郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 下

2009年12月14日 | 幕末留学
薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上の続きです。

 私の畠山義成に対する関心は、当初、モンブランから入りましたがゆえに、渡米の後についてはとぎれておりました。
 幕末も押し詰まった時点において、イギリスのオリファントとフランスのモンブランが綱引き状態。オリファントの背後からトーマス・レイク・ハリスが現れ、フランスにまで乗り込んだとなりますと、留学生たちのハリス教団とのかかわりまでは視野に入れざるをえず、畠山が吉田清成、松村淳蔵とともにハリス教団を離れました経緯は、前回ご紹介しました林竹二氏の論文など、ある程度は調べておりました。

 しかし、なんといっても在イギリスの間に関心は集中しまして、この間、残っております畠山の書簡がすべて新納刑部(新納とうさん)宛であったことなどから、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」において、以下のような推測をしたようなわけです。

新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。


えー、私、「あらためて書きたい」とか「別の機会に」とかいいながら、さっぱり書いてきませんでしたが、この集合写真の新納竹之助くんが、これです。



 証拠がないのですが、畠山義成がアメリカに渡ってからもずっと竹之助くんを気遣っていただろうという推測は、私の中で確信にまでなろうとしております。畠山義成とは、そういう人だったと思うのです。
 その畠山の生涯は、けっして長いものではありませんでした。詳しくはtomoeさまのサイトで見ていただきたいのですが、天保14年(1843)の生まれですから、23歳(数え)でイギリスに密航留学し、アメリカへ。ハリス教団を出てラトガース大学に学び、岩倉使節団の通訳。帰国後は文部省に奉職し、明治9年(1876)、フィラデルフィア万博に派遣され渡米。病が悪化し、帰国途上に死去。数えで34歳でした。

kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 私、よくは知らなかったのですが、船上で畠山を看取ったのは、薩摩出身の留学生・折田彦市(wiki-折田彦一参照)でした。
 ちなみに、「岩下長十郎の死」で書きました大山巌の明治3年普仏戦争観戦日記によりますと、往路の経由地アメリカで、巌は、畠山と折田、岩倉の息子に会っています。
 tomoeさまは、折田の日記の複写を見ておられまして、よく読めない日記だそうなんですが、畠山には身内がほとんどおらず、遺品の整理をしたのは折田と二階堂という人物だったらしい、ということを気にかけておられました。

 「畠山の生まれた場所と墓さえわからない!」とtomoeさまはおっしゃられまして、お墓についていうならば、青山霊園に葬られたという話はある、ということだったんです。
 畠山の死は、青山霊園ができるかできないかの時期でして、ともかく私、青山霊園の事務所で詳細を話し、調べていただいたのですが、「必ずしも墓石が最初の位置にあるわけではなく、猶予はありますが、基本的に管理費が5年間滞りますと撤去されます」というお話しで、記録を調べても「畠山義成という墓石はない」という結論でした。後継がいなかった、ということは、長の年月、管理費がとだえた可能性は、きわめて高いでしょう。

 で、生まれた場所の方です。
 
鹿児島城下絵図散歩―新たな発見に出会う
塩満 郁夫,友野 春久
高城書房

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 上の本で見てみましたところ、畠山の名で「家老になれる身分」にふさわしいお屋敷といえば、安政6年(1859)の地図の畠山主計の屋敷(1047坪)しかなさそうでした。畠山義成、数えで17歳の年です。
 この屋敷、天保13年(1842)の地図では畠山伝十郎の屋敷になっていまして、近くに小さな畠山主計下屋敷もあるんですが、これが天保13年の持ち主は、島津伝十郎となっています。つまり、伝十郎さんは島津一門から畠山家に養子にいったのでは? と推測できたんですね。下に、地図を作っております。

鹿児島城下幕末屋敷図

 で、tomoeさまから、なんと、私がお送りしました論文の中に「畠山義成の実兄は二階堂蔀」という一節があるとのご指摘を受けまして、私、さっぱりそんなことには気づいていなかったものですから、慌てて、論文の脚註を頼りに調べましたところ、二階堂蔀という人物が畠山の遺品である洋書を図書館に寄贈しました時に、「畠山義成の実兄である」旨、明記した添え書きの引用を見つけました。

 さあ、これで、またわからなくなりました。えー、兄が二階堂氏に養子に出て弟の義成は畠山家に残ったのか、あるいは義成が二階堂家に生まれて、畠山家に養子に行ったのか。
 それが今回、tomoeさまが鹿児島県立図書館に行かれて、関係系図を見られたことで、ほぼ、解決がついたと思います。
 最終的には推測をまじえるしかないのですが、新納家、村橋家も近い関係にあるんです。





 島津伝十郎は、加治木島津家から畠山家に養子に入ったんですね。
 これは様々な材料からの推測なんですが、伝十郎さんは、畠山義成の父親であったと思われます。
 そして、伝十郎さんが嗣いだ畠山家から養子に出た新納久仰は、新納刑部の父、竹之助くんの祖父にあたります。wikiの岩下方平の項目に「新納久仰は方平の叔父にあたる」ともありまして、これはどういうことなのか、ちょっと調べてみなければ、と思っています。
 
 新納氏の系図も、近々、見てみる予定です。
 村橋家が加治木島津家の分家だというのは、これも私、読んでいたはずなのですが、忘れこけておりまして、桐野ファンの大先輩からご指摘を受けて、あらためて気づきました。

 幕末の薩摩藩門閥洋行組は、別格(格上という意味で)の町田家を除きまして、どうも加治木島津家関係者が多いようです。想像をたくましくすれば、です。密航留学に際して、島津織之助と高橋要が、どうしてもいやだと拒んだとき、村橋久成を誘ったのは、縁戚の新納刑部と畠山義成であった、かもしれません。
 将軍家の岳父となり、島津の豪奢を見せつけた蘭僻大名・島津重豪。彼にゆかりの深い加治木家、ということが、あるいは関係あるのでしょうか。

 加治木島津家は、今和泉、重富、垂水と並び、一門家と呼ばれる島津の分家で、一万石以上あり、宗家に跡継ぎがない場合には、跡継ぎを出せる格です。
 重年と重豪が宗家と重なっていますのは、一度、加治木に養子に出ていた重年が、兄の6代藩主・宗信の早世で宗家に戻り、息子の重豪に一度は加治木を嗣がせたのですが、結局正妻に男子が恵まれなかったような関係から重豪を戻した、というようなことです。


 なお、畠山義成が生まれた畠山家は、養子が入って血筋がかわってはおりますが、関ヶ原の合戦、島津の退き口で、島津義弘の身代わりとなって討ち死にした長寿院盛敦を祖としていて、幕末に生まれた義成も、それを誇りにしていたようです。

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薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上

2009年12月14日 | 幕末留学
岩下長十郎の死の続きです。

 えーと、ですね。今回、青山霊園を訪れましたのは、長十郎くんのお墓さがしもあったんですが、薩摩スチューデント路傍に死すで書きました、村橋久成のお墓にお参りする、という目的もありました。



右の方が、明治、行き倒れのニュースに衝撃を受けました開拓使人脈が募金を募り、建てられていた墓石のようです。さらに右の碑には、「残響」 (サッポロ叢書 (01))の一節が引かれています。こんなところへ、ようこそ、だったんですが、「残響」の著者でおられる田中和夫氏からコメントをいただき、もう、どびっくりだったんですが、お墓参りを、という思いは、それ以来のものです。
 いっしょにおりました、一般人(幕末オタクではない)のビール好きの友人は、この碑で初めて村橋を知り、「もっとちゃんと、サッポロビールが顕彰すべきよっ!!!」と叫んでおりました。



 で、今回、その友人だけではなく、桐野ファンの大先輩とブログに来ていただいた勝之丞さま、そして、アメリカから久しぶりに里帰りなさったtomoeさまがごいっしょで、みなさまのおかげで、無事、お参りすることができましたような次第です。なにしろ、青山霊園は迷路ですっ!!!

 ところで、tomoeさまは、留学生の一人、畠山義成の大ファンでおられ、なぜか知りませんが(あんまり書いた覚えはないのですが)、畠山義成で検索をかけると私のブログがヒットする確立が高いそうでして、gooホームの方にメールをくださっていたのです。ところが私、確かにgooホームを設定した覚えはあるのですが、ろくに見ておりませんで、長らく気付かないでいた、というボケぶり。
 まあ、ともかく、です。お知り合いになりまして、ごいっしょに、お墓さがしをすることとあいなった次第です。

 畠山義成につきましては、英仏世紀末芸術と日本人で、「(留学中)ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなんかとお茶したらしい」と書いたのが最初でしょうか。このときの私の畠山に対するイメージは、堅物一辺倒でして、「なにか、ラファエル前派のインスピレーションに、寄与するものがあったんでしょうか」と懐疑的な書き方をしていたものですから、fhさまが、下の写真と資料を送ってくださいました。えー、後期ラファエル前派にちなみ、ウィリアム・モリスの壁紙を使って加工しております。



fhさまは、「大礼服の着くずしが似合う男!」とおっしゃるのですが、私のイメージは、「ギムリ!」wiki-ギムリ)です。

ともかく、性格が高潔で、ノーブレス・オブリージュを実践していた、とでもいうんでしょうか。

私、薩摩スチューデント路傍に死すで、以下のように説明いたしました。

使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。


 そうなんです。畠山は町田兄弟、村橋、名越とともに、「将来家老になりえる身分」でした。この名門の留学生たちのうち、村橋が最初に帰国。続いて、名越、長兄・久成をのぞく町田兄弟が帰国しまして(「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」参照)、慶応3年のパリ万博まで残っていましたのは、町田にいさん(久成)と畠山義成のみです。

 えーと、これまでに、ですね。薩摩の幕末外交に手を貸したローレンス・オリファントについては、幾度か触れたことがあるのですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」で書きましたように、寺島に手を貸しましたちょうどそのころ、以前から傾倒していましたアメリカの神秘宗教家、トーマス・レイク・ハリスにはまりこむんですね。

 このハリス教団、退廃した既存の西洋近代キリスト教社会を否定し、私設修道院のような共同体で新しい自己を見出し、社会をも変えていこうというものでして、新世界アメリカ、そして東洋に人類の新しい息吹を見出す、とでもいったような理想をかかげていました。それで、オリファントとハリスは、日本人留学生に非常な期待を持ちます。

 いえ、オリファントとハリスは、留学生だけではなく、留学生の所属する藩(薩摩と長州)が新しい日本を作るものと期待し、その新しい日本が、自分たちの教団の影響のもとに成り立つものだとまで、夢想したんです。ハリスは渡欧し、パリ万博において、薩摩藩の代表である岩下方平に接触しますが、方平は相手にしませんでした。

 パリ万博まで、欧州に残っていた薩摩藩留学生は、町田久成と畠山のほか、イギリスに森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、松村淳蔵、フランスに田中静洲、中村博愛なんですが、畠山を含むイギリスの全員が、ハリス教団に入るべく、渡米することになります。年長で、学頭だった町田久成が、渡米することなく帰国したところをみれば、これは推測なんですが、薩摩藩の方針としては、ハリス教団への入団は認めていなかったのではないんでしょうか。

 オリファントとハリスの誘い方は非常にうまく、ハリス教団で学校を創設するので働きながら学べる、というような約束であったらしく、渡米した6人は、かならずしも全員がハリスに傾倒していたわけではなさそうです。最初にはまった吉田清成と鮫島尚信、そして森有礼、年少の長澤鼎は、かなり深くハリスを信じていたようですが、松村淳蔵の場合はどうも、イギリスでかなわなかった海軍の勉強がアメリカならば可能なのではないか、ということがすべてだったような気がします。性格は実によさそうなんですが、おそらく非常な現実主義者で、理念よりも技術、石にかじりついても初心貫徹、といった感じを受けます。

 そして、畠山です。彼がなにを考えてハリス教団に入団したかについては、ずっと以前にfhさまからご紹介いただいた林竹二氏の論文があります。ご関心のある方は、ご覧になってみてください。

 森有礼研究 第二 森有礼とキリスト教

 畠山こそが、もっとも真摯に、西洋文明の根底に横たわるキリスト教と対峙したのだという、林氏のご見解はもっともだと思うのですが、私はもう一つ、畠山には高貴に生まれた者の責任感があったのではないだろうか、という気がします。
 町田久成が帰国した後、渡米してハリス教団に入ろうとしていたイギリス留学生の中で、畠山はもっとも藩での身分が高く、責任ある立場だったんです。それぞれにとってハリス教団がほんとうに自らを生かす道なのか、もしかして道を誤っていた場合、彼らのめんどうを自分は見なければいけない、という思いを、強く持っていたのではないでしょうか。

 アメリカに渡ってから後の畠山については、私はまったく詳しくありませんで、ぜひ、tomoeさまのサイトをご覧ください。

 kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 で、ようやくお話が、tomoeさまとの畠山義成墓探しにもどるのですが、次回、その詳細と、tomoeさまからいただいた資料から推測されます畠山家の血脈の謎に迫ってみたいと思います。

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