見ようかどうしようか、相当に迷ったのですが、シルク、幕末、フランスとお題がそろいまして、この私が、見ないわけにもいかないような気になってしまい、つい、見てしまいました………。この映画。
レッド・バイオリンの監督さんとは、知りませんでした………。ちがいすぎ!!!
キーラ・ナイトレイが出ていたとは、知りませんでした………。似合わない!!!
主人公の妻役なんですが、古典的な「待つ女」。柄じゃありません。
もう、なんといえばいいんでしょうか、「ファンタジーだと思えというのね」と自分に言い聞かせてはいたのですが、いけません。
だって冒頭から1862年と、はっきり実年が出てくるんです。文久2年、生麦事件の年ですよねえ。
ヨーロッパの蚕が病気という、これもとてもリアルな話を出してきておいて、エジプトまで元気な蚕の卵をさがしに行った主人公のフランス青年(元陸軍士官)が、そこの蚕もだめなので、日本へ行きます。冒頭から2年くらいはたっていそうなので、元治元年(1864年)くらいかなあ、という感じです。
レオン・ロッシュが公使として来日し、横須賀製鉄所建設と引き替えに、蚕と生糸の日仏独占交易を試みようとする、ちょうどそのあたりのはず。
それが………、日本は蚕交易を禁じているので密入国して秘密の取り引きをしなければいけないって、なんなんでしょうか、いったい!!! 日仏通商修好条約は安政5年(1858年)に結ばれ、万延元年(1860年)の日本の輸出総額395万のうち蚕種と生糸が259万にのぼりますけど、もしもし???
たしかに、いっとき、幕府が生糸と蚕種の取り引きに制限をかけたことはありましたが、すぐにやめさせられていますし、なぜに、シベリアを横断してウラジオストックから密入国??? 文久3年(1863年)には英国の定期客船が横浜まできてるんです!!! 慶応元年(1865年)にはフランス郵船も日本への定期航路を開設しているんだから、普通にマルセイユから客船に乗ればいいでしょうがっ!!!
その後も内乱が勃発するって、戊辰戦争のことですか、もしもし???
たしかに、戊辰戦争で生糸や蚕種の生産地が戦闘にまきこまれ、交通の遮断もあって、横浜で品薄になり、いっときだけですが開港直前直後の新潟港に、生糸商人が押し寄せ、みたいなことはあったみたいですが、桃源郷のような蚕の村が内乱で壊滅って、どこの藩のことですか、もしもし???
内乱が収まって日本は蚕種取り引きを解禁し、スエズ運河が開通したって、スエズ運河開通は明治2年(1869)ですが、慶応元年(1865年)には幕府はきっちり商標までつけた蚕種をナポレオン3世に贈り、2年後にお礼のアラビア馬をもらってますが、もしもし???
そして、普仏戦争はどこへ消えたの!!!!! いったい???? 明治3年(1870年)にはじまった普仏戦争で、フランスの生産活動は滞り、生糸も蚕種も買ってもらえなくなって、横浜の生糸商人は大損をするんですけれど。
ともかく、ただただ疲れました。
ただ、どうもこの映画の原作「絹 」(白水Uブックス 169 海外小説の誘惑)の著者は、イタリア人みたいなのです。
だとすれば………、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3などで、ちょっと触れていますが、フランス公使レオン・ロッシュは、友人の銀行家フリューリ・エラールとともに、絹織物の産地リヨンから出資をつのって「フランス輸出入会社」(ソシエテ・ジェネラール)を結成し、幕府との独占貿易を意図し、良質の生糸と蚕種が、イギリスの仲買業者も含めて、他の商人の手には渡らないように、巧妙に工作していた節があるんですね。「この独占にイタリア人も怒っている」というような証言もありまして、ちょうどこの映画の時期、フランス人、それもロッシュの息のかかった商人以外は、良質の蚕種は、手に入れられなくなっていた、はずなんです。
良質の生糸、蚕種の産地は、そのほとんどが幕府の天領でして、これも以前にバロン・キャットと小栗上野介などで書きましたが、重税をかけられ、人心が幕府から離反しました。戊辰戦争で、その幕府の生糸、蚕種政策が崩壊したのはいいのですが、従来のルートには乗らなくなった上に、戦乱で横浜への荷出しがとまり………、といったようなこともありましたし、主にイタリアの生糸商人が、というのもイタリアも絹織物産業が盛んで、蚕の病気に苦しめられていましたから、新しい取り引きを求めて、新潟開港に期待をかけるんです。
どうも、エドワルド・スネルが画策したようなのですが、奥羽列藩同盟の各藩に自分が武器を売り、同時に列藩同盟各藩が、自藩領の蚕種や生糸をイタリア商人に売ってその支払いにあてる、というような試みで、開港前から新潟に商人が集まったんです。
まあ、ですから、まだイタリア人が主人公であれば、話はわからないでもないのですが、フランス人なばかりに、おい、独占交易しといてなにをいう!!!、なんです。
うーん。ちょっと気になって追記しているんですが、「フランス輸出入会社」にはとてもまぜてもらえない南仏の弱小生糸生産地帯が、ですね、良質の日本産蚕種が市場に出回らなくなったのは、日本が禁輸したのだと思いこんでいて、つまり自国の公使がやっていることだとは知らないで(つーか、知らなかったでしょうけどね、普通)、直接買い付けに人を送ったとしたら、この映画に近い話になるんですかね。
ただ、シベリア超えて密入国はありえんですし、マルセイユから客船で長崎か横浜まで来て、自国の策謀を知って、どこかに良質の蚕種を密売する藩はないかとさぐったところ、庄内藩が売ろうとしていると知って……、ひそかに庄内領に入る。
これなら、ありえない話じゃなさげ、ですね。おい、レオン・ロッシュ!!!
つーか、薩摩藩の開成所で洋学教授をしていた本間郡兵衛は、庄内の人ですわね。文久2年(1862年)の幕府の訪欧使節団とともにパリも訪れていますし、薩摩から幕府の独占交易の情報は入ったでしょうし、庄内藩で蚕種を密売するくらいのこと、考えつきそうなんですが。
役所広司演じる原十兵衛は本間郡兵衛、ですかね。英語ぺらぺら、もしかしたらフランス語もしゃべってたかもしれませんし。
ちなみに、本間郡兵衛は慶応3年(1867年)、薩摩のスパイだったとして捕らえられ、その後、庄内藩庁の手で殺されています。
庄内日報社 洋学者 日本最初の株式会社創立 本間郡兵衛
郡兵衛は文久2年欧米各国や清国を巡遊し、西洋諸国の経済発達と、その経済侵略を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが、株式会社を作り、巨大産業を起こす事が何よりも急務と考えた。
廻船問屋に生まれた郡兵衛は、経済に敏感だったにちがいない。
ちょうどこのころ、薩摩の名家老・小松帯刀が英語教師をグラバーに求めたことから郡兵衛が推薦され、開成所の英語教師となった。郡兵衛は早速「薩州商社草案」をつくり帯刀に上書した。というのはこの草案が彼の生家である恒輔家に残っていて、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
開明的な帯刀は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し、大和方コンパ二―という株式会社を組織することにした。大和方コンパ二―は別名、薩州商社ともいった。
慶応2年、郡兵衛は大和方コンパ二―に本間家の参加を求めるため、酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点としようと計画していた。従ってもしこれが実現していたら、酒田港が幕末の開港場に指定され、明治維新以降の立ち遅れをみないですんだかもしれない。
これはまちがいなく、原十兵衛は本間郡兵衛、でしょう。
いや、なんだか、モンブラン伯爵も関係していそうな気が。
薩摩と庄内の関係悪化で、本間郡兵衛の商社活動が差し止められて、庄内藩が弾圧にまわったのですから、これは映画がいうように「内乱」ですわね。
あー、いまさらなんですが、この映画を見てよかった!!!かも、しれません。
すみません。さらに妄想がわいてきて、続けます。中谷美紀演じる謎の日本人マダム・ブランシュ、ですが、ブランシュ、白、ねえ。マダム・モンブラン(白い山)、の伝え間違いだったりしまして。つまり、モンブラン伯爵の愛人フランスお政(笑)。
主人公の青年エルヴェのモデルにも、心当たりが(笑) モンブランが薩摩に連れてきて、雇うことを断られたフランスの元陸軍士官「アントワン」ですけれどね、薩摩は雇うのは断ったかわりに、たっぷり違約金を支払ったのに、その後もモンブラン伯爵が、どこかに押し込んでやろうと必死に画策して、結局、おそらく後藤象次郎の世話だと思いますが、フランス式を選択した土佐藩の陸軍教師に雇われます。
と、ここまでは証拠のある話で、「アントワン」くん、よほど日本にとどまりたかった、みたいなんですけど、実は南仏の生糸生産地帯の出身だったりしまして……、どうもモンブラン伯爵家は南仏の出身みたいですし、伯爵の母親はモンガイヤール家の出で、これも南仏貴族みたいですから、良質蚕種品薄騒ぎの裏を知るモンブラン伯爵が、縁の深い南仏の村がそれで困っているのを知り、陸軍士官だったその村の青年「アントワン」くんを日本に送ることを勧め、薩摩の縁から庄内の本間郡兵衛に紹介し、「アントワン」くんは一度庄内に行って買い付けをしますが、庄内だか長崎だか横浜だかそれはわかりませんが、日本人の愛人ができて、どーしてももう一度日本に行きたい!、とモンブラン伯爵にねだって、今度は元陸軍士官の経歴を生かすつもりで来日。愛人と再会した、とか(笑)
ところで、気のせいかもしれないんですが、確か一昨日は、「生麦事件 横切った」でぐぐったら、生麦事件と攘夷のページが、けっこう上の方にあがっていたように思ったんです。なんか書いたばっかりなのに、早すぎる気もしたのですが。ところが昨日から、どんな言葉を入れてぐぐっても、出てこなくなたんです。な、な、なんなんでしょ??? Google検索 怖いです!!!
なんだか今日は、変なお話ばっかりでしたので、最後に、大先輩からうかがった、素敵なお話を。
つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか。さすが桐野、豪勢ですよねえ。
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レッド・バイオリンの監督さんとは、知りませんでした………。ちがいすぎ!!!
キーラ・ナイトレイが出ていたとは、知りませんでした………。似合わない!!!
主人公の妻役なんですが、古典的な「待つ女」。柄じゃありません。
もう、なんといえばいいんでしょうか、「ファンタジーだと思えというのね」と自分に言い聞かせてはいたのですが、いけません。
だって冒頭から1862年と、はっきり実年が出てくるんです。文久2年、生麦事件の年ですよねえ。
ヨーロッパの蚕が病気という、これもとてもリアルな話を出してきておいて、エジプトまで元気な蚕の卵をさがしに行った主人公のフランス青年(元陸軍士官)が、そこの蚕もだめなので、日本へ行きます。冒頭から2年くらいはたっていそうなので、元治元年(1864年)くらいかなあ、という感じです。
レオン・ロッシュが公使として来日し、横須賀製鉄所建設と引き替えに、蚕と生糸の日仏独占交易を試みようとする、ちょうどそのあたりのはず。
それが………、日本は蚕交易を禁じているので密入国して秘密の取り引きをしなければいけないって、なんなんでしょうか、いったい!!! 日仏通商修好条約は安政5年(1858年)に結ばれ、万延元年(1860年)の日本の輸出総額395万のうち蚕種と生糸が259万にのぼりますけど、もしもし???
たしかに、いっとき、幕府が生糸と蚕種の取り引きに制限をかけたことはありましたが、すぐにやめさせられていますし、なぜに、シベリアを横断してウラジオストックから密入国??? 文久3年(1863年)には英国の定期客船が横浜まできてるんです!!! 慶応元年(1865年)にはフランス郵船も日本への定期航路を開設しているんだから、普通にマルセイユから客船に乗ればいいでしょうがっ!!!
その後も内乱が勃発するって、戊辰戦争のことですか、もしもし???
たしかに、戊辰戦争で生糸や蚕種の生産地が戦闘にまきこまれ、交通の遮断もあって、横浜で品薄になり、いっときだけですが開港直前直後の新潟港に、生糸商人が押し寄せ、みたいなことはあったみたいですが、桃源郷のような蚕の村が内乱で壊滅って、どこの藩のことですか、もしもし???
内乱が収まって日本は蚕種取り引きを解禁し、スエズ運河が開通したって、スエズ運河開通は明治2年(1869)ですが、慶応元年(1865年)には幕府はきっちり商標までつけた蚕種をナポレオン3世に贈り、2年後にお礼のアラビア馬をもらってますが、もしもし???
そして、普仏戦争はどこへ消えたの!!!!! いったい???? 明治3年(1870年)にはじまった普仏戦争で、フランスの生産活動は滞り、生糸も蚕種も買ってもらえなくなって、横浜の生糸商人は大損をするんですけれど。
ともかく、ただただ疲れました。
ただ、どうもこの映画の原作「絹 」(白水Uブックス 169 海外小説の誘惑)の著者は、イタリア人みたいなのです。
だとすれば………、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3などで、ちょっと触れていますが、フランス公使レオン・ロッシュは、友人の銀行家フリューリ・エラールとともに、絹織物の産地リヨンから出資をつのって「フランス輸出入会社」(ソシエテ・ジェネラール)を結成し、幕府との独占貿易を意図し、良質の生糸と蚕種が、イギリスの仲買業者も含めて、他の商人の手には渡らないように、巧妙に工作していた節があるんですね。「この独占にイタリア人も怒っている」というような証言もありまして、ちょうどこの映画の時期、フランス人、それもロッシュの息のかかった商人以外は、良質の蚕種は、手に入れられなくなっていた、はずなんです。
良質の生糸、蚕種の産地は、そのほとんどが幕府の天領でして、これも以前にバロン・キャットと小栗上野介などで書きましたが、重税をかけられ、人心が幕府から離反しました。戊辰戦争で、その幕府の生糸、蚕種政策が崩壊したのはいいのですが、従来のルートには乗らなくなった上に、戦乱で横浜への荷出しがとまり………、といったようなこともありましたし、主にイタリアの生糸商人が、というのもイタリアも絹織物産業が盛んで、蚕の病気に苦しめられていましたから、新しい取り引きを求めて、新潟開港に期待をかけるんです。
どうも、エドワルド・スネルが画策したようなのですが、奥羽列藩同盟の各藩に自分が武器を売り、同時に列藩同盟各藩が、自藩領の蚕種や生糸をイタリア商人に売ってその支払いにあてる、というような試みで、開港前から新潟に商人が集まったんです。
まあ、ですから、まだイタリア人が主人公であれば、話はわからないでもないのですが、フランス人なばかりに、おい、独占交易しといてなにをいう!!!、なんです。
うーん。ちょっと気になって追記しているんですが、「フランス輸出入会社」にはとてもまぜてもらえない南仏の弱小生糸生産地帯が、ですね、良質の日本産蚕種が市場に出回らなくなったのは、日本が禁輸したのだと思いこんでいて、つまり自国の公使がやっていることだとは知らないで(つーか、知らなかったでしょうけどね、普通)、直接買い付けに人を送ったとしたら、この映画に近い話になるんですかね。
ただ、シベリア超えて密入国はありえんですし、マルセイユから客船で長崎か横浜まで来て、自国の策謀を知って、どこかに良質の蚕種を密売する藩はないかとさぐったところ、庄内藩が売ろうとしていると知って……、ひそかに庄内領に入る。
これなら、ありえない話じゃなさげ、ですね。おい、レオン・ロッシュ!!!
つーか、薩摩藩の開成所で洋学教授をしていた本間郡兵衛は、庄内の人ですわね。文久2年(1862年)の幕府の訪欧使節団とともにパリも訪れていますし、薩摩から幕府の独占交易の情報は入ったでしょうし、庄内藩で蚕種を密売するくらいのこと、考えつきそうなんですが。
役所広司演じる原十兵衛は本間郡兵衛、ですかね。英語ぺらぺら、もしかしたらフランス語もしゃべってたかもしれませんし。
ちなみに、本間郡兵衛は慶応3年(1867年)、薩摩のスパイだったとして捕らえられ、その後、庄内藩庁の手で殺されています。
庄内日報社 洋学者 日本最初の株式会社創立 本間郡兵衛
郡兵衛は文久2年欧米各国や清国を巡遊し、西洋諸国の経済発達と、その経済侵略を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが、株式会社を作り、巨大産業を起こす事が何よりも急務と考えた。
廻船問屋に生まれた郡兵衛は、経済に敏感だったにちがいない。
ちょうどこのころ、薩摩の名家老・小松帯刀が英語教師をグラバーに求めたことから郡兵衛が推薦され、開成所の英語教師となった。郡兵衛は早速「薩州商社草案」をつくり帯刀に上書した。というのはこの草案が彼の生家である恒輔家に残っていて、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
開明的な帯刀は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し、大和方コンパ二―という株式会社を組織することにした。大和方コンパ二―は別名、薩州商社ともいった。
慶応2年、郡兵衛は大和方コンパ二―に本間家の参加を求めるため、酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点としようと計画していた。従ってもしこれが実現していたら、酒田港が幕末の開港場に指定され、明治維新以降の立ち遅れをみないですんだかもしれない。
これはまちがいなく、原十兵衛は本間郡兵衛、でしょう。
いや、なんだか、モンブラン伯爵も関係していそうな気が。
薩摩と庄内の関係悪化で、本間郡兵衛の商社活動が差し止められて、庄内藩が弾圧にまわったのですから、これは映画がいうように「内乱」ですわね。
あー、いまさらなんですが、この映画を見てよかった!!!かも、しれません。
すみません。さらに妄想がわいてきて、続けます。中谷美紀演じる謎の日本人マダム・ブランシュ、ですが、ブランシュ、白、ねえ。マダム・モンブラン(白い山)、の伝え間違いだったりしまして。つまり、モンブラン伯爵の愛人フランスお政(笑)。
主人公の青年エルヴェのモデルにも、心当たりが(笑) モンブランが薩摩に連れてきて、雇うことを断られたフランスの元陸軍士官「アントワン」ですけれどね、薩摩は雇うのは断ったかわりに、たっぷり違約金を支払ったのに、その後もモンブラン伯爵が、どこかに押し込んでやろうと必死に画策して、結局、おそらく後藤象次郎の世話だと思いますが、フランス式を選択した土佐藩の陸軍教師に雇われます。
と、ここまでは証拠のある話で、「アントワン」くん、よほど日本にとどまりたかった、みたいなんですけど、実は南仏の生糸生産地帯の出身だったりしまして……、どうもモンブラン伯爵家は南仏の出身みたいですし、伯爵の母親はモンガイヤール家の出で、これも南仏貴族みたいですから、良質蚕種品薄騒ぎの裏を知るモンブラン伯爵が、縁の深い南仏の村がそれで困っているのを知り、陸軍士官だったその村の青年「アントワン」くんを日本に送ることを勧め、薩摩の縁から庄内の本間郡兵衛に紹介し、「アントワン」くんは一度庄内に行って買い付けをしますが、庄内だか長崎だか横浜だかそれはわかりませんが、日本人の愛人ができて、どーしてももう一度日本に行きたい!、とモンブラン伯爵にねだって、今度は元陸軍士官の経歴を生かすつもりで来日。愛人と再会した、とか(笑)
ところで、気のせいかもしれないんですが、確か一昨日は、「生麦事件 横切った」でぐぐったら、生麦事件と攘夷のページが、けっこう上の方にあがっていたように思ったんです。なんか書いたばっかりなのに、早すぎる気もしたのですが。ところが昨日から、どんな言葉を入れてぐぐっても、出てこなくなたんです。な、な、なんなんでしょ??? Google検索 怖いです!!!
なんだか今日は、変なお話ばっかりでしたので、最後に、大先輩からうかがった、素敵なお話を。
つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか。さすが桐野、豪勢ですよねえ。
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