郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol10

2013年05月08日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol9の続きです。

 えーと、実は、ですね。
 ずいぶん以前、これの前半を書きましたところで、突然で失礼だろうか、と思わないではなかったのですが、町田明広氏にツイッターで質問させていただきました。
 ご著書『攘夷の幕末史』で、近藤長次郎の薩摩藩への上書(建白書)について書いておられることに、納得がいきませんで、一応、ご本人に疑問をぶつけてみよう、ということでした。

攘夷の幕末史 (講談社現代新書)
町田 明広
講談社


 突然のあつかましい質問に、お答えをいただき、私の言い分を認めていただいたような感触もありましたため、この書きかけの文章をどうしようかと迷っておりました。

 ただ、ですね。近藤長次郎本出版計画と龍馬 vol2でご紹介いたしました知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾』でも、『攘夷の幕末史』で町田氏が近藤長次郎上書について書かれておりますことを高く評価されていて、私の『攘夷の幕末史』の近藤長次郎上書の扱いに関します批判は、かならずしも質問させていただいたことだけではなかったものですから、ちょっと私の頭の中を整理したいと思い、書かせていただくことにしました。

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾
知野 文哉
人文書院


 千頭さまご夫妻は、私にご連絡をくださる以前に、町田明広氏の「攘夷の幕末史」を読まれ、初めて上杉宗次郎(近藤長次郎)上書の存在を知られ、感激しておられました。
 ただ、上書を収録しております玉里島津家史料が刊行物になっていることをご存知なく、「高知の県立図書館にもあるはずです。鹿児島県が全県の中央図書館に寄付してくれているみたいですから」と私が申し上げましたら、さっそくコピーをとりに行かれたんだそうです。
 それはともかく、最初に読まれた町田明広氏の著作において、上書(建白書)が慶応元年12月23日のもの、とされていましたことから、そう信じておられました。

 私は去年の2月、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4におきまして、長次郎のこの上書を絶賛しております。

 実はこの上書には、年号がありません。12月23日の日にちのみです。
 上書の内容から判断して、玉里島津家史料の編者が、元治元年のものとし、しかし一応、疑問符をつけております。
 定本坂本龍馬伝―青い航跡で、松岡司氏は、そのまま元治元年のものとして扱っておられますし、一読しまして私も、それでまちがいないと思ってまいりました。
 これが慶応元年のものだとしますと、留学に関します長次郎の提言が、情勢に会わない、的外れで、おかしなことを言っていることになってしまうんですね。

 それで、この本『攘夷の幕末史』を買って読んでみたのですが、町田明広氏は、元治元年のものとして収録されている上書を、慶応元年のものと断じられましたについて、はっきりとした根拠を示しておられません。
 ただ町田氏は、長次郎がユニオン号の件で長州藩主父子の信頼を得たので久光の信頼も得て上書を書いた、というように推測なさっていますので、あるいはそれが根拠なのかなあ、と憶測しておりましたところ、ツイッターでお答えいただいたところでは、やはりそうでした。

 しかし長次郎は、元治元年までに、私が知りますだけで確実に2回、越前の松平春嶽公に目通りしていまして、前藩主でさえない久光公にくらべましたら、あきらかに春嶽公の方が格上ですし、しかも上書(建白書)を出すだけのことなのですから、理由になりえないと私は思います。

 この『攘夷の幕末史』、一般読者向けの新書ですから、説明不足は仕方がない、といえばそうなのかもしれませんが、駆け足は駆け足なりに、もう少し全体に、納得のいく筋道がたてられなかったものなのでしょうか。攘夷という言葉の定義がはっきりしませんで、腑に落ちない記述が多くなってしまっているように思うんです。

 例えば、なんのまえぶれもなく、突然、竹島は朝鮮領!!!と叫ばれますのも、ちょっと異様な感じを受けまして、町田氏が問題になさっておられます竹島とは鬱陵島のことのようですので、当時、日朝両国がはっきり国境線を定めていたわけではないことを横へ置いてしまいますと、そう言う言い方もできなくはないのでしょうけれども、きっちり説明していただきませんと、馬鹿な私なぞは一瞬お口ポカーン、いったい、なにが侵略なの???と、首をかしげるばかりです。

 幕末維新当時の極東情勢につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1あたりに書いておりますが、西洋ルールの押しつけが侵略なのなら、結果的に西洋ルールを丸呑みしました日本は侵略者の側に立った、といえなくもないのでしょうけれども、侵略、侵略と叫ぶことにいったいどういう意味がこめられているのか、理解できません。なにが侵略なのか、その定義もはっきりしませんし。

 「海援隊の目的は世界征服」 という小見出しにいたりましては、龍馬はフリーメーソンの手先だった!!!という陰謀論を楽しむと同じくらいのセンス、と感じます。
 町田氏がおっしゃいますように、確かに海援隊は、貿易商社ではなく、政治結社です。
 しかし、ごく普通に考えまして、西洋近代が生みました遠洋海軍は、貿易と一体でして、文化露寇は毛皮交易の販路開拓を任務としていましたロシア海軍が起こしたものですし、西洋列強が極東に武装艦隊を派遣しておりましたのも、自国の交易の利益を守るためです。
 そして、そのためにはまず、石炭補給基地、食糧補給基地が必要でして、植民地を求めることにもなります。

 つまり、ですね。海外交易を盛んにするためには、日本人の手による海運事業が必要ですし、それを実現するためにも、中央集権国家の海軍が必要で、その海軍を打ち立てるため、幕末日本は政治変革を必要としていたんです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に、私は、以下のように書いております。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。

 この後三菱商会は、西南戦争の軍事輸送を任せられ、大きく飛躍し、海軍との強い協力関係のもと、日本の海運と造船、そして貿易を担う商社へと発展していきます。

 私は、大久保利通は大っ嫌い!ですが、旧友が賊として死のうが生まれ故郷がむちゃくちゃに荒れようが、なにもかもを、日本が西欧列強と肩を並べて戦争ができる国にするためにこそ役立てた、その私心のない冷徹さには、感服せずにはおれません。
 ともかく。
 征台と西南戦争がなければ、日本海軍も海運も、日本が主体になっての海外貿易も、育ちようがなかったでしょう。

 つまり、西洋近代の海軍を日本に作ろうとすれば、必然的に、町田氏がおっしゃいますところの侵略!になるわけでして、これは近代西洋ルールの受け入れなんですね。それを東アジア的華夷思想!とかおっしゃるんですが、要するに昔、左巻き学者さんが侵略的小中華帝国思想!とかおっしゃっていたのを、あまり古くささがただよわないよう、言いかえただけじゃないんでしょうか、ふう。

 こういう文脈から、町田氏は、長次郎の上書も侵略的小中華帝国思想!の現れで、しかもこれを龍馬の思想を語るものとされていまして、これでは長次郎がまるで龍馬の影です。
 私は「長次郎は別に思想を述べたわけではなく、幕府海軍の最新の情報を薩摩に伝え、海軍振興のための現実的な方策を述べた上書」だと見ていまして、町田市の見解はとうてい納得がいきません。
 
 それはともかく町田氏は、長州の狂犬攘夷の経緯は、それなりにわかりやすくまとめておられますし、あまり話題にのぼることがありません朝陽丸事件について、詳しく書いておられるのは、おもしろく読ませていただきました。
 しかしなんで、朝陽丸事件に石川小五郎が出てこないんですかね。幕府使節団暗殺の主犯は、れっきとした長州藩士の石川小五郎だったといわれていますよね。
 証拠がないから、なんでしょうか。ないにしましても、これまでの通説には触れてくれた方が親切ですし、事件の経緯が、非常にわかり辛い記述になってしまっていて、せっかくよく調べられておりますのに、もったいないと思います。

 えーと。町田先生。
 ご親切にツイッターでお答えいただいたにもかかわらず、書きたいことを書いてしまいましたが、幕末ファンのただの素人の放言ですので、どうぞお許しください。この批判を見て、これはぜひ読んで見よう!と思われる方も、きっといらっしゃいますし(笑)

 wiki朝陽丸wiki甲賀源吾の大部分は、私が書きました。朝陽丸事件の時の艦長は、宮古湾海戦で回天丸艦長として戦死した甲賀源吾なんです。
 で、「甲賀源吾伝」に収録されました家族宛の書簡に、事件のことが書かれていたのですが、他にあまり参考資料が無く、著述に苦しんだ覚えがあります。防長回天史でも見てみれば、よかったんですかしらん。
 
 で、長州の狂犬攘夷です。
 いくら攘夷令が出されたからといいましても、外国船(清国船はのぞく)が通りかかったら全部砲撃っ!!!って、ただのキチガイです。
 なんでそんなことになったのでしょうか。

 勅許(朝廷からの許し)がないから通商条約破棄、というのはわかるのですが、和親条約は孝明天皇も許容なさったのですし、ともかくなにがなんでも外国船は襲うんだっ!!!なんて、テロリストとしか言いようがないおかしな事態になぜなったのか、町田氏が分析してくださってないのが残念ですけれども、結局、いくら三条実美を中心とします過激派公卿が攘夷の勅令を発しましても、実行しましたのはほぼ長州だけ、でして、例えば木戸や高杉や久坂などが、なにを考えていたのかといいますと、やはりよく言われますように、幕府を追い詰める方策がエスカレートし、松蔭流に「体制をひっくり返すんだっ! 狂わずにやれるかっ!」と突っ走った、ということではないんでしょうか。

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)
高木 不二
吉川弘文館


 こちらは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵でご紹介しました「日本近世社会と明治維新」の著者、高木不二氏が書かれたものです。
 高木氏は幕末越前がご専門のようでして、前回(近藤長次郎とライアンの娘 vol9)書きました文久3年の越前の動きを、非常にわかりやすくまとめてくださっています。

 で、越前藩と長次郎の関係を追おうとしていたのですが、長く放りすぎまして、なにを書こうとしていたのか、忘れてしまいまして。

 出版計画が、まあ、少しばかり具体化してきたこともありまして、とりあえず、このシリーズは終わりにしまして、近藤長次郎本出版計画と龍馬 シリーズを、書き継いでいこうかと思っております。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

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