春や昔 十五万石の城下かな
この正岡子規の句を引いて、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は幕をあけます。
上の写真は、松山城天守閣から、その十五万国の城下町を見下ろしたところです。
松山城天守閣は、市内中心部の小高い山の上にありまして、少し前までは、市内のどこからでも仰ぐことができました。
実は、松山城の天守閣は、江戸時代も後期にさしかかった天明4年(1784)、雷が落ちて全焼してしまったんです。
二度ほど建て直そうとしたんですが、財政難で、かなわないまま時は過ぎました。
なんせ天守閣は、けっこうな山の上なんです。
他県の友人を案内しましたら、「これ、散歩っていうより登山!」と驚いていたほどです。
藩主の住居である二之丸などは麓にありまして、山の上の天守閣がなくとも、実質、困りはしないわけなのです。
ところで、松山城を造ったのは、豊臣秀吉の家臣だった加藤嘉明です。
しかしお城の完成を目前にして、会津へ転封。
次いで蒲生忠知が入り、お城を完成させるんですが、男子なく断絶。
次いで松平定行が来て、徳川家の親藩となり、幕末まで続きます。
みーんな、鉢植え大名です。
えーと、です。伊予の松山は、中世からの、いえ源平合戦に出てきますので古代からの、でしょうか。ともかく、古い豪族で守護職ともなった河野氏がずっと治めていまして、うちの近所に道後公園(温泉のそばです)がありますが、14世紀ころからそこに築城しまして、16世紀末に土佐の長宗我部氏に攻められて降伏しましたところが、その直後、豊臣秀吉に従った中国地方の毛利氏にやられて、河野氏は滅亡します。
なんでも戦国時代には、道後にキリシタンの教会なんかもあったそうで、瀬戸内海の要所ですから、けっこう栄えていたんですけれども、まあ、そのー、兵は弱いですわ。
あー、陸兵より水軍の土地柄なんですけどね、河野氏配下だった村上水軍が離反したりもしましたし。
で、徳川将軍家光の時代、桑名から松山へやってきた松平定行です。
松平といいましても、本姓は久松で、明治以降は久松にもどし、伯爵家となりましたが、この人の父親が、徳川家康の異父兄弟、なんですね。
つまり家康のおかあさんの於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだ、というわけです。
で、なぜだか知りませんが、定行の嫁さんが薩摩島津家の出で、この方は桑名で亡くなっているそうですが、二代定頼は、正室である島津家の姫さんのお子です。
で、この二代目定頼の娘さんが、今度は薩摩藩・島津綱久に嫁ぎ、三代目薩摩藩主・島津綱貴を生みます。
この島津綱貴の娘さんが、また松山藩五代目・松平定英の嫁さんとなり、六代藩主・松平定喬を生みます。
伊予松山藩は、八代目までは、養子が入っても久松松平の血筋だったんですが、九代目にして、幕府の命で御三卿の田安家より、婿養子をとることになります。そして、九代、十代、十一代と田安家の血が続くんですが、十一代定通がなかなか男子に恵まれず、そこで、ですね、島津家より養子を迎えることになります。
えーと、三代目薩摩藩主・島津綱貴の母親は、二代目松山藩主・松平定頼の娘で、島津家では綱貴の子孫がずっと続いていますから、「母系では久松松平の血だい!」というわけなんですが、何代前の話を持ち出すやら、ものすごい発想です。
まあ、あれです。当時、徳川将軍家の御台所は、薩摩藩八代藩主・島津重豪の娘・茂姫(広大院)でしたし、御台所のお世話なんかがあったんでしょう。
で、松山藩に養子に入ったのは、重豪の孫で、薩摩藩九代藩主・島津斉宣の十一男、松平勝善(定穀)です。島津斉彬は斉宣の孫ですから、勝善にとっては甥に、天璋院篤姫も同じく斉宣の孫ですので、実の姪になります。
で、松山城の天守閣は、数十年なかったんですが、この島津家から養子に入った勝善が、復興するんです。
いや、さすが大藩からのご養子です。
完成したのは安政元年(1854)、ペリー来航の2年後です。
その天守閣が、今も残っているわけでして。
残念なことに、松平勝善は子を残しませんで、十三代松山藩主はまたまた養子で、今度は高松藩松平家(ここは水戸徳川家の血筋です)からの勝成。十四代がまたまたまた養子で、どういうわけか津藩藤堂家からの定昭で、ここで維新を迎えます。
しかし、将軍家御台所となった島津家の篤姫さんの親族交際の中に、島津家から養子が入った家、ということで、松山藩の勝成、定昭父子は、しっかりと入っています。
幕末の松山藩は、悲しいかな親藩です。第二次長州征伐(四境戦争)に出兵せざるをえなくなり、周防大島へ出兵するんですね。
周防大島って、その昔、毛利家に従った村上水軍が移住したところでして、伊予とは深いかかわりがあり、松山城下でも、姻戚関係にある者があったりもする土地なんです。だいたい、村上水軍の氏神も氏寺も、伊予大三島、伊予大島にあったわけでして、往来は盛んです。
えーと、おまけに松山は、薩摩とは正反対の土地柄。
士族数は存じませんが、俳句とかお能とかが盛んで、小作農までが俳句をやるような土地柄ですから、武士も軟弱。
農兵の取立をやってましたから、主にはやーさんとか(水争いは盛んでして)みたいな方々が、兵士だったようでして、幕府の歩兵といっしょに、かなりな乱暴をした様子で、負けて逃げて帰った上に、幕府からさえ咎めをうけていたりするんですわ、これが。
あげくの果てに、慶応3年(1867)、最後の最後に、若い藩主・定昭が、二条城で老中を押しつけられてしまい、大阪城まで慶喜公のお供なんかしたこともありまして、すっかり朝敵にされてしまうんです。
ここらへん、私、なんだか、篤姫さんが嫁入り先の徳川家のために、一生懸命尽くしたのではないか、という気が………、します。
最後まで、容堂公が徳川家をかばってねばり通したのも、容堂公の義母、島津家から土佐山内家にお輿入れした智鏡院候姫に、篤姫さんが懸命の働きかけをしたのではないかと、勘ぐってみたり。
なにしろ、土佐の支藩、土佐新田藩の藩主・山内豊福とその奥方は、江戸の麻布藩邸にいたのですが、鳥羽伏見の後、「土佐藩兵が徳川家に対し発砲したとは申しわけない」と、自刃して果てたというのですから。
まあ、海をへだてて長州の筋向かいですし、山路をゆけば高知のお隣ですので、多勢に無勢ですわ。
戦国時代の繰り返しです。
山を越えて土佐から進駐軍がやってきて恭順しましたのに、今度は海から長州軍がやってきまして、土佐軍と長州軍は一色触発のにらみ合い、だったそうですが、朝廷から正式に命令を受けたのは土佐だったので、長州はしぶしぶ引きましたが、松山藩虎の子の汽船をかっぱらって行ったそうです。
さて、しかし、久松家と島津家のご縁は続きます。
定昭の後はさらに養子だったんですが、こんどは旗本になっていた久松松平の分家からで、ここできっちり血筋をもどします。その久松定謨伯爵は、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学します。
秋山好古はそのおつきでフランス留学し、正岡子規の叔父・加藤拓川も、おつきで行って、そのままパリ公使館の外交官となり、旧藩主のお世話をします。
この加藤拓川というお方、陸羯南や原敬とともに、司法省法学校でストライキをやらかした方で、晩年、外交官を辞めて郷里へ帰り、松山市長を務めるんですが、そのとき、大正12年、久松家へ払い下げられた松山城を、定謨伯爵からそのまま市で貰い受け、公園として市民に開放する基礎をかためました。
拓川はこの年に死ぬんですが、翌年には、秋山好古が故郷に帰り、北予中学校という小さな私立中学の校長を務めるなど、故郷松山の発展に尽力します。
フランスでともに時をすごした三人は、みな、松山への愛着を持っていたようです。
追記
フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)
駐在武官を勤め、フランス生活が長かった定謨伯爵は、大正11年、城山の麓にフランス風の別邸・萬翠荘を建て、一家で住んでいたような話です。
で、その定謨伯爵なんですが、島津忠義公爵令嬢、島津貞子を妻に迎え、嫡子定武伯爵をもうけています。
貞子伯爵夫人の妹・島津俔子が、久邇宮邦彦王に嫁いで、香淳皇后の母となっていますので、久松定武伯爵と香淳皇后は、母親が島津家の姉妹で、いとこになります。
戦後、久松定武氏は、愛媛県知事になるんですが、最初、社会党から選挙に出たそうなんです。
祖父母の話で、どこまで本当かしらないんですが、松山へ来られた昭和天皇が、皇后のいとこにあたる定武知事に、「社会党はいかがなものか」とご忠告なさったので、自民党に鞍替えしたとかで(笑)
これも祖父母の話ですが、当時、田舎にはまだ、投票用紙に「お殿さま」と書く人がいるとの噂だったそうです。
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この正岡子規の句を引いて、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は幕をあけます。
上の写真は、松山城天守閣から、その十五万国の城下町を見下ろしたところです。
松山城天守閣は、市内中心部の小高い山の上にありまして、少し前までは、市内のどこからでも仰ぐことができました。
実は、松山城の天守閣は、江戸時代も後期にさしかかった天明4年(1784)、雷が落ちて全焼してしまったんです。
二度ほど建て直そうとしたんですが、財政難で、かなわないまま時は過ぎました。
なんせ天守閣は、けっこうな山の上なんです。
他県の友人を案内しましたら、「これ、散歩っていうより登山!」と驚いていたほどです。
藩主の住居である二之丸などは麓にありまして、山の上の天守閣がなくとも、実質、困りはしないわけなのです。
ところで、松山城を造ったのは、豊臣秀吉の家臣だった加藤嘉明です。
しかしお城の完成を目前にして、会津へ転封。
次いで蒲生忠知が入り、お城を完成させるんですが、男子なく断絶。
次いで松平定行が来て、徳川家の親藩となり、幕末まで続きます。
みーんな、鉢植え大名です。
えーと、です。伊予の松山は、中世からの、いえ源平合戦に出てきますので古代からの、でしょうか。ともかく、古い豪族で守護職ともなった河野氏がずっと治めていまして、うちの近所に道後公園(温泉のそばです)がありますが、14世紀ころからそこに築城しまして、16世紀末に土佐の長宗我部氏に攻められて降伏しましたところが、その直後、豊臣秀吉に従った中国地方の毛利氏にやられて、河野氏は滅亡します。
なんでも戦国時代には、道後にキリシタンの教会なんかもあったそうで、瀬戸内海の要所ですから、けっこう栄えていたんですけれども、まあ、そのー、兵は弱いですわ。
あー、陸兵より水軍の土地柄なんですけどね、河野氏配下だった村上水軍が離反したりもしましたし。
で、徳川将軍家光の時代、桑名から松山へやってきた松平定行です。
松平といいましても、本姓は久松で、明治以降は久松にもどし、伯爵家となりましたが、この人の父親が、徳川家康の異父兄弟、なんですね。
つまり家康のおかあさんの於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだ、というわけです。
で、なぜだか知りませんが、定行の嫁さんが薩摩島津家の出で、この方は桑名で亡くなっているそうですが、二代定頼は、正室である島津家の姫さんのお子です。
で、この二代目定頼の娘さんが、今度は薩摩藩・島津綱久に嫁ぎ、三代目薩摩藩主・島津綱貴を生みます。
この島津綱貴の娘さんが、また松山藩五代目・松平定英の嫁さんとなり、六代藩主・松平定喬を生みます。
伊予松山藩は、八代目までは、養子が入っても久松松平の血筋だったんですが、九代目にして、幕府の命で御三卿の田安家より、婿養子をとることになります。そして、九代、十代、十一代と田安家の血が続くんですが、十一代定通がなかなか男子に恵まれず、そこで、ですね、島津家より養子を迎えることになります。
えーと、三代目薩摩藩主・島津綱貴の母親は、二代目松山藩主・松平定頼の娘で、島津家では綱貴の子孫がずっと続いていますから、「母系では久松松平の血だい!」というわけなんですが、何代前の話を持ち出すやら、ものすごい発想です。
まあ、あれです。当時、徳川将軍家の御台所は、薩摩藩八代藩主・島津重豪の娘・茂姫(広大院)でしたし、御台所のお世話なんかがあったんでしょう。
で、松山藩に養子に入ったのは、重豪の孫で、薩摩藩九代藩主・島津斉宣の十一男、松平勝善(定穀)です。島津斉彬は斉宣の孫ですから、勝善にとっては甥に、天璋院篤姫も同じく斉宣の孫ですので、実の姪になります。
で、松山城の天守閣は、数十年なかったんですが、この島津家から養子に入った勝善が、復興するんです。
いや、さすが大藩からのご養子です。
完成したのは安政元年(1854)、ペリー来航の2年後です。
その天守閣が、今も残っているわけでして。
残念なことに、松平勝善は子を残しませんで、十三代松山藩主はまたまた養子で、今度は高松藩松平家(ここは水戸徳川家の血筋です)からの勝成。十四代がまたまたまた養子で、どういうわけか津藩藤堂家からの定昭で、ここで維新を迎えます。
しかし、将軍家御台所となった島津家の篤姫さんの親族交際の中に、島津家から養子が入った家、ということで、松山藩の勝成、定昭父子は、しっかりと入っています。
幕末の松山藩は、悲しいかな親藩です。第二次長州征伐(四境戦争)に出兵せざるをえなくなり、周防大島へ出兵するんですね。
周防大島って、その昔、毛利家に従った村上水軍が移住したところでして、伊予とは深いかかわりがあり、松山城下でも、姻戚関係にある者があったりもする土地なんです。だいたい、村上水軍の氏神も氏寺も、伊予大三島、伊予大島にあったわけでして、往来は盛んです。
えーと、おまけに松山は、薩摩とは正反対の土地柄。
士族数は存じませんが、俳句とかお能とかが盛んで、小作農までが俳句をやるような土地柄ですから、武士も軟弱。
農兵の取立をやってましたから、主にはやーさんとか(水争いは盛んでして)みたいな方々が、兵士だったようでして、幕府の歩兵といっしょに、かなりな乱暴をした様子で、負けて逃げて帰った上に、幕府からさえ咎めをうけていたりするんですわ、これが。
あげくの果てに、慶応3年(1867)、最後の最後に、若い藩主・定昭が、二条城で老中を押しつけられてしまい、大阪城まで慶喜公のお供なんかしたこともありまして、すっかり朝敵にされてしまうんです。
ここらへん、私、なんだか、篤姫さんが嫁入り先の徳川家のために、一生懸命尽くしたのではないか、という気が………、します。
最後まで、容堂公が徳川家をかばってねばり通したのも、容堂公の義母、島津家から土佐山内家にお輿入れした智鏡院候姫に、篤姫さんが懸命の働きかけをしたのではないかと、勘ぐってみたり。
なにしろ、土佐の支藩、土佐新田藩の藩主・山内豊福とその奥方は、江戸の麻布藩邸にいたのですが、鳥羽伏見の後、「土佐藩兵が徳川家に対し発砲したとは申しわけない」と、自刃して果てたというのですから。
まあ、海をへだてて長州の筋向かいですし、山路をゆけば高知のお隣ですので、多勢に無勢ですわ。
戦国時代の繰り返しです。
山を越えて土佐から進駐軍がやってきて恭順しましたのに、今度は海から長州軍がやってきまして、土佐軍と長州軍は一色触発のにらみ合い、だったそうですが、朝廷から正式に命令を受けたのは土佐だったので、長州はしぶしぶ引きましたが、松山藩虎の子の汽船をかっぱらって行ったそうです。
さて、しかし、久松家と島津家のご縁は続きます。
定昭の後はさらに養子だったんですが、こんどは旗本になっていた久松松平の分家からで、ここできっちり血筋をもどします。その久松定謨伯爵は、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学します。
秋山好古はそのおつきでフランス留学し、正岡子規の叔父・加藤拓川も、おつきで行って、そのままパリ公使館の外交官となり、旧藩主のお世話をします。
この加藤拓川というお方、陸羯南や原敬とともに、司法省法学校でストライキをやらかした方で、晩年、外交官を辞めて郷里へ帰り、松山市長を務めるんですが、そのとき、大正12年、久松家へ払い下げられた松山城を、定謨伯爵からそのまま市で貰い受け、公園として市民に開放する基礎をかためました。
拓川はこの年に死ぬんですが、翌年には、秋山好古が故郷に帰り、北予中学校という小さな私立中学の校長を務めるなど、故郷松山の発展に尽力します。
フランスでともに時をすごした三人は、みな、松山への愛着を持っていたようです。
追記
フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)
駐在武官を勤め、フランス生活が長かった定謨伯爵は、大正11年、城山の麓にフランス風の別邸・萬翠荘を建て、一家で住んでいたような話です。
で、その定謨伯爵なんですが、島津忠義公爵令嬢、島津貞子を妻に迎え、嫡子定武伯爵をもうけています。
貞子伯爵夫人の妹・島津俔子が、久邇宮邦彦王に嫁いで、香淳皇后の母となっていますので、久松定武伯爵と香淳皇后は、母親が島津家の姉妹で、いとこになります。
戦後、久松定武氏は、愛媛県知事になるんですが、最初、社会党から選挙に出たそうなんです。
祖父母の話で、どこまで本当かしらないんですが、松山へ来られた昭和天皇が、皇后のいとこにあたる定武知事に、「社会党はいかがなものか」とご忠告なさったので、自民党に鞍替えしたとかで(笑)
これも祖父母の話ですが、当時、田舎にはまだ、投票用紙に「お殿さま」と書く人がいるとの噂だったそうです。
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