リーズデイル卿とジャパニズム vol1の続きです。まずはパブリック・スクール、名門中の名門イートンのお話から。
実はこの映画、英国美少年学園お耽美もの、みたいな先入観が強くて、見てなかったんです。
しかし、イートン校を舞台にしている、というので、今回、見てみました。
ワンパターンのボーイズ・ラブ映画、と思いこんでいたのは、とんでもないまちがいでした。
名門エリート寄宿学校の閉鎖的な空間を舞台に、第1次世界大戦後の激変の中の大英帝国を、うまく、象徴的に描いている歴史映画、と思います。
Another Country ーYouTube
上のビデオは、いかにもイートンっぽい、と思わせるイメージの場面が、うまく抜き出されています。
この映画の原作は、ジュリアン・ミッチェルの戯曲で、 ルパート・エヴェレットが演じる主人公のガイ・ベネットには、モデルがあります。1910年(明治43年)生まれのガイ・バージェスです。
ガイ・バージェスは、イギリスの名家に生まれ、現実にイートンからケンブリッジに進学し、外務省に勤務したあげくに、ソ連のスパイとなった人です。
バーティ・ミットフォードがイートンに入学したのが、1846年ですから、映画の舞台は、それからおよそ80年後のイートンでしょうか。実は、リーズデイル男爵家の跡取りを予定されていたバーティの孫、トム・ミットフォードは、1909年生まれですから、ちょうどガイと同じ頃にイートンにいました。
バーティは、第1次世界大戦で長男を亡くし、長男には男子がいませんでしたので、次男のデイビットが跡を継ぎ、次男は、六人の美人姉妹と、たった一人の男の子、トム・ミットフォードをもうけたのです。
トムは8歳で、祖父や戦死した伯父が学んだ全寮制のイートンに入学しました。
えー、父親のデイビッットがぬけていますが、優秀な長男を愛したバーティが、出来の悪い次男をイートンに入れると長男の評判に傷がつく(!!!)と、二流のラドリー校に入れたんだそうなんです。
トムは、祖父バーティに似たんでしょうか、容姿端麗、才能があり、性格も明るく、ホームシックにもならず、いじめにもあわず、学園生活を楽しんでいた様子だそうなんですが、やがて、何度か同性愛を経験し、しかもそれを姉妹に打ち明けていたんだそうなのです。
あるとき、トムは、イートンの友人を自宅に招待したのですが、他に泊まり客がたくさんあって客用寝室のあきがなく、母親はトムに、「あなたの部屋に泊めてあげて」と言いました。母親には、同性愛行為なんぞ思いもよりません。そばでそれを聞いていた姉妹たちは、笑いをこらえるのに必死だったのだとか。
つまりは、映画に描かれているように、20世紀初頭のイートンでの同性愛は、ごくありふれた行為であり、バーティの親友だった詩人スウィンバーンによれば、19世紀半ばころにも、あったもののようです。
ただ、その意味するところは、時代に応じて変わった、といえそうな気がするのです。
ここでちょっと、英国パブリック・スクール、イートン校の歴史を、井村元道著「英国パブリック・スクール物語 」(丸善ライブラリー)と、フィリップ・メイソン著 金谷展雄訳「英国の紳士」を主な参考書として、おおざっぱにまとめてみます。
英国において、パブリック・スクールとは、公立を意味しません。私立、といいますか、個人的な寄付によって基金を持ち、その運用益のみでやっていけるので公的助成金を必要としない、名門エリート坊ちゃん学校(日本風に見るならば有名私立中高一貫校といったところ)です。
むしろ、一般庶民向けの公立校とは、対極にある存在です。
ややっこしいことに、スコットランドとアメリカにおける「パブリック・スクール」は、公立学校でいいんだそうですが。
パブリック・スクールの中でも、ウインチェスター、イートン、セント・ポールズ、シュルーズベリー、ウェストミンスター、マーチャント・テイラーズ、ラグビー、ハロー、チャーター・ハウスの9校は、「ザ・ナイン」と呼ばれる特別な名門校で、わけてもイートンは、名門中の名門です。
えー、上は、9校を創立順に並べているんですが、ウィンチェスターは14世紀、イートンは15世紀と、2校がとびぬけて古く、中世にまでさかのぼります。
えーと、すでにこの2校の創立以前から、オックスフォード、ケンブリッジは存在しました。古い欧州の大学がすべてそうであるように、両校とも、ローマン・カソリックの神学校だったわけです。
それで、当初、ウインチェスターはオックスフォードの、イートンはケンブリッジの付属予備校として、聖職志願者のためにできたわけでして、しかも、もともとはといえば、中流の貧しい志願者を、寄宿給費学生として受け入れることを目的としたものでした。金がある者は、家庭教師につくのが普通だった時代です。もっとも、当初から自費学生も受け入れていて、坊ちゃん学校となりうる下地は、あったようですが。
で、なぜはるか後世、イートンの方がより名門とされるようになったのかといえば、イートンの創立者はヘンリー六世、つまり王であり、ずっと英国王室とのつながりが深かったためのようです。
中世、ローマン・カソリック教会は、世俗的な権力でもありました。教会も修道院も領主であり、教皇も枢機卿も司教も司祭も、政治的存在でもあったわけです。
イギリス国教会は、16世紀、ヘンリー8世が、自国教会の支配権は王にある、として、ローマに反旗をひるがえしたことによって生まれました。
つまり、簡単にいえば、イギリス王がローマ法王にとってかわっただけの話だったのです。
以降、修道院の領地などは売りに出され、貴族やジェントリーのものとなったのです。
ジェーン・オースティンの小説に、「ノーサンガー・アビー」という邸宅の名前を題名にしたものがありますが、「アビー」と名前がつくカントリー・ハウスは、修道院の建物がもとになったものです。
えーと、です。
つまるところ、乱暴にまとめますと、オックスブリッジも、その予備校的存在であったイートンなども、ローマン・カソリックの神学校ではなく、イギリス国教会の神学校となったわけですね。
その後、ルネサンス期の人文主義の影響で、ギリシア・ローマの古典文芸を重視するようになりますし、また宗教的にも紆余曲折がありますが、基本を言うならば、アナザー・カントリーの時期、つまり20世紀にいたるまで、オックスブリッジもイートンも、国教会のもとにあった、といえます。
とはいうものの、です。
18世紀後半、イートンを筆頭とするパブリック・スクールには、大きな変化がありました。
多くの貴族の子弟が、入学するようになったのです。
それまで、貴族やジェントリーの子弟でも、聖職者を筆頭に、法律関係、医者など、知的職業をめざすヤンガー・サン(次男以下、領地を相続できない息子たち)の中には、オックスブリッジの予備校的存在であるパブリック・スクールに入る者もありはしたのですが、家庭教師に学ぶ方が一般的でした。
この変化は、おそらく、 1775年から1783年にわたったアメリカ独立戦争、1789年にはじまったフランス革命、によって、西洋文明圏に現実に、王や貴族の支配によらない国家が誕生したこと、に発する激震、によるものだったのではないでしょうか。
もちろん、それまでも、農民や商人、実業家が、まったく政治にかかわっていなかった、というわけではないのですが、それは、王と貴族の支配を前提とした上でのものでした。王も貴族も排除して、制度的に国が成り立ちうる、という事実は、貴族は、血筋によって、生まれながらに社会の指導者である、という意識を、根底からゆるがします。
人が生まれによって指導者たりえず、生まれた後に指導者になるのならば、人を指導者となすのは、教育です。
社会の指導者たる人格は、教育が作る。
だとするならば、個人教育にしかならない家庭教師ではなく、社会的訓練をも兼ねた、長い伝統のある学校教育を、ということでしょう。
が、このことは、パブリック・スクールの秩序を乱しました。
貴族やジェントリーの子弟は、中流インテリ階級であるパブリック・スクールの教師よりも、社会的身分が上でした。
しかも、イギリスの貴族というものは、基本的に田舎に属していて、洗練よりも、蛮勇や豪快さを称える気風が濃厚だったのです。ヴィクトリア朝中期の文人、マシュー・アーノルドは、こういった上流階級を、野蛮人ども(バーバリアンズ)と呼んでいます。
貴族制のあり方として、フランスとイギリスの大きなちがいは、フランスでは革命以前から中央集権が徹底して、貴族が土地から切り離され、官僚化していたのにくらべ、イギリスは分権的で、貴族が領地と密着し、農村行政をも担い、中央行政への関与は、基本的に俸給に頼る官僚としてではなく、莫大な地代収入をむしろつぎ込む形で、公への奉仕(サービス)としてなされていたことです。
つまりイギリスの貴族は、ロンドンにタウン・ハウス、領地にカントリー・ハウスをかまえ、シーズンによって行き来しつつ、カントリー・ハウスでの生活を重んじる場合が多かったのです。
で、そのカントリー・ハウスでの最大の娯楽というのが、狩猟です。その狩猟の中でも、イギリスの田舎貴族の信仰の対象、とまでいわれましたのが、狐狩りです。
これ、簡単に言いますと、多数の猟犬に狐を追わせ、猟犬の群れが狐を追い詰めていくのを、馬に乗って追いかけ、食い殺すのを見届ける、といったような、独特の猟です。つい最近、動物愛護精神からなのかどうだか知りませんが、どうやら法律で禁止されたようですが、イギリス王室も愛好していた伝統の猟でもありました。
狐狩りの魅力とイギリスのジェントリーについては、20世紀初頭のそういった伝統社会の黄昏を描いた小説があります。
K.M.ペイトン著 「フランバーズ屋敷の人びと 」 (岩波少年文庫 (3116))のシリーズなんですが、私はこれで初めて、狐狩りのなんたるか、を、知りました。
まあ、ともかく、競馬の大障害のように、溝や策を飛び越え、やぶをくぐり、先を争って猟犬を追い、泥だらけになって一日中馬を乗り回すという、なんともワイルドなお遊びです。
その歴史までは、よく知らないのですが、もしかするともともとは、日本の武士の「犬追うもの」のように、封建貴族の戦闘訓練であると同時に、領地の農作物を害する獣(狐)を退治することを兼ねた猟、であったのかもしれないですね。
18世紀末から19世紀前半にかけてのイギリスの紳士といえば、ついジェーン・オースティンの小説を思い出すのですが(映画『プライドと偏見』参照)、上記「英国の紳士」には、こう述べられています。
同時代の人々の多くは、紳士という言葉を聞いて、ダーシー氏やナイトリー氏(両名ともオースティンの小説の登場人物)とは全然違う人物像を思い浮かべたことだろう。それは、コリント的伝統に立つスポーツマン、あるいは血気盛んな伊達者である。勇気、けんか好き、思い切りのよさ、金銭に対する無頓着……往々にしてむこうみずな贅沢、しばしば他人の感情を無視する無神経……これらが、19世紀の前半に脚光を浴びたスポーツマン的変わり者資質である。彼らの中には大貴族も金持ちの地主(ジェントリー)もいた。大抵大衆に支持されていたが、それは19世紀を通じて変わることがなかった。その行動がかならずしも礼儀にかなっていなかったにもかかわらず、彼らは愛され崇拝されていた。
大人しい聖職志願者の集団だったイートンに、こういった狩猟家の卵たちが多数、入学するようになったのです。
その一人、アシュトン・スミスは11年間イートンで学びましたが、彼が数十年後までにイートンの語り草となったのは、勉学ではなく、学友との1時間にわたる壮絶な格闘です。大喧嘩が終わったとき、二人は生涯にわたる親友になっていましたが、スミスは、この格闘で生来の美貌を損なったと、口ぐせのように言っていたのだそうです。
もう一人、伝説的な狩猟家ジョージ・オズバルディストン(大地主)も、イートン、オックスフォード組です。イートンに在学中は、いつも問題を起こして鞭打たれていました。その問題というのが、受業をさぼって、生まれてはじめて二頭立て二輪馬車を走らせ、馬を暴走させて馬車をこわしただとか、そういう田園スポーツ愛好にかかわることだったのです。
L・ストレイチー著「ヴィクトリア朝偉人伝」には、19世紀初頭のイートンについて、こうあります。
懲罰という名の公認の野蛮行為と、オウィディウスの美しいラテン詩の購読が一体となった生活だった。自由と恐怖、韻律と反逆、果てしない鞭打ちと、すさまじい悪ふさけが渾然一体となった生活だった。
イートン校のキート校長は、誰の助けも借りずに………教師の数が少なくて当てにならなかったからだ……自分の人格の力だけで生徒たちを支配した。だがその不屈の意志でさえ、無法の洪水に圧倒されることがあった。毎週日曜日の午後に、キート校長は全校生徒を集めて説教を行ったが、集められた全校生徒は、毎週キート校長を野次り倒した。礼拝堂の中の光景は、説教の場とは程遠いものだった。年老いた校長が説教壇でよろめくとネズミが放たれ、どよめく生徒たちの足の間を走りまわった。だが翌朝、きびしい規律の手が力を取り戻し、鞭打ち台の野蛮な儀式が、哀れっぽくすすり泣く生徒たちにこのことをしっかりと思い出させた。人と神にたいして犯した罪は許されるかもしれないが、度が過ぎると、涙と血によって償うしかないことを。
こういったバブリック・スクールの無法状態への改革は、1828年、ラグビー校の校長となった、トーマス・アーノルド(マシュー・アーノルドの父です)とその弟子たちによって、はじまります。
トーマス・アーノルドは、まず大人数の講義方式だったそれまでのやり方を改め、個人指導教師制度(チューター)を導入します。家庭教師のよさを、取り入れたわけです。
もっとも、貴族の若さまなどは、それまでにも家庭教師を連れてきていたりしたのだそうですが、それを、正規の教師が務める公式の制度としました。
そして、古典の受業を、一方的な講義方式ではなく、問答方式にきりかえます。
ラテン語、ギリシャ語を基礎とする古典の偏重は、むしろ押し進めた感じで、理系の学問が軽視される要因ともなり、アナザー・カントリーの時代になってくると、ドイツに遅れをとった原因として、批判されるようにもなります。
が、それよりも、アーノルドの改革が、後世に語り次がれることとなったのは、パブリック・スクールをして、野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマン、………つまり、しっかりと信仰に基づいた道義心を持ち、公(国家)への奉仕(サービス)に邁進する、礼儀作法を心得た紳士(オースティンのようなおばちゃんに気に入られるような感じ、でもある気がするのですが)………といったところなんですが、そういったクリスチャン・ジェントルマンの人格育成の場たらしめる、基礎となったためです。
なにやら、文字数が多いそうで、イートンとアナザー・カントリーの話が、次回Vol3へ続きます。
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実はこの映画、英国美少年学園お耽美もの、みたいな先入観が強くて、見てなかったんです。
しかし、イートン校を舞台にしている、というので、今回、見てみました。
ワンパターンのボーイズ・ラブ映画、と思いこんでいたのは、とんでもないまちがいでした。
名門エリート寄宿学校の閉鎖的な空間を舞台に、第1次世界大戦後の激変の中の大英帝国を、うまく、象徴的に描いている歴史映画、と思います。
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上のビデオは、いかにもイートンっぽい、と思わせるイメージの場面が、うまく抜き出されています。
この映画の原作は、ジュリアン・ミッチェルの戯曲で、 ルパート・エヴェレットが演じる主人公のガイ・ベネットには、モデルがあります。1910年(明治43年)生まれのガイ・バージェスです。
ガイ・バージェスは、イギリスの名家に生まれ、現実にイートンからケンブリッジに進学し、外務省に勤務したあげくに、ソ連のスパイとなった人です。
バーティ・ミットフォードがイートンに入学したのが、1846年ですから、映画の舞台は、それからおよそ80年後のイートンでしょうか。実は、リーズデイル男爵家の跡取りを予定されていたバーティの孫、トム・ミットフォードは、1909年生まれですから、ちょうどガイと同じ頃にイートンにいました。
バーティは、第1次世界大戦で長男を亡くし、長男には男子がいませんでしたので、次男のデイビットが跡を継ぎ、次男は、六人の美人姉妹と、たった一人の男の子、トム・ミットフォードをもうけたのです。
トムは8歳で、祖父や戦死した伯父が学んだ全寮制のイートンに入学しました。
えー、父親のデイビッットがぬけていますが、優秀な長男を愛したバーティが、出来の悪い次男をイートンに入れると長男の評判に傷がつく(!!!)と、二流のラドリー校に入れたんだそうなんです。
トムは、祖父バーティに似たんでしょうか、容姿端麗、才能があり、性格も明るく、ホームシックにもならず、いじめにもあわず、学園生活を楽しんでいた様子だそうなんですが、やがて、何度か同性愛を経験し、しかもそれを姉妹に打ち明けていたんだそうなのです。
あるとき、トムは、イートンの友人を自宅に招待したのですが、他に泊まり客がたくさんあって客用寝室のあきがなく、母親はトムに、「あなたの部屋に泊めてあげて」と言いました。母親には、同性愛行為なんぞ思いもよりません。そばでそれを聞いていた姉妹たちは、笑いをこらえるのに必死だったのだとか。
つまりは、映画に描かれているように、20世紀初頭のイートンでの同性愛は、ごくありふれた行為であり、バーティの親友だった詩人スウィンバーンによれば、19世紀半ばころにも、あったもののようです。
ただ、その意味するところは、時代に応じて変わった、といえそうな気がするのです。
ここでちょっと、英国パブリック・スクール、イートン校の歴史を、井村元道著「英国パブリック・スクール物語 」(丸善ライブラリー)と、フィリップ・メイソン著 金谷展雄訳「英国の紳士」を主な参考書として、おおざっぱにまとめてみます。
英国において、パブリック・スクールとは、公立を意味しません。私立、といいますか、個人的な寄付によって基金を持ち、その運用益のみでやっていけるので公的助成金を必要としない、名門エリート坊ちゃん学校(日本風に見るならば有名私立中高一貫校といったところ)です。
むしろ、一般庶民向けの公立校とは、対極にある存在です。
ややっこしいことに、スコットランドとアメリカにおける「パブリック・スクール」は、公立学校でいいんだそうですが。
パブリック・スクールの中でも、ウインチェスター、イートン、セント・ポールズ、シュルーズベリー、ウェストミンスター、マーチャント・テイラーズ、ラグビー、ハロー、チャーター・ハウスの9校は、「ザ・ナイン」と呼ばれる特別な名門校で、わけてもイートンは、名門中の名門です。
えー、上は、9校を創立順に並べているんですが、ウィンチェスターは14世紀、イートンは15世紀と、2校がとびぬけて古く、中世にまでさかのぼります。
えーと、すでにこの2校の創立以前から、オックスフォード、ケンブリッジは存在しました。古い欧州の大学がすべてそうであるように、両校とも、ローマン・カソリックの神学校だったわけです。
それで、当初、ウインチェスターはオックスフォードの、イートンはケンブリッジの付属予備校として、聖職志願者のためにできたわけでして、しかも、もともとはといえば、中流の貧しい志願者を、寄宿給費学生として受け入れることを目的としたものでした。金がある者は、家庭教師につくのが普通だった時代です。もっとも、当初から自費学生も受け入れていて、坊ちゃん学校となりうる下地は、あったようですが。
で、なぜはるか後世、イートンの方がより名門とされるようになったのかといえば、イートンの創立者はヘンリー六世、つまり王であり、ずっと英国王室とのつながりが深かったためのようです。
中世、ローマン・カソリック教会は、世俗的な権力でもありました。教会も修道院も領主であり、教皇も枢機卿も司教も司祭も、政治的存在でもあったわけです。
イギリス国教会は、16世紀、ヘンリー8世が、自国教会の支配権は王にある、として、ローマに反旗をひるがえしたことによって生まれました。
つまり、簡単にいえば、イギリス王がローマ法王にとってかわっただけの話だったのです。
以降、修道院の領地などは売りに出され、貴族やジェントリーのものとなったのです。
ジェーン・オースティンの小説に、「ノーサンガー・アビー」という邸宅の名前を題名にしたものがありますが、「アビー」と名前がつくカントリー・ハウスは、修道院の建物がもとになったものです。
えーと、です。
つまるところ、乱暴にまとめますと、オックスブリッジも、その予備校的存在であったイートンなども、ローマン・カソリックの神学校ではなく、イギリス国教会の神学校となったわけですね。
その後、ルネサンス期の人文主義の影響で、ギリシア・ローマの古典文芸を重視するようになりますし、また宗教的にも紆余曲折がありますが、基本を言うならば、アナザー・カントリーの時期、つまり20世紀にいたるまで、オックスブリッジもイートンも、国教会のもとにあった、といえます。
とはいうものの、です。
18世紀後半、イートンを筆頭とするパブリック・スクールには、大きな変化がありました。
多くの貴族の子弟が、入学するようになったのです。
それまで、貴族やジェントリーの子弟でも、聖職者を筆頭に、法律関係、医者など、知的職業をめざすヤンガー・サン(次男以下、領地を相続できない息子たち)の中には、オックスブリッジの予備校的存在であるパブリック・スクールに入る者もありはしたのですが、家庭教師に学ぶ方が一般的でした。
この変化は、おそらく、 1775年から1783年にわたったアメリカ独立戦争、1789年にはじまったフランス革命、によって、西洋文明圏に現実に、王や貴族の支配によらない国家が誕生したこと、に発する激震、によるものだったのではないでしょうか。
もちろん、それまでも、農民や商人、実業家が、まったく政治にかかわっていなかった、というわけではないのですが、それは、王と貴族の支配を前提とした上でのものでした。王も貴族も排除して、制度的に国が成り立ちうる、という事実は、貴族は、血筋によって、生まれながらに社会の指導者である、という意識を、根底からゆるがします。
人が生まれによって指導者たりえず、生まれた後に指導者になるのならば、人を指導者となすのは、教育です。
社会の指導者たる人格は、教育が作る。
だとするならば、個人教育にしかならない家庭教師ではなく、社会的訓練をも兼ねた、長い伝統のある学校教育を、ということでしょう。
が、このことは、パブリック・スクールの秩序を乱しました。
貴族やジェントリーの子弟は、中流インテリ階級であるパブリック・スクールの教師よりも、社会的身分が上でした。
しかも、イギリスの貴族というものは、基本的に田舎に属していて、洗練よりも、蛮勇や豪快さを称える気風が濃厚だったのです。ヴィクトリア朝中期の文人、マシュー・アーノルドは、こういった上流階級を、野蛮人ども(バーバリアンズ)と呼んでいます。
貴族制のあり方として、フランスとイギリスの大きなちがいは、フランスでは革命以前から中央集権が徹底して、貴族が土地から切り離され、官僚化していたのにくらべ、イギリスは分権的で、貴族が領地と密着し、農村行政をも担い、中央行政への関与は、基本的に俸給に頼る官僚としてではなく、莫大な地代収入をむしろつぎ込む形で、公への奉仕(サービス)としてなされていたことです。
つまりイギリスの貴族は、ロンドンにタウン・ハウス、領地にカントリー・ハウスをかまえ、シーズンによって行き来しつつ、カントリー・ハウスでの生活を重んじる場合が多かったのです。
で、そのカントリー・ハウスでの最大の娯楽というのが、狩猟です。その狩猟の中でも、イギリスの田舎貴族の信仰の対象、とまでいわれましたのが、狐狩りです。
これ、簡単に言いますと、多数の猟犬に狐を追わせ、猟犬の群れが狐を追い詰めていくのを、馬に乗って追いかけ、食い殺すのを見届ける、といったような、独特の猟です。つい最近、動物愛護精神からなのかどうだか知りませんが、どうやら法律で禁止されたようですが、イギリス王室も愛好していた伝統の猟でもありました。
狐狩りの魅力とイギリスのジェントリーについては、20世紀初頭のそういった伝統社会の黄昏を描いた小説があります。
K.M.ペイトン著 「フランバーズ屋敷の人びと 」 (岩波少年文庫 (3116))のシリーズなんですが、私はこれで初めて、狐狩りのなんたるか、を、知りました。
まあ、ともかく、競馬の大障害のように、溝や策を飛び越え、やぶをくぐり、先を争って猟犬を追い、泥だらけになって一日中馬を乗り回すという、なんともワイルドなお遊びです。
その歴史までは、よく知らないのですが、もしかするともともとは、日本の武士の「犬追うもの」のように、封建貴族の戦闘訓練であると同時に、領地の農作物を害する獣(狐)を退治することを兼ねた猟、であったのかもしれないですね。
18世紀末から19世紀前半にかけてのイギリスの紳士といえば、ついジェーン・オースティンの小説を思い出すのですが(映画『プライドと偏見』参照)、上記「英国の紳士」には、こう述べられています。
同時代の人々の多くは、紳士という言葉を聞いて、ダーシー氏やナイトリー氏(両名ともオースティンの小説の登場人物)とは全然違う人物像を思い浮かべたことだろう。それは、コリント的伝統に立つスポーツマン、あるいは血気盛んな伊達者である。勇気、けんか好き、思い切りのよさ、金銭に対する無頓着……往々にしてむこうみずな贅沢、しばしば他人の感情を無視する無神経……これらが、19世紀の前半に脚光を浴びたスポーツマン的変わり者資質である。彼らの中には大貴族も金持ちの地主(ジェントリー)もいた。大抵大衆に支持されていたが、それは19世紀を通じて変わることがなかった。その行動がかならずしも礼儀にかなっていなかったにもかかわらず、彼らは愛され崇拝されていた。
大人しい聖職志願者の集団だったイートンに、こういった狩猟家の卵たちが多数、入学するようになったのです。
その一人、アシュトン・スミスは11年間イートンで学びましたが、彼が数十年後までにイートンの語り草となったのは、勉学ではなく、学友との1時間にわたる壮絶な格闘です。大喧嘩が終わったとき、二人は生涯にわたる親友になっていましたが、スミスは、この格闘で生来の美貌を損なったと、口ぐせのように言っていたのだそうです。
もう一人、伝説的な狩猟家ジョージ・オズバルディストン(大地主)も、イートン、オックスフォード組です。イートンに在学中は、いつも問題を起こして鞭打たれていました。その問題というのが、受業をさぼって、生まれてはじめて二頭立て二輪馬車を走らせ、馬を暴走させて馬車をこわしただとか、そういう田園スポーツ愛好にかかわることだったのです。
L・ストレイチー著「ヴィクトリア朝偉人伝」には、19世紀初頭のイートンについて、こうあります。
懲罰という名の公認の野蛮行為と、オウィディウスの美しいラテン詩の購読が一体となった生活だった。自由と恐怖、韻律と反逆、果てしない鞭打ちと、すさまじい悪ふさけが渾然一体となった生活だった。
イートン校のキート校長は、誰の助けも借りずに………教師の数が少なくて当てにならなかったからだ……自分の人格の力だけで生徒たちを支配した。だがその不屈の意志でさえ、無法の洪水に圧倒されることがあった。毎週日曜日の午後に、キート校長は全校生徒を集めて説教を行ったが、集められた全校生徒は、毎週キート校長を野次り倒した。礼拝堂の中の光景は、説教の場とは程遠いものだった。年老いた校長が説教壇でよろめくとネズミが放たれ、どよめく生徒たちの足の間を走りまわった。だが翌朝、きびしい規律の手が力を取り戻し、鞭打ち台の野蛮な儀式が、哀れっぽくすすり泣く生徒たちにこのことをしっかりと思い出させた。人と神にたいして犯した罪は許されるかもしれないが、度が過ぎると、涙と血によって償うしかないことを。
こういったバブリック・スクールの無法状態への改革は、1828年、ラグビー校の校長となった、トーマス・アーノルド(マシュー・アーノルドの父です)とその弟子たちによって、はじまります。
トーマス・アーノルドは、まず大人数の講義方式だったそれまでのやり方を改め、個人指導教師制度(チューター)を導入します。家庭教師のよさを、取り入れたわけです。
もっとも、貴族の若さまなどは、それまでにも家庭教師を連れてきていたりしたのだそうですが、それを、正規の教師が務める公式の制度としました。
そして、古典の受業を、一方的な講義方式ではなく、問答方式にきりかえます。
ラテン語、ギリシャ語を基礎とする古典の偏重は、むしろ押し進めた感じで、理系の学問が軽視される要因ともなり、アナザー・カントリーの時代になってくると、ドイツに遅れをとった原因として、批判されるようにもなります。
が、それよりも、アーノルドの改革が、後世に語り次がれることとなったのは、パブリック・スクールをして、野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマン、………つまり、しっかりと信仰に基づいた道義心を持ち、公(国家)への奉仕(サービス)に邁進する、礼儀作法を心得た紳士(オースティンのようなおばちゃんに気に入られるような感じ、でもある気がするのですが)………といったところなんですが、そういったクリスチャン・ジェントルマンの人格育成の場たらしめる、基礎となったためです。
なにやら、文字数が多いそうで、イートンとアナザー・カントリーの話が、次回Vol3へ続きます。
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