森有礼夫人・広瀬常の謎 前編の続きです。
鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることですが、私が森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」に感激しましたのは、「女の海溝―トネ・ミルンの青春 」以来、長年、森本氏が常夫人の実像を求められた、その情熱です。
そして、もう一つ。当初から森本氏の姿勢が、定説をくつがえす史料を発掘することだった、ということもあります。
従来、森有礼と離婚してからの常夫人については、「精神に異常をきたしたらしい」というような噂があり、森家にはまったく消息がのこされていないことから、「零落してひっそりと果てたのでは?」というような見方が一般的でした。
そこへ、森本氏は、最初の一石を投じられました。
北政巳氏は、明治、日本の近代化に多大な影響を及ぼしたスコットランドの経済史がご専門です。
上の本は、昭和59年に発行されました「国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆」と内容が重なっていまして、明治時代からグラスゴウ大学に留学した日本人についての章があるのですが、中にただ一人、女性が在籍していたことを紹介されています。
時期は、明治31年(1898)から翌32年。医学部病理学の専修過程です。
明治、グラスゴウ大学に留学した日本人は多いのですが、そのほとんどが工学系です。
といいますのも、明治初期、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など、近代的インフラを担当する工部省を握ったのは長州閥でしたが、日本人技術者を養成するために工部学校(後の東大工学部)を設けることになりました。そこへ招かれたのが、グラスゴウ大学を卒業したばかりのヘンリー・ダイアーです。
えーと、ですね。こういった工学系の技術は、確かに産業基盤の整備に必要なものですが、国防、軍備にも直結します。
もうこれは、私のこのブログの主要テーマともいえますが、幕府は、横須賀製鉄所の運営をフランス人にゆだねることによって、造船、製鉄、灯台など、海防にかかわる部分の工学は、フランスからの導入をはかろうとしていました。
これには、理由がなくもないんです。
幕末。そもそもの始まりは、近代海軍の導入でしたし、つきあいが長くて日本の事情を熟知している、ということから、当初はオランダが相手でした。
しかし、やがて陸軍近代化の必要も悟ってきますし、列強各国からの売り込みも激しく、当時のオランダはすでに小国になっていて、系統立てた近代技術の導入先としては役不足でした。
当時の世界の最強国は、イギリスです。
ところがこのイギリス、産業革命の先端をきって、近代産業国としても世界一だったにもかかわらず、です。工学系の実学は軽視されていて、系統立てて学ぶ場が、整備されていなかったのです。いえ、おそらくこれは、先端をきっていたから、なんでしょう。実学は、もともとは職人の学問ですし、上に立つ文系エリートさえしっかり教育していれば、後は民間に任せて自由な発展を、といったところです。
以前に書きましたが、グラバーの世話だった薩摩の密航留学においても、工学系の学問をめざしていた中村博愛、田中清洲(朝倉)の二人は、はロンドンで適当な学校を見いだせず、モンブラン伯爵の世話でパリに移ったんです。
といいますのもフランスは、もともと中央集権化が極度に進んでいましたので、土木技術者なども官僚化していたのですが、産業革命に遅れをとっていたところに革命が起こって、産業と経済はますます荒廃し、テルミドールの後、イギリスに追いつけで、エコール・ポリテクニークを創設し、国策として軍事に役立つ工学系実学を盛り立てていたんです。これには、中流商工階層が台頭し、実学が軽んじられなくなった、という、革命のプラスの効用も、もちろんあります。
一方、これも以前に書きましたが、薩摩に一歩先んじてイギリスに渡っていた長州の密航留学生・山尾庸三は、伊藤博文と井上馨の帰国後、薩摩からの留学生たちに出会い、カンパしてもらって、スコットランドのグラスゴウへ、造船を学びに行きます。
実のところ、イギリスの産業革命を技術的にささえたのはスコットランドだった、といっても過言ではないんです。
スコットランドは独立性が高く、イングランドにくらべて後進的とされていましたが、それだけに独自の気風が育っていて、実学を重んじていました。
わけても当時のグラスゴウは、産業都市として大きくなってきていて、技術職人が働きながら学べるアンダーソン・カレッジ(現在のストラスクラウド大学)という新興の市民学校があったんです。薩摩藩留学生とちがって、藩から十分な留学資金をもらっていなかった山尾は、造船所で働きながら、このアンダーソン・カレッジの夜学に通いました。
山尾が帰国してからの話は、一応、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4の最後に簡単に書いたのですが、つけ加えますと……、といますか、訂正しますと、伊藤博文がトップに立ち、実質的に山尾がしきった工部省は、徐々にフランス人技師をイギリス人に入れ替え、技術導入先をイギリスに切り替える方策をとり、燈台設置に関しては、早々とそれを成し遂げます。
ただ、造船に関しては、当時のフランスの小型軍艦の技術には見るべきものがあり、かなり後々まで、フランスとイギリス(スコットランド)と、並行して残りました。そして、日本人技術者を養成する工部学校には、山尾が学んだスコットランドのグラスゴウからヘンリー・ダイアーを迎え入れ、基本的な技術導入先はイギリス、という路線が確定するんですね。
グラスゴウのアンダーソン・カレッジは、一般大衆を対象とした市民学校でしたが、優秀な者は伝統あるグラスゴウ大学への進級が可能で、ヘンリー・ダイアーは、山尾と同じ時期に、やはり働きながらアンダーソン・カレッジの夜学で学び、非常に優秀であったためグラスゴウ大学入学を認められ、そこでまた最優秀といえる評価を得ていた、若手の工学博士でした。
これはおそらく、なんですが、18世紀末のエコール・ポリテクニーク創設で、フランスがリードしていた理工系エリート教育は、フランスの国力低下とともに、19世紀後半、民間産業の活力が上昇して結晶した形でようやく体系づけられてきたイギリスに、その先端の地位をゆずったのではないんでしょうか。
明治日本の近代技術導入は、フランスに似た国家主導型でしたが、それだけに、どこが導入先としてふさわしいか、には敏感でしたし、またイギリスの自由貿易最盛期に理工系教育の隆盛を誇ったグラスゴウ大学土木・工学科は、この明治初期、ちょうど海外留学生の積極的な受け入れを推進してもいました。
そんなこんなでして、明治、日本からグラスゴウ大学への留学生は、そのほとんどが工学系なのです。
医学での留学は非常に珍しく、北政巳氏の調査で、二人しかいません。
そして、その一人が、明治31年から2年間在籍した、モリ・イガという女性でした。
といいますのも、明治日本は「医学はドイツから」という方針でして、官費留学生をはじめ、ほとんどの医学生が、ドイツに留学していたんです。
しかしこの当時はまだ、欧州においても、女性に門戸を開いている大学は珍しかったのですが、グラスゴー大学はこの面でも先進的で、女性専用の寄宿舎を設けて積極的な受入を行っていましたし、医学教育は、エジンバラ大学の伝統を受け継ぎ、非常にすぐれてもいました。
さて、森本貞子氏は、この北氏の調査から、「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」と、推測されたんですね。
モリ・イガは、「年齢は34歳。日本での住所は、東京芝。出身校はサンフランシスコのクーパー・カレッジ(スタンフォード大学医学部の前身)。父の名前はエマ(ユマとも)で、職業は医者」、一見、離婚後の広瀬常とは共通点が少なそうなのですが、森本氏は、「この当時、常は43歳だが、日本女性が年齢を若く届けるのはよくあることで、43歳を反対にすれば34歳。当時の日本では、離婚すれば広瀬姓にもどるが、欧米ではそのまま夫の姓を名乗ることもあった。また父の名の「ユマ」は「有礼」の音読みに通じる。届け出た住所は、開拓使女学校時代の常の親友の家のもの」と考え、当時、グラスゴウ大学に留学できるほどの語学力を持った日本人女性がそれほどいるわけはない、ということから、推測されたんですね。
「モリ・イガ」の素性は、北氏の調査でもさっぱり判明していませんで、私は、これについては、森本氏の推測に、かなりの可能性があるのではないか、と思っています。
森本氏は、「秋霖譜―森有礼とその妻」執筆にあたって、もう一つ、従来知られていなかった、常夫人にまつわる確かな史料を発掘されました。
「常夫人の妹、福子は、明治屋の創業者・磯野計に嫁いで、娘・菊子を残している」というんですね。
これは、事実です。
昭和10年、磯野計没後、遺児の菊子と結婚して磯野家に養子に入った磯野長蔵が、竹越與三郎著「磯野計君傳」という伝記を発行していまして、戦後、明治屋がそれを復刻しているんですが、以下の節があります。引用です。
「磯野君は、明治十八年十二月幕府の旗本広瀬氏の第三女福子嬢を迎へて夫人とした。夫人は元治元年十二月生まれであるから、此時二十一才であった。多分その媒酌人は森有礼君がロンドンで公使であったときその下に書生であり、後に領事となった宮川久次郎君であったであらうと思ふ。夫人は幼児から外国宣教師の建てた横浜海岸女学校で新教育を受けたものである。森有礼君が曾て伊藤博文公などをその邸に招待したとき、頻りに女子教育の必要を説いたことがあるが、伊藤公は森君に対し、君は頗る女子教育に熱心であるが、女子に教育を授けても、見るべきほどのものが出来るかと冷評するに対し、森君は席末に居た福子嬢を麾きて、伊藤公の傍に立たしめ、新教育を受けし婦人は、此の如き才媛であると示したほどであつて、その才学の評判が高かった」
「旗本広瀬氏の第三女」としか書かれていませんが、これだけ森有礼が身近に出てくるのですから、これは常夫人の妹である、と断定してまちがいないでしょう。
で、あるならば、です。離婚後の常夫人についても、磯野計の援助は当然あっただろう、と推測できますし、「グラスゴウ大学で医学を学んだモリ・イガは常夫人では?」という仮定も、非常に現実味をおびてくるんです。
にもかかわらず森本氏が、そちらの方面の可能性を追求されず、不確かな藪重雄離婚原因説にこだわられましたのはなぜなのか、と不思議なんですが、おそらく、従来の「不倫の果てに離婚された性格の弱い女性」という常夫人像と、「グラスゴー大学で最先端の医学を学ぶ強い女性」という新たなイメージが、森本氏にとっては乖離するものであり、不倫を否定なさりたいあまり、だったのではないか、と思ったりします。
次回後編、「常夫人の妹は磯野計に嫁いでいた」という事実から、離婚後の常夫人がグラスゴウ大学医学部で学んだのではないか、という可能性を追求して、結びとします。
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鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることですが、私が森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」に感激しましたのは、「女の海溝―トネ・ミルンの青春 」以来、長年、森本氏が常夫人の実像を求められた、その情熱です。
そして、もう一つ。当初から森本氏の姿勢が、定説をくつがえす史料を発掘することだった、ということもあります。
従来、森有礼と離婚してからの常夫人については、「精神に異常をきたしたらしい」というような噂があり、森家にはまったく消息がのこされていないことから、「零落してひっそりと果てたのでは?」というような見方が一般的でした。
そこへ、森本氏は、最初の一石を投じられました。
スコットランドと近代日本―グラスゴウ大学の「東洋のイギリス」創出への貢献 | |
北 政巳 | |
丸善プラネット |
北政巳氏は、明治、日本の近代化に多大な影響を及ぼしたスコットランドの経済史がご専門です。
上の本は、昭和59年に発行されました「国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆」と内容が重なっていまして、明治時代からグラスゴウ大学に留学した日本人についての章があるのですが、中にただ一人、女性が在籍していたことを紹介されています。
時期は、明治31年(1898)から翌32年。医学部病理学の専修過程です。
明治、グラスゴウ大学に留学した日本人は多いのですが、そのほとんどが工学系です。
といいますのも、明治初期、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など、近代的インフラを担当する工部省を握ったのは長州閥でしたが、日本人技術者を養成するために工部学校(後の東大工学部)を設けることになりました。そこへ招かれたのが、グラスゴウ大学を卒業したばかりのヘンリー・ダイアーです。
えーと、ですね。こういった工学系の技術は、確かに産業基盤の整備に必要なものですが、国防、軍備にも直結します。
もうこれは、私のこのブログの主要テーマともいえますが、幕府は、横須賀製鉄所の運営をフランス人にゆだねることによって、造船、製鉄、灯台など、海防にかかわる部分の工学は、フランスからの導入をはかろうとしていました。
これには、理由がなくもないんです。
幕末。そもそもの始まりは、近代海軍の導入でしたし、つきあいが長くて日本の事情を熟知している、ということから、当初はオランダが相手でした。
しかし、やがて陸軍近代化の必要も悟ってきますし、列強各国からの売り込みも激しく、当時のオランダはすでに小国になっていて、系統立てた近代技術の導入先としては役不足でした。
当時の世界の最強国は、イギリスです。
ところがこのイギリス、産業革命の先端をきって、近代産業国としても世界一だったにもかかわらず、です。工学系の実学は軽視されていて、系統立てて学ぶ場が、整備されていなかったのです。いえ、おそらくこれは、先端をきっていたから、なんでしょう。実学は、もともとは職人の学問ですし、上に立つ文系エリートさえしっかり教育していれば、後は民間に任せて自由な発展を、といったところです。
以前に書きましたが、グラバーの世話だった薩摩の密航留学においても、工学系の学問をめざしていた中村博愛、田中清洲(朝倉)の二人は、はロンドンで適当な学校を見いだせず、モンブラン伯爵の世話でパリに移ったんです。
といいますのもフランスは、もともと中央集権化が極度に進んでいましたので、土木技術者なども官僚化していたのですが、産業革命に遅れをとっていたところに革命が起こって、産業と経済はますます荒廃し、テルミドールの後、イギリスに追いつけで、エコール・ポリテクニークを創設し、国策として軍事に役立つ工学系実学を盛り立てていたんです。これには、中流商工階層が台頭し、実学が軽んじられなくなった、という、革命のプラスの効用も、もちろんあります。
一方、これも以前に書きましたが、薩摩に一歩先んじてイギリスに渡っていた長州の密航留学生・山尾庸三は、伊藤博文と井上馨の帰国後、薩摩からの留学生たちに出会い、カンパしてもらって、スコットランドのグラスゴウへ、造船を学びに行きます。
実のところ、イギリスの産業革命を技術的にささえたのはスコットランドだった、といっても過言ではないんです。
スコットランドは独立性が高く、イングランドにくらべて後進的とされていましたが、それだけに独自の気風が育っていて、実学を重んじていました。
わけても当時のグラスゴウは、産業都市として大きくなってきていて、技術職人が働きながら学べるアンダーソン・カレッジ(現在のストラスクラウド大学)という新興の市民学校があったんです。薩摩藩留学生とちがって、藩から十分な留学資金をもらっていなかった山尾は、造船所で働きながら、このアンダーソン・カレッジの夜学に通いました。
山尾が帰国してからの話は、一応、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4の最後に簡単に書いたのですが、つけ加えますと……、といますか、訂正しますと、伊藤博文がトップに立ち、実質的に山尾がしきった工部省は、徐々にフランス人技師をイギリス人に入れ替え、技術導入先をイギリスに切り替える方策をとり、燈台設置に関しては、早々とそれを成し遂げます。
ただ、造船に関しては、当時のフランスの小型軍艦の技術には見るべきものがあり、かなり後々まで、フランスとイギリス(スコットランド)と、並行して残りました。そして、日本人技術者を養成する工部学校には、山尾が学んだスコットランドのグラスゴウからヘンリー・ダイアーを迎え入れ、基本的な技術導入先はイギリス、という路線が確定するんですね。
グラスゴウのアンダーソン・カレッジは、一般大衆を対象とした市民学校でしたが、優秀な者は伝統あるグラスゴウ大学への進級が可能で、ヘンリー・ダイアーは、山尾と同じ時期に、やはり働きながらアンダーソン・カレッジの夜学で学び、非常に優秀であったためグラスゴウ大学入学を認められ、そこでまた最優秀といえる評価を得ていた、若手の工学博士でした。
これはおそらく、なんですが、18世紀末のエコール・ポリテクニーク創設で、フランスがリードしていた理工系エリート教育は、フランスの国力低下とともに、19世紀後半、民間産業の活力が上昇して結晶した形でようやく体系づけられてきたイギリスに、その先端の地位をゆずったのではないんでしょうか。
明治日本の近代技術導入は、フランスに似た国家主導型でしたが、それだけに、どこが導入先としてふさわしいか、には敏感でしたし、またイギリスの自由貿易最盛期に理工系教育の隆盛を誇ったグラスゴウ大学土木・工学科は、この明治初期、ちょうど海外留学生の積極的な受け入れを推進してもいました。
そんなこんなでして、明治、日本からグラスゴウ大学への留学生は、そのほとんどが工学系なのです。
医学での留学は非常に珍しく、北政巳氏の調査で、二人しかいません。
そして、その一人が、明治31年から2年間在籍した、モリ・イガという女性でした。
といいますのも、明治日本は「医学はドイツから」という方針でして、官費留学生をはじめ、ほとんどの医学生が、ドイツに留学していたんです。
しかしこの当時はまだ、欧州においても、女性に門戸を開いている大学は珍しかったのですが、グラスゴー大学はこの面でも先進的で、女性専用の寄宿舎を設けて積極的な受入を行っていましたし、医学教育は、エジンバラ大学の伝統を受け継ぎ、非常にすぐれてもいました。
さて、森本貞子氏は、この北氏の調査から、「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」と、推測されたんですね。
モリ・イガは、「年齢は34歳。日本での住所は、東京芝。出身校はサンフランシスコのクーパー・カレッジ(スタンフォード大学医学部の前身)。父の名前はエマ(ユマとも)で、職業は医者」、一見、離婚後の広瀬常とは共通点が少なそうなのですが、森本氏は、「この当時、常は43歳だが、日本女性が年齢を若く届けるのはよくあることで、43歳を反対にすれば34歳。当時の日本では、離婚すれば広瀬姓にもどるが、欧米ではそのまま夫の姓を名乗ることもあった。また父の名の「ユマ」は「有礼」の音読みに通じる。届け出た住所は、開拓使女学校時代の常の親友の家のもの」と考え、当時、グラスゴウ大学に留学できるほどの語学力を持った日本人女性がそれほどいるわけはない、ということから、推測されたんですね。
「モリ・イガ」の素性は、北氏の調査でもさっぱり判明していませんで、私は、これについては、森本氏の推測に、かなりの可能性があるのではないか、と思っています。
森本氏は、「秋霖譜―森有礼とその妻」執筆にあたって、もう一つ、従来知られていなかった、常夫人にまつわる確かな史料を発掘されました。
「常夫人の妹、福子は、明治屋の創業者・磯野計に嫁いで、娘・菊子を残している」というんですね。
これは、事実です。
昭和10年、磯野計没後、遺児の菊子と結婚して磯野家に養子に入った磯野長蔵が、竹越與三郎著「磯野計君傳」という伝記を発行していまして、戦後、明治屋がそれを復刻しているんですが、以下の節があります。引用です。
「磯野君は、明治十八年十二月幕府の旗本広瀬氏の第三女福子嬢を迎へて夫人とした。夫人は元治元年十二月生まれであるから、此時二十一才であった。多分その媒酌人は森有礼君がロンドンで公使であったときその下に書生であり、後に領事となった宮川久次郎君であったであらうと思ふ。夫人は幼児から外国宣教師の建てた横浜海岸女学校で新教育を受けたものである。森有礼君が曾て伊藤博文公などをその邸に招待したとき、頻りに女子教育の必要を説いたことがあるが、伊藤公は森君に対し、君は頗る女子教育に熱心であるが、女子に教育を授けても、見るべきほどのものが出来るかと冷評するに対し、森君は席末に居た福子嬢を麾きて、伊藤公の傍に立たしめ、新教育を受けし婦人は、此の如き才媛であると示したほどであつて、その才学の評判が高かった」
「旗本広瀬氏の第三女」としか書かれていませんが、これだけ森有礼が身近に出てくるのですから、これは常夫人の妹である、と断定してまちがいないでしょう。
で、あるならば、です。離婚後の常夫人についても、磯野計の援助は当然あっただろう、と推測できますし、「グラスゴウ大学で医学を学んだモリ・イガは常夫人では?」という仮定も、非常に現実味をおびてくるんです。
にもかかわらず森本氏が、そちらの方面の可能性を追求されず、不確かな藪重雄離婚原因説にこだわられましたのはなぜなのか、と不思議なんですが、おそらく、従来の「不倫の果てに離婚された性格の弱い女性」という常夫人像と、「グラスゴー大学で最先端の医学を学ぶ強い女性」という新たなイメージが、森本氏にとっては乖離するものであり、不倫を否定なさりたいあまり、だったのではないか、と思ったりします。
次回後編、「常夫人の妹は磯野計に嫁いでいた」という事実から、離婚後の常夫人がグラスゴウ大学医学部で学んだのではないか、という可能性を追求して、結びとします。
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