幕末残照・周防紀行の続きです。
古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行の続きでもあります。
前回にひき続き、MAP防長紀行をご参照ください。
上の写真は、防府天満宮の石段ですが、「幸せます」と花文字で書かれています。
「幸せます」は、山口県の方言で、「幸いだ、ありがたい」といった意味で、防府市ではこの言葉が町起こしのキーワードに使われています。
で、防府日報×FMわっしょい×防府盛り上げ隊がいっしょになりまして、毎週火曜日、FM防府×ユーストリームで、HOFU747STYLEという情報番組の生放送をしております。4月13日に放送されました17回に、山本栄一郎氏が出演し、幕末維新と防府について、語られました。
YouTubeに録画が上がっていて、長いのですが、概要にタイムスケジュールが載っておりますので、ご参照のほどを。
【HOFU747STYLE 17】山本栄一郎(山口歴史研究会 会長) さん 2013/04/30.mpg
この日の長州紀行に関係します、山本栄一郎氏の大発見の話は、最後の方に出てまいります。
山本氏のご専門は、大村益次郎。
大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。
益次郎はが明治2年11月に暗殺され、残されました妻は、益次郎のもとに来ていました大量の手紙が、それほど重要なものとは思わなかったようなのですね。一部を残しまして、大方、ふすまの下貼りに使ってしまいます。
この旧宅が、やがて地元鋳銭司の潮満寺に移築され、昭和10年ころ、ふすまの下貼りに書簡が使われていることが発見されます。
しかし、調査されないままに時が過ぎ、昭和29年になって、地元の内田伸氏が整理保存、解読にとりかかられます。内田氏は数冊の研究書を残され、現在90を過ぎてご健在だそうですが、この方が、山本氏のお師匠さまなのです。
で、山本氏の大発見なのですが、すでに内田氏が解読されている書簡で、署名部分がなく、だれからのものかわかっていないものの一つが、「もしかして、高杉晋作のものではないか?」という話です。
これまで、高杉が大村益次郎に書いた手紙は一通しか知られていませんで、功山寺挙兵の後、慶応元年になって、「桂 (木戸孝允)がどこにいるか知らないか?」と、問い合わせたものです。これ、実は追伸部分でして、内容からいきまして、この手紙の本文部分ではないのか、と考えられるんだそうなんです。
そんなお話をうかがいつつ、まずは、大村益次郎を祀っています大村神社と、隣接する山口市歴史民俗資料館別館 鋳銭司郷土館です。
ふすまの下貼りでした手紙は、ここ鋳銭司にはありませんで、本館の山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館所蔵です。もちろん、高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙も、です。
ここで、昔、内村氏が編集されました小冊子「大村益次郎 写真集」を買い求めましたところが、桂の居場所をたずねた高杉の手紙の写真が載っていまして、山本氏に見せていただいた「かもしれない‥‥手紙」の写真とくらべましたところ、私には、筆跡は似ているのではないだろうか、と思えました。
吉田の東行庵です。
こちらは再訪でしたが、前回とは様変わりです。私が幕末から離れていた間に、一坂太郎氏がいなくなり、記念館の展示物のうち重要なものは、一坂氏とともに萩へお引っ越ししたみたいなんですね。
上左の高杉のお墓の灯籠は、木戸孝允、井上馨、伊藤博文が寄進したものでして、上右の写真がその名前のアップです。大江孝允、源馨、越智博文と正式の名乗りで、伊藤が越智を名乗っていたのは知っていましたが、木戸が大江で、聞多が源だって、初めて知りましたわ。高杉は、源春風でしたよね。
下は、有名な辞世の歌の碑です。
高杉晋作 「面白きこともなき世に面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」
あら、「なき世を」じゃなくって、「なき世に」と読んでいるんですね。
これ、前回来たときにはなかったような気がするのですが。
野村望東尼につきましては、上の谷川佳枝子氏の伝記が、非常に綿密かつ読みやすく、お勧めです。山本氏のご推薦で、読んでみた本なのですが。
続きましては、高杉が挙兵しました功山寺です。上右の銅像なんですが、安倍首相の母方の祖父、岸信介の献辞が刻まれておりました。伊藤公記念館には、安倍首相の献辞がありましたし、さすが山口県ですね。わが愛媛県は、明治以来、ただの一人も首相を出しておりません。
下の写真は、七卿がいたといわれます部屋の窓から庭を眺めてみました。
功山寺に隣接して、下関市立長府博物館があります。図録や史料など、独自の出版物が多く、たっぷりと買い込みました。
長府毛利邸です。
広瀬常と森有礼 美女ありき10、いろは丸と大洲と龍馬 上などに書いておりますが、幕末、長府毛利氏には、伊予大洲藩から藩主の姉が嫁いでいまして、大洲藩がいろは丸を買いましたのもその縁といえなくもありません。
長府の武家屋敷。
以前に来たときには見る暇がなかったのですが、今回はゆっくりと散策。
美しい街です。
次いでまた、山本氏にお願いしまして、前回行けなかった赤間神宮へ、連れて行っていただきました。
高杉晋作と奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎は、その晩年、赤間神宮の宮司となりました。
上左、灯籠の写真に名前があります。
行きましたのが4月28日で、5月2日から3日間、壇ノ浦に沈みました安徳天皇と平家一門をしのびます先帝祭が行われますため、緋毛氈の通路ができておりました。
下は、平家一門の墓です。
えーと、ですね。
安徳天皇とともに、三種の神器は壇ノ浦に沈みました。
平安時代、帝のそばにはかならず三種の神器があるべきものでして、平家一門にとりましては、正統の天子であります安徳天皇は、海の底の竜宮城にまで三種の神器を持っていくべき、だったんですね。
源氏の必死の探索で、八咫鏡(やたのかがみ)の形代(本体は伊勢神宮)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収することができましたが、武力を象徴します天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(本体は熱田神宮)は海底に沈んで回収されませんでした。
源頼朝の母親が、神剣を司ります熱田神宮宮司の娘であったこともありまして、日本の歴史の中でこの宝剣の喪失は、朝廷から武家に国の武力の統率権が移り、政権が移ったことを象徴するとも、受け取られてきました。
明治、天子さまが国の武力の統率権を取り返し、源氏を名乗ります徳川家の武家政権が倒れたわけなんですけれども、長州にとりましてのその維新回天は、下関におきます攘夷戦によってこそ、本格的に始まったわけなのです。
海防僧・月性が予見しましたように、幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ(幕末の武士は役人でしかありませんし、薩摩を除けば日本全国どの藩でも、兵卒の数が少なすぎてお話になりませんでした)、日本は西洋列強の武力には対抗できない!ということが、ここで身にしみたんですね。
一応、ですが、身分にかかわらない国防軍、奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎が、その晩年、赤間神宮の宮司をつとめた、といいますことは、私にとりまして、非常に感慨深いことなんです。
今回、またしても山口と萩に行けなかったのですが、山本氏のおかげで、楽しく、有意義な旅となりました。
それで最後に、山本氏の大発見!高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙なのですが、内容はともかく、筆跡がどうも高杉のものではないのではないか、という話が、出ているようです。
では誰の手紙か、といいますと、伊藤博文ではなかろうか、ということらしいんです。
そういえば伊藤の筆跡にも似ているような気がしまして……、私にはさっぱりわかりませんが、高杉の可能性がゼロになったわけでもなさそうでして、続報を待ちたいと思います。
次回はまた、近藤長次郎に帰ります。
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古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行の続きでもあります。
前回にひき続き、MAP防長紀行をご参照ください。
上の写真は、防府天満宮の石段ですが、「幸せます」と花文字で書かれています。
「幸せます」は、山口県の方言で、「幸いだ、ありがたい」といった意味で、防府市ではこの言葉が町起こしのキーワードに使われています。
で、防府日報×FMわっしょい×防府盛り上げ隊がいっしょになりまして、毎週火曜日、FM防府×ユーストリームで、HOFU747STYLEという情報番組の生放送をしております。4月13日に放送されました17回に、山本栄一郎氏が出演し、幕末維新と防府について、語られました。
YouTubeに録画が上がっていて、長いのですが、概要にタイムスケジュールが載っておりますので、ご参照のほどを。
【HOFU747STYLE 17】山本栄一郎(山口歴史研究会 会長) さん 2013/04/30.mpg
この日の長州紀行に関係します、山本栄一郎氏の大発見の話は、最後の方に出てまいります。
山本氏のご専門は、大村益次郎。
大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。
益次郎はが明治2年11月に暗殺され、残されました妻は、益次郎のもとに来ていました大量の手紙が、それほど重要なものとは思わなかったようなのですね。一部を残しまして、大方、ふすまの下貼りに使ってしまいます。
この旧宅が、やがて地元鋳銭司の潮満寺に移築され、昭和10年ころ、ふすまの下貼りに書簡が使われていることが発見されます。
しかし、調査されないままに時が過ぎ、昭和29年になって、地元の内田伸氏が整理保存、解読にとりかかられます。内田氏は数冊の研究書を残され、現在90を過ぎてご健在だそうですが、この方が、山本氏のお師匠さまなのです。
で、山本氏の大発見なのですが、すでに内田氏が解読されている書簡で、署名部分がなく、だれからのものかわかっていないものの一つが、「もしかして、高杉晋作のものではないか?」という話です。
これまで、高杉が大村益次郎に書いた手紙は一通しか知られていませんで、功山寺挙兵の後、慶応元年になって、「桂 (木戸孝允)がどこにいるか知らないか?」と、問い合わせたものです。これ、実は追伸部分でして、内容からいきまして、この手紙の本文部分ではないのか、と考えられるんだそうなんです。
そんなお話をうかがいつつ、まずは、大村益次郎を祀っています大村神社と、隣接する山口市歴史民俗資料館別館 鋳銭司郷土館です。
ふすまの下貼りでした手紙は、ここ鋳銭司にはありませんで、本館の山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館所蔵です。もちろん、高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙も、です。
ここで、昔、内村氏が編集されました小冊子「大村益次郎 写真集」を買い求めましたところが、桂の居場所をたずねた高杉の手紙の写真が載っていまして、山本氏に見せていただいた「かもしれない‥‥手紙」の写真とくらべましたところ、私には、筆跡は似ているのではないだろうか、と思えました。
吉田の東行庵です。
こちらは再訪でしたが、前回とは様変わりです。私が幕末から離れていた間に、一坂太郎氏がいなくなり、記念館の展示物のうち重要なものは、一坂氏とともに萩へお引っ越ししたみたいなんですね。
上左の高杉のお墓の灯籠は、木戸孝允、井上馨、伊藤博文が寄進したものでして、上右の写真がその名前のアップです。大江孝允、源馨、越智博文と正式の名乗りで、伊藤が越智を名乗っていたのは知っていましたが、木戸が大江で、聞多が源だって、初めて知りましたわ。高杉は、源春風でしたよね。
下は、有名な辞世の歌の碑です。
高杉晋作 「面白きこともなき世に面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」
あら、「なき世を」じゃなくって、「なき世に」と読んでいるんですね。
これ、前回来たときにはなかったような気がするのですが。
野村望東尼―ひとすじの道をまもらば | |
谷川 佳枝子 | |
花乱社 |
野村望東尼につきましては、上の谷川佳枝子氏の伝記が、非常に綿密かつ読みやすく、お勧めです。山本氏のご推薦で、読んでみた本なのですが。
続きましては、高杉が挙兵しました功山寺です。上右の銅像なんですが、安倍首相の母方の祖父、岸信介の献辞が刻まれておりました。伊藤公記念館には、安倍首相の献辞がありましたし、さすが山口県ですね。わが愛媛県は、明治以来、ただの一人も首相を出しておりません。
下の写真は、七卿がいたといわれます部屋の窓から庭を眺めてみました。
功山寺に隣接して、下関市立長府博物館があります。図録や史料など、独自の出版物が多く、たっぷりと買い込みました。
長府毛利邸です。
広瀬常と森有礼 美女ありき10、いろは丸と大洲と龍馬 上などに書いておりますが、幕末、長府毛利氏には、伊予大洲藩から藩主の姉が嫁いでいまして、大洲藩がいろは丸を買いましたのもその縁といえなくもありません。
長府の武家屋敷。
以前に来たときには見る暇がなかったのですが、今回はゆっくりと散策。
美しい街です。
次いでまた、山本氏にお願いしまして、前回行けなかった赤間神宮へ、連れて行っていただきました。
高杉晋作と奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎は、その晩年、赤間神宮の宮司となりました。
上左、灯籠の写真に名前があります。
行きましたのが4月28日で、5月2日から3日間、壇ノ浦に沈みました安徳天皇と平家一門をしのびます先帝祭が行われますため、緋毛氈の通路ができておりました。
下は、平家一門の墓です。
えーと、ですね。
安徳天皇とともに、三種の神器は壇ノ浦に沈みました。
平安時代、帝のそばにはかならず三種の神器があるべきものでして、平家一門にとりましては、正統の天子であります安徳天皇は、海の底の竜宮城にまで三種の神器を持っていくべき、だったんですね。
源氏の必死の探索で、八咫鏡(やたのかがみ)の形代(本体は伊勢神宮)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収することができましたが、武力を象徴します天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(本体は熱田神宮)は海底に沈んで回収されませんでした。
源頼朝の母親が、神剣を司ります熱田神宮宮司の娘であったこともありまして、日本の歴史の中でこの宝剣の喪失は、朝廷から武家に国の武力の統率権が移り、政権が移ったことを象徴するとも、受け取られてきました。
明治、天子さまが国の武力の統率権を取り返し、源氏を名乗ります徳川家の武家政権が倒れたわけなんですけれども、長州にとりましてのその維新回天は、下関におきます攘夷戦によってこそ、本格的に始まったわけなのです。
海防僧・月性が予見しましたように、幕府を滅ぼし、天子の元に中央集権化し、身分にかかわらず国防にたずさわるようにならなければ(幕末の武士は役人でしかありませんし、薩摩を除けば日本全国どの藩でも、兵卒の数が少なすぎてお話になりませんでした)、日本は西洋列強の武力には対抗できない!ということが、ここで身にしみたんですね。
一応、ですが、身分にかかわらない国防軍、奇兵隊のスポンサーでした白石正一郎が、その晩年、赤間神宮の宮司をつとめた、といいますことは、私にとりまして、非常に感慨深いことなんです。
今回、またしても山口と萩に行けなかったのですが、山本氏のおかげで、楽しく、有意義な旅となりました。
それで最後に、山本氏の大発見!高杉晋作が書いた、かもしれない‥‥手紙なのですが、内容はともかく、筆跡がどうも高杉のものではないのではないか、という話が、出ているようです。
では誰の手紙か、といいますと、伊藤博文ではなかろうか、ということらしいんです。
そういえば伊藤の筆跡にも似ているような気がしまして……、私にはさっぱりわかりませんが、高杉の可能性がゼロになったわけでもなさそうでして、続報を待ちたいと思います。
次回はまた、近藤長次郎に帰ります。
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