普仏戦争と前田正名 Vol3の続きです。
普仏戦争、パリ包囲戦におきます前田正名。
正名くんは実際にその経験をしたわけでして、私なども、さまざまに想像してみるわけなのですけれども。
巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス) | |
月島総記 | |
メディアファクトリー |
この本への文句ならば、最初からもう、山のようにあります。
まず、いったい坂本龍馬がフ・レ・ン・チのなにを知っているというの?????、です。
「エゲレスとは仲の悪い国じゃがの」「フレンチの屋台骨を支えるんは、軍の力、農の力、そして商と工の力じゃ。何にも負けぬ軍とそれを支える農民。盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る。豊かになるのはまあ道理じゃの」なんぞと、えらそーに正名くんに語ったことになったりしているんですが、もう、なんといいますか。
第二帝政期のフランスはイギリスとは仲がいいんです。イギリスでの亡命生活が長かったナポレオン三世が、ちょっといきすぎなくらいの親イギリス政策をとっていたんです。クリミア戦争の出兵など、その典型でしょう。
広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、フランスは、イギリスとの共同作戦で極東にまで来てペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をくりひろげ、函館で傷病兵を休ませて、五稜郭ができるきっかけを作っております。
太平天国の乱でもフランスは、英国といっしょになって鎮定軍を組織し、そのときにフランス軍を指揮しましたパリカオ将軍が、普仏戦争の陸相、次いで戦時内閣の首班になっていたりします。
農の力はさておき、軍の力も商と工の力もイギリスの方がはるかに上です。「盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る」って、それはイギリスのことであって、フランスではないですから。
これまでさんざん書いてまいりましたが、幕末、日本が開港しました当初、ヨーロッパで蚕の病気が流行り、さっぱりと生糸の生産ができなくなります。絹織物産業の盛んなフランスでは非常に困り、中国、次いで日本から生糸を輸入するわけなのですが、極東からヨーロッパへ生糸を運んで売るのはイギリス商人でして、まずはイギリスに荷揚げされ、それからフランスに輸出されていたんです。そういうルートがすでに確立してしまっていました。
これをなんとか打破しようとしましたのが、フランスの駐日公使レオン・ロッシュで、知人で銀行家のフリューリ・エラールを抱き込み、日仏独占生糸交易をもくろみ、在日イギリス商人たちの多大な反発を買うわけなんですけれども、これはいわば、ロッシュ個人がもくろんだことでして、フランスが国として、イギリスと仲が悪かったわけでは、決してありません。
前々回にも書きましたが、フランスがイギリスの上をいっておりましたのは、旺盛な消費意欲です。
いや、ですね。
こんなにものを知らない龍馬にフ・レ・ン・チのことを聞きませんでも、慶応2年当時の長崎には、正名くんと同年代の薩摩人でパリ帰りの町田清藏くんがいるんです!!!(巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2参照)
長崎に留学します前の正名くんは、門閥のおぼっちゃんである清藏くんのヨーロッパ密航留学が、うらやましくってうらやましくってたまらなかったわけなのですから、帰国しました清藏くんが、薩摩藩長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)から、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といわれて、自分たち長崎留学生のもとに来たのを幸い、清藏くんの話に、目を丸くして聞き入ったにちがいありません。あるいは、清藏くんを丸山遊郭に誘って費用を払わせた書生って、正名くんだったりしないともかぎりませんしい(笑)。
なんといいましても清蔵くんは、「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」ということでして、起こったばかりの普墺戦争の見学までしてきているのですから、その話がおもしろくないはずがありません。
えー、言い始めるときりがないわけですが、普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1で最初にふれましたように、どうもこの小説は、下の司馬さんのエッセイ集に収録されています「普仏戦争」に着想を得て、明後日な方向に膨らましてみただけのようです。
余話として (文春文庫 し 1-38) | |
司馬 遼太郎 | |
文藝春秋 |
「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」と「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」を続けて読んでいただければわかるのですが、司馬さんにとっては、エッセイも説話です。
それで、です。
題名が「巴里の侍」というくらいでして、おおざっぱに言ってこの小説は、正名くんを主人公に「普仏戦争とパリコミューンに参加して戦って、日本の侍としての誇りを取り戻し、コンプレックスを解消する!」というような、荒唐無稽な筋立てなんですが、普仏戦争とパリコミューンって、侍の誇りとは水と油ですし、だ・か・ら、いつの時代のどこの話???と聞きたくなるくらい、わけのわからないことになっています。
なにがいやだって、です。戦う話なんですから、せめて戦争のおおざっぱな、一般的な事実関係くらい正確に書いてもらいたかったんですけど、下の本を参考書に挙げながら、かなりの曲解をしていませんか?と、首をかしげたくなるんです。
新装版 パリ燃ゆ I | |
大佛 次郎 | |
朝日新聞社 |
いや、ですね。「パリ燃ゆ」はずいぶん昔に書かれたものですし、パリ・コミューンの位置づけなどについては、ソ連の崩壊以降、かなりちがった見方がされるようになってきてはいるんですけれども、そういった解釈の問題はさておき、大佛次郎氏は膨大な資料を駆使されていて、事実関係が大きくちがっていたりはしないんですけれども。
最初に、普仏戦争開戦決定の日のパリです。
このときのパリの民衆の大騒動は、ものすごく有名な話だと私は思っていたんですが、ちがうんでしょうか。
大佛次郎氏が書いていないはずはない、と思いましたら、やっぱり、書かれてはいたんです。
「ベルリンへ!」
「ベルリンへ!」
この声が不安を圧倒し去った。戦争には、いつものことだ。そのことしか見えなくなる。軍歌が危惧を打消し、また、その目的の為に一層声を高らかに歌われる。
軍歌といいますのは、ラ・マルセイエーズです。
ラ・マルセイエーズは革命歌でもありますから、王制や帝政期には、国歌ではなかったんです。しかし、対外戦争において、ナショナリズムを鼓舞する歌でもあるわけでして、戦争になると歌われるんです。
ナナ (新潮文庫) | |
ゾラ | |
新潮社 |
前回もご紹介しましたエミール・ゾラの「ナナ」なんですが、この小説のラストシーンが開戦の日のパリなんです。
私が読んだのは、確か高校生のころ。感じやすい年ごろだったせいでしょうか、グランドホテルの一室で、若くして天然痘で死んでいきますナナの無惨な姿と、窓の外の「ベルリンへ! ベルリンへ!」という群衆の熱狂の対比に圧倒され、ずっと記憶に残り続けました。
ゾラは当時、政治ジャーナリストとしてパリにいて、実際にこの騒ぎを体験して、小説の中に描き残したんです。
以下、引用です。
その日、議会は戦争を可決したのだ。無数の群衆が街という街から出て来て、歩道に流れ、車道にまで溢れていた。
ー見てごらんよ、ほら、見てごらんよ! 大変な人だわ。
夜がいっぱいに拡がり、遠くのガス燈が一つ一つ灯っていた。だが、窓という窓には、物見高い人の顔が見分けられ、一方、並木の下には、人の波が刻々に膨れ上がって、マドレーヌ教会からバスティーユの監獄にかけて、巨大な流れとなって進んでいた。馬車ものろのろとしか進めなかった。同じ情熱のもとにひとつに塊まって、足を踏み鳴らし、熱狂したい欲求から集まってきた、まだ物も言わずにぎっしり詰まっていた群衆から、どよめきが湧き起こってきた。
群衆は相変らず増えていった。店屋の光に照らされ、ガス燈の揺らめく灯りの幕の下には、帽子を運んでゆく両側の舗道の上の、二つの流れがはっきり見えた。この頃になると、熱狂が次から次へと伝わり、人々は作業服の一団のあとにくっついてゆき、絶え間ない人波が車道を掃いていった。あらゆる胸という胸から叫び声が迸り出て、断続して執拗に繰返した。
ーベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!
グランドホテルといいますのは、現在のインターコンチネンタル・パリ・ルグランのことでして、オペラ・ガルニエのすぐそばですから、グラン・プルヴァールと呼ばれましたパリ一番の繁華街。ティボリ街から、簡単に歩いて行ける距離です。
司馬さんが、もしも開戦の日の正名くんを描いたとしましたら、かならずやゾラのこの名場面を引用し、ナショナリズムについて語ったりされたんだと思うのですが、「巴里の侍」の月島総記氏は、ある日正名くんが平穏なパリの街を歩いてティボリ街の公使館に着くと、モンブランが狼狽してこう言った、というような、唖然とするしかない珍場面に仕立ててくれているんです。
「今朝未明。我がフランスと隣国プロイセンが、交戦状態に入った」
「プロイセンとー?」
「そう、戦争だ」
い、い、い、いや、いくらなんでも、パリの住人が、開戦の日に至って「プロイセンとー?」なんぞと暢気に聞くなんぞ、間抜けの馬鹿以外の何者でもないでしょ。
えー、以降、書かなければいいのに、普仏戦争の一般的な描写が続きまして、これがまた、嘘ばかり。以下に、列挙してみます。
ー瞬く間に時は過ぎ、それから約二週間後。八月二日の午後一時。
所はパリの東、およそ五百km離れた平野地帯。
広大な緑の草原の中に、なだらかな小高い丘がある。
フランス=プロイセン国境傍の『ウィサンプールの丘』。そこには見渡す限りフランス軍兵士が並んでいた。
恐らく今日、プロイセン軍との最初の衝突が起こると予想されている。
い、い、い、いや、8月2日の最初の衝突は、アルザス国境のウィサンブールじゃなくって、ロレーヌ国境に近いプロイセン領のザールブリュッケンだから。ウィサンブールはその二日後。
皇帝は開戦が決まってからしばらく、国境から遠く離れた後方に待機し、動こうとはしなかった。軍の指揮を行うよりも、外交戦術の方を優先していたのである。
しかしその交渉の目処が立たぬまま、プロイセン軍が侵攻してきたのを聞き、ようやく三日前に重い腰を上げ、大本営入りしたのだった。
い、い、い、いや、いくらナポレオン三世が軍事音痴でも、そこまでの間抜けじゃないから。ザールブリュッケン攻撃は皇帝の命令だし、小競り合いながら勝利してドイツ軍が撤退した直後、皇帝は皇太子を連れて視察と激励に入っているの。
フランス軍の主力砲『四斤山砲』ー長さ九十六㎝の砲身に大きな車輪をつけた、運用の容易な移動砲台。爆発を伴う砲弾を使用し、火力にも優れたその砲が、十五門用意されていた。
兵数もさることながら、装備も極めて充実している。
あーた、フランス軍の前装四斤山砲が、プロシャ軍の後装クルップ砲に負けていた、というのは有名な話でしょうが。
フランス軍に決定的に欠けていたものは、兵力でもなければ装備でもない。
ただ一つ、士気であった。
フランス軍の方が兵数もはるかに少ないし、輸送の不手際から装備もそろわず、食い物さえろくに配給されなかったりする状態だったりしたんだけどねえ。兵士の士気だけは旺盛だったのに、一発も撃たないうちに退却させられたり、右往左往させられたのでは、士気も萎えるでしょうよ。
架空戦記じゃあるまいし、なんでここまで、一般的な記述で嘘を書いてしまえるんでしょうか。嘘といいますかなんといいますか、極めつけはこれです。
当時のプロイセンはオーストリアとの戦いを制し、勢力を急速に拡大していた。
その拡大した勢力地図に、フランス領が隣接していた。プロイセンにとって大国フランスは、自国の躍進を阻む目の上のたんこぶである。
え、え、え、えーと。ラインラントは1815年からプロシャ領で、プロシャは普墺戦争の結果でフランスと国境を接したわけではないんだけどねえ。そして、普墺戦争も普仏戦争も、プロシャはドイツ統一のためにやったわけだし。
この時期のフランスの対外戦争と外交は、プロシャがドイツ統一を志していたことと、サルデーニャがイタリア統一を果たそうとしていたことをぬきにしては、まったくもって語りようもないわけなのですが、普仏戦争をあつかいながら、この小説ではまったくの無視。
戦争がただひたすら、個人的な勇気を披露する場でしかないのならば、実在の戦争の名をおっかぶせなくとも、架空のファンタジーでやってくださればよさそうなものなのですが。
ブログの方は、実際の普仏戦争と正名くんを追って、次回に続きます。
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