「宝塚キキ沼に落ちて vol3」の続きです。
花乃まりあさんは、明日海さんのお相手、トップ娘役さんになって、ほぼ2年で退団なさいました。
予定通りではなかった、と言われているようです。
ラブコメミュージカルは、よく似合っておられましたが、確かに、明日海さんとの並びがお似合いか、といわれると、この退団公演の「金色の砂漠」まで、しっくりきてはなかったような気がします。
しかし、です。「人でない」オーラを放つ超絶美貌の男役さんに、よく似合う娘役さんなんて、果たしていたんでしょうか。
「金色の砂漠」の脚本・演出は、上田久美子氏。宝塚専属の新進オリジナル作者です。
デビューは、2013年月組バウホール公演『月雲の皇子 -衣通姫伝説より-』。バウホールといいますのは、宝塚大劇場付属の小劇場で、主には若手中心の公演を行っています。このときの主演は珠城りょうさん(現在の月組トップ)で、入団七年目、バウ公演初主演でした。
これが大評判を呼び、めったにないことですが、東京の外部劇場で再演されました。
題材の衣通姫伝説とは、古事記、日本書紀に載っています物語です。下のリンクは、別のサイトにまとめたものですが、道後温泉にかかわるともとれる伝説ですし、私にとっては、高校生の頃から慣れ親しんだ、悲劇でした。三島由紀夫が短編小説の題材にしてもいます。
天翔る恋の歌
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と衣通姫(そとおりひめ)については、古事記と日本書紀を幾度も読み返し、私なりのイメージができあがってしまっていまして、見る気がしなかったのですが 結局、なぜそこまでの評判を呼んだのか、自分の目で確かめてみたくなって、つい先日、DVDを買いました。
「従来の宝塚では考えられないほど、主人公がボロボロになって死んでいくお話」と聞いていたんですが、私に宝塚の常識がないせいか、そうは思いませんでした。
文句を言えば、きりがありません。
「天翔る恋の歌」に書いておりますが、古事記では、軽皇子は同母妹・衣通姫との禁断の恋ゆえに、弟の穴穂皇子との皇位継承争いに敗れて、伊予の湯に流されます。衣通姫は皇子を追って伊予まで行き、心中して果てます。
一方、日本書紀では、軽皇子が同母妹・軽大郎皇女と通じたがために、天変地異が起こり、軽皇子は世継ぎであったので罪を問われず、軽大郎一人が伊予に流刑となります。十年余りのち、父帝が崩御し、軽皇子は大臣に裏切られて、弟・穴穂皇子との争いに敗れ、大臣の館で死にます。
日本書紀の方では、悲恋の相手の同母妹は衣通姫とは呼ばれず、軽皇子の母方の叔母、つまり実母の妹で、父帝の寵愛を受ける女性が衣通姫です。
三島由紀夫は、軽皇子の悲恋の相手を叔母の衣通姫とし、禁断の恋の結果、人心が軽皇子を離れ、弟・穴穂皇子が兵を挙げて皇位を奪い、軽皇子は伊予に流され、衣通姫は後を追います。軽皇子に仕えてきた石木は、伊予で反乱を計画し、皇子もそれに乗ろうとしていましたが、衣通姫が来たことによって、皇子は叛意を無くします。石木は衣通姫に自害を勧め、瀕死の姫を見た皇子は自害。石木は反乱を続行して畿内をめざし、穴穂皇子に鎮圧されます。
で、宝塚です。
近親相姦の話は避けて、軽皇子と穴穂皇子、二人の兄弟が子供のころ、父帝が焼き討ちにしたツチグモ(支配下にない人々)の村で赤子をひろい、二人の妹として育てられたその赤子が、衣通姫です。したがって血はつながっていないのですが、衣通姫は長じて巫女となり、男子禁断、言葉を交わすことさえ許されません。軽皇子も穴穂皇子も、衣通姫に恋心を抱きますが、穴穂皇子が兄に代わって皇位を望んだのは、結局、その出生の秘密ゆえです。
軽皇子と衣通姫は通じたとされ、いったん、衣通姫が流罪と決められますが、軽皇子が姫をかばい、代わりに伊予へ流罪。軽皇子は自らツチグモの王となって兵を集め、畿内へ攻め上る準備をしています。
衣通姫は巫女の任を解かれ、穴穂皇子の妻となっていますが、心は軽皇子にあり、脱出して、伊予へ向かいます。
穴穂皇子は伊予まで討伐に向かい、軽皇子は「二人で逃げてひっそりと暮らしましょう」という衣通姫の提案を拒み、衣通姫一人を逃がし、穴穂皇子を迎え撃ちます。しかし、衣通姫は案内役のツチグモをかばって死に、軽皇子は穴穂皇子との一騎討ちで戦い敗れて死にます。
文句から言いますと、まずツチグモの描き方がとても奇妙です。
衣通姫伝説の時代は、倭の五王の時代であろうと、おおまかに推測されています。つまり、中国の南宋に使いを出した畿内の王の記録が残っている5世紀なんです。巨大前方後円墳が築かれた時代でもあります。現在、畿内の前方後円墳は治水に関係していたのではないか、という説が、有力になりつつあります。
ツチグモとは、畿内政権に服従しない豪族の一党であって、百姓一揆の民とはちがいます。
伊予にも一応、前方後円墳がありまして、畿内と関係の強い豪族がいたのではないかと推測できます。
なにが腹が立ったって、「ここにいては飢え死にするばかり。早く豊かな畿内の土地をみなで奪ってください」というようなことを、ツチグモの一人が言って、伊予で飢え死にしていくところです!!!(笑)
伊予は、豊かな土地なんです!!!
時代は下りますが、聖徳太子が伊予の湯を訪れ、「神の恵みでわき出でる温泉は、庶民をも公平に癒やす。極楽浄土の蓮の池のようなものだ。椿が花咲き、実るこの温泉で、ゆっくりと憩いたい」というような碑文を残した、と言われているんです。
日本書紀で軽皇子が弟に追い詰められて果てたのは、畿内でのことですし、伊予の湯に流されたのは妹一人です。
一方、古事記では、「玉のように美しい妹、鏡のように輝く妻よ、生まれ育った飛鳥ももう恋しくはない。君がいる場所が、家であり故郷だよ」と歌って、二人は伊予の湯で心中して果てたというんです。
伊予から畿内まで攻め上ろうとしたといいますのは、現代人である三島由紀夫と上田久美子氏だけでして、ありえないことです。伊予の一般庶民が、畿内に攻め上って、なんのいいことがあるでしょう?
もしも本当に、軽皇子と衣通姫が伊予の湯に流されていたとしましたら、地元の豪族にけっこう大事にされ、温泉三昧の日々だったと思います。
そして、もしも本当に心中して果てたとしましたら、それは、自分たちは生まれながらに国のまほろば(文化の中心)に居るべき大王とその妃である、という誇りゆえだったでしょう。
とはいうものの、衣通姫伝説ではなく、古事記も日本書紀も関係のないファンタジーだとして見れば、いいお話でした。
軽皇子と衣通姫、穴穂皇子の関係性が上手く描かれていて、珠城りょう、咲妃みゆ、鳳月杏の三人も好演でした。
そうです。咲妃みゆさん、この一年前の「春の雪」では、聡子のイメージじゃない、と思ったのですが、「月雲の皇子」の可憐な衣通姫はぴったりで、演技もすぐれていました。
軽皇子はそのやさしい気質のままに、弟の手にかかって死ぬことを望みますし、出生の秘密故に心を鬼にしていた穴穂皇子も、最後に「この事件は史書ではなく、美しい歌物語として残せ」と命じ、兄への愛をにじませます。「なんのために?」と聞かれ「わからん」と答えるのですが、渡来人にはわからずとも、日本列島の住人には、わかるはずなのです。
古来、我が国の美しい歌物語は、鎮魂のためにあります。
唯一、しっくりこなかった人物造形は、兄弟の母、大中津姫(おおなかつひめ)です。日本書紀では、相当に気性の激しそうな女性として描かれているのですが、それよりこの物語では、穴穂皇子の出生の秘密にかかわって、悲劇の種をまいた当人です。知らん顔しすぎじゃないか、と思えます。またもしかして、それが渡来人の嘘であったとするならば、嘘にふりまわされた兄弟の行為が、虚しいだけのものになってしまいます。
それをのぞけば、ほんとうによくできたお話でした。
ただ、古事記と日本書紀をもとに、長らく私が思い描いてきた軽皇子は、「月雲の皇子」のように気の優しい人ではありません。
並みはずれて美しく、異常なまでに誇り高く、氷の炎につつまれて‥‥、宝塚でだれかが演じるとすれば、そう、明日海さんしかいません!!!(笑)
上田久美子氏は、翌2014年、宙組の別箱で『翼ある人びと -ブラームスとクララ・シューマン-』、2015年大劇場デビュー作雪組の『星逢一夜』と、どちらも大評判でした。
そして、「金色の砂漠」です。
「神話だと思ってもらえればいい」というようなお話で、ペルシャっぽくはあるのですが、ある砂漠の中の国、という以外、時代も場所もわかりません。「月雲の皇子」みたいに特定してしまいますと、私のように不満を抱く観客も出かねませので、これは、正解だったと思います。
私、いったいなんで見たのか思い出せないんですが、「ポーの一族」製作の話が持ち上がったころには、テレビで一見していた記憶があります。現在は円盤を買って、幾度も見返しています。もちろん、キキちゃんにはまったがゆえに、です。
花組公演『雪華抄(せっかしょう)』『金色(こんじき)の砂漠』初日舞台映像(ロング)
上の初日舞台映像は、和物のショーが先にあって、その後です。
最初見たとき、妙に既視感があったんです。
アムダリアって、ウズベキスタンの方だよね。ジャハンギールって、ムガール帝国? でもイスファンとか言ってるから、ペルシャ? イスファンディヤールにパードゥシャーって、ペルシャ語? ガリアって呼び名は、ローマ時代のものだよね。古代ペルシャっぽいけど、たしかに、いつとも、どことも特定できない! にしても、この既視感はなに?
やがて、ふと、思い当たったんです。これ、「嵐が丘」だよねえ!
「嵐が丘」は、1847年、明治維新のおよそ20年前に出版された、イギリスの小説です。
作者のエミリー・ブロンテは牧師の娘で独身。二十代にこの長編を書き、三十歳で世を去っています。
舞台は、18世紀末から19世紀初頭。ナポレオン戦争の最中のはずですが、そんな世間とはまったく隔絶した、閉鎖的なヨークシャーの田舎が舞台です。これもまた、神話ともいえるような物語なんです。
主人公の二人、キャサリンとヒースクリフは、荒野から生まれ出たように、激しく、強烈な個性の持ち主で、魂が呼び合うように、深く愛しあっていました。しかし、置かれた境遇ゆえに傷つけあい、それぞれに、互いを渇望しながら世を去ります。
孤児だったヒースクリフは、下人のように扱われていたことで、キャサリンに裏切られ、復讐の鬼と化すのですが、イメージとしては、無骨で、荒々しく、粗野で、一見、明日海さんとは正反対です。
まさか宝塚でやってないよね、と思ったら、やっていました! 1997年のバウ公演。ヒースクリフは和央ようかさんです。
ネットで感想を見てみましたところ、和央さんは、汚れ役に徹して、ものすごい迫力で好演なさっていたみたいです。暗く、登場人物はいやな性格なのに、なぜかもう一度見たくなる作品、という声がありましたので、かなり原作に忠実だったのでしょう。
「金色の砂漠」については、主演の明日海さんご本人が、「その人の個性にあわせて当て書きをしていただけて幸せ」と言っておられます。そして実際、主要登場人物の演技が、その人にぴたりと合って、実にすばらしいものでした。
その昔、武人ジャハンギールは、砂漠の王国・イスファンに攻め入り、王を殺して国を奪い、王妃アムダリヤを自分の妃に望みます。アムダリヤには二人の幼い男の子がいて、その命とひき換えに、夫を殺した男の妻になることを承諾します。
イスファンには奇妙な風習があり、王族の女の子には男の子を、男の子には女の子を、幼いころから寝起きをともにさせ、特別な奴隷として、一生、身の回りの世話をさせます。
ジャハンギールには側室との間に作った三人の王女があり、アムダリヤの子供のうち兄のギィは第一王女タルハーミネの、弟のジャーは第二王女ビルマーヤの奴隷となります。しかし、ギィとジャーは自分の生まれを知りません。
ギィとタルハーミネ、ジャーとビルマーヤは、年頃になり、それぞれに恋心を抱くのですが、それは、まったくちがった形をとりました。
美しく育ってゆくタルハーミネへの思いが、いつしか狂おしいものとなり、ギィは苦悶します。身分のちがいで、絶対に手に入れることができない、幼なじみの少女の着替えをさせ、毎夜、同じ部屋で寝るしかないんです。
「おかしい!」と理不尽な境涯を訴えるギィに、アムダリヤつきの奴隷・ピピは諭します。
「ギイ、愛には2種類ある。相手を自分のものにしたいという愛と、相手の幸せにつくす愛。つくす愛を選びなさい」
しかし、相手の性格というものもあります。我が強く、わがままなタルハーミネを愛したギイは、相手を自分のものにしたいという熱情に身を焼きます。一方、弟のジャーが相手の幸せにつくす愛を選べたのは、ビルマーヤもまた愛するジャーを思いやり、その幸せに尽くそうとしていたからです。
そうです。ギィはヒースクリフで、タルハーミネはキャサリン。
もちろん、明日海さんがギイで、花乃さんがタルハーミネ。
ジャーがキキちゃんで、ビルマーヤは桜咲彩花さん、べーちゃんです。
べーちゃんはキキちゃんと同期で、去年、卒業なさいました。花組「オーシャンズ11」の新人公演では、相手役を務めています。
ありえないほどやさしすぎる二人の愛に説得力を持たせるのが、二人のデュエットです。
ジャーとヴィルマーヤが、「あなたを守りたい、あなたをささえたい。親しいその命を、変わらぬ心で」と歌を重ねるその響きの美しさは、トップ二人のデュエットに勝るほどで、胸に迫ります。
私は昔から、自己主張が強く、激しすぎて、悲恋に終わるような物語が好きで、だから、少女のころ、「嵐が丘」は愛読書でした。
明日海さんのギイ、花乃さんのタルハーミネは、ともに誇り高く、激しく感情をぶつけ合い、気がついたときには押さえようもない情炎につつまれて、破局を迎えます。
当然のことながら、最初見たときは、この二人に目を奪われていました。
物語に厚みを持たせているのが、鳳月杏さんのジャハンギールと、仙名彩世さんのアムダリヤです。
ちなつさん(鳳月さん)は、「月雲の皇子」に続く、上田作品での敵役ですが、実に重厚に、無言のうちにアムダリヤへの深い思いが伝わるように、見事に、ジャハンギールという武人を演じておいででした。
仙名彩世さんは、花組育ちのベテランとして、次の娘役トップを務められ、多くの作品を残されました。
しかし、この王妃アムダリヤは、感情を抑えた静かな演技で、息子たちへの愛と、夫を殺した男への愛に引き裂かれる悲哀をにじませて、私はもっとも似合っておられたように感じられ、忘れがたい名演です。
ギィはタルハーミネと情を通じ、愛を確かめ合うのですが、事の成り行きから、タルハーミネ本人に死刑を宣告され、責め殺されかかっていました。その地下牢へ、ひそかにアムダリヤが訪れ、初めて、ギィとジャーにその身分を明かし、ギィを逃がし、ジャーには、「兄についていくか、ここに残るか、思いのままにしなさい」と告げます。
ジャーは残り、ギィは砂漠で、先王の遺臣のなれの果ての盗賊たちの仲間に入り、七年の後、復讐のためにイスファンの王宮へ帰ってきます。
ジャーは、ビルマーヤとその夫(天真みちるさん、好演でした!)を背にかばい、兄と戦います。
最初これを見たときは、「なにしてるのキキちゃん!!! ありえないっ!!! 兄さんに協力しなさいよっ!」と思わず叫んだのですが、円盤を見返していても、最初のうちは、「兄さんに協力して、兄さんが王になったら、ビルマーヤさんとその旦那は、協力に免じて許してもらうのが筋よねえ」と思っていました。
タルハーミネはガリアの末の王子テオドロスを婿に迎え、男の子を産んでいましたが、夫との間は冷え切っていました。
そもそもテオドロスが、「奴隷に無理矢理犯された、あの奴隷は死刑だと宣言すれば、あなたの命は助かり、結婚の約束もそのままに履行する」と言ったことで、タルハーミネは王女の誇りに固執し、愛するギィを見捨てました。
テオドロスは柚香光さんですが、これも好演でした。
この方は美しいのですが、明日海さんとはまた、全然タイプがちがいます。
とても現実的で、人間的なんです。唯一、『愛と革命の詩-アンドレア・シェニエ-』で演じた黒天使は、人間離れした美しさでしたが、このときは、歌わず、しゃべらず、踊るだけでした。
テオドロスは、とても合理的な人物で、砂漠の特別な奴隷の風習を「奇妙だ。やめるべき」とはっきり言うなど、いわば、現代人である観客の代弁者でもあります。
一人、強烈な異国感をただよわせ、短いながら独唱があるんですが、音程が揺れ、歌詞が聞き取り辛い、その下手さ加減がまた、異国感にプラスしていました。上田先生の演出の妙、ですよねえ。
テオドロスは、妻も子も捨てて、城を出てゆきます。
ギィはアムダリヤを背にかばって戦うジャハンギールを斬り殺し、新しい王となります。同時に、タルハーミネを妻にする、と宣言。
このとき、ジャーが叫ぶんです。「兄さん、その人の父がぼくたちの母にしたことを、今度はその人にしようというのか! その人に母さんと同じ苦しみを与えようというのか!」
私、何度目かにこの言葉を聞いたとき、はじめて覚りました。
ジャーは、ビルマーヤのためだけではなく、母のために城に残り、ジャハンギールを愛してしまった母のために、戦ったんです!
ジャーは、最初から語り手でもあります。
「なぜぼくが語り部なのかって? 仕方ありません。みんな、もういなくなってしまいました。ほら。砂まじりの熱い風が吹いてきました。砂漠からの風が吹くこんな夜には、なつかしい人たちの魂がもどってくるような気がするのです」
このキキちゃんの声の響きが、遠く、なつかしい人たちの魂にまで届くようで、やさしく、物語に誘われます。
そして、幾度もくりかえされる主題歌が、なんとも美しく、耳に残るんです。
もちろん、明日海さんの独唱もすばらしいのですが、乙羽映美さん、朝月希和さん、音くり寿さんのカゲソロも、それぞれにいいんです。
砂漠の表現も幻想的で、限りある命を人が生きることへの哀惜と鎮魂が、感じられる舞台だと思います。
明日海さんのまぎれもない代表作であると同時に、キキちゃんにとっても、転機となった作品ではなかったのかと、今にして思います。生で見たかった!
続きます。