オランダおイネと楠本イネの続きです。
「まんが日本絵巻」の「おらんだおいね」を見つけました!
おらんだおいね/他一編
「まんが日本絵巻」は、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)、TBSの放送だそうでして、前回ご紹介しました1970年(昭和45年)のポーラテレビ小説、実写版「オランダおいね」に似ているといえば似た感じです。
どこからどー思いついたものなのか、見当もつきませんが、両方とも、幼いイネは自分の父がだれなのか知らず、オランダ人であることも知らず、しかし、容姿が普通の日本人とはちがうので、他の子供たちから「あいのこ」と呼ばれ、いじめられたりします。
もしかして、「あいのこ」が差別用語のような使われ方をしはじめたのは、敗戦後の米軍占領期からのような気がするのですが、ちがうのでしょうか。
どうも、幕末の日本が混血児いじめ蔓延の封建社会のように描きますTBSのまんがとドラマは、占領期のコンプレックスとウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムから生まれた、現代的で通俗的な混血児像をもとに、幕末の物語を作っているような気がします。
双方、シーボルト事件で長崎払になっていたはずの二宮敬作が、長崎に住んでイネのめんどーをみていたりのどっびくり設定が多いのですが、案外案外、ちゃんと調べている、かもしれない部分もありまして、「中山作之進」通詞を出してきているのには、びっくりです。
えーと。
シーボルト記念館館長・織田毅氏の論文によりますと、長崎の通詞・中山作三郎(1785年の生まれなので、シーボルトより十ほど年上です)は、シーボルトと相当に深いつきあいがあり、二宮敬作とも懇意だったみたいなんですが、シーボルト事件にはかかわっていません。
一方、小通詞並の堀儀左衛門は、シーボルト事件にかかわって、押し込め、免職となるんですが、作三郎の五男・達之助(文政6年・1823年生まれで、イネより四つ年上)が堀儀左衛門の養子になって、堀達之助と名乗るんです。
開国と英和辞書 評伝・堀達之助 | |
堀孝彦 | |
港の人 |
上がちゃんとした評伝ですが、ちょっと高価です。
読みやすくて、手頃な堀達之助の伝記といえば、小説ですが、吉村昭氏の「黒船」でしょうか。
黒船 (中公文庫) | |
吉村 昭 | |
中央公論社 |
実は私、堀達之助、ちらっとですが、以前、モンブランがらみで書いたことがあります。
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下です。
モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。
堀家は、薩摩とのつながりが深くて、分家が薩摩藩士になっているくらいでして、堀達之助の次男・孝之も薩摩藩士になっているというわけです。
おイネさんが、中山作三郎および、その実子の堀達之助と知り合いだった可能性は、相当に高いのですが、証拠はありません。
幕末の長崎におきまして、オランダ人との混血でありますことは、それほど珍しいことではなく、いじめられる幕末の混血児像は、戦後民主主義が生んだ幻のように、私には思えます。
クリックのほどを! お願い申し上げます。