郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」

2015年07月10日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆26回「夫の約束」の続きです。


花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
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NHK出版


私、実は、三原清堯著「来嶋又兵衛傅」(小野田市歴史民俗資料館復刻)という、けっこうレアな本を持っております。
 その昔、山口県出身のご親切な方にいただきまして、いや、実はあまりよく読まないまま、今の今まで、本棚で眠らせておりました。
 いや、読んでびっくりです。なにがびっくりって‥‥‥。

 文久2年の夏、文久の改革で、幕府は参勤交代の制度をゆるめて、大名の妻子の帰国を許可しました。江戸藩邸の維持費を抑え、浮いた経費を武備充実にまわせ、という趣旨です。
 尊皇攘夷運動の先頭に立とうとしておりました長州は、世子(元徳)が幕府に訴えてこれを実現しましたので、当然、ご夫人方をみな、断固として国元へ帰す方針です。

 帰国といいましてもね。スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALに書いておりますが、江戸時代、大名の正妻と世子(お世継ぎ)は、原則江戸住まいで、大名の奥方といいますのは、大方、大名の娘ですから、これも江戸住まいが多く、要するに、江戸藩邸から江戸藩邸へ嫁に行き、生涯、江戸にいる場合が多かったわけでして、要するにご夫人方もお姫様も、お付きのお女中衆も、生まれ育った花のお江戸から、見ず知らずの遠いド田舎へ、しかも節約のために行かされる!!!といいます、まったくもって嬉しくない事態となってしまったわけです。

 そうせい侯の奥方・都美姫さまも、世子の奥方・銀姫さまも、当然のことながら、乗り気ではおられません。「来嶋又兵衛傅」は「忠正公勤王事蹟」から「長州へ往くのは鬼界島へでも流されるような心持で、なかなか言うことをきかれぬので、周布あたりも大変に困ったけれども、どうしても聞き入れぬ。その頃の老女で園山というのが居りましたが、この女がなかなか強情を張って奥方などを動かさぬ。それで周布など園山を追い出してしまおうという論で、桂小五郎に若殿様の訓令を持たせて上京させて殿様に訴える迄に至ったが、どうしても行われぬ。婦人というものはひどいもので、あれだけの豪傑が揃って排斥しようとするけれども動かすことができぬ」と引用していまして、出てきましたね、園山。
 そう。すっかり妖怪と化しましたこのドラマの文さんの「妻のたたかい」とは、奥御殿総取締・園山さまにお願いして、毛利家の御殿女中となり、出世してお殿様に近づき、なんで夫が死んだのか聞くこと!!!だったんです。
 思考回路がぶっとびすぎでしょう。どういう芋虫頭なのっ!!!としか思えませんよねえ。 ただただ気色悪くて生理的に受け入れられず、笑いもできませんでしたわ、私。

 ともかく。
 以下、スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALで書いたことを、簡単に述べます。
 大名の世子に嫁入った将軍家の姫君を、御住居(おすまい)さまと呼ぶのですが、江戸時代の感覚では、御住居さまは、夫よりだんぜん身分が上でした。
 絶倫将軍家斉の姫君、和姫さまは、萩藩世子・毛利斉広の御住居さまとなり、大奥から、お付き上臈庭田をはじめ、総勢47人の奥女中を従えて、萩藩江戸藩邸へ乗り込んできます。ところがこの和姫さま、嫁いで一年にも満たずに死去し、大奥へ帰った庭田は、やがて将軍家慶つきの上臈御年寄・姉小路となり、権勢を誇ります。で、ここからは私の推測なのですが、和姫さまつきだった奥女中の一人、つまりは姉小路の同僚に、世子・毛利斉広のお手が付き、都美姫さまは生まれたのではないでしょうか。毛利斉広は、藩主になってわずか20日足らずで死去し、跡継ぎを決めていませんでしたから大騒動になったんですが、どうやら、一粒種の都美姫さまの婿養子にそうせい侯を迎えて、大奥の実力者・姉小路の口利きで、ことなきをえたようです。 

 となれば、毛利家奥で権勢を誇る園山とは、江戸城大奥から来ました姉小路の同僚(都美姫さまの実母の同僚でもあります)、だったのではないのでしょうか。いかにも、江戸城大奥直伝の権威の振り回し方で、姉小路に似ています。
 「来嶋又兵衛傅」は続いて、「防長維新秘録」を引用しているのですが、世子夫人・銀姫の方は、「周布政之助が一策をもうけ、御殿山見物とあざむいて女儀旅装を整え、一挙に江戸を発程せしめた」のだそうです。
 都美姫さまご一行が、これまた大騒動です。「藩公夫人を来嶋又兵衛、桂小五郎等総動員で説諭する。なだめつ、すかしつ、おどかしつつ、あの手この手でやっと帰国をうながした」そうなのですが、「十二月二十五日夫人及び侍女一同出発せんとする時、侍女等江戸の風光をしとうて泣いて躊躇す。来嶋又兵衛行きてこれを叱し、しばらくにして泣く泣く駕籠を列ねて出発したのは、美しくもあったが、又あわれさをとどめた」のだとか。

 どうせ、ですねえ、わけのわからない「大奥」話にするんでしたら、この文久2年、周布政之助&来嶋又兵衛&桂小五郎VS園山&都美姫さま&銀姫さまバトルを、ぜひ、やっておいていただきたかった!(笑)

 久坂の養子の件なのですが、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に付け加えまして、ドラマでは小田村と久の長男が非常に聡明なように言っているんですけれども、実は、健常ではなかったようすなんですね。後に妻は迎えているんですけれども、介護役だったのではないかと。したがって、子はおりませんで、現在の小田村家のご子孫は、養子の末なんです。次男・道明の娘が、長男(伯父)の養女となって、他家から養子を迎えた形です。

 小田村家は儒者でして、これは、通常の士族より、軽い身分といえるんですね。
 で、久坂はこのとき、れっきとした士分、大組に取り立てられていまして、小田村は相当に久坂が好きだったみたいですし、久坂が実力で成立させた士分の家を、大切にしてあげたい、ということで、道明を養子に出したのだろうと、私は思います
 
 で、文さんが道明を引き取って二人で住むなんぞ、絶対にありえません!!!
 もうすぐ、小田村も野山獄に入るはずですが、そのとき、久さんに書いた手紙かなんかに、「二人の子供云々」とあるらしいんですね。
 このばかばかしいドラマでは、久坂が死んだ途端に文さんは奥女中勤め、というへんてこりんな展開ですが、現実には、ほぼ一年間、文さんは久坂の死を嘆き、父百合之助を看取り、道明が久坂家の家督を継ぐのを見届けてから、おそらくは乃木希典の父親(世子夫人・銀姫の守り役)の紹介で、御殿務めに出ます。
 つまり道明は、ずっと久さんのもとにいた、と考える方が自然です。とはいいますものの、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に書いてありますように、小田村家は弘法谷にあって、杉家とはごく近いのですから、毎日のように、ひんぱんに行き来があり、道明が杉家に泊まって従兄弟(小太郎)と勉学したり、遊んだりが日常だった、と考えるべきでしょう。
 平成の核家族じゃないんですから、あーた!


 それと、ですね。いいかげん、これもばかばかしかったのですが、禁門の変の責任者が久坂なわけないでしょうが!!!です。
 薩摩藩は、萩藩主父子が国司信濃に与えた黒印の軍令状を見つけておりまして、これがゆえに、長州征伐となったわけですから、どこからどう見ても長州は藩を挙げて禁門の変に臨んでいたということなんです。
 
京都時代MAP 幕末・維新編 (Time trip map)
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光村推古書院


 上の地図は非常に便利で、禁門の変の長州軍のだいたいの進路も載っております。
 私、これまで、薩摩藩の側の禁門の変の資料を読んだことは、あります。
 この当時、数少ない長州びいきの薩摩藩士(とはいいますものの、数少ないながら、禁門の変で長州に味方して死んだ薩摩藩士もいたはずだったと思います、確か)でした桐野利秋が、一兵卒として積極的に長州と戦っていたという話と、まじめに戦わず長州人を逃がしていた、という話と、正反対の話が残っているものですから、ちょっと調べてみたわけでした。
 で、長州側から調べたことはまったくなかったわけなんですけれども、今回、「防長回天史 5」(マツノ書店版)をざざっと読んでみました。
 負け戦のせいか、記述が少なすぎなんですけれども、わかったことが一つ。
 来嶋と久坂が突っ走ったのが悪いのではなく、久坂はさっぱり突っ走ってはいませんで、軍令状が出て、挙藩一致の体制がとれるまで、ぐずぐずぐずぐずぐずぐす、作戦を引き延ばしたのが悪かった!!!ということです。

 禁門の変当時、長州の先遣隊は、京の周辺3カ所に分かれて駐屯していました。
 嵯峨天龍寺に国司信濃隊およそ800名。配下に来嶋又兵衛がいます。
 伏見長州藩邸に福原越後隊およそ700名。配下に御堀耕助(乃木希典の従兄弟)ほかがいました。
 山崎天王山に益田右衛門介隊およそ600名。この下に真木和泉、久坂玄瑞がいます。

 禁門の変を、蛤御門の戦い、といいますが、それは、勇将・来嶋又兵衛率いる遊撃隊が奮戦した蛤御門での戦いが特筆すべきものだったからでして、はっきり言いまして、長州藩兵の中で、まともに戦ったのは、来嶋又兵衛率の遊撃隊を含みます国司信濃隊のみだったんです。
 この遊撃隊、攘夷戦における光明寺党のうち、長州藩領に残った他藩人がまとまりまして、政変で落ちてきました七卿周辺の他藩人(御親兵だった人々が中心です)も加わり、来嶋又兵衛の配下となったもののようでして、中岡慎太郎が属したのもこれですし、この後も再編成されて転戦し、長州軍の有力な一翼となります。桐野利秋と伊集院金次郎で書きましたが、鳥羽伏見の伏見奉行所での戦いでも、土佐の後藤深蔵などに率いられて奮戦しております。
 土佐をはじめ、脱藩士が多いですし、死中に活を求めようと、死に物狂いの戦闘ぶりを発揮して、強いんでしょうね。
 そのぶん、暴走もしやすいですし、遊撃隊の熱気に煽られて、又兵衛じいさん、高杉もあきれるほどの突出ぶりだったんでしょう。

 禁門の変は、すでに長州に対します期限をきった撤兵令が出まして、じっとその場に留まっていれば征討されるところまで追いつめられてから、攻められる前に奇襲クーデターを!と、(おそらくは)来嶋又兵衛が計画したわけでして、夜中に行動を開始し、早朝に御所を警備します会津、桑名軍を襲って排除し、御所を占拠しよう、その勢いで宮中クーデターを断行!、という作戦ですから、三方面の隊がみな、早朝に時間をあわせて、御所に到着する必要がありました。

 「来嶋又兵衛傅」に出てくるのですが、伏見長州藩邸の福原越後隊は、最初から主力が萩の士族なので、やる気がなくて弱い!と見られていたそうでして、心配になった福原越後が、国司信濃に指揮官を貸してくれと頼みまして、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)ほか20名ほどが、派遣されたんだそうです。
 まあ、しかし、焼け石に水、でして、しかも行く手をはばんだ大垣藩兵が、相当に強く、この隊は京洛に入れないで潰えます。
 この悔しさをばねに、御堀耕助たちは長州に帰った後、御盾隊(みたてたい)を結成することになるのですが。

 で、久坂のいた天王山の益田右衛門介隊が、また、どうにもおかしいんですね。
 山間の道路が狭くて砲車運搬が困難をきわめ、士卒の疲労が甚だしかっただの、桂川で朝食をとっていただので、久坂も真木和泉も、鷹司邸に到着しましたときには、すっかり夜も明けきって、来島又兵衛は戦死し、国司信濃隊は敗走した後だったんです。
 あんたらみんな、やる気あったんかいっ!!!と首をかしげつつ、「防長回天史」を読んでいて、謎がとけました。
 「益田太夫山崎路より当日天王山に入り込められ候はずにて、戦場へは出張間に合い申さず」 ということでして、益田は石清水八幡宮の社頭で貝曲とやらを奉納し、山崎に移って布陣したまま、動かなかったんです!!!

 推察しますに、久坂と真木和泉は、必死になって益田右衛門介をかきくどいたんでしょう。しかし益田はどーしても動こうとせず、仕方なく、自分たちだけでもと、遅ればせに、わずかな人数で苦労して砲を引きずりながら、鷹司邸にたどりついたんでしょう。
 なんだかねえ。久坂が気の毒でたまりません。

 真木和泉は、久留米水天宮の神官でして、水戸へ遊学して尊皇攘夷のイデオローグになり、伏見義挙に参加しようとしまして、久光に拘束され、送り返された久留米で幽閉されます。
 中山忠光卿が、攘夷戦のついでに久留米まで足をのばしまして、公卿の威光で救い出し、以降、真木和泉は長州藩のイデオローグとなったわけなのですが、手勢はわずか二十名足らずですし、長州藩の家老に、戦場の場で文句をつける立場にはないんです。

 周布政之助が進発に反対だったといいますのに、いったい誰が、黒印の軍令状が出るような手続きを踏み、やる気のない家老と旧態依然でぐだぐだの萩藩士の群れを、派遣したのでしょうか。
 これまでに何度も書きましたが、新式銃ならば買えばすむことでして、イギリスは当時徹底した自由貿易でしたから、金を出せば売ってくれます。
 問題は、それを使う歩兵を養成することでして、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に、中岡慎太郎の書簡を引用して書いておりますように、「士族がとても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になる薩摩以外の藩は、歩兵になる士族なんぞおりませんで、徹底的な藩制改革を行いませんかぎり、銃隊を編成することは不可能だったんです。

 御所のまわりは、公家屋敷に囲まれています。来嶋隊は、長州支持の公家屋敷に、前夜から味方の軍勢を潜ませていて、会桑軍をはさみうちにしたりもしていまして、薩摩軍が横から加わって会桑軍を助けさえしなければ、蛤御門を制圧していたでしょう。
 来嶋又兵衛は、野戦指揮者として、非常にすぐれていたのだと思います。
 だから、又兵衛は馬上で指揮していたのだから、せめて馬の借り賃くらいは惜しむなよ、NHK! いや、俳優さんが馬に乗れなかった、とか(笑)
 
 久坂は、どう見ても、軍事的な才能は、まるでなさそうですね。挙藩一致での進発を望みましたのは、政治的には確かにそうあるべきだったのかもしれないのですが、優等生的で、勝負勘に欠けていた、と言わざるをえません。
 そこらへん、高杉は正反対でして、勝負勘が抜群で、型破りな魅力があるんですよねえ。
 ただ、明治まで生きていたとして、どちらが仕事ができたかと言えば、久坂の方だった、と私は思います。
 高杉は、非常の人、でしょう。

 もう一つ、びっくりしましたことは、今回、久坂の最後の様子を調べていまして、気がついたのですが、入江九一の最後を語っているのは、南貞助でして、久坂と寺島に別れを告げ、鷹司邸から飛び出した一行の中に、南貞助はいたらしいんですね。ひいーっ! 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 で書きました高杉の素っ頓狂な従兄弟にして弟、ですよねえ?
 びっくりです。高杉は、野山獄にいる自分の身代わりに、まだ年若い、南貞助を送り出していたんでしょうか。
 そうだとすれば、この馬鹿げたドラマの気持ちの悪い高杉とちがって、実物は、かわいいですねえ。

 ともかく。禁門の変で負け、攘夷戦で負け、ズタズタのボロボロになりましたからこそ、弱兵の長州は大改革を断行することができ、強い歩兵隊を持つことができた!わけですわよ。禁門の変では多くの惜しむべき人材を失ってしまいましたけれども、薩摩も薩英戦争を戦っておりますし、やはり、やるべし! 幕末攘夷戦!が、私の結論です。

 さて、辰路さんです。

 

 玄瑞の曾孫にあたられます久坂恵一氏は、「久坂家略伝」という私家本を出されています。
 玄瑞が京都に残しておりました遺児の秀次郎は、一粒種の男子・誠一をもうけましたが、これまた一粒種の恵一氏を残して、33歳の若さで病没します。
 母親をも早くに亡くした恵一氏は、祖父の秀次郎に引き取られ、まもなく秀次郎も歿し、恵一氏は、秀次郎の実母については、なにも聞いておられなかったようなのですね。
 そこで後年、恵一氏は、実の曾祖母について、いろいろと調べられました。

 まずは、戸籍に残ります秀次郎の実母「佐々木ヒロ」について、なのですが、恵一氏が調べられた範囲では、実在の有無さえ解明できなかったそうです。
 で、以前にも書いたのですが、山本栄一郎氏の推測で、「仮に実母を文の叔母さんの嫁入り先の佐々木家の養女扱いしたのでは?」説に、私は賛成です。
 秀次郎を、久坂玄瑞の実子として届け出ましたのは、まだ藩がありました明治2年のことで、萩藩庁への届け出なんです。
 藩政時代には、芸者は士族の正妻にはなれませんし(どうしてもという場合は、士分の養女にした上で妻にします)、士族が外で芸者に子を産ませ、正妻には子がなかったとしましても、家を継ぐのは芸者の子ではなく、親戚からもらった養子、という方が普通です。芸者に子を産ませることは、やはり、あまり褒められるものではありませんでした。
 とすれば、実母も士族の家に養子に入った女、と届け出ることは、ありそうなことなんです。

 秀次郎の生まれは、元治元年9月9日。久坂の死後、およそ50日です。
 当時の出生日は、いいかげんに届けられていることが多いのですが、秀次郎の場合、玄瑞の子であるかどうかにかかわりますので、正確だったと信じておきます。
 とすれば、秀次郎が母の胎内に宿りましたのは、文久3年の11月ころと考えられ、「久坂玄瑞全集」(マツノ書店版)によれば、ちょうどそのころ久坂は、京へ潜入していたようです。

 それで、恵一氏は、秀次郎の実母は、京都島原桔梗屋のかかえ芸妓・辰路であったと、結論づけておられます。
 8月18日政変の一月後、久坂は京にいましたが、桂小五郎の潜伏します大黒屋に、島原の角屋から派手に駕籠で乗り付けたことが、「会津藩庁記録文久三年第二巻」(248ページ)に載っておりまして、ほぼ、この時期に久坂がつきあっていた相手が島原の辰路さんでありますことは、確実なんですね。

 このドラマでは、辰路さんがものすごく貧乏な生い立ちで、しかも最後は芸者は首で下働き、などという、えらくおかしな話になってしまっていましたが、芸者は女郎とはちがいます。
 確かに、旦那は持っている場合が多いのですが、それは、衣装を季節ごとに新調する必要があり、ものすごく金がかかるためでして、基本的には、歌舞音曲の芸で身を立てています。
 士族の正妻にはなれませんが、相手が商人や農民だったら、正妻に迎えられることは普通にありました。
 まして島原の芸者は、相当に格式が高く、このドラマの辰路さんは、あまりに品がなさすぎ、です。
 それと、桂のつきあっていました幾松さんは、三本木の芸者で、島原の辰路さんとは、絶対に知り合っていないはずですが、桂もろくに出さないくせに、幾松を出してくるのは、いったいなんなんでしょうか。

 辰路さんの本名は、西村タツ。
 明治二年、秀次郎が認知されるのを見届けた後、島原角屋の主人と桔梗屋の女将の世話で、井筒家の養女となり、豪農の竹岡家に嫁入りして、明治43年まで、生きたそうです。
 「勤王芸者」(近代デジタルライブラリー)によりますと、「辰女は左褄取る身に似合はずいたって内気なおとなしい女でありましたから、立ち居振る舞い自然しとやかで騒がしきを好む客には向かぬが落ち着いた客の目につく。久坂はそのしとやかなところが、初見からなんとなく気に入った」のだそうです。
 結局、私は、久坂は辰路さんが自分の子をやどしたことを知らずに死んだのではないか、と思います。

 最後に、これは山本栄一郎氏のお話しなのですが、ほんとうの文さんは結局、養子にしていた道明よりも、久坂の実の子である秀次郎の方が、かわいいと思っていた様子、なのだとか。
 まあ、そうかもしれません。なにしろ、秀次郎は玄瑞に生き写しだった!わけですから。
 
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コメント (7)
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