『哀歌』曽野綾子著
『ジュノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著
『哀歌』の参考文献に、唯一の翻訳文献として『ジュノサイドの丘』があげられていたので、読んでみました。
『哀歌』を読んで、「これは、中国の文化大革命やカンボジアの虐殺に近いのではないか」という感触を持っていたのですが、『ジュノサイドの丘』で、その思いは強められました。もっとも、著者のフィリップ・ゴーレイヴィッチは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のみを類似例としてあげています。著者がアメリカ人である以上、「ルワンダに対してアメリカはどうあるべきだったか」という問題意識が主題の一つになっていて、アメリカには手の出しようのなかった中国や、中国の影響下にカンボジアで起こった虐殺は、類例として適切ではなかったのかもしれませんけれども。
植民地となる以前、ルワンダは王国だったのだそうです。フツ族とツチ族は、この王国の段階から分離しかけていたようなのですが、ちがう民族であったわけではなく、おおざっぱにいって、ツチ族が貴族階級、フツ族は被支配階級ではあるものの、その境界線はあいまいでした。
著者は、そこへ、「ヨーロッパ人種に似た顔立ちのエチオピア人がアフリカで唯一の文明の担い手」というような、19世紀末ヨーロッパの選民思想が入り込み、支配者層であったツチ族とフツ族は人種がちがう、という神話になったのだとしています。一般に、ツチ族は背が高く面長で、フツ族はずんぐりして丸顔といわれるにもかかわらず、現実には、見分けはつかないのです。
そういえば、徳川将軍家の墓所が調査されたとき、3代目あたりから、面長で貴族的な顔立ちになっている、と報告されていましたが、食べ物などのライフスタイルで、顔立ちも身長も相当にちがってきますから、結局、ツチ族とフツ族のちがいは、その程度のものなのでしょう。
19世紀末、王位継承の争いでルワンダは乱れ、それに乗じて、ドイツが間接支配の植民地とします。第1次世界大戦によるドイツの敗戦で、支配者はベルギーに代わりますが、ベルギーはツチ族を貴族階級として優遇し、ツチとフツの断絶を深めたと、著者は言います。第2次大戦後、独立が日程にのぼり、ベルギーは民主革命をめざすフツに肩入れするようになりましたが、ルワンダの民主革命は、多数派のフツがツチに取って代わることであり、少数派の権利は考慮されなかった、のだそうです。
しかし考えてみれば、そもそもフランス革命がそうであり、血まみれの虐殺は、民主主義革命の側面だったのではなかったでしょうか。
結局、フツ族は流血の暴力革命で政権を奪い、ベルギーもそれを応援しました。
以来、ツチ族は、中華人民共和国や北朝鮮における「地主・資本家・反革命者」のようなものとなり、差別を受けるのです。
共産政権の例を引いたのは、著者のように、ドイツにおけるユダヤ人を引っ張ってくるよりも、その方が、状況がわかりやすいからです。
ツチ族は、資本家であり地主であり知識階層であったわけですから、最初からすべて抹殺してしまうと、国が成り立ちません。したがって、政権の一角を担うツチ族もいましたし、始終、流血沙汰が起こっていたわけでもありません。また、難民となったり亡命者となって、国外へ逃れたツチ族も多かったわけで、1994年に起こった未曾有の大虐殺は、文化大革命だったと考えると、理解しやすいのです。ツチ族は、ルワンダにおける「黒五類」でした。
貧しい、ごく普通の農家の息子や娘が、国営ラジオの扇動で民兵となり、隣人を殺し、犯し、略奪をする。文化大革命にそっくりではありませんか。
ちがうところといえば、隣国を拠点とするツチ族の反政府ゲリラがいたことで、文化大革命の影響を受けた、カンボジアの大虐殺に例える方が、あるいはもっとわかりやすいかもしれません。
当時のルワンダには、国連の平和維持軍が展開していました。しかし、ソマリアで米軍が虐殺された直後であり、また、当初にベルギーからの派遣兵が死者10名を出したことによって、国連軍は虐殺を傍観し、引き上げました。
虐殺は、長期間にわたって準備されていました。ルワンダ政府そのものが、虐殺を扇動していたのです。これを防ぐことができたのは、ルワンダ軍よりも強力な武器を持った、軍隊だけでした。
犠牲者100万人という大虐殺を止めたのは、反政府軍の侵攻でした。しかし、最初から政府軍の方に肩入れしていたフランスは、国際世論を誤った方向に導き、ジュノサイドをくりひろげる政府軍に、余裕を与えるような停戦のための派兵に、踏み切ったといいます。
また、今度はフツ族が難民として国外へ出ることになり、もちろんその中にはジュノサイドの指導者も多数まじっていましたが、ここでようやく悲劇を知った世界の援助は、難民キャンプに集中し、虐殺の主体を助けるという皮肉な現象も起こったようです。
『ジュノサイドの丘』は当然、最初に、見て見ぬふりをして放置した国連とアメリカ政府を問題視しています。
そういえば、これと同じ頃、ボスニアでも虐殺が起こっていたのですが、国連指揮下にいたNATO軍は、国連の許可が出なかったために介入できず、虐殺を止めることができませんでした。このときの国連の現地最高指揮者は、明石康氏でした。
明石氏は、この2年前のカンボジアPKOでは、選挙を成功させ、カンボジアに秩序を取り戻すという快挙を成し遂げましたが、カンボジアの場合、虐殺はベトナム軍の侵攻でとっくの昔に収束した後でしたし、人には向き不向きというものがあるのでしょう。
といいますか、結局のところ国連は、頭のない、不効率で巨大な官僚組織にすぎませんから、責任逃れは体質であり、暴力には弱い、ということなのでしょうか。
いまなお日本では、ボスニア紛争でのNATOの空爆を非難するむきもあるようですが、欧米ではリベラル派も空爆を支持し、明石氏を非難しています。
ルワンダ虐殺における国連の責任について、当時のアメリカ国連代表部職員は、こう証言したそうです。
「まさに悲劇的な計算ですが、何人のルワンダ人が死のうが関係ないのです。ルワンダ人の命は、アメリカ人やベルギー人、あるいは日本人の命に見合う価値はないのです」
もちろん、場合にもよるでしょう。しかし、虐殺をとめることができたにもかかわらず、軍事介入をしぶった場合、それは卑怯で傲慢な態度だと見なされるのだということを、私たちも知っておくべきではないでしょうか。
話してわかるものならば、虐殺など起こりはしません。虐殺をとめうるのは、軍事力だけなのです。
それにしましても、かつて大虐殺を引き起こした独裁政権のままの中国が、常任理事国であることを考えますと、国連というのは、つくづく異常な組織です。
ルワンダ大虐殺を描いた『哀歌』の題は、旧約聖書からとられました。
エルサレムの滅亡と捕囚という民族の悲劇を歌った哀歌です。
「街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り殺し、屠って容赦されませんでした」
「主よ、生死にかかわるこの争いをわたしに代わって争い
命を贖ってくださ。
主よ、わたしになされた不正を見、わたしの訴えを取り上げてください。
わたしに対する悪意を、謀のすべてを見てください」
「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ。あなたの幼子らのために」
『ジュノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著
『哀歌』の参考文献に、唯一の翻訳文献として『ジュノサイドの丘』があげられていたので、読んでみました。
『哀歌』を読んで、「これは、中国の文化大革命やカンボジアの虐殺に近いのではないか」という感触を持っていたのですが、『ジュノサイドの丘』で、その思いは強められました。もっとも、著者のフィリップ・ゴーレイヴィッチは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のみを類似例としてあげています。著者がアメリカ人である以上、「ルワンダに対してアメリカはどうあるべきだったか」という問題意識が主題の一つになっていて、アメリカには手の出しようのなかった中国や、中国の影響下にカンボジアで起こった虐殺は、類例として適切ではなかったのかもしれませんけれども。
植民地となる以前、ルワンダは王国だったのだそうです。フツ族とツチ族は、この王国の段階から分離しかけていたようなのですが、ちがう民族であったわけではなく、おおざっぱにいって、ツチ族が貴族階級、フツ族は被支配階級ではあるものの、その境界線はあいまいでした。
著者は、そこへ、「ヨーロッパ人種に似た顔立ちのエチオピア人がアフリカで唯一の文明の担い手」というような、19世紀末ヨーロッパの選民思想が入り込み、支配者層であったツチ族とフツ族は人種がちがう、という神話になったのだとしています。一般に、ツチ族は背が高く面長で、フツ族はずんぐりして丸顔といわれるにもかかわらず、現実には、見分けはつかないのです。
そういえば、徳川将軍家の墓所が調査されたとき、3代目あたりから、面長で貴族的な顔立ちになっている、と報告されていましたが、食べ物などのライフスタイルで、顔立ちも身長も相当にちがってきますから、結局、ツチ族とフツ族のちがいは、その程度のものなのでしょう。
19世紀末、王位継承の争いでルワンダは乱れ、それに乗じて、ドイツが間接支配の植民地とします。第1次世界大戦によるドイツの敗戦で、支配者はベルギーに代わりますが、ベルギーはツチ族を貴族階級として優遇し、ツチとフツの断絶を深めたと、著者は言います。第2次大戦後、独立が日程にのぼり、ベルギーは民主革命をめざすフツに肩入れするようになりましたが、ルワンダの民主革命は、多数派のフツがツチに取って代わることであり、少数派の権利は考慮されなかった、のだそうです。
しかし考えてみれば、そもそもフランス革命がそうであり、血まみれの虐殺は、民主主義革命の側面だったのではなかったでしょうか。
結局、フツ族は流血の暴力革命で政権を奪い、ベルギーもそれを応援しました。
以来、ツチ族は、中華人民共和国や北朝鮮における「地主・資本家・反革命者」のようなものとなり、差別を受けるのです。
共産政権の例を引いたのは、著者のように、ドイツにおけるユダヤ人を引っ張ってくるよりも、その方が、状況がわかりやすいからです。
ツチ族は、資本家であり地主であり知識階層であったわけですから、最初からすべて抹殺してしまうと、国が成り立ちません。したがって、政権の一角を担うツチ族もいましたし、始終、流血沙汰が起こっていたわけでもありません。また、難民となったり亡命者となって、国外へ逃れたツチ族も多かったわけで、1994年に起こった未曾有の大虐殺は、文化大革命だったと考えると、理解しやすいのです。ツチ族は、ルワンダにおける「黒五類」でした。
貧しい、ごく普通の農家の息子や娘が、国営ラジオの扇動で民兵となり、隣人を殺し、犯し、略奪をする。文化大革命にそっくりではありませんか。
ちがうところといえば、隣国を拠点とするツチ族の反政府ゲリラがいたことで、文化大革命の影響を受けた、カンボジアの大虐殺に例える方が、あるいはもっとわかりやすいかもしれません。
当時のルワンダには、国連の平和維持軍が展開していました。しかし、ソマリアで米軍が虐殺された直後であり、また、当初にベルギーからの派遣兵が死者10名を出したことによって、国連軍は虐殺を傍観し、引き上げました。
虐殺は、長期間にわたって準備されていました。ルワンダ政府そのものが、虐殺を扇動していたのです。これを防ぐことができたのは、ルワンダ軍よりも強力な武器を持った、軍隊だけでした。
犠牲者100万人という大虐殺を止めたのは、反政府軍の侵攻でした。しかし、最初から政府軍の方に肩入れしていたフランスは、国際世論を誤った方向に導き、ジュノサイドをくりひろげる政府軍に、余裕を与えるような停戦のための派兵に、踏み切ったといいます。
また、今度はフツ族が難民として国外へ出ることになり、もちろんその中にはジュノサイドの指導者も多数まじっていましたが、ここでようやく悲劇を知った世界の援助は、難民キャンプに集中し、虐殺の主体を助けるという皮肉な現象も起こったようです。
『ジュノサイドの丘』は当然、最初に、見て見ぬふりをして放置した国連とアメリカ政府を問題視しています。
そういえば、これと同じ頃、ボスニアでも虐殺が起こっていたのですが、国連指揮下にいたNATO軍は、国連の許可が出なかったために介入できず、虐殺を止めることができませんでした。このときの国連の現地最高指揮者は、明石康氏でした。
明石氏は、この2年前のカンボジアPKOでは、選挙を成功させ、カンボジアに秩序を取り戻すという快挙を成し遂げましたが、カンボジアの場合、虐殺はベトナム軍の侵攻でとっくの昔に収束した後でしたし、人には向き不向きというものがあるのでしょう。
といいますか、結局のところ国連は、頭のない、不効率で巨大な官僚組織にすぎませんから、責任逃れは体質であり、暴力には弱い、ということなのでしょうか。
いまなお日本では、ボスニア紛争でのNATOの空爆を非難するむきもあるようですが、欧米ではリベラル派も空爆を支持し、明石氏を非難しています。
ルワンダ虐殺における国連の責任について、当時のアメリカ国連代表部職員は、こう証言したそうです。
「まさに悲劇的な計算ですが、何人のルワンダ人が死のうが関係ないのです。ルワンダ人の命は、アメリカ人やベルギー人、あるいは日本人の命に見合う価値はないのです」
もちろん、場合にもよるでしょう。しかし、虐殺をとめることができたにもかかわらず、軍事介入をしぶった場合、それは卑怯で傲慢な態度だと見なされるのだということを、私たちも知っておくべきではないでしょうか。
話してわかるものならば、虐殺など起こりはしません。虐殺をとめうるのは、軍事力だけなのです。
それにしましても、かつて大虐殺を引き起こした独裁政権のままの中国が、常任理事国であることを考えますと、国連というのは、つくづく異常な組織です。
ルワンダ大虐殺を描いた『哀歌』の題は、旧約聖書からとられました。
エルサレムの滅亡と捕囚という民族の悲劇を歌った哀歌です。
「街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り殺し、屠って容赦されませんでした」
「主よ、生死にかかわるこの争いをわたしに代わって争い
命を贖ってくださ。
主よ、わたしになされた不正を見、わたしの訴えを取り上げてください。
わたしに対する悪意を、謀のすべてを見てください」
「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ。あなたの幼子らのために」