珍大河『花燃ゆ』と史実♦23回「夫の告白」の続きです。
花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | |
クリエーター情報なし | |
NHK出版 |
えーと。これを書くために仕方なく見ているのですが、文さんと小田村のドアップがほんっっとにうざく、ついに嫌悪感すらわく今日この頃です。どうすれば、ここまでつまらないドラマを作ることができるんでしょうか。
私、できるかぎり文さんと小田村は見ないようにしています。
その上で、今回、もっともばかばかしかったことは、三条侯は単なるホームシックから、京を戦場にしても京へ帰りたい、と思い、文はそれならば八つ橋で三条侯のホームシックをなぐさめ、戦争を止めようとした! という話です。
三条侯にしても文さんにしても、ここまで愚鈍に仕立てなくてもよさげなものですが。
もう一つ、なんともうんざりしましたのが、京で久坂玄瑞が沖田総司に遭遇し、びびった久坂の元へ突然高杉が助太刀に現れ、高杉は威張り散らし、久坂はすねて、しかしそこへ温厚な入江九一と吉田稔麿が現れて二人を取りなし、松陰門下の結束を確かめる!!!といいます、最近お定まりになってきましたパターンとなるんですが、現実にはそれぞれに活動しておりました四人が、いったいなにをしているのかさっぱりわかりませんし、失敗はなんでも久坂一人の責任で、高杉がやけにえらそうにもったいぶり、入江と吉田はなにより仲良しが一番でなあなあまあまあといいます、漫画でもありえへん珍妙な松下村塾四天皇そろいぶみを見せつけられたことです。
あと、養子の件に関しましては、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に詳しく書きましたが、つけ加えたいこともあり、辰路さんのこととあわせまして、後述します。
三条侯の件と松下村塾四天皇そろいぶみ場面について、なんですが、三条侯は土佐藩主の山内家と婚姻関係に有り、もともと京では土佐藩士(郷士中心)が身辺警護をしていました。また土佐では、勤王党弾圧が始まっていまして、長州に亡命してきて、七卿のまわりに集っていた土佐勤王党士は多いんですね。またNHKは、よほど公卿への偏見を持っているのか、と思うんですが、攘夷戦に関しましては過激公卿の方が熱心ですし、幕府への反感が高かったりもしまして、活動的ですし、ホームシックどころではない、攘夷、反幕活動の親玉たちなんです。
また、久坂は京で、長州への同情票を集めるべく、共感を寄せる公家たちや在京他藩士に働きかけたりしているんですけれども、このとき京へ出奔しました高杉晋作がなにをしていたかと言いますと、桐野利秋と高杉晋作に書いておりますが、中岡慎太郎といっしょに島津久光暗殺を企てていた(「投獄文記」に本人がそう書いています)んです。高杉は他藩人との付き合いはあまり得意ではなく、たいていの場合、社交的な久坂が引き受けていますのに、中岡慎太郎とは、よほどうまがあったんでしょうね。
まあ、ともかく。
このドラマは、薩摩や土佐や水戸などなど、他藩との関係や公家社会などを、ろくろく描いてきていませんので、ほんとうに、なにがなにやらわけのわからない、面白くもない紙芝居になっていまして、とりあえず、前回の続きからご説明します。
なぜ幕府は、日米修好通商条約締結にあたって、孝明天皇ご自身が、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」とまで述べられるほどの事態を招いてしまったのでしょうか。
講座 明治維新2 幕末政治と社会変動 | |
明治維新史学会編 | |
有志舎 |
前回ご紹介いたしました「講座 明治維新2 幕末政治と社会変動」収録、奈良勝司氏の「徳川政権と万国対峙」に加えまして、久住真也氏の「幕末の将軍」も参照します。表紙は、幕臣出身の洋画家・川村清雄の手になります14代将軍家茂ですが、いや、つくづくいい男だったんですねえ、和宮さまの夫は。
幕末の将軍 (講談社選書メチエ) | |
久住 真也 | |
講談社 |
まず、ですね。
ペリー来航の直後に、第12代将軍・徳川家慶が死去します。つまり、黒船騒動の最中に、将軍が代わったわけです。
ときの主席老中は、阿部正弘。
この人は、非常にバランス感覚にすぐれた人でして、ペリー来航以前から、御三家の水戸斉昭、越前の松平春嶽、琉球を支配する薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂など、これまではいっさい、幕政に参加してきませんでした親藩、外様の大名たちのうち、海防を強く意識していました、いわゆる有志大名たちを重視し、彼らの意見を聞くことによって、幕政を強化し、日本国中が一丸となって、対外危機に当たれる道をさぐります。
阿部正弘は家慶の絶大な信頼を得て、また家慶の大奥を支配していました姉小路(スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETAL参照)にも好かれていましたため、改革を断行できるだけの立場を築けていたんですね。
13代将軍家定、つまり篤姫さんの夫ですが、病弱な上に言語不明瞭なところがあり、阿部正弘や有志大名たちは、暗愚と見ていた節があります。
久住真也氏によりますと、暗愚ではなかった、という証言もあるのですが、ともかく。父の病死により、急遽、将軍となりましたときは30そこそこ。しかし、ペリー来航という未曾有の危機の中、引き続き老中阿部正弘がすべてを取り仕切り、日米和親条約が締結されますと同時に、安政の改革が行われます。家慶門閥にとらわれない人材登用、対外問題処理の機構整備によって、有能な外交官僚を育て、また軍制改革によって武備の充実も計られました。長崎のオランダ海軍伝習も、この一環として行われ、正弘当時の幕府は「諸藩に開かれた幕府」をめざしておりましたので、幕臣以外の伝習生も受け入れました。
さて、しかし。
安政2年(1855)大地震が起こり、翌年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任し、通商条約の締結を迫ります。
しかし、その長く困難な交渉のただ中で、阿部正弘は老中のまま急死します。
阿部は条約問題だけではなく、もう一つやっかいな問題を残していました。
家定将軍には子がなく、後継者をだれにするか、という問題です。
阿部正弘と有志大名たちは、未曾有の国難の折から、英明で、すぐにでも将軍の補佐ができる後継者をと、水戸斉昭の息子の一橋慶喜を押していました。
慶喜の母親は、有栖川宮家の姫君で、先代家慶の御台所の実妹です。家慶は了承していた節があるのですが、久住氏によれば、家定は心底、慶喜を嫌っていた形跡があるんだそうなんですね。
無理もない、といえば無理もない話でして、阿部老中が、ろくろく家定将軍を相手にもしませんで、次は英明な方にと慶喜を押していたんですから、不快以外のなにものでもないでしょう。
そして、水戸家の血筋は当時の将軍家から遠くへだっていまして、血筋が近く、年若い家茂を養子に迎える方が、自然でした。
また阿部正弘は、安政改革によりまして、保守派の多大な反感を買っていました。
なににしろ、改革は既得権を侵害します。
保守派にしてみましたら、有志大名の跋扈も、洋務官僚の取り立ても、気に入らないことばかり。
ともかく、幕府の有り様を変えたくなかったのです。
この保守派が、井伊直弼を大老に推したといいます。
奈良勝司氏によれば、井伊大老は、真面目に家定の話を聞き、家定の望むままに、一橋慶喜を後継者候補からはずすべく活動します。
条約の方は、阿部の後を受けました開明派の老中・堀田正睦が取り仕切っていたのですが、この人は一橋派です。
井伊直弼は決して開港派ではなかったそうなのですが、有志大名たちの運動で、将軍後継者問題にも朝廷がからんできましたことから、話は非常にややっこしくなり、ねじれてきます。
有志大名たちの中には、松平春嶽や島津斉彬など、開明的で、開港にも理解がある者もいたのですが、孝明天皇が譲位論者でおられますから、正面切って開港に賛成はしづらく、「ともかく次期将軍は英明な者を選び、武備充実を計って攘夷を可能にしたい」といいますような、もってまわった攘夷論者になっていたんですね。
奈良氏によれば、孝明天皇の勅許が得られないまま、勝手に通商条約を結んでしまいましたのは幕府の洋務官僚であり、幕府に相談を持ちかけられながら、途中で無視され、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」と憤られました天皇に、井伊大老は狼狽し、「武備充実の上、13、4年後にはかならず条約改正をいたしますから」と、行き当たりばったりに約束して、なだめたんだそうなんです。
つまり、ここで通商条約は、当の幕府が、脅しに負けて結んだので改正が必要と認めた、ろくでもない条約となります。
いや、武備充実を計って条約を改正するには、結局、50年かかった!わけですけれども、ねえ。井伊大老の思い描いた改正とは、まったくちがう改正でしょうけれども。
安政5年(1858)、通商条約が調印され、将軍家定が死去し、後継将軍は家茂となって、安政の大獄がはじまります。
通商条約を憂えられました孝明天皇の密勅にからんでいましたから、ともかく昔ながらの幕府の権威にこだわります井伊大老は、弾圧に張り切りすぎまして、結果的に、幕府への信頼に大きな亀裂をいれてしまいます。有志大名や摂関家をはじめ、高位の公家まで弾圧の憂き目にあいましたので、怨嗟の声はなにも、松下村塾のみに満ちていたわけではありません。幕府への反感は、静かに、全国に浸透していきました。
また、対外危機に際して、例えば土佐では郷士が海防に駆り出され、といった具合で、士族階級ばかりではなく、郷士や農民たちにも、政治参加の機運が、少しづつ盛り上がってきていたんですね。その人々も多くは、攘夷派でした。
水戸と薩摩の有志による桜田門外の変が有り、勢いづきました長州の尊攘派は、桂小五郎や松島剛蔵が中心となり、水戸の有志と盟約を結びます。そんな中で、坂下門外の変が起こるのですが、このときの襲撃犯の一人で、越後の河本杜太郎は、萩まで、久坂を訪ねて来たりしています。
しかし、大きな動きにつながりませんで、各地の志士が焦燥を募らせる中、文久2年(1862年)になって突然、島津久光が率兵上京をする、というニュースが西日本をかけめぐります。
ドラマで、フレヘードニート龍馬が、武市半平太の手紙を持って訪れたのは、実は、このときのことなんです。
なにしろ、島津久光は1000名の藩兵を引き連れて上京したわけでして、前代未聞な上に、幕府の権威が地に落ちた出来事でした。
薩摩藩の有志は、各地の志士とともに京都所司代攻撃を計画し、もしそうなった場合、長州も藩を上げて、呼応できる体制をとろうとしていました。
しかしこれは不発に終わりましたし、詳しいことははぶきます。
このとき、久坂たちも土佐勤王党も、京へ上って活動していたわけなんですが、そういった全国的な動きとの連動が、このドラマではさっぱり、描かれません。
8.18政変につきましても、結局、そういうことなんです。薩摩も土佐もろくに描かないで、わけがわからないままに池田屋事変となりそうですが、続きは次回。
辰路さんと養子問題につきましても、次回にまわします。
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