郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

楠本イネと大村益次郎

2017年01月02日 | シーボルトの娘
 あけましておめでとうございます。

 昨年、桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録で躓きまして、ブログを書くのがおっくうになり、肝心のことを書きそびれました。
 防府の山本栄一郎氏が、大村益次郎の伝記を出されました。



 上は、東京都世田谷区の松陰神社のお祭りで、本が売られていた様子です。
 発行者は以下ですので、読んで見られたいと思われましたら、お問い合わせください。

 大村益次郎没後一五〇年事業実行委員会
 TEL050-5207-1118
 Eメール:suzenjik@c-able.ne.jp
 〒747-1221 山口市鋳銭司5435-1

 本の表紙は大村神社なんですが、その案内動画がありました。

大村益次郎墓所 鋳銭司郷土館と大村神社



 私は以前、山本氏のご案内で、お参りしたことがあるのですが、車がなければ、行くのがけっこう不便な場所にあります。

 新資料で変わる楠本イネ像でも書いたのですが、みなもと太郎氏の「風雲児たち」幕末編・第8巻には、宇和島時代の村田蔵六(大村益次郎)とおイネさんが出てきます。

風雲児たち 幕末編 8巻
みなもと太郎
リイド社


 このコミックでは、同居するイネと蔵六に、あらぬ噂が立ったため、蔵六はイネを卯之町の二宮敬作邸から通わせることとし、妻のお琴さんを呼び寄せます。
 お琴さんの実像は、山本氏に言わせますと「情熱的に恋する妻」だそうなんですね。
 山本氏は、宇和島で調べた史料も加味し、「蔵六に村医者としての生活能力がなかったため、琴の実家は無理矢理離婚させたが、蔵六を愛してやまない琴は親の言うことを聞かず、宇和島まで後を追って押しかけてきた」と結論づけておられます。うーん。蔵六のどこがよかったんでしょうか? 私にはまったく理解ができません。きっと、おイネさんも理解ができなかったはず、です(笑)

 もう一つ、大村益次郎とおイネさんには、接点があります。

浅丘ルリ子vs加賀まりこ ご臨終の蔵六先生


 NHK大河「花神」の名場面です。いや、私はまったく見ていないので知りませんでしたが、加賀まりこさんがお琴さんを演じてたんですね。
 
 ところで、新資料で変わる楠本イネ像のコメント欄に書いておりますが、私は「イネが蔵六の最後を看取った」 というのは司馬遼太郎氏の作り話ではないかと思っていました。
 いや、蔵六は大阪病院に入院してボードウィンの治療を受け、その大阪病院には、イネの娘高子の夫で、二宮敬作の甥である三瀬周三が、ボードウィンの通訳として勤務していたわけですし、三瀬周三もイネとともに、蔵六に学んだことがあるわけですから、どうやら当時、神戸に住んでいたらしいイネさんは、見舞いにくらいは行ったのではないかと思われます。しかし、イネさんは産婦人科医であって、看護婦ではありません。恋愛関係が嘘なら、看護をしたことも嘘でしょう。

 ところが、山本氏によれば、昭和19年に書かれました大村益次郎の伝記には、「瀕死の蔵六のもとにイネが駆けつけ、献身的な看護に務めた」とあるのだそうです。
 で、私、いろいろ調べましたところ、どうやら、昭和3年に大洲の史家・長井音次郎が刊行しました「蘭学大家 三瀬諸淵先生」が、「イネが横浜から駆けつけ献身看護した」説の初出だったようです。長井音次郎は、高子さんにいろいろ手紙で問い合わせたりしているのですが、それは昭和3年よりあとの話ですし、現存します高子さんの語り残しや書翰で、イネさんが蔵六を看護したことを裏付けるものは、まったくありません。いえ、見舞ったということさえも、裏付けられてはいないんです。

 追記
 詳しくはコメント欄を見ていただきたいのですが、あらためて資料を検討してみました結果、イネが、宇和島から神戸経由でかけつけ、蔵六臨終の最期の3日間、大阪病院で看護した可能性は、かなり高いのでは、と思います!


 山本氏の「大村益次郎」は、これまで活用されていませんでした宇和島の史料を使うなど、非常に興味深いものなのですが、ご本人いわく、まだまだ発展途上の産物だそうでして、軍事的な業績なども、従来説に囚われないご研究が待たれます。
 私、桐野の指切断の件で、ちょっと上野戦争の史料を調べかかったんですが、ほんと、大変ですわ。

 一つだけ。上野戦争に際して、なんですが、作戦会議を仕切った蔵六が、薩摩藩を黒門口にまわしたことに対して、西郷が「薩摩藩兵を皆殺しにするおつもりか」と聞き、蔵六が「そうだ」と言ったというエピソードがあります。
「防長回天史」に出てくるもので、山本氏も引用されています。

 ただ、私、なぜこの時期、西郷隆盛が身を引いて、蔵六を立てたのか、について、最近、ある推測をするようになりました。
 「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書きました以下の部分。

 「その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました」

 私、篤姫のその書翰が活字化されています天璋院篤姫展の図録(発行・2008年 NHK、NHKプロモーション)を古書で手に入れ、見てみたのですが、いやはや、もう、びっくりの2乗です。実物はすべて、仙台市博物館所蔵ですが、博物館での刊行物には載ってないみたいです。
 図録に収録されています、書翰類を利用した藤田英昭氏の論文「知られざる戊辰戦争期の天璋院」は、もっと注目されてしかるべき、です。

 あくまでも仮説ですが、篤姫の激怒に接して、西郷は、すっと身をひいたのではないんでしょうか。
 で、蔵六の遠慮の無いやり口と篤姫の間に入って、海江田信義は一人で苦労し、蔵六への怒りを募らせていった、と考えれば、当時の状況が読み解けるように思います。
 しかし……、すごいです! 篤姫。
コメント (10)
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