお年。保守的なカトリック信者で、構成が緻密な、つまり、感覚を重視する私小説とは対極にあるような、西洋的な小説を書いてきた女性です。
私はもともと、私小説を好みませんでした。湿気がありすぎる、とでもいうんでしょうか、じっとりと湿ったような感触が嫌いで、ほとんど読んでなかったのですが、リービ英雄はちがいました。日本語が本来の母語ではなかっただけに、距離感が作用しているのでしょうか。突き放したような、乾いた感覚で、しかし、しっかりと臨場感のある、美しい表現になっているんです。
wev上で偶然、彼の9.11関するアメリカの妹への書簡を見てから、『千々にくだけて』の発行を待ちかねていました。
現実にリービ英雄は、年に一度の恒例で、アメリカにいる母と妹に会うため、日本からカナダ経由でNYに飛ぼうとして、飛行機の中で、9.11の事件を知ったそうです。
9.11を「大量虐殺事件」と呼ぶことには、抵抗がある方もいるかもしれません。アメリカ合衆国は、その強大な国力ゆえに、日本では通常、「被害者の立場にある」という想念とは、結びつけて報道され辛いからです。
しかし、『千々にくだけて』によれば、日本からバンクーバーに向けて飛んでいた飛行機の機長は、直訳すれば「アメリカ合衆国は被害者となった。甚大なテロ攻撃の。したがって合衆国は、その国境を全部閉鎖しました」と放送したのだそうです。続いた日本人スチュワーデスのアナウンスにはもちろん、「被害者となった」という表現はありません。「アメリカ合衆国はテロリストの攻撃を受けました」と、「自分とは特に関係のない事柄だ、といった事務的な」声のアナウンスだったといいます。
9.11事件の最初の報道は、日本では夜中でした。
私がなにをしていたかというと、当時行きつけだったチャットをのぞいていました。しかしいつもの常連はいなくて、しばらく様子を見ていると、久しぶりに見る(おそらく1、2年ぶり)、ネット上の知り合いの男性が、顔を出しました。9.11のニュースを知って、だれかと話したくなったのだそうです。
私は、さっぱりニュースを見ていなかったので、知って驚かなかったわけではないのですが、まだ、なにが起こったのかよくはわからない段階でしたし、それこそ「自分とは特に関係のない事柄」というのが、第一印象でした。それより、その久しぶりのチャット相手が、いまなにをしているのかといった個人的な話題がはずんで、明け方近くまで語らっていました。
実感がわいたのは、寝て起きて、貿易センタービルがくずれ落ちる映像を、テレビで見てからです。それでも、「アメリカ合衆国は被害者になった」という実感は、わかなかったように記憶しています。
『千々にくだけて』という題は、芭蕉の句、「嶋々や千々にくだけて夏の海」からとったのだそうです。
リービ英雄、いえ、『千々にくだけて』の主人公エドワードは、カナダ西海岸の海岸線を機上から見下ろし、この句の英訳を思い浮かべていました。着陸後、余儀なく留まることとなったバンクーバーの宿で、テレビ画面の貿易センターの崩壊を見て、「ちぢにくだけて」という日本語と、「Broken into thousands of pieces」という翻訳が、彼の頭の中を走りまわります。
芭蕉の句! あの映像を見て芭蕉の句、というのは、ちょっとした驚きでした。
それはおそらく、アメリカ国籍を持ち、アメリカに親族がいる著者と、ごく普通の日本人である私との、9.11事件に対する距離感のちがい、なんでしょう。
ようやく電話連絡がとれたブルックリンの妹は、震える声で、そのときの様子を語ります。
マンハッタンの方向から、空を流れてくる灰の川。デッキにふりつもる灰に、焼けた紙切れがまじり、その紙切れの一つに「Miss Kato at Fuji Bank」の文字。富士銀行のミス・カトーは、どうなったのか‥‥‥。
印象的な描写です。
私が事件の重大さを実感したのは、妹の知り合いの肉親の女性が、出張で貿易センタービルを訪れていて行方不明だと聞き、同ビルで開業していた母の知り合いの医者が、当日、緊急の往診に呼ばれていたおかげで助かった、という話を聞いたあげく、だったでしょう。
「ミス・カトー」は、妹の知り合いの肉親の女性だったでしょう。
日本の地方都市の日常は、否応もなくアメリカ合衆国の貿易センタービルの日常とつながっていて、アラブのテロリストの日常と、つながってはいないのです。
ただそれは、たまたま出かけていた先の国で、地震や津波などの天災にまきこまれることもあると実感することと、あまりちがいはないような気がします。
少なくとも、エドワードがバンクーバーのテレビで見たイギリスやカナダの追悼式で、星条旗をかざし、あるいは「星条旗よ永遠なれ」を歌う人々のような、「私たちは悪意による攻撃の被害者の一員になった」という一体感とは、大きくずれているでしょう。
そういった日本人の距離感も、著者は、カナダに来ていて足止めされた日本人観光客を描くことで、見事に表現しています。
もっとも印象的な日本人の登場人物は、飛行機で、エドワードが隣あわせた老女でしょうか。「エドワードの母よりは若い」そうですが、おそらくは、曾野綾子と同年代でしょう。ブランドものの派手な花柄のドレスを着て、強い香水の匂いをまとった厚化粧の老女は、豪華客船によるアラスカ・クルーズに参加するため、バンクーバー行きの飛行機に乗っていたのですが、9.11を報じる機内放送で、はじめてエドワードは老女と会話をかわします。
アメリカ行きの飛行機は飛ばない、というアナウンスに、エドワードが「今日の夜は空港のベンチで寝ることになるかもしれない」と笑うと、老女は、「戦争が終わったときのことを、あなたは知らないでしょう」と応じます。
この言葉に、エドワードは不意をつかれます。
「戦争が終わったとき、わたし、三日間も駅のホームで寝たことがある。いざとなったときは大丈夫ですよ」
続いた老女の言葉に、エドワードは、「焼け跡の中で家へ帰ろうとしているもんぺ姿の女学生」を思い浮かべるのです。
これは現実にあったことだと、著者が週刊文春のインタビューで答えていましたが、実際、この老女の描写には、肉親や知り合いのこの年代の日本女性のだれであってもおかしくないような、リアリティがありました。
米軍の爆撃で学徒動員先の工場を焼かれ、機銃掃射に追われたもんぺ姿の女学生は、家も焼かれていて、両親の疎開先へ向かおうとする途中、列車が動かなくなり、駅のホームで寝たのでしょうか。
それは、当時の女学生のだれにでも起こったことなのですが、その女学生たちは戦後教育を受け、教師になったか、サラリーマンの妻になったか、商店や中小企業のおかみさんになったか、ともかく、日本の高度成長をささえて乗り越え、子供たちを育てあげ、豊かな蓄えを持って、少女時代にかなわなかった夢のかけらでも満たそうと、世界中へ出かけています。
そして、彼女たちの多くは、美しい外国の風景や珍しい風俗、あるいは昔読んだ小説や映画の舞台、本場のオペラやバレーなどに満足の吐息をもらし、帰国して言うのです。「すばらしかった。だけど日本が一番いい。日本に生まれてよかった」と。
彼女たちは、同年代の曾野綾子が、『哀歌』において、主人公であるルワンダの日本人修道女を、「日の丸とパスポート」に命を守られている、と描写したように、菊の紋章のパスポートに守られていることを、強く意識しています。国民を守るに足る国力を、焼け跡の中から再び築き上げたのは自分たちだ、という自負とともに。
老女がエドワードに、自分の息子を重ねていたのは確かでしょう。
「大丈夫ですよ」に続く言葉は、老女にとっては、自明のものだったはずです。
「あなたは、星条旗とアメリカのパスポートに守られているから」
エドワードがテレビで、アメリカの追悼式に出席した歴代大統領を見て、「かれらのために、だれが死ぬものか」と思うとき、私の頭に真っ先に浮かんできたのは、日本人の老女の姿です。彼女が、そんなエドワードをもし見たならば、苦笑とともにもらす言葉は、やはり、「でもあなたは、星条旗に守られている」でしょう。
著者は、そこまで計算して、日本人の老女を登場させたのでしょうか。だとするならば、舌を巻くうまさです。
登場人物それぞれの事件への距離感の的確な描写は、著者が、日本語で小説を書く在日アメリカ人でなければ、なしえなかったことでしょう。
老女に近い場所に身を置きながら、私小説という、近代日本が生んだ独特のジャンルが、これほどまでに実り豊かなものであったと気づかせてくれた著者の技に、感嘆を禁じえません。
リービ英雄と曾野綾子の対談を読んでみたい、と、いま、思っているのですが、曾野綾子の作品は、これまでに、『不在の部屋』しか読んでいませんでした。
『不在の部屋』は、おそらく著者の曾野綾子よりも10歳くらい若い、つまり、太平洋戦争の最中あたりに生まれた小川多枝子を主人公として、第二ヴァチカン公会議の結果にゆれる、日本のある地方都市の修道女の世界を描いたもので、書かれたのは1970年代です。
オードリー・ヘプバーン主演の『尼僧物語』という古い映画をご存じでしょうか。私もテレビで放映されて見ただけなのですが、その前に、アメリカのベストセラー小説である原作の翻訳を読んでいました。
舞台は戦前のベルギーです。主人公のガブリエラは、医学者の父を持ち、母を早くに亡くして、修道女の道を歩みます。信仰心と修道生活の不合理との狭間で葛藤しつつ、熱帯医学を学び、植民地コンゴの伝道に生き甲斐を見出しますが、修道院は彼女を、内地へ呼び返します。やがて第二次世界大戦が始まり、ベルギーはドイツに占領されて、修道院も戦争と無縁ではいられなくなります。ガブリエラは「敵を愛せよ」という神の教えに、どうしても従えない自分を発見し、ついに還俗することを決意します。神への絶対の服従を誓った修道女にとって、愛国心は私情であり、その私情に溺れることは許されないのです。
曽野綾子は当然、『尼僧物語』を読んでいたでしょう。
『不在の部屋』の主人公、多枝子は、1950年代に、聖心女子大を思わせる地方都市のカトリック系女子大で英文学を学び、修道女になる道を選びます。修道生活の不合理に驚きつつ、勝ち気な多枝子は、それを、打ち勝たなければならない試練と受け止め、修道院での地位を築きつつありました。
『不在の部屋』の最後に出てくる言葉ですが、修道院はなにも「特別」な場所ではなかったのです。個人の能力や実家の勢力による待遇の差もあれば、ねたみや偏見もありうる、社会の縮図でさえあったのですが、しかし、それでもやはり「特別」な場でありえたのは、神への絶対の服従を表明するために、修道女たちが耐え忍んでいた不合理でした。
1962年にはじまった第二ヴァチカン公会議は、修道会が中世から引きずっていた修道女間の身分差を無くし、修道女たちの生活をおおっていた不合理、つまり、新聞やテレビ、ラジオのニュースとも無縁で、個室もない集団生活、蒸し暑い日本の夏でも入浴は週二回、食べるにも着るにも個人の好みはすべて排除される、そんな服従の不合理を、解消する方向へと進みました。
それは当初、いいことずくめであるように見えたのです。たしかに、不合理な不自由はなくして、人並みな生活をしつつ世間にまじわる方が、より世の中の役に立つことができて、神の御心にもかなう、という理屈は、成り立ちそうに思えます。
しかし、抑圧からの解放は、かえって修道女たちに、修道生活の意味を見失わせてしまいます。『不在の部屋』の「不在」は、神の不在を示しているのです。
『不在の部屋』が、修道院という特殊な世界を舞台にしながら、確かなリアリティを持って迫るのは、曾野綾子の描くそれが、戦後の日本そのものの縮図であるから、でしょう。
50年代の地方都市で、カトリック系の女子校は、戦前の公立女学校にとってかわってお嬢さま学校となり、戦後教育を受ける少女たちは、西洋文化の具象を、西洋人の修道女に見て、憧れます。やがて高度成長の中、洋式化は進み、生ハムや手作りのチョコレートといった贅沢品が地方でも手に入るようになり、海外旅行も普通のこととなる一方、「平等」のはきちがいが始まり、義務は忘れ去られ、権利の要求のみが声高に叫ばれるようになります。
1970年代、修道女たちが神を見失ったように、一般の日本人もまた、合理性と快適のみを追い求めるあまりに、なにかを見失いつつあったのです。
最初、私は『哀歌』を、『不在の部屋』の続編として読もうとしたのですが、70年代から90年代へ、その落差を克明に描くことを、著者はしていませんでした。
『哀歌』の前半、ルワンダにおける主人公・春菜の修道生活と、ルワンダの社会、虐殺の過程は、具象性をもって緻密に描かれるのですが、一般の日本人にとっては非日常にすぎるその世界と、帰国した春菜が住む90年代の日本は、大きく断絶していて、ルワンダでの強姦の結果を引き受けて還俗した春菜の暮らしは、むしろ修道女であったとき以上に、日本の現実からは離れて、神に献身する世捨て人のように受け取れるのです。
日本の今を描くことにかけては、『哀歌』は『千々にくだけて』に劣っているでしょう。これは、二人の著者の年代の差なのでしょうか。
曾野綾子の最近の発言を見ていると、現在の日本を小説として構築することに、関心をなくしているのではないか、という気もします。
したがって、作品の完成度からすれば、『哀歌』は『不在の部屋』に劣るのです。ただ、「これだけは言っておきたい」という、荒削りな迫力のようなもの、ちょうど、『千々にくだけて』でエドワードが隣席の老女の言葉に「思わぬ力がこめられていた」と感じたと同じような感慨が、強く残りました。