実はつい先日の日曜日、アクセスが爆発的に増えたんです。
?????と見てみましたら、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」と「アーネスト・サトウ vol1」と、アーネスト・サトウの記事に集中しています。「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」も読んでね(笑)
な、な、な、なにごと???と驚いたんですが、「アーネスト・サトウ 龍馬」のキーワード検索が多く、「イカロス号事件」というのもけっこうありましたから、「そういや、龍馬伝でイカロス号事件をやるとかいってたっけ。もしかして……、サトちゃん登場したの???」と喜んで、検索をかけてみましたら、パックンがやったとのこと。
パックンですかあ。外見は、そこそこ似てますね。
ルパート・エヴェレットがイメージだったんですけど、若き日を演じるには、年がいきすぎましたねえ。まあNHKが、端役にそんなお金を使うはずもないんですけれども。
ともかく、慌てて、土曜日の再放送、録画予約しましたわ(笑)
えー、「アーネスト・サトウ vol1」の続きは、長らく放ったままですが、愛が募って書けない、ということもありまして、私は、サトちゃんに惚れていますし。
有川弥九郎さんと楽しく酒盛りしたり、江戸留守居役・柴山良助の死を知って、「仇を討ってやりたいものだ」と日記に書いた、若き日のサトちゃん。
その晩年、日本人の息子を連れて、リーズデイル卿、バーティ・ミットフォードのバッツフォード邸を訪れ(訪れたと思います)、竹林を歩きながら、遠い日本の過ぎ去った昔に思いを馳せるサトちゃん。
どんな場面を思い描いても愛おしいのですが、以下の場面で涙ぐむ私は、病気かもしれません。
上の本から、です。
明治36年(1903)11月14日、北京在住イギリス公使・アーネスト・サトウのもとに、日本公使館付き武官・山根武亮中将が現れます。転任の辞令があって帰国することになり、別れの挨拶に訪れたのです。日露開戦の3ヶ月たらず前のことです。
その日の日記に、サトウはこう書きました。
「彼は最後に私に、公使としてではなく日本を知り全般的な情勢に通じた一私人として、日本はいま戦うべきか、それとも延期した方がよいかと尋ねた。私は考え込んで、暫くして、いまだ、と答えた」
山根武亮中将は、嘉永6年(1853)、長州藩士の次男として生まれました。維新時は、まだ15歳。
しかし、外敵への備えをまったくもたない小さな島国だった日本が、多くの屍を乗り越えて、光と闇を織りなしつつ、ようやくロシアと対峙できるまでになったその過程の、その渦中で成長し、年を重ねてきた人です。
幕末から日本をよく知り、日本人の妻と息子をもっているイギリス公使に、どうか「一私人」として答えてくれ、と頼んだ山根中将は、果たして日本はロシア相手に戦いえるのかどうか、不安にゆれていたのでしょう。
それに答えるサトウは、真剣でした。血をわけた息子の国なのですから。
「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」でも引きましたが、日清戦争の直後、知人への手紙に、「私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした」と書いたサトウです。
サムライ階級は滅び、しかし、そのサムライ階級出身の中将が、これまで日本が積み上げてきたものが潰え去るかもしれない瀬戸際に立って、不安を押さえつつ、真剣なまなざしで問いかけてきたんです。
サトウは、成長したわが子の決断のときを前にした思いで、答えたでしょう。
力強い、励ましのようなその答えに、山根中将は心からの敬礼で応じ、サトウは万感を胸に秘め、その後ろ姿を見送ったにちがいありません。
と、ですね、そんな場面を思い浮かべつつ、毎回龍馬伝を見ています妹に、
「前回、アーネスト・サトウが出てたんだって?」
と、聞きましたところ、
「ちょっぴりね。そんなことより、長崎の芸者さんで、お元っていう龍馬の恋人がいるんだけどね、それがキリシタンで、捕まりそうになったもんで、龍馬がパークスに頼んで、イギリスに逃がすのよ。あの時代に日本人の女が一人でイギリスに行って、生きていけるわけがないじゃない。幸せになれると思う? 牢屋に入った方がなんぼかましよっ!!!」」
はああああ????? パークスが!!! あのフランス語がしゃべれなくて、サトウに通訳させながら、フランス公使ロッシュと喧嘩していたパークスが、フランスの修道会がカトリック教会に復帰させて鼻高々の日本のキリシタンを、幕府の意向を無視して、カトリック嫌いのイギリスに逃がすってええええ?????
もう、茫然自失。
い、い、い、いや……、そんな珍妙な、きちがいじみた冗談に、真剣になられても。
ふきだしたいのをこらえて、つい、私は、言ってしまったんです。
「慶応3年よねえ。ちょうどパリ万博で、日本の芸者さんがものすごい評判になって、ジャポニズムが巻き起こっている最中よ。カトリック嫌いのイギリスじゃなくて、フランスへ行って、祖先から受け継いだ信仰を守り、現在に復活したカトリック芸者でござあーいって、見世物になったら、絶対、大もうけできるよ」
「私は、幸せになれるかどうかって、言ってるのよっ!」
と、妹に怒られてしまいましたわ。
浦上四番崩れね。
隠れキリシタンの信仰は、村落共同体の土着信仰でしたからね。村を離れては、意味のないものなんですわよ。
フランス革命でいったんぐだぐだになりましたフランスのカトリック教会は、この19世紀半ばリニューアルし、新たな熱を集めて、東洋伝道に情熱を燃やしていました。その昔、弾圧で根絶やしになったと思われていた日本のキリシタン発見!!! わがフランスの伝導会がそれをカトリック教会に復帰させたぜい!!! と、たいした手柄だったわけです。
パークスはもちろん、アーネスト・サトウにしましても、信仰の自由は信奉し、日本がキリスト教全体を邪教視していることには抵抗をもち、弾圧がいいこととは思っていませんでしたけれども、それとこれとは、別の話です。
だいたい、当時のイギリスは、他国の信仰に口をはさむのは内政干渉とこころえておりましたし、カトリック排斥を国是とした歴史を持つ国ですし(当時、まだ根強くカトリック信者への差別もありました)、自国民が関係しているわけでも、ないんですからねえ。
えー、もし、もしもです。龍馬がほんとうに
「わしのといちがキリシタンじゃきに、イギリスへ逃がしてやってつかあさい」
と言ったとします。
「おとといおいで」でおわりでしょうが、サトちゃんはやさしいですから、片目をつぶって、「フランス公使へ訴えるのが筋です。通訳してあげましょうか?」と、言ってくれたりしたかも……、しれません(笑)
しかしねえ。見るのが怖くなりましたわ。
笑い転げそうで。
きっとシナリオを書いている人の頭に蛆がわいている、にちがいありません。
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?????と見てみましたら、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」と「アーネスト・サトウ vol1」と、アーネスト・サトウの記事に集中しています。「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」も読んでね(笑)
な、な、な、なにごと???と驚いたんですが、「アーネスト・サトウ 龍馬」のキーワード検索が多く、「イカロス号事件」というのもけっこうありましたから、「そういや、龍馬伝でイカロス号事件をやるとかいってたっけ。もしかして……、サトちゃん登場したの???」と喜んで、検索をかけてみましたら、パックンがやったとのこと。
パックンですかあ。外見は、そこそこ似てますね。
ルパート・エヴェレットがイメージだったんですけど、若き日を演じるには、年がいきすぎましたねえ。まあNHKが、端役にそんなお金を使うはずもないんですけれども。
ともかく、慌てて、土曜日の再放送、録画予約しましたわ(笑)
えー、「アーネスト・サトウ vol1」の続きは、長らく放ったままですが、愛が募って書けない、ということもありまして、私は、サトちゃんに惚れていますし。
有川弥九郎さんと楽しく酒盛りしたり、江戸留守居役・柴山良助の死を知って、「仇を討ってやりたいものだ」と日記に書いた、若き日のサトちゃん。
その晩年、日本人の息子を連れて、リーズデイル卿、バーティ・ミットフォードのバッツフォード邸を訪れ(訪れたと思います)、竹林を歩きながら、遠い日本の過ぎ去った昔に思いを馳せるサトちゃん。
どんな場面を思い描いても愛おしいのですが、以下の場面で涙ぐむ私は、病気かもしれません。
アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)イアン・C. ラックストン雄松堂出版このアイテムの詳細を見る |
上の本から、です。
明治36年(1903)11月14日、北京在住イギリス公使・アーネスト・サトウのもとに、日本公使館付き武官・山根武亮中将が現れます。転任の辞令があって帰国することになり、別れの挨拶に訪れたのです。日露開戦の3ヶ月たらず前のことです。
その日の日記に、サトウはこう書きました。
「彼は最後に私に、公使としてではなく日本を知り全般的な情勢に通じた一私人として、日本はいま戦うべきか、それとも延期した方がよいかと尋ねた。私は考え込んで、暫くして、いまだ、と答えた」
山根武亮中将は、嘉永6年(1853)、長州藩士の次男として生まれました。維新時は、まだ15歳。
しかし、外敵への備えをまったくもたない小さな島国だった日本が、多くの屍を乗り越えて、光と闇を織りなしつつ、ようやくロシアと対峙できるまでになったその過程の、その渦中で成長し、年を重ねてきた人です。
幕末から日本をよく知り、日本人の妻と息子をもっているイギリス公使に、どうか「一私人」として答えてくれ、と頼んだ山根中将は、果たして日本はロシア相手に戦いえるのかどうか、不安にゆれていたのでしょう。
それに答えるサトウは、真剣でした。血をわけた息子の国なのですから。
「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」でも引きましたが、日清戦争の直後、知人への手紙に、「私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした」と書いたサトウです。
サムライ階級は滅び、しかし、そのサムライ階級出身の中将が、これまで日本が積み上げてきたものが潰え去るかもしれない瀬戸際に立って、不安を押さえつつ、真剣なまなざしで問いかけてきたんです。
サトウは、成長したわが子の決断のときを前にした思いで、答えたでしょう。
力強い、励ましのようなその答えに、山根中将は心からの敬礼で応じ、サトウは万感を胸に秘め、その後ろ姿を見送ったにちがいありません。
と、ですね、そんな場面を思い浮かべつつ、毎回龍馬伝を見ています妹に、
「前回、アーネスト・サトウが出てたんだって?」
と、聞きましたところ、
「ちょっぴりね。そんなことより、長崎の芸者さんで、お元っていう龍馬の恋人がいるんだけどね、それがキリシタンで、捕まりそうになったもんで、龍馬がパークスに頼んで、イギリスに逃がすのよ。あの時代に日本人の女が一人でイギリスに行って、生きていけるわけがないじゃない。幸せになれると思う? 牢屋に入った方がなんぼかましよっ!!!」」
はああああ????? パークスが!!! あのフランス語がしゃべれなくて、サトウに通訳させながら、フランス公使ロッシュと喧嘩していたパークスが、フランスの修道会がカトリック教会に復帰させて鼻高々の日本のキリシタンを、幕府の意向を無視して、カトリック嫌いのイギリスに逃がすってええええ?????
もう、茫然自失。
い、い、い、いや……、そんな珍妙な、きちがいじみた冗談に、真剣になられても。
ふきだしたいのをこらえて、つい、私は、言ってしまったんです。
「慶応3年よねえ。ちょうどパリ万博で、日本の芸者さんがものすごい評判になって、ジャポニズムが巻き起こっている最中よ。カトリック嫌いのイギリスじゃなくて、フランスへ行って、祖先から受け継いだ信仰を守り、現在に復活したカトリック芸者でござあーいって、見世物になったら、絶対、大もうけできるよ」
「私は、幸せになれるかどうかって、言ってるのよっ!」
と、妹に怒られてしまいましたわ。
浦上四番崩れね。
隠れキリシタンの信仰は、村落共同体の土着信仰でしたからね。村を離れては、意味のないものなんですわよ。
フランス革命でいったんぐだぐだになりましたフランスのカトリック教会は、この19世紀半ばリニューアルし、新たな熱を集めて、東洋伝道に情熱を燃やしていました。その昔、弾圧で根絶やしになったと思われていた日本のキリシタン発見!!! わがフランスの伝導会がそれをカトリック教会に復帰させたぜい!!! と、たいした手柄だったわけです。
パークスはもちろん、アーネスト・サトウにしましても、信仰の自由は信奉し、日本がキリスト教全体を邪教視していることには抵抗をもち、弾圧がいいこととは思っていませんでしたけれども、それとこれとは、別の話です。
だいたい、当時のイギリスは、他国の信仰に口をはさむのは内政干渉とこころえておりましたし、カトリック排斥を国是とした歴史を持つ国ですし(当時、まだ根強くカトリック信者への差別もありました)、自国民が関係しているわけでも、ないんですからねえ。
えー、もし、もしもです。龍馬がほんとうに
「わしのといちがキリシタンじゃきに、イギリスへ逃がしてやってつかあさい」
と言ったとします。
「おとといおいで」でおわりでしょうが、サトちゃんはやさしいですから、片目をつぶって、「フランス公使へ訴えるのが筋です。通訳してあげましょうか?」と、言ってくれたりしたかも……、しれません(笑)
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