唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』の続きです。
花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | |
クリエーター情報なし | |
NHK出版 |
今回から、できれば毎週、ドラマと史実との関係を、ごく簡単にですが、追ってみることにします。
久坂が逝き、大奥編とやらに突入しました後は、やる気がなくなるよーな気もするのですが。
その前に一つだけ、前回書き漏らしたことを。まあ、品がなくて、漫画みたいなだけの話ですので、省いたのですが。
文さんと久坂の結婚式で、高杉が下品に文さんの容貌の話をする場面がありました。中村さまは「普通に礼儀としてありえないことです」とおっしゃっておられたのですが、婿の友だちが下品な芸をするような、そんな珍妙な披露宴、いくら下級とはいえ、幕末の武士がするわけないだろうがっ!!! 糞馬鹿!!!です。
よくは覚えてないのですが、その点「八重の桜」の八重の最初の結婚式はまともで、川崎尚之助が他藩人で会津に家がなく、結婚後も八重の家に同居なので、家老か誰かがどこかの場所を貸してくれて、そこから八重が嫁ぐ形だったかに、なっていたと思うんですね。
当時の結婚式は、花嫁が花婿に先導されて、花婿の家まで、正式には駕籠で向かいます。花嫁の親族がそれに付き添うのですが、花婿の家での結婚式は夜ですので、提灯行列になるわけです。
出席するのは、もちろん、親族だけです。
久坂も川崎尚之助と同じく、実家がない状態で、結婚後は杉家に同居したと思われているのですが、私は、杉家の山屋敷(松陰が生まれた時代の家で、滝さんの持参金です。後々まで、松陰が勉強部屋として使っていた、というような伝えもあります)に新婚時代の二人は住み、今の松陰神社の杉家から、山屋敷まで嫁入り行列が行き、山屋敷で結婚式が行われたのではないかと、憶測しています。
なお、すでにこの時期、花嫁が白無垢を着るのは古い習慣になっていまして、明治になってからと同じように、黒地の裾模様の振り袖が、普通の武家の一般的な花嫁衣装だったそうです。水戸藩なぞは絹物禁止で、しかし下着は絹でもよかったそうでしたから、木綿の振り袖がぞうきんを着込んだような状態になってしまい、女たちは嘆いたのだとか。
さて、第23回「夫の告白」です。
いや、なんなんでしょうか。文久三年の激動の京の渦中に久坂はいたんですのに、この題名!!!
しょっぱなから、文句があります。
鷹司関白に久坂玄瑞が、桂小五郎とともに、「大和行幸の勅を」、つまり「孝明天皇が大和へお出ましになって直接攘夷の指揮をおとりください」と願い出る場面があります。
それにかぶせるナレーションが「久坂は京で、日本国一丸となっての攘夷実行のため奔走していた」なのですが、これじゃあ、公武合体論と区別がつかないじゃないのっ!!!
で、会津と薩摩が過激な攘夷に反対して、久坂の動きを阻止しようとしていた、というのですが、会津は別に攘夷に反対していたわけではない!ですし、薩摩は鹿児島で英国艦隊を迎え撃っていた!んですし、大和親征行幸が実行されたら、幕府が反発すること請け合いで、日本国一丸どころか、確実に日本国分裂でしょうがっ!!!です。
『八重の桜』第19回と王政復古 前編でちらりとは書いたのですが、『八重の桜』は、少なくとも幕末京都の政治劇につきましては、ものすごくまともでした。
今回、久坂玄瑞が主人公の夫でありながら、8.18クーデターから禁門の変にいたります激動のクライマックスが、語るのもばかばかしくなるほどに薄っぺらかつ見所なしなのは、なぜなんでしょうか。いったい???
今回の参考書は、前回に同じく、基本的には防長回天史(マツノ書店版)巻4文久3年と久坂玄瑞全集中心ですが、大和行幸、8月18日の政変に関しましては、手に入りやすく、かつ全体の流れがわかりやすい参考書として、以下の2冊があります。
醒めた炎〈2〉木戸孝允 (中公文庫) | |
村松 剛 | |
中央公論社 |
流離譚 上 (講談社文芸文庫) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
大和行幸につきまして、「醒めた炎」も「流離譚」も、「表向き攘夷親征だが実は討幕親征」としています。
ところが近年、これを否定する論文が出てまいりまして、「大和行幸の企画意図はあくまでも攘夷で討幕ではなかった」という説が有力になっています。
幕藩権力と明治維新 (明治維新史研究 (1)) | |
クリエーター情報なし | |
吉川弘文館 |
上記の本に収録されております原口清氏の「文久三年八月十八日の政変に関する一考察」が、それです。
善意に解釈すれば、この説に依存して、久坂の攘夷親征要請に、鷹司関白がいまさら「弱腰の幕府が攘夷に動くかのう」なんぞとのたまう、間の抜けた場面になったのかもしれません。
しかし、ここに至りますまでの京の政局が、ドラマではさっぱり描かれていませんし、薩英戦争のさの字も出て来ないで、薩摩藩士たちは京でのんびりと酒ばかりのんでいる有様。
そんな中、久坂が一人で思いついて、一人じゃまだ心もとないからと先生につきそってもらった小学生みたいに、桂小五郎につきそってもらって関白に願い出て、薩摩と会津が、なぜかこのすばらしくガキっぽい久坂を、見張って阻止しようとしている、というありえへん話にしてしまいました中で、論文の一部だけを取り上げてナレーションにしてしまいますと、まったくの嘘になってしまうんですよね。
まあ、久しぶりに論文を読み返すことになりまして、勉強させてもらっています。
まず、この論文自体に書かれていることなのですが、直前まで、勅書の文面は、石清水八幡宮で攘夷祈願のはずでしたのに、八月十三日に布告された文面では、大和親征行幸になっていたわけです。
そもそも、江戸時代の天皇は、長らく幕府に抑えつけられておりまして、まったくといっていいほど京都の御所を離れることはできませんでした。
この年、文久3年の春になってから、孝明天皇が石清水八幡宮や賀茂神社へ攘夷祈願のため行幸されるという未曾有の事態になったわけなのですが、それにいたしましても、京都の内ですし、日帰りです。
大和へ行って初代天皇神武の陵に詣でられる、といいますのは、それまでの幕藩体制の中の天皇、という立場を、大きく逸脱しているわけですね。
そして、原口氏は論文の最後に書いておられます。
だが以上のこと(討幕ではないということ)は、急進尊攘派の政敵たちが、彼らの言動の中に違勅・倒幕意志等々を疑い、あるいは口実とした事実、またそれが相当ひろくうけいれられた事実、などを否定するものではない。急進尊攘派の言動は、伝統的な宮廷内外の身分秩序を大きく麻痺させるものがあったし、攘夷の権を朝廷が掌握しようとすることは、委任された征夷大将軍の権限と大きく矛盾するものであった。五畿内の天朝直轄領化の企図は、佐幕的な人びとからみれば、許しがたい暴論と映じたであろう。
つまり、ですね。会津と薩摩が長州をさぐっていたとしまして(京都守護職でした会津は京都の治安維持がお仕事ですから当然さぐっていましたが、薩摩は薩英戦争をしている時期ですから、それほど長州に構ってはいられなかったでしょう。詳しくは後述します)、この論文からしましても、会津と薩摩は、長州は討幕を画策している!と受け取っていたわけでして、実際、大和親征御幸は、表面上は攘夷の推進祈願ですが、当時、攘夷を推進しますこと自体が、朝廷と幕府の対立を深め、王政復古への方向性もあった、というところまでは、原口氏も認めておられまして、倒幕の方向へもっていこうとする試みとなっていたことは、否定できないでしょう。
なぜ攘夷推進が倒幕につながるのか? といいますと、攘夷は、幕府が朝廷の許可なくして結びました通商条約の否定だから、なんです。つまり、対外条約を結ぶ主体としての幕府を、否定することになってしまうんですね。
以前、どこかに書いたと思うのですが、井伊大老は大きな勘違いをしていました。夷(外敵)を征すべき征夷大将軍が、武力に屈して通商条約を結んでしまったから、幕府の権威は落ちたわけでして、弾圧でその権威を回復することは不可能、どころか、反動で、よけい幕府の権威はがたがたと崩れ落ちる結果となったんですね。
幕末の天皇 (講談社学術文庫) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
上の「幕末の天皇」によりますが、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」といいますのは、安政5年(1858年)、実は、幕府が勝手に日米修好通商条約を締結してしまいましたときの、孝明天皇ご自身のお言葉なんです。
ここまで、孝明天皇に言わせたに当たりましては、幕府の対応が悪かった、の一言です。
幕府は、和親条約締結に当たって、朝廷へは事後報告ですませたのですが、通商条約に至って、前代未聞のことだったのですが、「許可をいただきたいのですが、いかがでしょう?」と締結前におうかがいをたてます。諸大名に異論が多かったため、朝廷の権威も動員しようとしたわけです。
しかし、「朝廷が幕府のすることに意義を唱えるはずがない」という甘い見通しは、見事に裏切られます。
孝明天皇は、天皇でありますことの自覚、つまり日本のあり方の最終的責任を負うのは自分である、といいます自覚を持って、幕府の申し出に真剣に対処します。
倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に書いているのですが、江戸時代の公家社会では、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家が飛び抜けて身分が高く、天皇の正妃になれましたのは原則、この五摂家の娘だけ、でしたし、将軍家御台所も、五摂家か宮家の娘、というのが慣例でした。
そして、近衛家は薩摩の島津家と、鷹司家は長州の毛利家と、といいますように、裕福な大名との婚姻関係があり、経済的な援助もあって、豊かでした。
しかし一方、通常は大納言まで、長生きすれば大臣になることもある、という中級公家(羽林家)の中山家でさえ、わずか二百石、長州の中級士族でした高杉家とかわらない石高しかなく、家格の高さに引き比べれば、非常に貧しかった、といえるでしょう。
これまでの慣例でいきますと、朝廷の意思決定は、ほぼ時の関白(近衛、九条、二条、一条、鷹司のまわりもちです)一人で行われる、といっても過言ではなかったのですが、
孝明天皇は、「一般の公家たちも自由に意見を言えるようにするべきである」との考えをもたれるにいたり、結局、この天皇のご意向を受け、中下級の公家ばかりではなく、下級官員までが国家のため万死を顧みずと、条約締結反対に立ち上がる事態になっていくんですね。
私、いまさらながらどうにも、このときの幕府のあまりにも不手際な動きが理解できず、今回、なにか新しい論文はないかと、さがしてみました。
講座 明治維新2 幕末政治と社会変動 | |
明治維新史学会編 | |
有志舎 |
「講座 明治維新2 幕末政治と社会変動」収録、奈良勝司氏の「徳川政権と万国対峙」は、徳川幕府の外交官僚について論じられました、なかなか興味深い論文です。
ペリーとの交渉過程において、幕府の外交官僚の中には、昌平黌を経由した学問エリートが入り込み、彼らは西洋列強が形作ります国際関係を、万国対峙(本質的には対等な諸国家群が地球上に対峙して互いに関係を結ぶ世界)と理解し、規範主義的な積極外交を唱えたというのですね。こういった見解が発展し、やがて幕臣の中には、条約は国家間の「信義」なのだから、最優先して守らなければならないという信念を持つ一派が現れた、というのですが。
いや、だから。西洋列強が、非キリスト教圏のアジア諸国を対等と見ていたわけないでしょうが!!!
基本的に、文明とはキリスト教圏にしかない、ということですから、日本にとって彼らが「夷」なら、彼らにとっての日本も「夷」なんです。
確かに一応列強諸国は、実効支配する政権が明確に確立されている地域は、アジアでも主権国家として認めるのですが、その外交交渉は武力を背景にしたものですし、アジア諸国はすべて格下でしかなく、結局の所、日本が不平等条約をすべて撤廃できましたのは、日露戦争の勝利の後だったわけです。列強のフルメンバーとなるためには相応の武力が必要な、弱肉強食の世界でもあった、ということですし、いつ、どこと戦争をするかはさておきまして、戦争なしで、対等のつきあいなんぞ、できるわけもなかったんですけどねえ。
しかも、日本から欧米諸国の仲間に入れてくれと、望んだわけではないですし、武力で脅されて、変わりたくもないのに変革を迫られて、大多数の国民が開国を不満に思う、というのは自然ななりゆきでしょう。
孝明天皇は、そういった日本の真の主権者としまして、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」と条約を勅許されなかったのですし、幕府のアイデンティティがゆらいでいますなかで、自らが頭の中に築き上げました理想的な国際秩序の中での信義がすべてだと思い込んで、自国の民情を考えないとは、さすがエリート官僚ですねえ。現在もこういうタイプのエリート官僚って、往々にしていますし、はっきり申しまして、国を滅ぼす元凶になりかねない人々です。
だいたい、孝明天皇の勅許がない、ということはですね。通商条約は批准されなかった!わけですし、原理で政治はできませんわね。
白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いておりますが、安政5年(1858年)、来日しましたフランス全権使節団の一員、M・ド・モージュ侯爵がすでに、以下のような認識を持っていたんです。
日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。
いや、そのミカドが、政治意思を持って、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」とおっしゃったんです。
あと、奈良勝司氏は、幕府エリート官僚の万国対峙の世界観が、「花燃ゆ」では松陰と文と小田村を結ぶ禁書ということになっています「海防臆測」を元してに生まれたのではないか、と言うのですが、いや前回書きましたように、実のところ、長州改革派の山田亦介も摺って配っていたものですし、松陰も読んでいます。まあ、同じものを読んでも、立場によって、いろいろな考え方をするものなのかもしれませんが、日本という国のアイデンティティを考えず、なにを守るべきかを明確に描けなかった幕府エリート官僚って、いったいなんなんでしょうか。
それはともかく、話を続けたいのですが、長くなりすぎましたので、次回に続きます。
なお最後に、杉敏三郎が奇兵隊に入った、という事実は、ありません。
短いものですが、敏三郎の伝記は、甥の小太郎くんが書き残しておりまして、吉田松陰全集別巻(マツノ書店版)に収録されています。
しかしね、こういう創作はいいと思うんですね。敏三郎が奇兵隊にいたからって、大勢に影響はないですし。
また芸者の辰路さんにつきましては、次回に回します。
クリックのほどを! お願い申し上げます。
にほんブログ村
歴史 ブログランキングへ