郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件と攘夷

2008年10月06日 | 生麦事件
 またまた更新が滞っております。すみません。なぜか生麦事件に迷っていってしまい、なぜか一生懸命wikiの記事書きに取り組んでおりました。あー、まあ、一つは、「薩藩海軍史」という基本資料を持っていまして、なぜ持っているかといいますと、モンブラン伯爵について調べるためだったんですが、あんまり役に立ったともいえず、ここらでちょっと役立ててみようかと、生麦事件のあたりを読んでみたため、というのもありました。
 ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。

 えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。

 話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
 そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。

 しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
 生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
 後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。

 久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。

 よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。


生麦事件
吉村 昭
新潮社

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 吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
 まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
 ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。

「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」

 つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
 ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
 斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
 いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。

 まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
 もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。

 明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。

 君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
 強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
 擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
 われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。

 「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」

 明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
 以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。


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コメント (26)
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