普仏戦争と前田正名 Vol1の続き、です。
えーと、ですね。第二帝政普仏戦争のお話は、カテゴリー 日仏関係の過去記事に、けっこう出てきますが、古い記事ですねえ。読み返していて、いや、けっこう、昔は短いながらにいちいち解説していたりするんだなあ、と感心。
もしかしまして近頃は、すさまじいオタク記事になっていたりするんですかねえ。
カテゴリー最初の『オペラ座の怪人』と第二帝政を書いたのが2005年です。このときにはモンブラン伯爵のこともよくわかっていなかったりしたんですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編で書きましたように、モンブラン伯爵が維新に果たした役割を正当に評価する学術論文も現れてきたりしている昨今です。
『オペラ座の怪人』と第二帝政の後半に、パリのオスマン大改造のことを書いておりますが、これは、それほど訂正の必要はなさそうに思います。
ただ、つけくわえますと、パリの再開発、経済復興は、すでに王制復古期にはじまっていた、ということでしょうか。
優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48 | |
アンヌ マルタン=フュジエ | |
新評論 |
上の本によれば、ショセ=ダンタン地区全体、高級住宅街として開発がはじまったのが王制復古期からですし、「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂 」(河出ブックス)によりますと、サン・ラザール駅に侵食されましたヨーロッパ街区は、ヨーロッパ全土の制覇をめざしましたナポレオン帝政が倒れた後、ヨーロッパの調和的発展を願って、街路にヨーロッパ各地の名前がつけられたんだそうなんです。
まあ、あれです。ナポレオンが外征によってフランスの栄光をどのように高めましょうとも、軍事的緊張の中での経済開発は難しく、王制復古により、少なくとも対外的な平和は保証されたわけでして、内需拡大へ指向が向いた、ということなのでしょう。
しかし、ですね。一度、徹底的に踏みにじられました権威が、元のままに返るということはありえないんですね。
フランス革命は、王政とともに社会を律していました宗教(カトリック)をも全否定する道をたどり、新しい社会創出を試みて、革命前の伝統社会は「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれるようになったのですが、しかし伝統の存在は存在でして、無いものにしてしまうことには無理があり、革命後の社会もその上に築くしかなく、非常に不安定なものとならざるをえなかったわけです。
ここらへんのことは、フランソワ・フュレの「アンシャン・レジームと革命」(「記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史〈第1巻〉対立」収録)がわかりやすく解説してくれていますが、フュレが指標としていますのが、下の本です。
「フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録」 (岩波文庫) | |
アレクシス・ド・トクヴィル | |
岩波書店 |
アレクシス・ド・トクヴィルは1805年、ナポレオン帝政のはじまりの時期に生まれた人でして、直接には革命を知りません。しかし、貴族の家の三男に生まれ、両親は処刑されかかって、母親はそのときの恐怖から精神に異常をきたしていた、といわれます。
両親も兄も親戚も、当然、ブルボン正統王朝派で、王政復古支持者でした。
しかし、アンシャン・レジームを直接知らないで政治家になりましたトクヴィルにとり、ブルボン正統王朝は尊敬に値し、感情の上からは慕わしいものであったのですが、一方で、このままでは生まれたときから吸っていた自由の空気がなくなってしまうのではないか、という危惧も抱いていました。
あまりにも旧式な復古王政には無理が多く、打倒され、ブルジョワに押されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、7月王制がはじまります。
25歳のトクヴィルは、親族に「裏切り者」と言われながら、ルイ・フィリップ王に忠誠の宣誓をします。中産階級(ブルジョワ)を中心に上下がうまく融合した、イギリスのような安定した立憲王政に移行できるのではないかという、期待を持ってのことでした。
どこかで7月王制のことを書いた、と思いましたら、「リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこ」でした。
バーティ・ミットフォードの父親ヘンリー・レベリーは、1804年生まれ、トクヴィルとほぼ同年代のイギリス人です。あるいは、知り合いであったかもしれません。以下、再録。
幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。
そもそもフランス革命以前から、フランスは非常に中央集権化が進んでおりまして、工業化を待つまでもなく、パリに人口が集中する傾向があったんですが、一応政情が落ち着きました王制復古期から7月王制期にかけまして、遅ればせながら産業革命が始まり、鉄道も敷かれますし、農村からパリへ、どっと人口が流れ込みます。首都に流れこめばともかく食べられますし、僅かながら、一攫千金の夢もあります。
しかし、ブルジョワ中心の政治は金権に陥って腐敗し、貧富の差がはげしくなって、2月革命が起こります。
その渦中に、43歳になったトクヴィルがいました。以下、「フランス二月革命の日々」から引用です。
産業革命は、三十年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それに加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のもとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。
カール・マルクスは、トクヴィルより13歳若いプロシヤ人でしたが、7月王政下のパリで活動をはじめ、ベルギーへ移って、1848年にはエンゲルスとともに「共産党宣言」を書いています。
フランス革命は、労働者が主体となって起こったものではありません。過激なジャコバン派にしましたところで、中産階級(ブルジョワ)でした。
1848年の2月革命は、世界で初めて起こった労働者主体の革命でした。産業革命により、都市部には多数の労働者が生まれ、従来の政治では、おさまりがつかなくなろうとしておりました。
ルイ・フィリップは退位し、第二共和政が始まります。
早々と普通選挙(ただし男子のみ)を採用しましたことが、この体制の命取りでした。地方の農民は保守的でして、パリを中心とする都会の労働者は、まだまだ少数派です。2月革命直後、パリの失業者慰撫のために臨時政府が設けました国立作業場は、普通選挙が終わり体制が確立すると同時に閉鎖されるのですが、これを不満として起こった6月暴動は、多数の信任をとりつけておりました共和国政府によって、武力鎮圧されます。
そして、同年の12月、大統領選挙が行われるのですが、ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが、圧倒的な多数票を集めて当選します。
なにしろ、普通選挙が始まったばかりです。
フランスの栄光を対外的に輝かせたナポレオンの名は、フランス人ならば誰でも知っていて、しかも農村の記憶では、ナポレオンの時代はそう悪いものではなく、いわばまあ、ナポレオンの名前だけで、大統領になったようなものなのでしょう。
フランスの軍艦マーチに書いておりますが、ルイ=ナポレオン、クーデター後のナポレオン3世に関しましては、下の本が詳しく、参考にさせていただいております。
「怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 」(講談社学術文庫) | |
鹿島 茂 | |
講談社 |
えーと、ナポレオン三世はトクヴィルより3つ年下、ほぼ同年代です。ナポレオンの没落とともに、ナポレオンの親族は亡命を余儀なくされていまして、少年期からフランスを離れておりました。
つまり、ルイ=フィリップが退位し、ようやく帰国がかなって大統領になったとはいいましても、フランス国内にさっぱり、政治的基盤がありませんでした。あったのは、農民を中心とします大衆の圧倒的な支持ばかり、です。
やがて、退役軍人クラブを立ち上げ、軍隊と警察を掌握し、協力者を得て、クーデター。成り行き上、血まみれクーデターとなってしまいましたことから、マルクスやら、フランスの国民的作家のヴィクトル・ユゴーやらは、大統領から皇帝になりましたナポレオン三世と、成立した第二帝政を、もうくそみそにけなし続けます。
しかし、ティエリー ・ランツの「ナポレオン三世」 (文庫クセジュ)によれば、当時の暴動鎮圧に流血はつきもので、他の騒動と比べて犠牲者の数が多かったわけではない、とのことなんです。
またクーデターの後、きっちりナポレオン三世は国民投票で大衆の支持を取りつけておりまして、第二帝政を独裁政権と呼ぶことには無理があります。
マルクスによりますと、ナポレオン三世を支持しましたのはルンペンプロレタリアートだそうでして、いやはや、ナポレオン三世その人ではなく、支持しました大衆に投げつけた罵声なんですから、すさまじいですね。
ところで鹿島茂氏は、ナポレオン三世には母性本能をくすぐるようなところがあって、女にもてたとしておられますが、母性本能の欠如しました凡人の私には、なにが魅力的なのやら、よくわかりません。
なんだか、目つきがどんよりしておりますよねえ。
伯父のナポレオンには似ても似つかない軍事音痴でして、実は母親の浮気の産物でナポレオンの家の血は引いていない、という噂もあったそうですが、三世の方の政治目標は貧困をなくす!でして、7月王政時よりも、はるかに大規模で徹底しましたオスマン大改造により、パリの街を近代化し、同時に景気を浮上させました。
といいますか、地上げによります、あぶく銭やらなにやら、浮上させすぎましてバブル状態。
豊かな文化は、旺盛な消費とともにあります。
経済力、軍事力、外交力。それら、国力のすべてにおいて、当時、イギリスはフランスをはるかに引き離しておりましたが、消費文化という点にかけては、パリがロンドンを圧倒しておりました。
社会の変化は、芸術におきましても新たなムーブメントを生み出し、ロンドンでもパリでも、古典的なアカデミズムを否定する人びとが現れるのですが、イギリスにおけるそれは象徴主義につながるラファエル前派であり、一方パリでは、世界の美術界をリードする印象派が、胎動し始めます。
「近代絵画の創始者」 と呼ばれますエドゥアール・マネは、1832年生まれ。モンブラン伯爵より、一つだけ年上です。代々高級官吏を勤めてきたパリのブルジョワの名家の長男に生まれ、両親は息子に海軍士官への道を望んでいましたが、兵学校受験に失敗し、両親もあきらめて画家になりたいという息子の希望を受け入れます。
なにしろ資産家のお坊ちゃんですから、別に絵が売れなくとも生活に困りはしないのですが、やはり両親の手前、アカデミー画壇から評価を受けたい気分はあったらしいのです。それがなぜか、超スキャンダラスな絵を描いてしまうのですね。
1863年にサロン(官展)に出品しました『草上の昼食』です。下の本の表紙になっております絵です。実物はパリ、オルセー美術館蔵。
もっと知りたいマネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) | |
高橋 明也 | |
東京美術 |
今となりましては、いったいなにがスキャンダラスなのやらよくわかりませんが、えーと、ですね。
ヴィーナスの誕生とか、ギリシャ・ローマ神話など、歴史上のはるかな過去を題材に裸体を描きますことは、アカデミー画壇からも、りっぱに認められたことでした。
しかし、あきらかな現代風俗で、「ブローニュの森なの?」と見えるほど身近に、生々しく裸体を描くことは御法度だったんです。
そして、美術界も変わろうとしていました。上の本から引用です。
じつは、この年、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)にも大変革が起こっていた。1819年に設立されたこの美術学校では、いまだ旧弊な時代錯誤の教育が行われていたが、画家の登竜門だったローマ賞のコンクールから「歴史的風景画」のジャンルが廃止されたのである。
写真の誕生により、記録する、という意味での絵画の役割は後退していました。
そして、神話や歴史をあったことのように記録する絵画の役割も、消え去ろうとしていたのです。
日常、身近にある一般的な風景や、隣に住んでいる人々。
娼婦であろうが場末のカフェであろうが、そして煙を吐く超現代的な機関車であろうが、画家が面白いと思ったものはなんでも画材になる、という時代が、到来してきていました。
1863年といいますと、文久3年。薩英戦争の年です。
前田正名13歳、錦江湾に姿を現しましたイギリス軍艦に武者震いしていたころです。
「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2」に書いておりますが、文久3年のモンブラン伯爵の動向は、よくわかっていません。しかし翌元治元年、パリを訪れた横浜鎖港談判使節団の前に姿を現し、そのうちの名倉予何人と三宅復一は、まちがいなくティボリ街のモンブラン邸を訪れています。
そして、そのモンブラン邸のごく近所に、エドゥアール・マネがアトリエをかまえていまして、サン・ラザール駅界隈は、印象派揺籃の地だったんです。
次回へ続きます。
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