郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

歩兵とシルクと小栗上野介 vol1

2008年03月25日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
 今回は、バロン・キャットと小栗上野介の続きといいますか、補完であり、さらなる探求です。
 といいますのも、「論集 関東近世史の研究」(名著出版)を読みまして、鳥羽伏見から逃げ帰ってきた慶喜公に,
江戸城で罷免された小栗上野介が、なんでよりにもよって3月1日に、上州(群馬)の知行地に入ったのか、なんとも不可解なものに思えてきたんです。
 主な参考書は、前期の研究論文ともに、今回も以下です。
 
相楽総三とその同志 上 (1) (中公文庫 A 27-6)
長谷川 伸
中央公論新社

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 まず、ちょっと世間一般の常識にさからって申し訳ないのですが、長州奇兵隊をストレートに徴兵制に結びつけ、徴兵制イコール農兵重視で四民平等VS志願兵制は士族重視 という図式は、はっきりいって、国民皆兵を誇った大日本帝国陸軍のプロパガンダにすぎません。
 幕末、農兵取立なぞ、大方の藩でやっていたんです。
 
イギリスVSフランス 薩長兵制論争で、数字をしめしましたが、歩兵を士族身分でまかなえる藩なぞ、ほぼ、薩摩だけだったんです。
 わが伊予松山藩も、農兵取立をやっています。そうでなければ、歩兵の養成なぞ不可能でした。
 洋式軍隊は、士官とそれ以下で、はっきりと身分がわかれています。国によって制度はいろいろとちがいますが、もちろん、いざ有事という場合には、一般市民も銃を手に一兵卒となる準備はあるんですけれども、常備軍において、兵卒を務める者と士官以上では、あきらかに階層(クラス)がちがいます。
 ですから、普通にあてはめれば、洋式軍隊で武士がめざすのは指揮官、つまり士官以上であり、兵卒ではなくて当然なのです。
 しかし、ではなぜ、戊辰戦争で、例えば薩摩小銃隊や長州の干城隊など、士族の歩兵が活躍したかといえば、戊辰戦争の軍隊は、本格的に西洋近代軍隊の階級を導入しておらず、隊内においては、士官とそれ以下、のような身分格差がなかったから、なのです。
 薩摩でいえば、城下士のみ、郷士のみ、私領士のみ、で隊を作り、長州もまた士族は士族のみで干城隊、奇兵隊やその他の諸隊は志願者の寄り集まりで別部隊、といった工合で、ひとつの隊の中に、身分格差、上下関係はなかったのです。
 明治、本格的にフランス式軍隊階級を導入してからの薩長土肥、陸軍の騒動は、また別の機会にまわしまして、ともかく、別に歩兵とは、役人化した士族がなりたがるものではなく、武を志した少数の士族にしましても、めざすは士官であり、四民平等をいうならば、農民でも商人でも士官になれる、という制度の確立こそがその実現であり、徴兵制で農兵をとりたてたからといって、四民平等ではないでしょう。
 さらにいえば、長州奇兵隊は、志願制の隊であって、徴兵制とは関係ありません。

 幕末、もっとも徴兵制に近い制度をしいたのは、本格的にフランス陸軍の伝習をはじめた幕府です。
 幕府の銃隊養成は、安政年間からはじまり、当初は、旗本、御家人など士族でまかなっていましたが、ものの役に立たない者が多く、とても歩兵とはなりえません。
 文久2年(1862)、兵制改革の建言書が提出されました。だれの建言かわからないのですが、松浦玲氏は「勝海舟ではないか」としているそうです。
 おおまかな内容を言えば、「弓矢や古風な馬術はやめよう。また身分の高いものが、刀や槍の練習や、銃を持って歩兵になる訓練ばかりするのはばかげている。将官となるために文武をおさめるべき。兵卒は農民でまかなおう」ということでして、たしかにこれは、本格的に洋式軍隊の勉強をしたものでなければ言えないことで、オランダ海軍伝習を受けた勝海舟であった可能性は高そうです。これも以前に書きましたが、海軍伝習といっても陸戦隊の訓練もありましたから。
 こういった建言によって、オランダ式に兵制改革が行われ、旗本の知行地から石高に応じて、兵卒を差し出させたんですね。
 結果、旗本たちの中には、自家の士分を出したものもありましたが、若党、中間、小者などと呼ばれる武家奉公人は、臨時雇いであった場合が多く、臨時に雇って差し出したり、また知行地の農民を差し出したり、いろいろでした。
 これは、長州奇兵隊もそうで、なにも農民だけではなく、武家の下働きや軽輩の2、3男が志願したわけで、兵卒の構成階層は似たようなものであったといえましょう。
 この幕府の小銃隊は、ちゃんと洋風制服を着ていて、デビューは元治元年、禁門の変と天狗党の乱でしたが、旗本が勤めた士官の数も足りず、あまり使い物になったともいえず、士官は横浜のイギリス陸軍に弟子入りします。
 次が長州戦でしたが、全員が銃隊となっている長州にくらべ、幕府歩兵隊は少なすぎまして、効率的な戦いができないで終わります。
 それで、後はちょっと省略して、再度の幕府の改革をかんたんにまとめますと、知行地から農民を募れる大身の旗本はそのままにして、傭い人を出すような層からは金を納めさせて、直接、幕府が兵卒志願者を募って傭いいれるようにしたんですね。
 それでも足りなくて、最後には、役人化していた幕府直属の軽輩たちだけで銃隊を作ったり、旗本だけの銃隊もできたりしますけれども。
 このうち、徴兵制に近いのは、旗本知行地の農民兵です。
 小栗上野介も知行地の農民にフランス陸軍伝習を受けさせていたりしました。
 
 で、いよいよ本題に入りますが、黒船来航、開港により、幕府直轄地の多い関東の農村は、荒れていました。
 島崎藤村が「夜明け前」で描きましたが、尊王攘夷に心酔する庄屋層が増え、そこに、脱藩者やインテリ豪農層、農業にあきたらない農民たち、博徒などのアウトローなどが出入りし、火種が騒乱に結びつく可能性は大きかったんです。
 名門新田氏として石高はわずかながら、格式は大名並みの旗本、岩松新田氏・猫絵の殿様のまわりにも、そういう人々が集っていました。
 逆説的な話なんですが、開港以来の主な輸出品が生糸、シルクであったことと、それは無縁ではありません。
 シルクが高値で輸出され、関東の農村には多大な利益が流れ込みますが、絹織物などの地場産業はつぶれますし、物価ははねあがりますし、いわば儲けたものとそれができなかったもので、格差が大きくなってくるんですね。
 そして、格差は大きくなってくるんですが、一攫千金の生糸取り引きも可能であってみれば、農民が個人的に地位向上をはかるチャンスも増え、尊王攘夷を唱えて武士になることも可能で、いわば流動化しつつあったわけです。
 ともかく、倒幕にむすびつきかねない尊王攘夷の旗印で、いつ浪士(浪士といっても農民、博徒も含みます)による騒乱が起こっても不思議ではない状態となったわけです。
 
 で、またまた簡略にはしょって言いますと、幕府は、関東直轄地、知行地の治安維持のため、勘定奉行配下の代官所を強化し、農兵を取り立てて、治安維持にあたらせることにしたわけですね。
 小栗上野介は、文久2年(1862)に勘定奉行になって以来、幾度もやめさせられていますが、また返り咲きで、アメリカ視察で得た知識をもとに、この勘定奉行方を中心として、富国強兵策を実行していて、横須賀製鉄所(造船所)の建設やら軍艦の購入、フランス陸軍伝習、代官所の農兵取立、生糸の輸出政策も、すべて、勘定奉行方が中心となって行ったものなんです。
 そして、この代官所の農兵、天狗党の乱には間に合いませんでしたが、慶応2年の武州(埼玉)世直し一揆のときには、しっかり銃隊として編成されていて、鎮圧に力を発揮しました。

 前回、バロン・キャットと小栗上野介で書きましたが、慶応3年、江戸の薩摩屋敷で企てられた、野州(栃木)挙兵です。
 武州川越の村長、竹内啓を隊長とする3、40人の一行は、栃木の出流山満願寺に向かいました。
 薩摩藩主夫人が満願寺に願掛けをしていたが、願ほどきの代参を立てる余裕もなく先年国許にひきあげたので、国許から代参をとの要請があり、代参に出かける、というふれこみだったそうです。
 栃木で宿をとり、竹内啓をはじめとする10名ほどが出流山へ乗り込み、残りは近在に、遊説に出かけます。
 出流山の一行は、賴村の名主の家に泊まり込み、薩摩の旗を立てて、仮面を脱ぎ捨て、満願寺で尊王攘夷の檄文を読み上げます。
 村の人々は、「天狗党の再来か!」とぎょっとするのですが、満願寺の若い僧が一人、還俗して仲間になりたい、と申し出ました。それが、国定忠治の息子だったそうです。
 遊説がきいたのか、やがて出流山には、続々と賛同者が集まりはじめました。
 人数は正確にはわかりませんが、150人から300人くらいであったろうといわれます。
 これだけ人数がふくらみますと、資金が必要になってきます。この資金集めは、往々にして強要になり、しかも集まった浪士には博徒やら無頼漢も多くいますから、住民とのトラブルのもとです。天狗党の乱のときにも問題をひきおこしましたが、今回もそうでした。

 薩摩藩邸からの浪士組に、高橋亘という上州の村の漢学者の息子がいました。
 この人の経歴は、当時の関東農村の上昇志向の強い中上層農民の典型です。
 文久2年、清川八郎が幕府に献策し、新撰組誕生のきっかけとなった浪士取立に応じ、京へのぼって壬生浪人になります。
 新撰組とちがって、清川八郎に共鳴していたので、江戸へ帰り、幕府の方針転換により、失望して故郷へ帰ります。
 しかし慶応元年、再び京へ出て、尊王攘夷、反幕府の浪士活動をくわだてますが、幕府側(新撰組だったかもしれません)に包囲され、からくも逃れて江戸へ帰り、水戸藩士と事を起こそうとしますがまた失敗し、潜伏の後、相楽総三の呼びかけに応じて、薩摩藩邸に入ったんです。
 新撰組には、当初、水戸天狗党関係者がいましたし、御陵衛士の分裂が起こったり、またそのまま陸援隊に入るものがいたり、だったのは、天狗党や長州、陸援隊、薩摩藩邸の浪士組と、多少、幕府に対する意識がちがうだけで、出身構成もその上昇志向も、本質的に差がなかったからなのです。
 農村から出た彼らは、一兵卒になりたかったのではありません。それぞれが文武をおさめた指揮官、つまりは、れっきとした士族になりたかったのです。
 
 ともかく、高橋亘は、斉藤、高田、山本、吉沢、みな上州、野州の農村出身者だったのですが、この4人とともに、足利戸田家の栃木陣屋へ軍資金の引き出しに出向きました。
 ところが、この地域一帯は、ほぼ4年前の天狗党の乱で、天狗党の中でも粗暴なために問題視されていた浪士の一隊によって、大きな損害を被っていたのです。栃木陣屋の責任者は、交渉を引き延ばしつつ、近在の小藩や幕府代官所に連絡をとり、戦闘準備を始めました。
 一方、出流山の本部でも、様子がおかしいことを察し、応援隊をくりだします。
 幕府関東代官所の治安組織は、関八州取締出役と呼ばれ、その下に農兵隊が組織されていたのですが、その中心だったのが上州岩鼻代官所で、出役の一人に、渋谷鷲郎(和四郎)という、非常にすぐれた指揮官がいました。
 関東小藩の戦力には、銃隊はほとんどありません。
 渋谷鷲郎の農兵は、農兵といっても猟師や博徒が多かったのですが、武州一揆を鎮圧した実績もあります。戦力の中心は、こちらでした。
 まずは各個撃破で、10人ほどの浪士応援部隊を襲い、同時に高橋亘たち5人にも襲撃をかけました。このうち、高橋を含む3人は逃れて、本部に急を告げます。
 浪士隊本部では軍議がひらかれ、出流山は守るに不利な地形なので、そこには囮部隊11人を残し、四里ほど離れた唐沢山に本拠を移すことにしました。
 結論から言いますと、渋谷鷲郎は周到に情報を集め、囮残留部隊を襲撃すると同時に、移動中の本隊を待ち伏せて、戦闘をしかけます。浪士隊には銃を持つものがなく、あっけなくけちらされ、死者、生け捕り多数を出し、しかしそれでも、20数人は、薩摩藩邸へ逃げ帰りました。
 首領の竹内啓をはじめ、生け捕りになった浪士たちは、結局、ほとんどが処刑されたようです。

 前回も書きましたが、薩摩藩邸の浪士たちの首領、相楽総三は、すでに、これも農村インテリ層で新田氏を名乗る金井之恭と連絡をとっていて、浪士隊の挙兵と同時に、猫絵の殿様をかついだ挙兵をも計画していたのですが、これも代官所の探索でばれまして、金井之恭たちは、岩鼻代官所の牢獄につながれます。

 そして………、相楽総三は、残酷な復讐を思いつきました。
 関八州取締出役渋谷鷲郎の家族は、江戸にいたのですが、総三は浪士の一隊を組織し、渋谷の留守宅を襲って、家族を皆殺しにしたんです。詳しい記録は残っていないそうなのですが、泊まり客まで、といいますから、親や妻子は当然でしょうが、すべて、斬り殺したもののようです。

 次回へ続きます。


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