郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol3

2012年12月02日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol2の続きです。

 毛利家文庫「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」「坂本龍馬全集 」収録)の著者・馬場文英は、近藤長次郎につきまして、以下のように書いております。

 英案ずるに近藤昶次郎(長次郎)が直柔(龍馬)の依託を諾し、薩長の間に和談の周旋に労を尽し、既に六分の巧を達する事すこぶる大ひなりとす。しかるに今いささかの過失を慚愧し、節操義胆ここに自刃なす事痛ましいかな。予一面識の人ならざれども、その胆勇義魂節に歿する情実を賞誉し、憫然感涙に絶へず。

 私、馬場文英が考えますところ、近藤長次郎が龍馬からの依託を了承し、薩長の和解に尽力して、すでに六分まで事を成し遂げたわけですから、その功績は非常に大きいでしょう。ところが、ごくささいな過失に責任を感じ、節操高く、義に厚く、胆力にすぐれ、自刃したのは、ほんとうに痛ましいことです。私、長次郎さんには一度もお会いしたことがないのですが、その胆力と勇気、義に殉じる節操には、感嘆のあまり涙をこらえることができません。

 馬場文英は長次郎の行動を絶賛していまして、脚色はしていても、決してそれは、悪意あるものではありませんでした。
 明治初期には、土佐人の間でも、この認識は共有されていたものと、思えます。

 明治15年、高知出身で、京都府に奉職しておりました土居通豫が、「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を発行しておりまして、その中に「近藤昶」として、長次郎の伝記が収録されております。
 土居通豫が語ります長次郎は、龍馬とも対等な関係ですし、薩長和解に動いたことも、龍馬からの指示があったとはされていませんで、経歴も正確です。この伝記で書かれました経歴は、以降、そのまま踏襲されることがけっこうありまして、それについては、また書くことがあろうかと思います。
 土居通豫に長次郎に関します情報を提供しましたのは、河田小龍ではなかったか、と、私は思います。
 さて、その「海南義烈伝」が記します長次郎の死の原因です。

 この時に当たって薩長あい善からず。昶(長次郎)すこぶるこれを憂ひ間に居て和解せんことを勉む。その往反の際事図を支牾を生し罪昶か一身に帰す。昶時に博多に在り之を明弁するに由なし。ここにおいて屠腹をもって心を明にす。薩藩の士某、昶の死を止んと欲し走てその旅舎にいたる。いたれば昶すでに死す。某天を仰て嘆いていわく、ああ天この良士を亡すと。よって慟哭するものこれを久しくす。

 長次郎は、薩長の和解を志して活動していたが、その間に薩長の行き違いが生まれて、その罪が、長次郎の一身に背負わされることになってしまった。長次郎はそのとき博多にいて、弁明するすべもなく、切腹して、自分が両藩和解にのみ心をくだいていたことを明かそうとした。ある薩摩藩士が、長次郎が泊まっていた宿に駆けつけて、切腹をとめようとしたが、長次郎はすでに死んでいた。その薩摩藩士は天を仰ぎ、「ああ、こんなにりっぱな志のある男を天は召されてしまった」と、いつまでも嘆いていた。

 なぜ、長次郎の死んだ場所が博多になっているのかがわからないのですが、あるいは、河田小龍から聞いた話が簡略にすぎまして、勝手に死んだ場所を博多にしたり、なんでしょうか。
 人づてに、簡略な小龍の話を聞いていたとしましたら、おそらく中村半次郎(桐野利秋)が小龍に、野村宗七の嘆きを伝えていたんでしょうねえ。
 ともかく、ここでも長次郎の死の原因は、「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいません。

 話が大きく変わってまいりますのが、翌明治16年、土陽新聞(現在の高知新聞)に連載されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒」です。

汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝 (岩波文庫)
坂崎 紫瀾
岩波書店


 以下紫瀾の経歴は、主に上の岩波文庫版「汗血千里の駒」、林原純生氏の解説によります。
 坂崎紫瀾は、嘉永6年(1853)、江戸の土佐藩邸に生まれました。
 藩医の息子だったそうです。
 安政3年(1856)には一家で高知へ帰り、慶応3年(1867)、紫瀾は維新の前年に藩校に入学します。
 維新の年に15歳でして、戊辰戦争に従軍してはいません。

 明治6年(1874)、政変の年に上京しまして、政変で下野しました板垣退助たち、土佐と肥前の重臣が中心となって結成しました自由民権運動の政治結社・愛国公党の創立に参加します。その後、東京と信州松本で新聞ジャーナリズム活動に従い、高知に帰って、明治13年7月に創刊されました第二次高知新聞の編集長となります。
 この新聞は、自由民権運動の機関紙のようなものでして、度重なります政府の弾圧を受けてすぐに発行停止となり、翌14年12月には、身代わり紙として第二次土陽新聞が創刊され、明治16年、「汗血千里駒」が連載されることになります。

 えーと、ですね。
 明治6年政変と「民選議員設立建白書」を提出しました愛国公党につきましては、古い記事ですけれども、「幕末維新の天皇と憲法のはざま」と、「半神ではない、人としての天皇を」を、ご覧下さい。私の考える基本的な方向は、記事を書きました当時と変わっておりません。

 政変で板垣・後藤とともに下野し、愛国公党の主要メンバーとなりました江藤新平は、佐賀の乱に担がれて刑死しております。
 一方、板垣退助は、高知に帰りまして片岡健吉,林有造などと立志社を結成していましたが、明治10年、この立志社の林有造や大江卓などが、元老院議官でした陸奥宗光と連絡をとり、西南戦争に呼応して高知で兵を挙げようとしたことが発覚しまして、入獄しています。

 この時期、坂崎紫瀾は高知にいませんでしたので、挙兵騒動にはまったく関係しておりませんが、西南戦争後の日本におきまして、高知の自由民権運動派は、最大の反政府勢力であり、弾圧もまたすさまじいものがありました。
 紫瀾は政治小説などを執筆するだけでなく、高知の各地で演説をして自由民権を唱えていたのですが、その演説が法に触れたとして、明治14年の暮れには、一年間の演説禁止処分を申し渡されます。

 そんな中で執筆されました「汗血千里駒」は、政治小説ともいえるものでして、幕末の土佐勤王党に、弾圧される土佐自由民権運動が仮託されていた、といえるのではないでしょうか。
 そして、自由民権運動の指導者・板垣退助は、連載がはじまります前年の明治15年、岐阜で暴漢に襲われ刺されました。幸い命に別状はなく、そこまではよかったのですが、年の暮れから後藤象二郎と洋行しまして、指導者としての求心力を失い、運動は分裂します。

 板垣洋行問題の詳細は、田中由貴乃氏の「板垣洋行問題と新聞論争」(佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号)に詳しいのですが、要するに板垣の洋行費用が、運動を弾圧しています政府から出ているのではないか、という疑惑が問題を引き起こしたわけでした。

 紫瀾は、「汗血千里駒」連載中、短期間ながら、集会条例違反と不敬罪で入獄したほどの運動家でした。紫瀾のうちに、板垣洋行問題によりまして、運動指導者の洋行に対します否定的イメージが生まれたのではないか、という憶測は、許されるでしょう。

 さて、「汗血千里駒」なのですが、坂本龍馬が縦横無尽に活躍します伝記小説です。
 しかしでは紫瀾は、まったく取材しないで書いたのか、といえば、さすがはジャーナリスト、そういうことはないんです。
 いや、まあ、住んでいるのが高知ですし、維新からわずか16年、坂本龍馬と同時代を生きた人々の大多数が、まだ生きています。

 実は、ですね。
 私が今回、長次郎に強く関心を抱くようになりましたきっかけ、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)は、「汗血千里駒」のために書かれたのではないか、という推測があります。川田維鶴撰「漂巽紀畧 付・研究・河田小龍とその時代」(高知市民図書館発行)の宇高隨生氏著「解題」(p127)に、以下のようにあります。

 これ(藤陰略話)は明治の中頃手記されたものと思われる節がある。それはその頃板崎紫瀾の「干血千里の駒」が土陽新聞に連載中、同社の記者で小龍とも親交のあった野島嘯月が坂崎の依頼を受けて海援隊の近藤長次郎の経歴を尋ねて来た。その問いに答え手記したものではないかと思われる。

 えーと、ですね。
 「汗血千里駒」の連載は明治16年ですし、宇高隨生氏がその推測の典拠として出されています河田小龍の日記の日付は、明治26年1月24日でして、話がわからなくなるのですが、「藤陰略話」そのものではありませんでも、紫瀾が野島嘯月を通して小龍に近藤長次郎のことを問い合わせ、その回答を「汗血千里駒」の材料に使った可能性は、非常に高いと思います。
 といいますのも、長次郎に関しましては、「藤陰略話」と同じエピソードが書かれておりますし、それどころか、神戸での結婚のことまで書かれていまして、長次郎の妹の亀さんにも話を聞きに行ったのか、と思わないではないのです。

 しかし、ですね。
 いろいろと取材したにしましては、ずいぶんと荒唐無稽に脚色しておりますし、またそして、ここで初めて洋行話と長次郎の人格に関します否定的見解が出てまいります。

 まずユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の話なのですが、船名が、長次郎の死後に高杉晋作がグラバーから購入しました小型貨客船オテント丸(丙寅丸)に変わってしまっています。
 しかし、「龍馬が京都にいるときは、社中の指導者は近藤昶、つまり長次郎であった」、となっていまして、基本的には、ちゃんと長次郎を評価しています。

 長次郎は、薩摩の客分であります社中に船の運用を任せてくれるのであれば、薩摩が長州に名義を貸すのだが、と高杉に持ちかけ、高杉が喜んで承知しましたので、イギリス人より軍艦を買って、これにオテントと名付けます。社中の浪士が乗り込み、下関へ着きましたところが、長州ではすでに乗り組みの藩士を選んでいまして、社中の浪士たちは「堂々たる長藩にして約に背き人を売るは不義不正のはなはだしきなり」と憤激し、「軍艦を渡さず、下関を焼き討ちしてやる」と騒ぎます。
 そこで長州側は奇兵隊をくりだす騒動になるのですが、たまたま龍馬が京都から下関へ来て、高杉は「社中の浪士たちは粗暴にすぎる」と怒り、龍馬は「長州のやり方に誠がない」となじるのですが、たび重なる交渉の結果、長州から社中の浪士へ慰労金を支払うことで、問題は解決しました。

 どうも、「ユニオン号事件は龍馬が解決した」といいます伝説は、「汗血千里駒」に始まったみたいです。

 それはともかく。
 この後龍馬は長崎で社中の浪士をよび集めまして、「われわれ社中は、友を裏切って売るような行為があれば、死をもってあがなうと誓約したわけだが、いま諸君のうちに、そうすべき人物がいる」と、きびしい口調で言いつのります。
 それが長次郎のことでして、長次郎が口を開こうとしますと、「近藤君、この後におよんで議論は無用だよ!」とつめより、長次郎を切腹させます。
 その理由は、以下に引用する通りです。

 かの浪士輩が高杉等と葛藤(もつれ)の折近藤は脆(もろ)くも長藩の誘う所となりて反覆しその報として近藤を洋行せしむるの内情あるによりてなりと。

 つまり、「社中の浪士が長州ともめたとき、長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗って、社中を裏切って長州の側についた」というんですね。

 い、い、いや、あのー、現実には長次郎はむしろ、薩摩の言い分の方を尊重し、長州海軍局と対立し、龍馬の方が長州海軍局の味方について話にわりこんでいるのですが、それはひとまず置いておきまして。
 「汗血千里駒」は()書きで、こういう説もあると、「海南義烈伝」が描きます長次郎の最後も併記しておりまして、かならずしも全部創作したのだとも思えないんですね。
 ユニオン号事件について、坂崎紫瀾は、いったいだれに取材したのでしょうか?

 ここから先はもう、私の憶測にしかならないのですが、「汗血千里駒」は坂本龍馬の伝記小説です。本文の最後に名前が出てきます坂本南海男(直寛)に話を聞かなかったということは、ありえないんじゃないんでしょうか。
 以下、「汗血千里の駒」の最後の部分を引用します。
 
 しかしてその坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前(さき)に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。ちなみに説く。この淳輔の実弟南海男(なみお)は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、つとに立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き、すこぶる叔父龍馬その人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、あるいはこれを路易(ルイス)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。(完)

龍馬の甥 坂本直寛の生涯
土居 晴夫
リーブル出版


坂本龍馬の系譜
土居 晴夫
新人物往来社


 坂本南海男(直寛)は嘉永6年生まれ。坂崎紫瀾と同じ年です。
 母が龍馬の長姉・千鶴、父は高松順藏で、龍馬の甥にあたります。兄は高松太郎。
 明治2年、龍馬の兄・権平の養子となり、坂本家を継ぎます。
 その後、一時、東京に遊学していた時期があるようなのですが、明治7年には高知にいて立志社に加盟。明治9年から立志学舎の英学校に学んでいます。
 自由民権運動の闘士で、各地で演説をし、高知新聞、土陽新聞など、民権派の新聞に論説を寄稿する、坂崎紫瀾の同志でした。

 兄の高松太郎、ですが、龍馬の野辺送りに桐野(中村半次郎)と同道しておりますことは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました。
 戊辰戦争に際しましては、海援隊とは別れ、清水谷総督の一行に加わりまして、箱館に向かいます。それについては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てまいります。
 その後、ですね。箱館戦争になるわけなのですが、政府軍の反攻作戦に参加し、戦後再び箱館府に勤務。しかし明治2年の末になぜか免職となり、高知へ帰ります。
 明治4年、朝廷から、坂本龍馬と中岡慎太郎の家名を建てるように沙汰があり、高松太郎は名を坂本直と改め、叔父・龍馬の後を継ぎ、東京府や宮内省に奉職して、東京住まいでした。

 近藤長次郎の死に立ち会い、野村宗七にそれを告げに来た三人のうち、沢村惣之丞は慶応4年に長崎で自刃していますし、千屋覚兵衛は維新後、アメリカ留学の期間が長く、ユニオン号事件について故郷で実家の家族に語るようなことは、あまりなかったのではないか、と思われるんですね。
 一方、高松太郎は、箱館府を首になってから2年ほどは高知にいたわけですし、また、実弟の南海男が東京へ出ていた期間もあるわけでして、語っていてもおかしくはありません。
 坂崎紫瀾が高松太郎から直接話を聞いたとは、とても思えないのですが、南海男が聞いていた話を又聞きし、想像を膨らませたのではないのでしょうか。

 事実として、龍馬は近藤長次郎の死の現場に居合わせていませんから、長次郎に切腹を迫った者がいたのだとしましたら、それは沢村惣之丞、 高松太郎、千屋寅之助のうちのだれか、ということになりますが、その原因として、洋行話があげられているのは、どうなのでしょうか。
 長州に頼っての洋行が即裏切り、といいますあたり、伊藤博文が出した政府の金で賄われたからよくないと騒がれました板垣洋行問題とあまりにも似ていまして、どこまでが事実で、どこまでが紫瀾の創作なのか、ちょっとわかりかねます。

 ただ、もしかしまして、高松太郎は長次郎にあまり好意を抱いていなかったのではないかと、憶測できるような材料が、もう一つあります。
 次回は、龍馬が手帳に書きつけていたとされます有名なくだり、「術数余りありて至誠足らず、上杉氏の身を亡す所以なり」についての考察から、入りたいと思います。

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