えーと、またまた突然ですが、中井桜洲です。
「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」に書いているのですが、慶応3年後半、桐野が個人的なつきあいをしているらしい友人として、中井桜洲がいます。
なぜ個人的か……、といいますと、桐野の愛人・村田さとさんの家に桐野が持っていたらしい部屋で会っているから、です。必ず永山弥一郎とともに、なんですが、けっこう仲よさげ、なんですよね。
それもあるんですけれど……、明治11年3月発行の金田耕平編『近世英傑略伝』(近デジで読めます)に、短いながら桐野の伝記がありまして、これは、もっとも早く書かれた桐野の伝記ではないか、と思われますが、桐野がもっとも親しくしていた友人を、伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎の三人とするなど、かなり正確なんですよね。ただ、西郷隆盛とは幕末から一環して意見があっていなかった、という点が、ちょっと極端な感じなんですが。
西南戦争終結間もなく書かれたこの伝記の最後は、田中幸介(中井桜洲)の話でしめくくられています。
曾て京師に在るの日、同藩の兵士田中幸介の脱走して京師に在るに會し、始めて文事を談するを暁(さと)り、頗る天下の形勢を了知するの益を得たりと云ふ。此田中なる者は、曾て欧州に航し帰て、維新の際に尽力せし人なり。氏(桐野)は常に談を好み、日夜壮士を集め戦事を論するを常とせしが、他人之を論弁すれとも断乎として用ゆることなし。独り其之信聴する者は田中のみにして、田中は氏に逢ふごとに古今の形勢、各国の人情風俗を談ずるに氏は耳を傾むけて之を聴き、敢て非斥することなく、他人の若し田中を誹議する者あれば大いに憤激して之を排撃せしとぞ。惜いかな、この田中なる者は方今其の所在を知らず。若し田中をして氏の傍らに在らしめば、氏は必ず西郷の暴挙に左袒せざる@しと痛惜する人@しと云ふ。嗚呼、亦勢運の然らしむるに非ざるなきを得んや。
これ、西南戦争を「西郷の暴挙」と表現しているんですが、このすぐ後に西郷隆盛の伝記があって、もちろんそちらの方はそういう書き方はしていませんで、あきらかに筆者がちがいます。
そして、「この田中なる者は方今其の所在を知らず」といいますのは、意味深な書き方です。田中幸介は、中井弘と名を変えただけで、この当時、工部省の官僚です。
つまり、なにが言いたいかといいますと、あるいは、この伝記は中井の筆になるのではないか、と、私は思うのです。桐野の友人として「伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎」の三人をあげることができるほど幕末期の桐野と親しく、明治11年初頭、死んでもいなければ入牢もしていないで、なおかつ筆が立つ人物といえば、ちょっと私には、中井しか思い浮かびません。
それに、です。中井の伝記として、伊東痴遊が中井の異母兄の書いたものをもとにした、というものがありまして、私はこれ、痴遊の聞き書きではないかと思うのですが、講談調で、かなり疑問の多い伝記ではあります。
が、ともかくこれに、中井生前の言葉として、西郷批判とともに、「西南戦争を起こしたのは、西郷ではなく桐野である。桐野は篠原のような西郷の子分ではなく、独立した親分だ」といったようなことが、書かれているんです。「西南戦争を起こしたのは桐野」という部分は、明治11年の桐野の伝記と正反対なのですが、西郷嫌いの気分と、桐野は決して西郷の子分ではない、独立した存在だ、といった部分は、共通しているんです。
他に桐野のことを語り残した人物としては、有馬藤太がいますが、こちらは、本人が西郷を尊敬していますし、桐野が西郷と意見があわないでいたなどとは、一言も言っていないんです。
つまり、西郷と桐野の関係は、見る者によってかなりちがって見えたのですし、中井の伝記に異母弟と痴遊のフィルターがかかっているにしましても、そこに描かれました中井の西郷・桐野観は、明治11年の桐野の伝記のトーンと似ていまして、伝記が中井の手になることを、思わせるのです。
まあ、そんなこんなでして、昔から、中井のことは気にかかり、多少、資料をあさったりもしていたのですが、なにしろ私の関心が、桐野生存時、それも、幕末から明治初頭に集中しておりまして、となりますと、ろくろく資料がありません。
fhさまが中井のファンとなられてから、相当に調べられたようなのですが、それでも幕末に関しては、講談みたいなお話しか出てきません。
おもしろいのは、桐野の伝記を書き残してくれました春山育次郎が、中井に話を聞いて書いたエッセイです。私は、fhさまのブログで拝読しただけなのですが、ともかく中井弘という人は、二重にも三種にも尾ひれをつけた与太話で、他人を煙にまく名人だったようです。
そんな中井の伝記を、ご子孫のお一人が出されたというので、さっそく買ったのですが、私もあっちこっちと関心が分散しておりまして、やっと先日、拝読いたしました。
中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀 | |
屋敷 茂雄 | |
幻冬舎ルネッサンス |
いや、そのー、これまで、執筆と縁のない方ですし、仕方がないことなのだとは思うのですが、なんというのでしょうか、素材がもったいない、とでもいいますか。失礼な言い方かもしれませんが、あの人ともこの人とも、あらゆる有名幕末明治人士と親しくて、ということを強調なさるあまりに、肝心の本人像がぼやけたものになっているんです。
資料を淡々と並べるか、そうするには資料が少なすぎる、ということならば、独断でいいんです。もっと中井の心情にまで踏み込んだものにならなかったものなのでしょうか。
私の個人的欲求のみからいたしますと、新資料を単独で、全文収録してくださっていればあ、と(笑) 私にとりましては、肝心な部分が、かなり省かれております。
新資料と言いますのは、中井の重野安繹宛書簡でして、そこに、かなり詳しく、自分の経歴を書いていた、というのです。
しかし、ここでまたわかりませんのは、この書簡、実物ではなく「痴遊雑誌」に掲載されたものだそうでして、うーん。
い、いや、確かにこれまであまり知られてなかったものだというのはわかるのですが、 「痴遊雑誌」って、柏書房が集成本を出しているみたいで、それならば国会図書館にはあるでしょうから、何年何月発行の何号に掲載と、書いていただくわけにはいかなかったんでしょうか。
あと、そのー、どうにもわからないのが、この新資料から、中井が、脱藩(脱走と書いています)して大橋訥庵と親交を持ち、訥庵が「幕ノ嫌疑ヲ受タル時」、薩摩藩邸に捕らえられ、国許へ帰されて士族籍剥奪、終身禁固となった、とされながら、以下のように書いておられることです。
「うなずけないのは、大橋や藤森たちが活発に行動したのは尊王攘夷運動である。それに加担したからといって、士族籍の剥奪や終身禁固などという刑を薩摩藩庁が科すであろうか」
い、いや、「大橋ガ幕ノ嫌疑ヲ受タル時」と中井が書いているなら、それはあきらかに、坂下門外の変への関与を疑われたのであり、終身禁固くらいありえると思うのですが?????
(追記)忘れていました。書簡の解説文で???となった点がもう一つ。明治天皇に謁見するイギリス公使パークス一行が襲撃されたときのことなんですが、「各国公使の宿舎はオランダが相国寺、フランスは南禅寺であり、ここは中井の記憶ちがいである」と書いておられます。単純な思い違いでおられるんでしょうか??? 反対です。オランダが南禅寺で、フランスが相国寺です。したがいまして、中井の記憶ちがいは「オランダが天龍寺」としている点のみでして、それも確かー、いまちょっと資料が手元になくて記憶が定かじゃないんですが、当初、天龍寺だったような話もあったような。ともかく、堺事件直後でもっとも危ないと思われていましたフランスは、薩摩が警護しましたので、相国寺なんです。知恩院を宿にしましたイギリスは土佐が警護しましたし、オランダは加賀前田藩です。薩摩、土佐の警護したフランス、イギリスの宿について、中井の記憶は確かです。
もう一つ、中井の父親が島流しになっていた、という件です。書簡の引用部分から、その部分は省かれ、確かなことだと、なにをもとに判断されたのか、読者にはわからないんです。
これが確かなことだとしますと、中井の生き方、桐野との関係を見る上で、もしかしたら、という憶測を、私は抱いたのですが。
桐野の父親も、遠島です。
理由はささいなこととしか伝えられていないのですが、このおかげで非常に貧しく、どうも、一人前の藩士となる機会さえ、なかなか与えられなかった印象を受けます。
えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
明治6年政変の後。東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。
で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
しかし、ふと、思ったんです。
桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。
調所笑左衛門の切腹は、お由羅騒動につながります。
藩主の島津斉興が、正室との間の嫡子・斉彬になかなか家督を譲らず、側室・お由羅の子である久光にゆずるつもりではないのか、という疑いがもたれました。
実質をいいますならば、斉興と斉彬、親子の確執があり、それに家臣団がからんだ、ということでしょう。
斉興のもとで、経済改革を成し遂げた調所笑左衛門は、その財政引き締め政策によって、下級藩士たちの多大な恨みを買っていました。
父親が家督を譲らないことに業を煮やした斉彬は、嘉永元年(1848年)、自藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告する形で、その責任者・調所笑左衛門を切腹に追い込みます。しかし、調所が一身に罪をかぶって死んだため、斉興の隠居とはならず、斉彬の襲封には、至らなかったのです。
このことは、藩内の緊張を高め、斉彬の男子の夭折をきっかけに、行動を起こそうとした斉彬派に対して、斉興派の徹底的な弾圧が行われます。下級藩士の多数は斉彬派で、西郷、大久保をはじめ、明治維新の中核となった者は、大方そうでした。
したがいまして、薩摩において、調所は長らく悪者にされていたんです。あからさまに親子喧嘩だと言ってしまいますと、斉彬公の値打ちが下がりますから。
島津家から養子が出ていた他藩の助力などもあり、ついに嘉永4年、斉興は隠居に追い込まれ、斉彬が藩主になります。
従来、それによる報復人事は行われなかった、とされてきたのですが、どうもちがうように思われます。少なくとも、調所派だった海老原清熙は失脚し、後に島流しになっているのですし、やはり調所とつながりの深かった島津久徳も罷免されています。
私、この件ではまだ、まったく史料を読んでいませんで、「斉彬公史料」でも読んでみる必要があるのですが、図書館で借り出せないんですよねえ、ふう。
したがいまして、まったくの妄想なのですが。
これだけ大規模なお家騒動になりますと、積極的な反斉彬派ではないにしましても、斉興の藩政の要だった調所や海老原や島津久徳や、に縁があった、あるいは、彼らの取立を受けていた藩士にも、粛清は及ぶでしょう。
桐野の父親も中井の父親も、そうであったのではないのでしょうか。
中井の父親の島流しが、明治2年まで許されなかった、ということしか、傍証はないんですけれども。
中井はもちろん、なんですが、私にとりましては桐野も、どことなく、薩摩の下級士族団の絆から、浮き上がっていたように見えるんですね。
父親が調所派だったのだとすれば、その背景が、納得できるように思うのです。
これから調べてみたいこと、なんですけれど。
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