郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2

2007年04月10日 | 幕末留学
巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1の続きです。

慶応2年(1866)、イギリスの東アジア貿易は金融危機に陥り、ジャーデン・マセソン商会も危なくなります。グラバーの金主はジャーデン・マセソンでしたので、そんな関係があったことと思われますが、薩摩藩庁は留学費用に困ることになっていたようです。
五代友厚は、帰国後すぐに、新たにアメリカへ留学生を送り出す計画を実行し、この年の3月28日、長崎より、仁礼平輔(景範)、江夏蘇助、湯地治右衛門、種子島啓敬輔の五人を、欧州経由で送り出します。5人は途中、上海にも滞在し、喜望峰経由でゆっくりと旅をしたようで、ロンドン到着は9月7日なのですが、後年の清蔵少年談によれば、このため、イギリス留学生の費用を減らす必用が出てきて、数人の帰国が決まった、ということなのですね。
おそらく、それは、4月か5月ころだったでしょう。三笠(名越平馬)、岩屋(東郷愛之進)、松本(高見弥一)、塩田(町田甲四郎・兄)が帰国することになります。このとき、ほんとうは、清蔵少年も帰国するはずでしたが、フランスへ行くこととなりました。

「私が仏国行ともうすのは、仏国に、薩摩に同情をよする貴族で伯爵、モンブラン家において、青少年を帰すは将来、薩摩公の御ためならずだから、この青少年は私(モンブラン)が引き取り学費も出します、とのことより参りました。仏国では、学校教師の某(名を忘れました)の宅に居りました。この家庭は、老夫婦と17、8の娘さんと、8歳ばかりの男の子と4人で、私と5人で、その老婦は英国人で、娘さんも英語が流暢でしたから、英語ばかりで話ますと、おやじさんが不機嫌で、言うに、あまり英語を使わせると仏語が覚えぬからよくない、というもかかわらず、私は老母と娘さんにかわいがられて、食事の時だけ、一家団らんに仏語を使いました」

この下宿は、先にモンブランが連れ帰っていたジェラールド・ケン(斉藤健次郎)がいたところだったそうなんですが、どうやらケンは、薩摩藩に傭われて、日本へ帰っていたようです。翌年、博覧会で再び渡仏しますから、その準備に傭われたのでしょう。
それにしても、イギリスの下宿にくらべて家庭的で、清蔵少年にとっては、とても楽しい生活だったようです。

「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」

えーと、薩英戦争は? とつっこみたくなるんですが、あんまり「戦争」という感じがしなかったんでしょうねえ。たしかに鹿児島城下は焼けましたが、火事みたいなもので、薩摩側はだれも死んでないですし。
「モンブラン伯の御妹子」が結婚した男爵は、フランス陸軍関係者でもあったのでしょうか。もしかすると、新妻を連れての観戦、でしょうか。
普墺戦争も、けっこう、のんびりしたものであったようです。

「その後、英国の学生沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、上野(町田久成・にいさん)、参りまして、モンブラン伯爵の了解を得て、私を帰国さする用件だったようです。私は兄がいうなりにしておりました。議論というのは、よくよく外国貴族の世話で学費までも出してもらうという事は、わが君公に対し御不名誉につき、帰藩するが得策との事にて、兄上野は、私の実兄かつ学頭の身柄なれば、ほかのものは帰して、私を置くわけにはまいりませんでしたろうと思います」

また出てきました。性格が悪い、森と吉田ペアー。これも後年の思い違い、ということは、大いにありそうなんですが、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがいで書きましたように、おそらくモンブラン伯爵は無神論者に近かったと思われ、一方、この当時、イギリスで森や吉田に強い影響力を持っていたローレンス・オリファントは、ハリスの新興キリスト教に、狂信的といっていいほど傾倒していたんです。
そんな関係から、オリファント卿にモンブラン伯の悪口を吹き込まれた二人が、学頭だった町田にいさんに、「信用できないから、弟を預けるのはよせ」くらいは、言った可能性があります。
楽しいパリ留学生活を送っていた清蔵少年には、迷惑きわまりない話です。

「それで、ようよう伯爵の了解を得て帰国の事になりましたが、下宿屋の老夫婦、娘さんなどとは、大いにかなしみました。さて私は16歳でひとり旅であるから、伯爵家より仏国郵船会社長へ、日本薩摩少年を無事に取扱を申し入れられたるをもって、会社長は東洋出帆の郵船長に申し伝えられ、私は航海中、至極便利を得しました」

実際にはどうも、久成にいさんとともに畠山義成が、一人で帰国する清蔵少年を気遣い、モンブラン伯とも細かく連絡をとっていたことが、残された畠山の書翰からうかがえるのですが、おそらくは翌年、畠山が森や吉田などとともにモンブラン批判を建白し、藩の帰国命令にさからって、ハリス教団に入ったことから、町田にいさんをはじめ、町田家にとってはあまりいい印象が残らず、清蔵少年の記憶からも、すっぽりとぬけ落ちたのかもしれません。

「いよいよ仏国出発の前日、兄より私に船中の小遣いとして英金貨20ポンド(日貨百両)をくれました。ほかに香港にて受け取る為換英貨100ポンドの證券一枚をくれ、別れる時のかなしさ、その夜は泣いて寝ませんでした。翌日はマルセイユへ出発し、時刻を計りまして、一家族に別れる時は老夫婦はいくどか私と接吻をかわしまして、娘さんは、パリの中央停車場まで見送り、一等待合室に、一生の別れかと、将来またまた仏国へおいでなさいと、またまた接吻をかわし、発車20分前のベルが鳴り、私両人は室外に出て、娘君と幾度も接吻を続け車上の人となりました。かの接吻と申しまするものは、假令一青小の男女にても、別れる時の人情で、かつ外国の常習でありますから、ほかの多くの人たちは、さらさらかえりみません。車上では仏国を思い、英国の兄を思いまして、じつなふおさりました」

マルセイユ行列車が発着する駅ですから、バスティーユ広場に近いリヨン駅でしょうか。
停車場で、泣きながらキスをして、別れをかわす17、8のアドモアゼルと、16歳の薩摩貴公子。
楽しい留学生活でしたのにねえ。意地悪な人がいるものです。

「マルセール着しまして、一夜旅宿しまして、翌日出帆の仏国郵船に乗り組みました。マルセイユの支店長が乗り、この支店長と乗船し、船長にモンブラン伯爵の添書を渡しました。船中は私一人の日本人で、船長よりほかに知人もなく、しかし長き航海のうちにははなしみもできることと思っておりましたが、そのうち船客も乗組済、抜碇となりまして、桟橋をはなれて進行を始め約一里ばかり行った時、一等客上甲板にて、あたかも私と同年輩の少年が、私の安楽椅子により申しますに、あなたは日本人ですかシナ人ですか。私は、シナといわれ少しく腹が立ちましたが、私はこう答えました。私は日本帝国民で、長く英仏の間に留学しておりました。あなたはどちらですか」

さすがは、国学と蘭学で育った清蔵少年です。
同年配の少年は、オランダ人でした。少年の祖父が、「蘭領オースタリヤ」の海軍司令官で、父親が海軍中佐で、一家そろって赴任するところだったのです。
日本から、東南アジアまわりの幕末渡欧航海記に、このオランダ領「オーストラリヤ」というのがよく出てきて、とまどうんですけど、おそらく、いまでいう「オーストロネシア」で、インドネシアのことなんじゃないんでしょうか。

「今後はお友達になりましょうというので、これから無二の戦友となりまして、四十余日間兄弟のようにいたし、各港に着けば必ず二人で乗降しました。中将は白髪、年は72、3とか申し、中佐は50余歳で船友となりました。少年は私と同年で16歳でした。ある日、夕食後、上甲板で中将と椅子を並べて、孫さんがその次におり、孫さんと中将となにか蘭語で話しており、私はさらにわかりませんでしたが、中将はあまり達者でない英語でもって言うには、オーストラリヤへ行かんかと。私は、行きたいも私は香港為換券の百ナポレオンしか金がありませんからいかがいたしましょうか、と申しますと、中将が申しますに、お金などいらぬ、わしが小遣い金はあげるから心配はない、またオランダの海軍士官にして、オランダの国籍に入れる、と。このとき、戦友の孫さんがしきりに祖父さんにせまりましたから、ますます私にオーストラリヤ行きを勧め、私も孫さんと離別する事をかなしむところより、乗り気になりまして、承諾いたし、それからというものは、孫さんの大喜び、ますます兄弟のようになりましたから、いよいよ香港より南下脱走を決心しました」

あれあれあれあれ。数えで16歳ですから、今でいえば15歳ですが、新納少年にくらべて、町田少年、なんとも陽気です。
モンブラン伯爵に気に入られ、下宿では家族同然にかわいがられ、豪華客船一等船室では、オランダ提督のお孫さんと無二の親友になる。
育ちがよくて、素直で、人なつっこかったんでしょうね。
この部分になんとなく覚えがあって、司馬さんがなにかの随筆で紹介されていたように思います。
ともかく、当然ですが、香港では、おそらくジャーデン・マセソンの社員が連絡を受けていて、お孫さんとともに「オーストラリヤ」へ行こうとする清蔵少年を引き留めます。
大事なお得意先、薩摩藩の名門のおぼっちゃんが、オランダ人にさらわれた、では、申し訳がたちませんものね。
清蔵少年は、上海経由で長崎に帰り着きましたが、上海でも送金を受けて、三、四百両も持っていたんだそうです。
とりあえず、薩摩藩の長崎屋敷に落ち着くのですが、長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)が、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といって、二人の薩摩藩長崎留学生に清蔵少年を預けたのですが、この二人、とんでもない遊び人でした。

「ある日、長崎の丸山という遊郭に誘われて一泊しましたが、私は子供のことにつき、女郎と寝たばかりで、女郎の方では自分の子供を抱いたように思い大事に取扱いくれ、私は色気のいの字も知らん時ですから面白い事もなく、よく朝勘定をすまし帰りましたところ、いつしかこのことが汾陽の耳に入り」、汾陽は清蔵少年に、「二人の書生があなたを悪所に連れて、その費用をはらわせたとのことにつき、書生を呼びよせしかりおきましたが、この後、いかようのことをあなたに勧めるかもはかりがたいにつき、鹿児島にお帰りになった方がよかろうと思います」

そういうわけで、清蔵少年は、久しぶりに、故郷の土を踏みました。
「財部実行回顧談」は、昔日の洋行のことを語るのが主目的だったようでして、帰国後のことは、ごく簡単にしか述べられていません。
昔からの約束で、清蔵少年は、やはり島津一門の門閥で、平佐城主、北郷主水の養子となり、五代友厚が立ち上げた鹿児島紡績工場のイギリスたちの通訳を務め、維新を迎えたようです。
町田兄弟の間では、英文で手紙をやりとりするほどで、清蔵少年、さっぱり日本文ができません。久成にいさんの勧めで、東京へ出て、漢学を習い、その後、築地の海軍兵学寮で学んでいたのですが、「明治7年征韓論のとき退学」したそうなのです。
その後、清蔵少年がどういう人生を送ったのか、西南戦争には参加しなかったのか、知りたいのですが、かいもく、手かがりもつかめません。
なにか、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする