リーズデイル卿とジャパニズム vol4 恋の波紋の続きです。
まずはちょっと、映画の紹介から。
この映画、なんでこんな題名にしたんだか、原作は、オスカー・ワイルド(1854-1900)の喜劇「真面目(アーネスト)が肝心」です。人名のErnestと、earnest(真面目)という単語が同じ発音であることからの、ダジャレっぽい題名です。詳しくはWikiをご参照ください。
私、この原作を読んでないのですが、うまく原作を生かしているのではないか、と感じます。
なぜこの映画を持ち出したかと言いますと、まず、バーティは、オスカー・ワイルドと交流があったんだそうなんです。
以下、ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳「ある英国外交官の明治維新―ミットフォードの回想」の訳者あとがきより、です。
建設庁に在任中(1874-86)、ミットフォードは英国の指導的な政治家・芸術家・文人らと交友関係をむすんだ。そのなかにはJ・ホイッスラー、F・レイトン、T・カーライル、オスカー・ワイルド、R・ブロウニング、アーサー・サリバン、それからハンガリー生れのバイオリニスト、J・ヨアヒムなどがいる。
こういったバーティの交遊とジャパニズムについては、伝記の購読が進んでから、ゆっくり取りあげるつもりですが、山田勝著「オスカー・ワイルドの生涯―愛と美の殉教者 」(NHKブックス)によれば、です。ワイルドは「ごく一部の人にしかわからないことを作品に注入するのが好き」で、前作の喜劇「ウィンダミア卿夫人の扇 」(新潮文庫)においては、バーティの友人、エドワード皇太子の秘事を、だれにもわからないように取り入れているんだと、いうんですね。
つまりワイルドは、皇太子の愛人、リリー・ラングトリーが密かに皇太子の子供を産んだことを知っていて、そのリリーを、劇中人物アーリン夫人(実はウィンダミア夫人の失踪した母)のモデルにしていた、というのです。
私、映画でコリン・ファースが演じるジャック・ワージングを見て、最初からなんとなく、バーティってこんなかんじだったのかな……、と思っていたのですが、一世紀にわたってなり響いたミットフォード家の血筋の噂を知って、ジャック・ワージングのモデルはバーティにちがいない!という妄想を抱くようになりました。
ワイルドと知り合ったころ、バーティは結婚してロンドンのチェルシーに邸宅をかまえ、落ち着いていましたが、なにしろ皇太子の友人で、妻の姉にも手を出していたらしいバーティです。ロンドンで遊んでいないわけはなく、しかし一方で、バーティの父親はエクスベリーに、金持ちで独身の親戚リーズデイル卿はバッツフォードに、カントリー・ハウスをかまえていましたから、訪れないわけもなく、しかも結局、バーティはバッツフォードを相続して本拠にすることになります。
で、劇中のジャック・ワージングなんですが、ハートフォードシャーにあるカントリー・ハウスでまじめ人間を装って暮らしながら、時々ロンドンへ出向き、アーネストという偽名を使って遊んでいます。資産は十分に持ち、一見、結婚相手として申し分ないのですが、実はジャックは捨て子で、血筋がわかりません。資産家で独身の紳士カーデュ氏が、ヴィクトリア駅で取り違えた黒い大きなカバンに、赤子のジャックが入っていまして、カーデュ氏は、たまたま手にしていた切符が「ワージング行き」だったことから、赤子をジャック・ワージングと名付け、資産をゆずったのです。
ジャックが結婚を申し込んだ娘の母親ブラックネル夫人は、娘が「手荷物預かり所に嫁いで、小包の縁者になる」ことはがまんがならない、と退け、DVDの字幕によりますと、「駅から家系が派生するとは知らなかった」と皮肉ります。
結局ジャックは、夫人の妹の子であり、ちゃんとした血筋だったとわかり、めでたしめでたし、なんですが、貴族名鑑とにらめっこして結婚を考える貴族社会への諷刺、にほかなりません。
で、そのワージングなんですが、西サセックスにある海浜の上流階級保養地です。
そして………、偶然だとは思うのですが、ワージングは、バーティの父、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、祖父ウィリアム・ミットフォードから受け継いたエクスベリーと、東サセックスにあるバーティの母親の実家のカントリー・ハウストとの、ちょうど中間点あたりに位置しているんです。
アッシュバーナム伯爵家のカントリー・ハウスについては、前回ご紹介しましたので、今回はエクスベリーを。
EXBURY GARDENS
上のリンクでhistoryを見ますと、1919年に突然ロスチャイルド家のものになったようにとれるんですが、他のサイトで見たところでは、すでに1880年代初頭、といいますから、バーティの父親が死の直前に手放し、フォスター家のものとなり、さらにロスチャイルド家の手にわたったもののようです。
バーティは、「地上の楽園だ」と言って、とても気に入っていたのだとか。
ミットフォード家は、やはり中世からの古い家系ですが、イングランド北方、スコットランドとの境界に近いノーサンバーランドに根をはった一族で、田舎の名家にとどまり、歴史に名を残すような人物は出なかったそうです。
ローカルとはいえ、城をもち続けてけっこう栄えたようで、この北部の本家筋は、18世紀か19世紀かよくわからないのですが、婚姻関係から、ヨークシャーのオズバルディストン(Osbaldeston)とHunmanbyの土地も手にいれ、オズバルディストン・ミットフォードと名乗るようになったそうです。
この北部の本家筋の一族が1828年に新築したカントリーハウスが、下のリンクみたいです。
Mitford Hall
17世紀のバーティの祖先、ジョン・ミットフォードは、三男だったため、ロンドンで商人となり、一財産作って英国南部に落ち着きました。
そのジョンの曾孫に、ウィリアム(1744-1827)とジョン(1748-1830)の兄弟があり、二人は英語のWikiには載っていますから、ここでミットフォードの南部の分家の方が、全国的な存在となったわけです。
バーティの直系の祖先は、兄のウィリアムなのですが、まずは男爵となった弟のジョンの方から。
ジョン・フリーマン・ミットフォードは法律家で、法廷弁護士、法官となりました。「ミットフォードの弁論」という本を書き、どうやらこれハウツーものみたいなのですが、世界的大ベストセラーとなって、大金を得ました。
なにしろ、1873年にバーティがアメリカ旅行をしたとき、アメリカの法曹界の人々から、「あなたは、ミットフォードの弁論の著者と関係があるのか?」とさかんに聞かれたんだそうです。
またこの本のおかげで、ジョンは父祖の地ノーサンバーランドのリーズデイルに領地を買い、リーズデイル男爵となります。
さらにジョンは、血のつながりのない親戚のトーマス・フリーマンから、バッツフォードを中心として、グロスタシャー、オックスフォードシャーなどにまたがる広大な領地を相続しました。
ジョンは晩婚で、60近くになってから、エグモント伯爵令嬢と結婚し、息子と娘が一人づつ生まれましたが、その息子が、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に出てきます、バーティに莫大な遺産を残してくれた上流野蛮紳士の典型、狩猟好きのリーズデイル伯爵、ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォード((1805-86)です。
ジョン・トーマスは生涯独身で、同じく独身の妹だか姉だかとともに、バッツフォードに壮麗なジョージアン様式の邸宅をかまえて暮らし、ロンドンにはタウン・ハウスを持っていて、上院(貴族院)の活動に熱心でした。
院内幹事や議長を務め、その長年の功労により、1877年、ディズレーリー首相の推薦で、伯爵にしてもらった、というわけです。
バーティの曾祖父に当たる、兄のウィリアム・ミットフォードの方は、エクスベリーにカントリーハウスをかまえたジェントリーであり、歴史家でした。
歴史家といっても、ギリシャ史に造詣が深く、「ローマ帝国衰亡史」を書いたエドワード・ギボンの勧めで、ギリシャ史の本を出しました。視点が保守的にすぎて、現在では評価されていないそうですが、上品で、おもしろく読めて、当時は評判になったものであり、トーマス・カーライルは「歴史のかわいた骨組みに、生きている肉と血を与えた」と、高く評価していたそうです。
下院議員を務めたこともあり、ハンプシャー民兵軍の将校でもあって、大佐と呼ばれましたが、7つ年上のギボンは、やはりハンプシャーに領地を持つ一族で、この民兵軍の同僚だったのだそうです。
またアマチュアとして、ですが、絵画や音楽にも、才能を示していたのだとか。
アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争の時代を生きた人で、ちょうど、ジェイン・オースティンの父親の年代です。オースティンおばちゃんもハンプシャーの生まれですから、ウィリアム・ミットフォード大佐を、知っていたかもしれないですね。
彼女の小説は、ほとんどすべて、自分が住んだイギリス南部のジェントリーの世界を描いています。あれに野性味をプラスすれば、バーティの曾祖父、祖父の住んだ世界がよくわかる感じ、なんじゃないのでしょうか。
ウィリアムの長男、ヘンリー・ミットフォード(1769-1803)は、ジェイン・オースティンより6つ年上で、ほぼ同世代です。
ナポレオン戦争の時代です。ヘンリーはロイヤル・ネイビーの将校となりました。
そのまま、映画「マスター・アンド・コマンダー」の世界です。
当時の英国海軍将校は、徒弟制度でして、伯爵の息子だろうが公爵の息子だろうが、12、3歳くらいから、艦長の縁故を頼り、候補生として舟に乗り組ませます。
これでは教育が偏る、というので、貴族やジェントリーの子弟を対象として、ポーツマスに王立海軍兵学校ができてはいたのですが、不評で、ナポレオン戦争時代の入学者は、将校のわずか3パーセントだったといいますから、果たしてヘンリーはどうだったんでしょう。オースティンの弟たちは、この不評の兵学校に入ったらしいですけどね。
1803年、ヘンリーは34歳で、軍艦ヨーク号の艦長に任命されました。
艦長になれた!と喜んだのもつかのま、航海長と視察に出向きましたところが、このヨーク号、とても航海に耐えられる代物ではありませんでした。
ヘンリー艦長は、その旨、海軍省に報告したのですが、海軍省はこれを反抗ととって激怒し、「航海するか罷免か」と迫ったため、やむをえずヘンリーは航海したのだそうです。
この年のクリスマス・イブ、ヨーク号は北海の霧の中で、艦長をはじめ400名の乗組員と共に、沈没しました。
ヘンリー艦長は、二人の娘を得た最初の結婚の後、二度目の結婚をしていて、二度目の妻は、ちょうど身ごもっていました。
ヘンリーが殉職した翌1804年、男の子が生まれ、ヘンリー・レベリー・ミットフォード(1804-1883)と名付けられます。
母親はすぐに再婚し、ヘンリー・レベリーは異母姉二人とともに、エクスベリーの祖父、ウィリアム大佐に引き取られました。
父母を知らないで、祖父に育てられたこの男の子、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、バーティの父………、のはずです。
ヘンリー艦長の従兄弟、リーズデイル伯爵ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォードは、1805年生まれで、年齢をいうならば、遺児のヘンリー・レベリーと同世代となり、二人は生涯親友だったそうです。
長くなりましたので、「恋の波紋」は、また次回に続きます。
最後に余談を。映画「アーネスト式プロポーズ」は、アナザー・カントリー以来のコリン・ファースとルパート・エヴェレットの共演です。
容姿からいきますと、アーネスト・サトウがルパート・エヴェレット、バーティがコリン・ファースで、ぴったりだと思うのです。ああ、もうちょとこの二人が若いときに、二人が演じる明治維新のイギリス公使館暗躍映画を見てみたかったなあ、とため息です。
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まずはちょっと、映画の紹介から。
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この映画、なんでこんな題名にしたんだか、原作は、オスカー・ワイルド(1854-1900)の喜劇「真面目(アーネスト)が肝心」です。人名のErnestと、earnest(真面目)という単語が同じ発音であることからの、ダジャレっぽい題名です。詳しくはWikiをご参照ください。
私、この原作を読んでないのですが、うまく原作を生かしているのではないか、と感じます。
なぜこの映画を持ち出したかと言いますと、まず、バーティは、オスカー・ワイルドと交流があったんだそうなんです。
以下、ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳「ある英国外交官の明治維新―ミットフォードの回想」の訳者あとがきより、です。
建設庁に在任中(1874-86)、ミットフォードは英国の指導的な政治家・芸術家・文人らと交友関係をむすんだ。そのなかにはJ・ホイッスラー、F・レイトン、T・カーライル、オスカー・ワイルド、R・ブロウニング、アーサー・サリバン、それからハンガリー生れのバイオリニスト、J・ヨアヒムなどがいる。
こういったバーティの交遊とジャパニズムについては、伝記の購読が進んでから、ゆっくり取りあげるつもりですが、山田勝著「オスカー・ワイルドの生涯―愛と美の殉教者 」(NHKブックス)によれば、です。ワイルドは「ごく一部の人にしかわからないことを作品に注入するのが好き」で、前作の喜劇「ウィンダミア卿夫人の扇 」(新潮文庫)においては、バーティの友人、エドワード皇太子の秘事を、だれにもわからないように取り入れているんだと、いうんですね。
つまりワイルドは、皇太子の愛人、リリー・ラングトリーが密かに皇太子の子供を産んだことを知っていて、そのリリーを、劇中人物アーリン夫人(実はウィンダミア夫人の失踪した母)のモデルにしていた、というのです。
私、映画でコリン・ファースが演じるジャック・ワージングを見て、最初からなんとなく、バーティってこんなかんじだったのかな……、と思っていたのですが、一世紀にわたってなり響いたミットフォード家の血筋の噂を知って、ジャック・ワージングのモデルはバーティにちがいない!という妄想を抱くようになりました。
ワイルドと知り合ったころ、バーティは結婚してロンドンのチェルシーに邸宅をかまえ、落ち着いていましたが、なにしろ皇太子の友人で、妻の姉にも手を出していたらしいバーティです。ロンドンで遊んでいないわけはなく、しかし一方で、バーティの父親はエクスベリーに、金持ちで独身の親戚リーズデイル卿はバッツフォードに、カントリー・ハウスをかまえていましたから、訪れないわけもなく、しかも結局、バーティはバッツフォードを相続して本拠にすることになります。
で、劇中のジャック・ワージングなんですが、ハートフォードシャーにあるカントリー・ハウスでまじめ人間を装って暮らしながら、時々ロンドンへ出向き、アーネストという偽名を使って遊んでいます。資産は十分に持ち、一見、結婚相手として申し分ないのですが、実はジャックは捨て子で、血筋がわかりません。資産家で独身の紳士カーデュ氏が、ヴィクトリア駅で取り違えた黒い大きなカバンに、赤子のジャックが入っていまして、カーデュ氏は、たまたま手にしていた切符が「ワージング行き」だったことから、赤子をジャック・ワージングと名付け、資産をゆずったのです。
ジャックが結婚を申し込んだ娘の母親ブラックネル夫人は、娘が「手荷物預かり所に嫁いで、小包の縁者になる」ことはがまんがならない、と退け、DVDの字幕によりますと、「駅から家系が派生するとは知らなかった」と皮肉ります。
結局ジャックは、夫人の妹の子であり、ちゃんとした血筋だったとわかり、めでたしめでたし、なんですが、貴族名鑑とにらめっこして結婚を考える貴族社会への諷刺、にほかなりません。
で、そのワージングなんですが、西サセックスにある海浜の上流階級保養地です。
そして………、偶然だとは思うのですが、ワージングは、バーティの父、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、祖父ウィリアム・ミットフォードから受け継いたエクスベリーと、東サセックスにあるバーティの母親の実家のカントリー・ハウストとの、ちょうど中間点あたりに位置しているんです。
アッシュバーナム伯爵家のカントリー・ハウスについては、前回ご紹介しましたので、今回はエクスベリーを。
EXBURY GARDENS
上のリンクでhistoryを見ますと、1919年に突然ロスチャイルド家のものになったようにとれるんですが、他のサイトで見たところでは、すでに1880年代初頭、といいますから、バーティの父親が死の直前に手放し、フォスター家のものとなり、さらにロスチャイルド家の手にわたったもののようです。
バーティは、「地上の楽園だ」と言って、とても気に入っていたのだとか。
ミットフォード家は、やはり中世からの古い家系ですが、イングランド北方、スコットランドとの境界に近いノーサンバーランドに根をはった一族で、田舎の名家にとどまり、歴史に名を残すような人物は出なかったそうです。
ローカルとはいえ、城をもち続けてけっこう栄えたようで、この北部の本家筋は、18世紀か19世紀かよくわからないのですが、婚姻関係から、ヨークシャーのオズバルディストン(Osbaldeston)とHunmanbyの土地も手にいれ、オズバルディストン・ミットフォードと名乗るようになったそうです。
この北部の本家筋の一族が1828年に新築したカントリーハウスが、下のリンクみたいです。
Mitford Hall
17世紀のバーティの祖先、ジョン・ミットフォードは、三男だったため、ロンドンで商人となり、一財産作って英国南部に落ち着きました。
そのジョンの曾孫に、ウィリアム(1744-1827)とジョン(1748-1830)の兄弟があり、二人は英語のWikiには載っていますから、ここでミットフォードの南部の分家の方が、全国的な存在となったわけです。
バーティの直系の祖先は、兄のウィリアムなのですが、まずは男爵となった弟のジョンの方から。
ジョン・フリーマン・ミットフォードは法律家で、法廷弁護士、法官となりました。「ミットフォードの弁論」という本を書き、どうやらこれハウツーものみたいなのですが、世界的大ベストセラーとなって、大金を得ました。
なにしろ、1873年にバーティがアメリカ旅行をしたとき、アメリカの法曹界の人々から、「あなたは、ミットフォードの弁論の著者と関係があるのか?」とさかんに聞かれたんだそうです。
またこの本のおかげで、ジョンは父祖の地ノーサンバーランドのリーズデイルに領地を買い、リーズデイル男爵となります。
さらにジョンは、血のつながりのない親戚のトーマス・フリーマンから、バッツフォードを中心として、グロスタシャー、オックスフォードシャーなどにまたがる広大な領地を相続しました。
ジョンは晩婚で、60近くになってから、エグモント伯爵令嬢と結婚し、息子と娘が一人づつ生まれましたが、その息子が、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に出てきます、バーティに莫大な遺産を残してくれた上流野蛮紳士の典型、狩猟好きのリーズデイル伯爵、ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォード((1805-86)です。
ジョン・トーマスは生涯独身で、同じく独身の妹だか姉だかとともに、バッツフォードに壮麗なジョージアン様式の邸宅をかまえて暮らし、ロンドンにはタウン・ハウスを持っていて、上院(貴族院)の活動に熱心でした。
院内幹事や議長を務め、その長年の功労により、1877年、ディズレーリー首相の推薦で、伯爵にしてもらった、というわけです。
バーティの曾祖父に当たる、兄のウィリアム・ミットフォードの方は、エクスベリーにカントリーハウスをかまえたジェントリーであり、歴史家でした。
歴史家といっても、ギリシャ史に造詣が深く、「ローマ帝国衰亡史」を書いたエドワード・ギボンの勧めで、ギリシャ史の本を出しました。視点が保守的にすぎて、現在では評価されていないそうですが、上品で、おもしろく読めて、当時は評判になったものであり、トーマス・カーライルは「歴史のかわいた骨組みに、生きている肉と血を与えた」と、高く評価していたそうです。
下院議員を務めたこともあり、ハンプシャー民兵軍の将校でもあって、大佐と呼ばれましたが、7つ年上のギボンは、やはりハンプシャーに領地を持つ一族で、この民兵軍の同僚だったのだそうです。
またアマチュアとして、ですが、絵画や音楽にも、才能を示していたのだとか。
アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争の時代を生きた人で、ちょうど、ジェイン・オースティンの父親の年代です。オースティンおばちゃんもハンプシャーの生まれですから、ウィリアム・ミットフォード大佐を、知っていたかもしれないですね。
彼女の小説は、ほとんどすべて、自分が住んだイギリス南部のジェントリーの世界を描いています。あれに野性味をプラスすれば、バーティの曾祖父、祖父の住んだ世界がよくわかる感じ、なんじゃないのでしょうか。
ウィリアムの長男、ヘンリー・ミットフォード(1769-1803)は、ジェイン・オースティンより6つ年上で、ほぼ同世代です。
ナポレオン戦争の時代です。ヘンリーはロイヤル・ネイビーの将校となりました。
そのまま、映画「マスター・アンド・コマンダー」の世界です。
当時の英国海軍将校は、徒弟制度でして、伯爵の息子だろうが公爵の息子だろうが、12、3歳くらいから、艦長の縁故を頼り、候補生として舟に乗り組ませます。
これでは教育が偏る、というので、貴族やジェントリーの子弟を対象として、ポーツマスに王立海軍兵学校ができてはいたのですが、不評で、ナポレオン戦争時代の入学者は、将校のわずか3パーセントだったといいますから、果たしてヘンリーはどうだったんでしょう。オースティンの弟たちは、この不評の兵学校に入ったらしいですけどね。
1803年、ヘンリーは34歳で、軍艦ヨーク号の艦長に任命されました。
艦長になれた!と喜んだのもつかのま、航海長と視察に出向きましたところが、このヨーク号、とても航海に耐えられる代物ではありませんでした。
ヘンリー艦長は、その旨、海軍省に報告したのですが、海軍省はこれを反抗ととって激怒し、「航海するか罷免か」と迫ったため、やむをえずヘンリーは航海したのだそうです。
この年のクリスマス・イブ、ヨーク号は北海の霧の中で、艦長をはじめ400名の乗組員と共に、沈没しました。
ヘンリー艦長は、二人の娘を得た最初の結婚の後、二度目の結婚をしていて、二度目の妻は、ちょうど身ごもっていました。
ヘンリーが殉職した翌1804年、男の子が生まれ、ヘンリー・レベリー・ミットフォード(1804-1883)と名付けられます。
母親はすぐに再婚し、ヘンリー・レベリーは異母姉二人とともに、エクスベリーの祖父、ウィリアム大佐に引き取られました。
父母を知らないで、祖父に育てられたこの男の子、ヘンリー・レベリー・ミットフォードが、バーティの父………、のはずです。
ヘンリー艦長の従兄弟、リーズデイル伯爵ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォードは、1805年生まれで、年齢をいうならば、遺児のヘンリー・レベリーと同世代となり、二人は生涯親友だったそうです。
長くなりましたので、「恋の波紋」は、また次回に続きます。
最後に余談を。映画「アーネスト式プロポーズ」は、アナザー・カントリー以来のコリン・ファースとルパート・エヴェレットの共演です。
容姿からいきますと、アーネスト・サトウがルパート・エヴェレット、バーティがコリン・ファースで、ぴったりだと思うのです。ああ、もうちょとこの二人が若いときに、二人が演じる明治維新のイギリス公使館暗躍映画を見てみたかったなあ、とため息です。
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