郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上の続きです。
 
 下の犬養孝明氏の著作は、森有礼の伝記として、簡潔に、かなりうまくまとめられていると思います。適宜、参考にさせていただいております。

若き森有礼―東と西の狭間で
犬塚 孝明
鹿児島テレビ


 明治12年末、有礼は特命全権イギリス公使となり、常と、長男・清、次男・英、二人の子供も同行。13年のはじめにロンドン着。明治17年に帰国するまでの4年間をロンドンで過ごし、常の不倫があったとすれば、この間のことです。
 さて、常はこのロンドン時代に、磯野計と知り合ったものと思われます。
 以下は、竹越與三郎著「磯野計君傳」より、です。

 磯野計は、安政5年(1858)生まれ。常より3つ下です。津山藩士の次男として、現在の岡山県津山市に生まれました。
 津山藩は、蘭学者・箕作阮甫の出身藩で、阮甫の養子・秋坪、孫の麟祥と、著名な洋学者を排出しています。
 計は、明治元年、10歳(数えで11)で神戸へ出て箕作麟祥の英学塾で学び、翌2年、藩の留学生となって東京へ行き、秋坪、麟祥の塾へ入りました。翌3年には、藩の貢進生に選ばれて大学南校(東大の前身)に入学。南校が開成学校と名を改めた明治7年、アメリカへ少年期留学をしていた大久保利通の長男・利和と次男・牧野伸顕が帰国し、入学してきました。「牧野 伸顕 回顧録〈上巻)」によれば、このころの開成学校は全寮制で、受業はすべて英語だったんだそうです。計は、一つ年下の大久保利和と非常に仲良くなり、生涯、友情が続きます。
 また、開成学校の関係者は、森有礼と福沢諭吉が中心になってはじめた明六社に多くかかわっていまして、有礼が新聞記者を招いて派手に喧伝した常とのシビルウェディングは、もちろん計も知っていたでしょう。

 開成学校は、明治10年東京大学となり、12年、計は法学部を卒業します。
 東大の法学部です。通常は官吏になるのですが、反骨精神が旺盛だったんでしょうか。計は、友人数人と、当時あまり高級な職業とはされていなかった代言人(弁護士)となって事務所を開きましたが、これはあまり上手くいかなかったようです。翌13年、三菱商会が優秀な人材を英国留学させるという試みに推挙され、イギリスへ渡ることになります。
 岩崎弥太郎が海運を中心に始めた三菱商会は、大久保利通、大隈重信の引きを受け、征台と西南戦争の輸送、商品納入で事業拡大し、さらなる発展のために、東大出の人材確保をめざし、留学投資をはじめていました。
 さて、22歳にしてロンドンに到着した計は、法学を学ぶのではなく、自らの意志で、回船仲立ち業のノリスエンドジョイナー商会へ見習い書記として入社します。実地で、商務を覚えようというわけです。
 当時のロンドン在留邦人は、そのほとんどが公使館官員や留学生で、商業にたずさわるものはごく少なく、会合して議論するたびに、官員および官費留学生と、私費留学生および実業家の間に対立があったんだそうです。前者の中心は末松謙澄。伊藤博文に見込まれて、公使館の書記生名目で、ケンブリッジに官費留学していました。後者の中心が計で、藩閥政治批判を展開し、末松謙澄と討論することしきりだったんだそうです。ところで、ちょうどこのとき、牧野伸顕も公使館の書記生になってロンドンに来ていたんですが、回顧録に末松は出てきても、計は出てきません。兄の大久保利和とは親友だった計ですが、弟の牧野はちがったみたいです。

 計の帰国は、有礼・常夫妻と同じ年、明治17年です。
 ところがこの計の留守中に、三菱商会は苦境に陥っていました。明治14年の政変で大隈重信は政府から追われ、翌15年、井上馨を中心とする長州閥が、三井を使って半民半官海軍会社・共同運輸を起こし、運賃値下げ競争による三菱つぶしをねらってきたんです。
 帰国したものの、三菱に連なる計の起業は不可能な状態にあり、計は一時、外国語学校(一橋大学の前身)の教授を務めますが、明治18年、岩崎弥太郎の死去にともない、政府の仲買で、三菱の海運部門と共同運輸は合併し、日本郵船となりました。これによって計は、三菱色の濃い日本郵船に働きかけることが可能になり、船舶へ物資を納入する商店を開くことができたんです。
 その開店の年の暮れに、計は広瀬福子と結婚したわけでして、このときにはまだ計の事業は小規模なもので、福子の結婚は玉の輿というようなものではなく、苦労を共に分かつ覚悟を持ってのものだったでしょう。
 ところが翌明治19年、結婚生活1年にも満たず、福子は生まれたばかりの女の子を残して、世を去ってしまうのです。以下、「磯野計君傳」から引用です。
 
 「(福子は)磯野君に嫁して後も、夫君に仕ふること静淑で、夫婦の仲は人の羨むほどのものであったが、十九年九月十九日一女を生み、分娩の後、五日にして病を得て不帰の人となった。その寿は僅かに二十二才であって、その遺骸は久保山の墓地にクリスト教の儀式に従つて葬られた。磯野君は琴絃を弾じて別鴻を傷み、股釵を折つて分鸞を悲しみ、孤児菊子嬢を他人に育養せしむるに忍びず、再婚せずして終つた」

 計は、この11年後、明治30年の冬に、急性肺炎で妻の後を追いますが、その間、再婚しなかったんです。
 常の離婚は、書類上、明治19年11月28日ですから、菊子が生まれて福子が死んだ三ヶ月ほど後です。
 離婚の4ヶ月前、同年7月13日には、有礼の父親が死去していまして、おそらく、なんですが、有礼の父は、初めての女の子の孫の誕生を、とても喜んでいたのではないか、と思うのですね。「青い目」といいますが、例え常夫人のロンドンでの不倫の噂が本当だったにしましても、イギリス人の目がかならずしも青いわけではなく、赤ん坊が混血かどうかなんて一目でわかるものでもないでしょう。で、もし有礼に身に覚えがなかったとしましたら、有礼にだけは、不倫の子だとわかるわけですわね。
 もしそうだったとしまして、常にとっては、義父が死去した直後、離婚話が本格化したときに、妹の福子が幼子を残して産褥死した、ということになります。

 常は離婚してしばらくの間、計のもとで、残された姪の菊子のめんどうを見たのではないでしょうか。
 福子が三女だというのですから、常には他にも姉妹がいたことになりますが、早世していたかもしれませんし、父親の秀雄が森家の執事のようなことをしていたということは、他に頼るべき親族はいなかったのではないか、と考えられます。
 「青い目」と噂された常の女の子が、最終的に高橋家に養子に出ていますのは、従来、「子爵となって再婚する有礼の体面上、甥の籍に混血児があっては差し障りがあって、赤の他人に養女に出した」と、森家の都合として考えられることが多いのですが、私は、常が自分の手元に引き取るために、とりあえず広瀬家の知り合いの家の籍に入れてもらったのでは、と思ったりします。
 幼い女の子をかかえて、一人で身を立てようとしたとき、常は、混血の女医、楠本イネを思い出しはしなかったでしょうか。
 これから幸せになるはずだった妹の、あまりにも早すぎる産褥死も、十分な動機になりうるでしょう。
 そして、離婚の前年、明治18年には、常より三つ年上の荻野吟子が、苦難の末、女性で初めて、国が施行する医師開業試験に合格し、正式に医者になっていたのです。

 当時まだ、女性が医者になるために、学ぶ場は少なかったのですが、後に初めての女子医学学校を東京に設立した吉岡弥生の例からしまして、明治20年代には、済生学舎(日本医科大学の前身)が女性を受け入れていましたし、また、荻野吟子はじめ、開業試験に合格した最初の三人の女性は、とりあえず、産婆を養成する紅杏塾で学んだといわれます。
 紅杏塾は、東京医学校(現在の東大医学部)の最初の卒業生・桜井郁次郎が開いていたもので、産婆学校とはいえ、物理学化学、解剖・生理・病理の基礎も教えていて、明治16年には東京産婆学校と名をかえ、19年にはアメリカへの女子留学生も送り出していました。

 実は、磯野計は、明治28年8月から翌29年5月まで、起業当初からの部下だった「広瀬角蔵」を同道して、事業拡張のため欧米諸国を巡遊しています。森有礼夫人・広瀬常の謎 前編で藪重雄の養子先を検討してみましたように、「広瀬」だけで決めつけるのは危険なんですが、あるいは、常と福子姉妹の若い親族だった可能性がなきにしもあらず、ではないでしょうか。
 そして、常がもし、明治31年からグラスゴウ大学に籍を置いたモリ・イガだとしますと、それ以前にいたサンフランシスコのクーパー・カレッジ入学は、計の欧米行きに同行して明治28年9月だったと考えれば、時期がぴったりなんです。
 計はこのころ手広く事業をやっていまして、サンフランシスコにももちろん、創業以来のなじみの取引先があります。
 そしてなにより、グラスゴウには、リチャード・ブラウンがいました。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。
 その後ブラウンは、新設の海運局で航海に関する規則制定に尽力し、大久保が民営海運保護育成政策をとったのに呼応して、三菱商会に入社します。入社後は、三菱商船学校(東京商船大学の前身)を設立して商船員の養成に務め、また船舶修理や造船にもつながる三菱横浜製鉄所の設立、グラスゴウの造船所からの船舶購入にも活躍し、しかも西南戦争においては、全面的に政府に協力して、三菱商会飛躍に大きく貢献しました。
 日本の海軍業におけるブラウンの業績は大きく、前述しました経緯で日本郵船が誕生しましたとき、ブラウンは理事格で迎え入れられます。

 明治22年、ブラウンは帰国を決意して退社しますが、そのとき、グラズゴウ在日本領事に任命され、親日家として、生涯日本との関係を保つのです。
 帰国後のブラウンは、グラスゴウで日本領事を務めながら、日本育ちの長男とともに、日本郵船と東京海上保険の代理店を運営します。
 計は、ブラウンが日本にいたときから親しくしていて、帰国したブラウンと協力して、明治屋とは別に、機械や鉄材を扱う輸入商社・磯野商会を起こすに至りました。
 磯野家とブラウン家の関係は長く続き、計の死後、遺児・菊子と結婚して磯野家に養子に入った長蔵も、そしてその息子も、グラスゴウへ長期修業に出かけ、ブラウン家に滞在したといいます。

 で、あれですね。残る問題は、「常夫人は、ほんとうにロンドンで不倫をしたのか?」ということなのですが、離婚理由としては、やはり、それ以外には考えられない気がするのです。
 そしてむしろ、養女に出されました高橋安が、その結果生まれた混血の女の子であればこそ、常は安のために一人立ちを志し、グラスゴウ大学医学部に留学するまでのがんばりを見せたのではないのかと、そんなふうにも思えるのです。
 しかし、なぜ不倫をしたのかという話になりますと、これはもう完璧に妄想の世界ですし、森有礼という人物を男としてどう見るか、という、独断と偏見のオンパレードになりそうです。
 私、実像を考える、なぞという柄にあわないことをしまして、欲求不満がたまりにたまりましたので、次回、番外編で、思いっきり、常と有礼の結婚を妄想します。

 ところで、ネットで見ましたところ、このシリーズの最初に触れました植松三十里氏の「美貌の功罪」は、どうも「辛夷開花」と名を変え、9月に単行本として出されるみたいですね。楽しみに待ちたいと思います。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 中編の続きです。
 
 このシリーズは、森本貞子氏の小説「秋霖譜―森有礼とその妻」が、どこまで常夫人の実像を反映しているのか、というお話です。
 これも、鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることなのですが、下の本ですでに、森本氏は「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」という推測をされていまして、またこちらは常夫人が主人公ではないだけに、かなり事実に即した書き方をされています。
 前々回、「常夫人と森有礼の離婚は、記録の上で明治十九年十一月二十八日」と書いたのは、下の本によるのですが、基の資料は、木村匡著「森先生傳」であろうと思われます。
 
女の海溝―トネ・ミルンの青春 (1981年)
森本 貞子
文藝春秋


 常夫人に関しては、わずかな資料しかないのですが、その一つが、1972年発行、大久保利謙編、森有礼全集の伝記資料です。
 まず、森有礼と有礼の甥・横山安克の戸籍に、常、および「青い目」と噂された常の娘・安が出てきます。これらの戸籍の実物を、森本氏が森家のご子孫のご協力を得てさがされたそうなのですが、見つからなかったといいます。

(森有礼戸籍)
 妻 常 安政二年七月生 東京府士族廣瀬秀雄長女
 長女 安 明治十七年十二月八日生 明治二十年五月七日仝町士族横山安克養女トナル

(横山安克戸籍)
 養女 安 明治一七年十二月八日生 當県士族森有禮長女
 明治二十年五月七日仝町百十一番仝居ヨリ入籍
 明治二十年九月十九日東京府南豊島郡原宿村貳百九拾六番戸
 平民高橋尊太郎江線女(ママ)



 森有礼全集の伝記資料には、明治8年2月6日に行われた、有礼と常の結婚式の資料もあります。
 二人の結婚式は、もちろん有礼の発案なんでしょうが、東京府知事・大久保一翁を立会人としたシビルウェディングです。
 福沢諭吉を証人とする婚姻契約書をはじめ、招待状、新聞記事などが集められています。そのうち、二人の年齢がわかります契約書冒頭部分が、以下です。

 現今十九年八ヶ月ノ齢ニ達シタル静岡縣士族廣瀬於常同二十七年八ヶ月鹿児島縣士族森有禮各其親ノ喜許ヲ得テ互ニ夫婦ノ約ヲ為シ今日即チ紀元二千五百三十五年二月六日即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ婚式ヲ行ヒ約ヲ為シ双方ノ親戚明友モ共ニ之ヲ公認シテ茲ニ婚姻ノ約定ヲ定ムル■ 左ノ如シ

 
 結婚から間もないと思われる、有礼から常に宛てられた手紙で、有礼は常を「春江」と呼んでいますが、戸籍も結婚契約書も「常」ですから、あるいは愛称のようなものであったかもしれません。
 また常は、安政2年(1855)7月生まれで、明治8年(1875)2月に19歳8ヶ月というのは、ほぼあっていますから、戸籍の生年は正しく届けられたものと思われます。厳密にいえば、常の実際の生まれ月は7月ではなく、5月ではないか、ということになりますが。
 ところが、開拓使女学校の記録は、少々ちがうんですね。
 
 えーと、ですね。常の実像について述べるならば、開拓使女学校時代の資料を調べるべきなんですが、適当な論文がありませんで、実物は北海道ですし、さっぱり見てません。で、一応、小説ではなくノンフィクションということで、近藤富枝氏の「鹿鳴館貴婦人考 」からの引用です。

 宿所    第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 戸籍からいけば、明治6年9月には18歳になっているはずで、二つほど年を若くしていますが、これは、開拓使女学校の入学条件が、13歳から16歳までだったからだと思われます。

 (追記)通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)に開拓使女学校の記述がありましたので、以下、少々書き直します。
 開拓使女学校の生徒募集は、東京と北海道でしか行われていません。明治6年、開拓使女学校在籍者55人のうち、27人までが開拓使官員の縁故。当時、北海道開拓使5等出仕だった大鳥圭介の娘もいます。
 で、どうも、開拓使官員の娘以外では、北海道出身者がほとんどだったみたいです。なにしろ、北海道洋式開拓のための女学校だったんですから。
 しかし、広瀬常の父親は開拓使官員名簿には名前が無いそうで、常の場合は、そのどちらにもあてはまりません。

 開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス薩摩スチューデント、路傍に死すで、ちょっと触れた程度だったと思うのですが、簡単に言ってしまいますと、「ロシアに備えて、北海道をアメリカ風に開拓しよう!」と薩摩閥がはじめたことでして、しかし、薩摩の洋務官僚は外務畑などに多くがとられていましたので、大鳥など、抗戦した旧幕府系の者を多数かかえたんですね。元新撰組もいたりしますから、かならずしも西洋知識に明るい者ばかりではなかったんですが、主には、そうです。
 
 常の本貫が静岡県で生まれが武蔵ならば、幕臣の娘だったことは確かです。
 宿所の住所は、ネットで調べてみましたところ、大洲藩(加藤)の江戸藩邸が現在の御徒町台東中学校にあり、上野広小路に面した現在の松坂屋本館と南館の間から中学校(大洲藩邸)へ向いて行く小道を、青石横丁と言ったらしいですね。御徒町と通称される地域で、小さな屋敷が並び、旗本というよりは、御家人が多く住んでいたようです。
 推測でしかないのですが、おそらく常の母方などの縁戚に、開拓使関係者、それも洋学に関係した新興幕臣がいたのではないのでしょうか。
 いずれにせよ、明治5年の段階で、父親が開拓使の役人でもなく、北海道在住でもありませんのに、常が年齢のさばをよんでまで、洋学を教える、授業料のいらない学校に入学した、ということは、です。広瀬家が女子教育に熱心で、常自身も向学心に旺盛で、しかし維新によって貧しくなっていた、ということはいえそうです。
 前回出てきました妹の福子なんですが、元治元年(1864)生まれ。常とは10近く年が離れています。そして福子が通った横浜海岸女学校といえば、青山学院の前身の一つで、宣教師が経営していた女学校なんですが、学費は必要で、常が森有礼夫人となり、経済的に余裕ができた結果だと思えます。

 開拓使女学校時代に、常は森有礼と知り合い、結婚に至るわけでして、その結婚の動機は、常の生き方にかかわってきますし、森有礼との関係は、ロンドン時代の不倫の有無にもつながっていくんですが、憶測、妄想をまじえずに語れる話ではなく、それについては稿を改めまして、もっとはじけて書きたいと思います。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。

 清生誕当時、森有礼は特命全権公使として清国にいました。一時帰国した後、常夫人と清をともなって北京に赴任し、明治11年3月4日、常は北京で次男・英を出産します。北京での公使の生活は欧米式ですし、おそらく、なんですが、英を取りあげたのは欧米人ドクターだったのではないか、と思います。
 英誕生まもなく、森は帰国し、本国勤務となります。

 ところで、森有礼の屋敷について、全集の伝記資料解説から。
 有礼が常と結婚式をあげたのは、木挽町の自邸の豪壮な西洋館でした。
 ところが、ですね。築地精養軒(日本初の本格的な西洋料理屋です。仕出しもしました)を背にしたこの敷地、どうもかなりの部分が、東京商法講習所設立を目的として、東京会議所から借用していたものだったようなのですね。結局、有礼はこの件から手を引き、西洋館は東京会議所に寄付し、新しい屋敷が必要となりました。
 有礼の清国勤務の間、常の父・秀雄が、森家の執事のような役目をして、新しい屋敷を準備したのですが、これ、麹町区永田町1丁目14蕃地の5千坪にわたる大邸宅で、もちろん母屋は西洋館です。調べましたところ、現在の国会議事堂敷地の一部のようです。
 常夫人の日本における活躍は、実は、明治11年半ばから12年にかけて、有礼の短い本国勤務中が、もっとも華やかであったようです。12年の8月28日には、有礼が自宅で、アメリカの元大統領グラント将軍を迎えての晩餐会を催し、常はホステスを務め上げています。

 えーと、全文書き上げましたところが、文字数が多すぎるそうでして、急遽、後編を上下にわけることにしました。
 区切りがいいので、ここで切り上げ、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に続きます。


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