近藤長次郎とライアンの娘 vol3の続きです。
明治15年に発刊されました土居通豫の「海南義烈伝」(近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)は、近藤長次郎の人柄につきまして「人と為り温厚質直下問を恥じず」とあります。つまり、「温厚で素直な人柄で、自分より年下の者にものを問うのを恥じなかった」というんです。
おそらくこれは、河田小龍の語ったことではないか、と私は思うのですが、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を読みまして、長次郎がさまざまな人々からその才を愛でられ、援助してもらっていることを考え合わせますと、温厚で素直、というのは、あたっていたと思うのですね。
にもかかわらず、なぜ長次郎が、まるで才を誇って誠意がなかったかのように言われることが多いのか、といいますと、 坂本竜馬手帳摘要(青空文庫・図書カード:No.52148)に残ります「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という二行の言葉が原因でしょう。現代語訳しますと、「策略ばかりで誠意が足らなかった」「それで上杉氏は身を亡ぼした」とでもいったところです。
実は私、「これ、ほんとうに二行とも龍馬が書いたのだろうか? もしも書いたのだとしても、上杉氏が長次郎だと断言できるの? また一行目の主語を長次郎と決めつけることができるの?」という疑念を持っていまして、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」の「追記」を書きましたとき、中村さまにお電話で、坂本竜馬手帳摘要という史料の性格を説明しがてら、少々はお話しました。
龍馬の手紙 (講談社学術文庫) | |
宮地 佐一郎 | |
講談社 |
青空文庫にはないのですけれども、この講談社学術文庫版「龍馬の手紙 」に収録されております坂本竜馬手帳摘要には、龍馬全集と同じ解説がついております。
実はこの手帳摘要、原本が残っておりませんで、龍馬全集は「坂本龍馬関係文書二」を典拠としております。
で、「坂本龍馬関係文書二」収録の「手帳摘要」、注解は土方直行で、土方直行の以下のような後記があるのだそうです。カタカナをひらがなにし、漢字を開くなど、手を加えますのでご了承ください。
なお、土方直行につきましては、佐川くろがねの会HP佐川の歴史的人物/土方直行に略伝がありますが、坂本龍馬よりも四つ年上の土佐勤王党士で、田中光顕(青山伯)と同じ佐川町の出身です。
「この手帳は小さき普通の横巻にて、坂本直(高松太郎)氏の蔵本なるを借覧せり。しかるに龍馬氏の心覚へに止まる略記、草々の揮毫にて字体も弁じがたきほどのものもこれあり、巻尾と考へ披見すれば逆さまになるところあり。またとり直して巻尾を巻首として見れば読むべきところあり。二冊とも過半は白紙、年支日月あるもあり、また総てなきあり。縦横乱字、真に磊々楽々の性、今なお昔日あい見るの感あり。そのうちにつき引用ともなるべく、また読めるものを写し置く左のごとし」
「この手帳は小さな普通の横巻のもので、坂本直(高松太郎)氏が所蔵しているのを借りて見せてもらった。龍馬が自分の心覚えにしたためたメモなので、字体が崩れすぎて、なんと書いてあるのかわからない部分もあり、ここが巻の終わりかと思えば反対で、巻の終わりを始まりとして読んでみれば、意味の通じるところもある。二冊とも半分以上は白紙で、なにも書いておらず、年月日のある部分もあれば、まったくない部分もある。縦横に字が書き散らされて、豪放な龍馬の性格のなせるわざなのだろう。見ていると、これが書かれた昔の日々が、リアリティをもって迫ってくる。伝記を書くときなど、ここから引用もできるだろうと、読めるものを左のように書き写した」
つまり、ですね。
高松太郎が所蔵していた龍馬のメモ帖を、高松太郎の生前に土方直行が借りて書き写したわけなのですが、なぐりがきのメモ帳ですから、読めない文字も多く、どこから始まってどこで終わるのかもわからないようなもの、だったというんです。
「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」の二行がどういうふうにつながっていたのか、他に文字がなかったのか、原本がなくなっているというのですから、今さら確かめようもありません。
写しでは、慶応2年正月、京都におきまして、いわゆる薩長同盟の会談があり、その後寺田屋で龍馬が襲われ、2月に近藤長次郎の死を陸奥宗光が知らせて来たころの日付はあるんですけれども、長次郎の死どころか、自分が襲われましたことも書いていません。
6月まで記事がありましてその後、年月がなく日にちだけの記事があります。
龍馬「伝説」の誕生 (新人物文庫) | |
菊地 明 | |
新人物往来社 |
菊池明氏の『龍馬「伝説」の誕生』によりますと、従来、この日付を10月のものと見なして、大極丸購入に関するもの、という見解があるのだそうです。しかし菊池氏は、慶応2年3月のものとされているんですね。(p260)
根拠の一つは、近藤長次郎とライアンの娘 vol2でもご紹介しました長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム の【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 に載っております、「慶応二丙寅年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達書」です。
これによれば、薩摩藩の長崎屋敷から長崎奉行所へ、ワイルウェフ号の購入願いが出された日付が慶応2年3月26日ですから、手帳摘要で「28日 船受取」とのみ書かれていますのを慶応2年3月28日とすれば、話がぴったり、なのです。
ただ菊池明氏は、「薩摩藩海軍関係史料」の慶応元年12月22日(西暦1866年2月6日)付け、新納刑部と五代友厚連名で、「コントテ白山伯」に出しました契約書だか書簡だかの中に「アメリカの南北戦争中、南軍がイギリスの造船所に注文して、イギリスが輸出を止めた軍艦ワイルウエルンを買いたいので、調べてみてほしい」とありますのを、ワイルウェフ号のことだとしていまして、それがために私は、この本のp257にしおりをはさんでいたのですが、もちろん、それはちがいます。
これが書かれました状況ですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」に書いておりますが、新納と五代はパリにいまして、慶応元年12月26日、つまり4日後に帰国の途についたわけです。
「コントテ白山伯」とは、もちろんシャルル・ド・モンブラン伯爵です。
そして、社中のワイルウェフ号は運送用の老朽帆船ですし、新納&五代が欧州で目をつけていましたワイルウエルンは、南軍がイギリスに発注しておりました最新の軍艦なのですから、まったく別の話です。
それにいたしましても。
「手帳摘要」の日付のみの記事がワイルウェフ号の購入記録ではないか、と菊池明氏のおっしゃることはもっともでして、だとすれば、これ以前にすでに慶応2年3月の日付はあり、そのころ龍馬は鹿児島にいて、お龍さんと霧島で温泉巡りをしていたことが書かれています。
といいますことは、実際にプロイセン商人に面会して、ワイルウェフ号の購入交渉をしましたのは龍馬ではなく、直前に「周旋多賀(高松太郎)なり」とあるのですから、高松太郎だった、ということになり、6月までの龍馬の記録の後に、再び3月のワイルウェフ号購入記録を書き付けましたのは龍馬ではなく、高松太郎ではないか、ということになりはしないでしょうか?
「手帳摘要」の年月日のあります記事は慶応2年で終わり、その後にイロハ丸の名前が出まして、次は風薬について。
そして「倒にして巻首より左のごとし。二冊とも参考に用なき一時の心覚様の者多し。ここにその一類を写して望蜀の念なからしむ」、つまり「逆さにして巻の始めからは左のように書いてあった。二冊とも、後々の参考にするというようなものではなく、一時の心覚えのようで、ここにその一部を写して、これ以上は解読をあきらめる」と、土方直行の注釈があって、漢籍「貞観政要」からの記事、次に日本書紀から水時計を作った記事、そしてまた漢籍からかと思える記事がありまして、次の2行が、「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」なんです。
先に見ましたように、この手帳二冊、すべて龍馬が書いたとは限らないわけでして、例えばワイルウェフ号の購入など、自分が経験したことについて、高松太郎が補って書き込んでいた可能性だって、ありえるのではないんでしょうか。
別に悪気があったわけではなく、明治2年に高知へ帰りましてから、「龍馬の家を継ぐように」と新政府に呼び出されますまでの2年近く、高松太郎はいわば逼塞していたわけでして、叔父・龍馬が生きていたころの活動的な日々がなつかしく、形見の手帳の殴り書きをながめるうちに、「このころ社中はこうしていて、これはこうだった」と書き加えたとしても、おかしくはないでしょう。ちゃんと清書した日記ではなく、殴り書きのメモ帳なんですから。
そして、あるいは高松太郎が書き加えたわけではなく、龍馬が書いたものだったにしましても、「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という2行目、この「上杉氏」を上杉宗次郎であり、長次郎のことだと解釈するのが通常みたいなのですが、千頭の奥様が、「龍馬が昶次郎(長次郎)のことを上杉氏と呼ぶでしょうか?」とおっしゃっておられまして、私も同感です。
確かにユニオン号事件当時、長次郎は上杉宗次郎と名乗ってはいたのですが、龍馬とは幼なじみといってもいい知り合いです。
慶応元年9月9日付けの乙女姉さん宛龍馬の手紙(青空文庫)では、「水道通横町の長次郎」と親しく書いておりますのに、だれに見せるわけでもないメモ帳に「上杉氏」は、なんとも奇妙じゃないでしょうか。
さらに、「術数有余而至誠不足」の主語が「長次郎」だという確証が、いったいどこにあるのでしょうか?
まず一つ考えられますことは、これ以前の7行ほどが、どうも全部故事のようなのですから、これも例えば、関ヶ原の上杉氏のことを書きつけたと見ることもできるのではないでしょうか。
また、例え2行目の「上杉氏」が長次郎のことだったにしましても、「術数有余而至誠不足」の主語は、井上聞多(馨)か伊藤博文か、と考えることもできますし、それで長次郎が身を亡ぼした、という話ならば、よくわかります。
ユニオン号事件の詳細は、また後日、まとめて探求したいと思いますが、私にはどこからどう見ましても、長次郎に「術数」があったとは思えません。むしろ、愚直にすぎたような気がするんですね。
続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で、私、「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」の解釈につきまして、ちょっと考えてみたのですけれども、どうも、ですね。龍馬の書いたものって、あらぬ思い入れで解釈されることが、多すぎるように感じます。
海援隊隊士列伝 | |
土居 晴夫 | |
新人物往来社 |
ところで、土方直行が、坂本竜馬手帳摘要を書き写したのは、いったいいつのことなのでしょうか。
上の「海援隊隊士列伝」に、土居晴夫氏著の高松太郎(坂本直)伝がありますが、これによりますと、高松太郎は明治22年に宮内省を免官となり、高知へ帰って、 明治31年(1898)11月7日、57歳で死亡しました。戸籍簿によれば、弟の坂本直寛(南海男)と同居していたそうでして、縁につながられる土居氏は、「不遇だったが、直寛とともに高知教会の熱心な信者であった」と述べておられます。
手帳摘要が書き写されましたのは、高松太郎の生前ですから、 明治31年以前、おそらくは明治20年代だったのではないでしょうか。
ここでちょっと、これまでの整理をしますと、明治15年、土居通豫の「海南義烈伝」におきまして、長次郎の死は「薩長の和解を志みる過程で行き違いが生じ、責任を感じた自発的なもの」とされいます。
ところが翌明治16年、高知の土陽新聞で坂崎紫瀾の「汗血千里駒」が連載され、「洋行させてくれるという長州の誘いに乗って社中を裏切ったため、龍馬によって切腹させられた」という説が唱えられます。
「汗血千里駒」は、明治16年のうちに大阪の摂陽堂から出版され、2年後には東京の春陽堂版が出て、どうもその後も版を重ねたようです。
小説ですから読みやすく、あるいは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」が現代の龍馬像の基本を形作りましたように、「汗血千里駒」は明治の龍馬像を形作り、しかもそれが司馬氏の「竜馬がゆく」の原型であるわけです。
しかし、小説は小説ですから、近藤長次郎の伝記としましては、「海南義烈伝」の方が信用が高かったようでして、明治24年に大阪で刊行されました「日本勤王篇 : 王政維新」(近代デジタルライブラリー「日本勤王篇 : 王政維新」)の「近藤昶事績」は、ほとんどが「海南義烈伝」と同じ文章です。ただ、最後にとってつけたように「事みな龍馬の処置に出ず。しかして龍馬また大義のやむをえざるによりたるものなり」と書いていまして、自刃の理由は「薩長の行き違いに責任を感じた」ながら、自発的といいますより、龍馬が命じたような書き方です。これはあきらかに、「汗血千里駒」の影響でしょう。
明治24年前後には、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」(「坂本龍馬全集 」収録)もすでに書かれているはずなのですが、これは毛利家文庫に所蔵されていたものでして、果たしてどのくらい、世間に知られていたのでしょうか。
そしてこれは、長次郎の死の原因に関しまして、「汗血千里駒」の影響は、まったく受けておりません。
近藤長次郎が、ユニオン号にかかわっています時期、洋行の志を持っておりましたことは事実でして、伊藤博文の書簡や、高杉晋作の漢詩で確かめられるのですけれども、その洋行が、長次郎の死にかかわっていた、といいますことは、「汗血千里駒」で初めて出てまいりまして、これがもし、坂崎紫瀾の創作ではないのならば、高松太郎から出た話だろう、という推測は、前回述べました。
さて、明治40年に「井上伯伝」が出版されますまでに、もう一つ、注目したい伝記があります。
国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書「近藤長次郎伝」なのですが、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記なのです。
次回は、そのお話からはじめたいと思います。
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