「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回の続きです。
前回、「もしかして、真之のお囲い池のエピソードは省かれるのかも」と心配していましたら、今回、ちゃんと入っていました。
まつやまインフォメーション お囲い池
お囲い池は、確かに藩のプールのようなものでしたが、藩校・明教館とは離れていました。明治以降は一般に開放され、ボランティアで元藩士の老人が見張りをしていたというような話で、作法にうるさかったといわれます。しかし、外観は非常に牧歌的なため池のようなもので、なっ、なに??? この竜宮城みたいなの!と、そばにりっぱな建物がある、というドラマの風景は、ものすごい違和感だったんです。
松山市ホームページ 明教館
どうしてあんな風景になったのか、不思議で、検索をかけてしらべてみました。
そしたらなんと……、ロケ地は、会津の藩校、日新館でした!
会津藩校日新館ー白虎隊の学びの社 お知らせ
あー、行ってみたいかも。なんですが、これ、ぜーんぶ新築ですよねえ。
撮影に解放していて、しかもプールがあって、安上がりにロケができたんでしょうけれども、いくら同じ佐幕藩とはいえ、です。あーんな北国の山の中で、まーったく藩風のちがう会津の藩校で撮影とは!と、ちょっと笑えました。
えー、だって、松山藩は軟弱ですし、俳句はしても、抵抗もしませんでしたし、誰も自決も切腹もしてませんし。
まあ、会津と同じく、長州は嫌いだったでしょうけれども。
戊辰戦争において、松山藩に進駐してきた土佐藩兵の指揮は、小笠原唯八がとっていたんです。このお方が、育ちがよく、実にさっぱりとした気性で、松山藩では、土佐にはあまり反感を持たなかったんです。
ところが、長州藩兵が勝手に上陸してきまして、土佐藩兵とにらみあったあげくに、松山藩虎の子の汽船をかっぱらっていきやがりました。
ちなみに、小笠原唯八は、新政府において、短期間でしたが佐賀の江藤新平と親友になり、その後、会津攻めに加わって、華々しく戦死します。いい人はみーんな、早死にするんですねえ。
秋山好古が、ですね、フランスに留学していましたとき、山県有朋が渡仏してきます。
このとき好古は、山県の出迎えに遅れたり、山県がフランス陸軍高官のために持ってきた土産を汽車の中に置き忘れたりした、という話があります。
えーと、たしか司馬氏の原作の中では、それで山県が「この男は事務仕事には使えない」と見極めたとかなんとか、ということになっていたように記憶しているのですが、私、思うに、ですね。好古は、山県が大嫌い!で、飄々と、しかしわざと、やったんですわ、きっと(笑)。冗談ですけど。
山県といえば、私、それまでけっこう楽しんで見ておりましたのに、伊藤博文と山県が登場しましたとたんに、「あー、あー、あー、まあっ! えらそーに!」と、どん引きでした。
いえ、別に、明治における伊藤と山県の存在が、大きなものであったことを否定するわけではありませんし、第一、明治10年以降のことは、私、ろくに調べておりませんんので、否定するだけの材料も持ち合わせておりません。
しかしもう、私の頭の中が幕末に染まっておりまして、「そうよっ! あんたなんか周旋が上手いだけの高杉の使い走りよっ! つーか、仲良しモンタ(井上馨)を語りなさいよ!」と、テレビに叫びつつ、しかし、イメージじゃないなあ、二人の配役! と、うろんな目で見つめておりました。
真面目な話、どーせナレーションの多いドラマなんですから、政治劇は、ナレーションですませた方がよかったんじゃないんでしょうか。
もともと、原作について、小説としての構成が破綻している、というような感じの評価もあります。
つまり、最初は、子規と秋山兄弟に焦点をあわせて、時代を描いているのですが、日清戦争がはじまるあたりから、それでは全体像が鮮明になりませんから、主人公格の三人は背景に引き、その他大勢になってしまう、というんですね。確かに、日清、日露戦争において、子規や秋山兄弟がいた位置からは、外交交渉などはつかめませんし、戦争全体の有り様が、俯瞰的に描けなくなります。
小説として読んでいるぶんには、それもありかな、と思うんですが、TVドラマとしてはどうなんでしょう。あくまでも子規と秋山兄弟の視点にあわせる、という方法もあったのではないか、と思います。子規の新聞「日本」(薩摩スチューデント、路傍に死す参照)入社で、加藤拓川の名前だけは出したのですから、この人こそ、登場させるべきだったんじゃないんでしょうか。陸奥宗光や加藤拓川や、ですね。明治政府の中にあって貢献しながら、政権中枢に批判的な視線は持ち続けた側面も、十二分にあると思うんですのよ。時の政権イコール日本、ではないわけなのですから。子規入社直前のこの時期は、薩摩藩密航留学生だった村橋久成が路傍に行き倒れ、陸奥宗光が青春の日をしのんで哀悼した、そういう時代でもあったのです。
えーと、ですね。坂の上の雲が長らくドラマ化されなかったについては、様々な説があるんですけれども、私が故石浜氏(『坂の上の雲』と脱イデオロギー参照)からお聞きした話では、原作について、乃木希典と伊地知幸介(wiki-伊地知幸介参照)のご遺族から抗議があり、ドラマ化がはばかられた、ということでした。
旅順攻防戦については、近年、評価の見直しが行われておりますし、私も、乃木・伊地知無能説には懐疑的です。といいますのも、近代戦における要塞の攻略は、そもそも多大な犠牲を強いられるものでして、クリミア戦争から第1次世界大戦まで、肉弾戦なくして攻略できた要塞はない、といわれます。で、当時、リアルタイムで、旅順の攻略は、諸外国から高く評価されていたのですから。
まあ、これに関しましては、ドラマがどう処理するのか楽しみです。
一方、ですね。いわゆる左傾史観団体からのドラマへの変な抗議もあるわけですが、松山にもそういう団体が存在しまして、わりに中心になって活動しておられる方が、リアルでお知り合いだったりするんですわ、これが(笑)。いえ、困ったことに、ですね、とてもいい方なんですわよ、ホホホホホ。
しかし、ですね。その団体はこれまでにも、坂の上の雲ミュージアムの戦争展示にクレームをつけてきたりしたわけでして、いや、しかし、「坂の上の雲」から日露戦争をぬいて、なにが残るというのでしょう。
まあ、仕方がないですね。団塊の世代のこういった思い込みは、死ぬまで直りませんわ、おそらく。
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前回、「もしかして、真之のお囲い池のエピソードは省かれるのかも」と心配していましたら、今回、ちゃんと入っていました。
まつやまインフォメーション お囲い池
お囲い池は、確かに藩のプールのようなものでしたが、藩校・明教館とは離れていました。明治以降は一般に開放され、ボランティアで元藩士の老人が見張りをしていたというような話で、作法にうるさかったといわれます。しかし、外観は非常に牧歌的なため池のようなもので、なっ、なに??? この竜宮城みたいなの!と、そばにりっぱな建物がある、というドラマの風景は、ものすごい違和感だったんです。
松山市ホームページ 明教館
どうしてあんな風景になったのか、不思議で、検索をかけてしらべてみました。
そしたらなんと……、ロケ地は、会津の藩校、日新館でした!
会津藩校日新館ー白虎隊の学びの社 お知らせ
あー、行ってみたいかも。なんですが、これ、ぜーんぶ新築ですよねえ。
撮影に解放していて、しかもプールがあって、安上がりにロケができたんでしょうけれども、いくら同じ佐幕藩とはいえ、です。あーんな北国の山の中で、まーったく藩風のちがう会津の藩校で撮影とは!と、ちょっと笑えました。
えー、だって、松山藩は軟弱ですし、俳句はしても、抵抗もしませんでしたし、誰も自決も切腹もしてませんし。
まあ、会津と同じく、長州は嫌いだったでしょうけれども。
戊辰戦争において、松山藩に進駐してきた土佐藩兵の指揮は、小笠原唯八がとっていたんです。このお方が、育ちがよく、実にさっぱりとした気性で、松山藩では、土佐にはあまり反感を持たなかったんです。
ところが、長州藩兵が勝手に上陸してきまして、土佐藩兵とにらみあったあげくに、松山藩虎の子の汽船をかっぱらっていきやがりました。
ちなみに、小笠原唯八は、新政府において、短期間でしたが佐賀の江藤新平と親友になり、その後、会津攻めに加わって、華々しく戦死します。いい人はみーんな、早死にするんですねえ。
秋山好古が、ですね、フランスに留学していましたとき、山県有朋が渡仏してきます。
このとき好古は、山県の出迎えに遅れたり、山県がフランス陸軍高官のために持ってきた土産を汽車の中に置き忘れたりした、という話があります。
えーと、たしか司馬氏の原作の中では、それで山県が「この男は事務仕事には使えない」と見極めたとかなんとか、ということになっていたように記憶しているのですが、私、思うに、ですね。好古は、山県が大嫌い!で、飄々と、しかしわざと、やったんですわ、きっと(笑)。冗談ですけど。
山県といえば、私、それまでけっこう楽しんで見ておりましたのに、伊藤博文と山県が登場しましたとたんに、「あー、あー、あー、まあっ! えらそーに!」と、どん引きでした。
いえ、別に、明治における伊藤と山県の存在が、大きなものであったことを否定するわけではありませんし、第一、明治10年以降のことは、私、ろくに調べておりませんんので、否定するだけの材料も持ち合わせておりません。
しかしもう、私の頭の中が幕末に染まっておりまして、「そうよっ! あんたなんか周旋が上手いだけの高杉の使い走りよっ! つーか、仲良しモンタ(井上馨)を語りなさいよ!」と、テレビに叫びつつ、しかし、イメージじゃないなあ、二人の配役! と、うろんな目で見つめておりました。
真面目な話、どーせナレーションの多いドラマなんですから、政治劇は、ナレーションですませた方がよかったんじゃないんでしょうか。
もともと、原作について、小説としての構成が破綻している、というような感じの評価もあります。
つまり、最初は、子規と秋山兄弟に焦点をあわせて、時代を描いているのですが、日清戦争がはじまるあたりから、それでは全体像が鮮明になりませんから、主人公格の三人は背景に引き、その他大勢になってしまう、というんですね。確かに、日清、日露戦争において、子規や秋山兄弟がいた位置からは、外交交渉などはつかめませんし、戦争全体の有り様が、俯瞰的に描けなくなります。
小説として読んでいるぶんには、それもありかな、と思うんですが、TVドラマとしてはどうなんでしょう。あくまでも子規と秋山兄弟の視点にあわせる、という方法もあったのではないか、と思います。子規の新聞「日本」(薩摩スチューデント、路傍に死す参照)入社で、加藤拓川の名前だけは出したのですから、この人こそ、登場させるべきだったんじゃないんでしょうか。陸奥宗光や加藤拓川や、ですね。明治政府の中にあって貢献しながら、政権中枢に批判的な視線は持ち続けた側面も、十二分にあると思うんですのよ。時の政権イコール日本、ではないわけなのですから。子規入社直前のこの時期は、薩摩藩密航留学生だった村橋久成が路傍に行き倒れ、陸奥宗光が青春の日をしのんで哀悼した、そういう時代でもあったのです。
えーと、ですね。坂の上の雲が長らくドラマ化されなかったについては、様々な説があるんですけれども、私が故石浜氏(『坂の上の雲』と脱イデオロギー参照)からお聞きした話では、原作について、乃木希典と伊地知幸介(wiki-伊地知幸介参照)のご遺族から抗議があり、ドラマ化がはばかられた、ということでした。
旅順攻防戦については、近年、評価の見直しが行われておりますし、私も、乃木・伊地知無能説には懐疑的です。といいますのも、近代戦における要塞の攻略は、そもそも多大な犠牲を強いられるものでして、クリミア戦争から第1次世界大戦まで、肉弾戦なくして攻略できた要塞はない、といわれます。で、当時、リアルタイムで、旅順の攻略は、諸外国から高く評価されていたのですから。
まあ、これに関しましては、ドラマがどう処理するのか楽しみです。
一方、ですね。いわゆる左傾史観団体からのドラマへの変な抗議もあるわけですが、松山にもそういう団体が存在しまして、わりに中心になって活動しておられる方が、リアルでお知り合いだったりするんですわ、これが(笑)。いえ、困ったことに、ですね、とてもいい方なんですわよ、ホホホホホ。
しかし、ですね。その団体はこれまでにも、坂の上の雲ミュージアムの戦争展示にクレームをつけてきたりしたわけでして、いや、しかし、「坂の上の雲」から日露戦争をぬいて、なにが残るというのでしょう。
まあ、仕方がないですね。団塊の世代のこういった思い込みは、死ぬまで直りませんわ、おそらく。
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