このお題で、えっ? と思われるかもしれませんが、町田にいさんと薩摩バンドと、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟の続きです。
薩摩藩が、幕末からイギリス式の兵制に習っていたことは、中岡慎太郎が書き残しています。
以下、慶応3年9月21日、慎太郎より国許の大石彌太郎宛書簡より。
兵談
一、薩藩の兵制、全く英制に改まりたり。この改正は長州の改制より眼を開きし故、去る亥年以来の改制なり。それまでは古流なりし。然るに古流なりし時といえども、士分一統みな総筒の制にありしゆえ、変革も他藩と違ひやすきなり。
一、薩藩兵士といふは、みな士分のみにて、足軽は兵士にあらず、士間たいてい極く小禄にて御国の足軽よりも窮せる者多し。少々給を遣はしむれば悦んでなるなり。これ他藩になきところなり。
薩摩藩の兵制は、すっかりイギリス式に改まったよ。この改正は、長州の改正を見て亥年(長州に習って亥年、文久三年というのはちょっと疑問なんですが)以来やってきたことなんだ。それまでは古流(合伝流)だったけどね、薩摩は古流といっても、士分がみな銃をもつ習わしだったので、他の藩とちがって簡単にできたんだよ。薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね。
薩摩の古流というのは、合伝流のことです。
薩摩藩では、戦国時代には、武士身分のものがそれぞれに鉄砲を持って戦ったのであって、足軽というのは、その武士について槍を渡したりするだけで、戦闘要員ではなく、鉄砲足軽などというのは藩政時代(江戸時代)になって、実際に戦わなくなってからできたんだ、として、幕末、士族こそが鉄砲を持つべきだ、という意識を、薩摩では早くから浸透させていました。
それに加えて、薩摩は武士の数が多く、城下士でも、桐野やら黒田清隆みたいに、四石だの五石だの、農民から土地を借りたり、あるいは開拓したりで、農業をしなければ食べていけないれっきとした士族が、多数にのぼったんです。
明治初年、各藩主から太政官に提出した藩の禄高と士数が残っています。(林義彦著「薩藩の教育と財政並軍備」より)
鹿児島藩 43119戸 20.1石(一人あたり平均石高)
熊本藩8050戸(97.6石) 久留米藩948戸(386.3石) 徳島藩2100戸(210.8石)
高知藩7269戸(68.1石) 山口藩3000戸(123.1石) 岡山藩2711戸(167.5石)
広島藩1780戸(274.1石) 姫路藩706戸(212.4石) 鳥取藩1710戸(250.3石)
彦根藩1251戸(162.9石) 金沢藩7797戸(173.5石) 秋田藩3219戸(103.1石)
弘前藩2066戸(132.8石)
鹿児島藩の士族戸数43119戸は、他の13藩をすべてあわせたと同じくらいあります。そして、士族一人あたりの平均石高は極端に少なく、他に100石以下のところといえば、高知藩68.1石、熊本藩97.6石で、どちらも勇猛といわれた藩ですが、高知でも薩摩の3倍以上ありまして、中岡慎太郎がいっていることを裏付けています。
これはもちろん、郷士の数が多かったためなのですが、城下士もまた平等に貧しく、相当な兵力となったことを、以下の慶応元年鹿児島城下士の戸数が裏付けています。
一門4家 一所持21戸 一所持格41戸 寄合54戸 寄合並10戸
無格(小番の上位で寄合並の下位) 2戸
小番(一代小番は小姓與に合算す)760戸
新番(一代新番は小姓與に合算す) 24戸
小姓与 3094戸
この最後の小姓与というのが、歩兵となった人々で、西郷隆盛も大久保利通も黒田も桐野も、みんなこれに属します。
そして、これは一戸の数ですから、一戸に男子数人はざらですし、鹿児島城下のみで、およそ1万の歩兵動員が可能であったといわれます。
ただ、中岡慎太郎がいう薩摩の兵制については、多少の事実誤認がありまして、「古流」とされる、士族がみな鉄砲を持って歩兵となる制度が薩摩にしかれたのは、島津斉興(藩主1809-1851)の時代でして、同時に藩士が長崎の高島秋帆から砲術を習い、天保13年(1842)には、オランダ式軍制採用となります。
これは、オランダ式といいましても、高島秋帆流です。オランダ語の軍書をもとに、勝手に工夫するわけです。
嘉永4年(1851)、斉彬公が藩主となりますと、オランダの歩兵操典を独自に翻訳させたり、フランスの軍学書も研究させたともいわれるんですが、あるいは、高野長英の『三兵答古知幾』かもしれず、そうだとすれば実はプロシャ式ということになりますが、ともかく、独自の洋式軍制を採用します。ただ、これには高島流砲術家の反発があったといわれます。
で、オランダ式とかフランス式とかいいましても、翻訳軍書を参考にして、独自にやるわけです。
唯一、実地で勉強できただろう機会は、安政2年(1855年)から長崎で行われた幕府のオランダ海軍伝習で、海軍といいましても、海兵隊の陸戦訓練もありますから、西日本各藩では、それを目当てに藩士を派遣したところも多かったんです。薩摩も五代友厚をはじめ16人派遣していますから、かなり参考になったかと思われます。
中岡慎太郎がイギリス式といっていますのは、赤松小三郎が翻訳した軍学書を、多少参考にした程度のことだと思われ、ただ、もしかしますと、イギリスは横浜に陸軍を駐屯させていましたから、薩摩とイギリスの関係を考えれば、ひそかに見学に人を出した、程度のことはあったかもしれませんし、また町田にいさん、久成をはじめ、帰国した留学生たちが、軍書翻訳などに参加したか、とも思われます。
もちろん、長州だとて勝手式洋風で、この当時、本格的に洋式を採用していましたのは、フランスの陸軍伝習がはじまりました幕府だけです。
で、ちょうど中岡慎太郎が、薩摩の兵制がイギリス式である、と書いた直前のことです。以下、慶応3年8月に本田親雄が大久保に宛てた書簡。
仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)
くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです。
実のところ、このころグラバーは金に困っていた様子でして、また先年五代がグラバーに注文した汽船は小さなもので、なおトラブルを起こしたようなのですね。
五代の上海行きは、軍艦調達もかねたものでして、実際、このとき薩摩は、モンブランの世話により、本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を購入することができています。
これはイギリス船籍の船だったのですが、モンブランに資金力があったゆえなのか、フランス人のモンブランが仲買し、イギリス商人仲間では、薩摩はなかなかいい買い物をし、モンブランもいい商売をしたものだ、とうらやまれていたようです。
幕府との開戦をひかえて、およばずとも、せめて一隻は幕府の軍艦に匹敵するものが欲しかったのでしょうし、小銃5000挺や大砲20門も、あって困るものではないでしょう。
どうやら薩摩が困っていたのは、兵制であったようです。
あるいは、海陸ともにイギリス式兵制をとると、イギリス公使館と密約があったのかもしれないですね。
とすれば、この当時から横浜駐屯イギリス陸軍に、人を派遣していたことも、なかったとはいえません。
実際、「幕末明治実歴譚」の「村田銃発明談」には、村田銃を開発した村田経芳や吉井友実など、薩摩藩士10名あまりが、横浜から江戸の英国公使館に派遣されていた英国陸軍と、競射をした話が見えます。
当時、薩摩が採用していた銃は、先込めの施条銃で、イギリス制のエンフィールド銃だったようです。
ところで、モンブラン伯爵が持ち込んだ銃は、なんだったのでしょうか。
キャンスーと同じく、銃は買う、と薩摩藩がすぐに決めたところをみますと、後装銃だったのではいかと思われます。あるいは幕府と同じくフランスのシャスポーだったのではないか、と推測するのですが、キャンスーがイギリス製だったことを考えますと、ウェストリー・リチャード銃か、スナイドル銃 であった可能性もあります。
これを薩摩が、一部、鳥羽伏見から使ったのではないか、と思われる証拠が、やはり「村田銃発明談」に出てきます。
村田経芳は、鳥羽伏見の戦いに参戦したのですが、村田の所属した一隊は、桑名兵と接戦し、桑名兵が築いた台場を落とせないでいました。
そこへ現れたのが、桐野、中村半次郎です。
「村田君、こんな小さな台場がなぜ落ちぬか。あまり手間が取れるではないか」
と、怒るのですが、激戦につきあい、桑名藩士が、大胆にも台場の上に出て、膝打ちで狙った弾が桐野の頭上をかすめ、納得しました。
で、そのとき桐野は、「自分がいま持っている銃は、大久保からもらったんだが、弾のこめかたがわからないから教えてくれ」と、村田に言います。
このエピソードを、たしか司馬遼太郎氏が、「桐野は刀ばかり使ってきたから弾のこめかたも知らなかった」というような話に使われていたと思うんですが、「村田銃発明談」には、以下のようにあります。
村田氏は激戦中なれども、やむをえずこれを取りて一見せしに、かねて自分の欲している英国発明のウェストリー・リチャードといえる後装銃にして、これをその時代で刀剣にたとうれば、あたかも正宗の如きものである。また上等の銃ゆえその弾丸を一々これを紙に包んであった。
要するに後装銃で、これまで慣れて使ってきた前装銃とは勝手がちがったんです。
上野戦争で、長州兵がはじめて支給されたスナイドル銃にまごついた話と同じです。
ちなみに、薩摩藩兵の銃は、基本的には自前です。藩がまとめて買ってきて、それを藩士に買わせるんです。
大久保から桐野が後装銃をもらったんなら、あるいは開戦を前に、薩摩は大盤振る舞いをしたのではないか、とも考えられる………、かもしれません(笑)
だいぶん話がそれましたが、ともかく薩摩は、モンブランから武器は買いましたが、海陸兵制をフランス式にすることは、断りおおせたようなのですね。
ちなみに、このときモンブランが連れてきた人材のうち、鉱山技師のF. コワニーは、薩摩藩密航留学生でフランスに留学していた朝倉盛明(田中静洲)とともに、明治元年、新政府に傭われ、ともに生野銀山の近代化に努めることとなりました。ここの付属学校で学んだ高島北海が、やがてフランスに渡り、アール・ヌーボーに多大な影響を与えることとなるのも、奇妙な縁です。
明治2年2月、薩摩は陸海ともにイギリス兵制をとることを、正式に決定します。
これは、あるいはイギリス公使館からの働きかけもあったかと思うのですが、それよりも、幕末以来ずっと、薩摩が海軍を重視していたことが大きいでしょう。
イギリスとフランスは対照的でして、当時のイギリス海軍、ロイヤル・ネイビーは、欧州で絶対的な優位を誇っていましたが、これに金がかかるので、陸軍は徴兵制をとらず、志願兵制で、規模が小さかったのです。
一方のフランスは、大陸にありますから、当然陸軍重視で、海軍はとてもイギリスにかなうようなものでは、ありませんでした。
この時点で、陸軍もイギリス式を、と進言した人物としては、町田にいさん、久成が考えられます。
イギリス陸軍の演習参加、などもしていたようですので、イギリスの兵制は、十分に見学してきたといえるでしょう。
町田にいさんと薩摩バンドにありますように、この5月から、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、薩摩バンドの結成も決まったんです。
ところが長州は、陸軍をフランス式にしました。
理由ははっきりとはわかりませんが、一つには、海軍軽視です。
明治初頭の藩政改革で、各藩の陸軍は、主にフランスかイギリス、そしてオランダ兵制を採用しますが、薩摩と同じく海軍を重視していた佐賀は、イギリス兵制です。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きましたが、松島剛蔵の死後、長州海軍には人材がなく、高杉晋作が引き受け、その死後は、前原一誠が継ぎます。
しかし前原は、政治的力量があるわけではなく、大村益次郎が陸軍の重鎮としてある長州では、海軍はすみに追いやられていた、といえるでしょう。
ともかく、それで長州は、新政府の兵制もフランス式にしようとするのですが、これは、理由のないことではありません。
幕府が、フランス陸軍の伝習を受けていましたし、フランス肝いりの横須賀製鉄所(造船所)もあって、幕臣を採用すれば、フランス語やフランス陸軍の知識をもった人材が、けっこういたからです。
ここに、長州VS薩摩の兵制論争がはじまります。
大陸陸軍を持つのか、それとも海防を重視するのか、国の防衛の基本となることですので、どちらもゆずりません。海陸どちらにお金をかけるか、ということでもありますしね。
ただ、長州側の言い分を考えるならば、海は薩摩の主張通りイギリスに決めたのだから、陸はゆずってフランスにしようぜ、ということだと思います。
とはいえ、大陸陸軍をもってしまえば、海軍にかける予算は少なくなりますわね。
で、降着状態を打破しようと、木戸孝允が思いついた案が、西郷従道を、山県有朋とともに、兵制視察に送り出す話じゃ、なかったでしょうか。(モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟参照)
この西郷従道と山県有朋の洋行の記録を、見つけることができないんですが、伝記でもさがして読むしかないんでしょうか。
どうせ、書いていないと思うんですが、二人のあとを追いかけるように洋行した御堀耕助は、モンブラン伯爵といっしょだったんです。
しかもモンブラン伯爵は、日本のパリ在住総領事として、赴任するところだったのです。
これは、どう見ても、木戸孝允の作戦勝ちだったでしょう。
なにしろモンブラン伯爵は、薩摩にフランス式兵制をとれ、と迫っていたのですから。
しかも、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れvol2に出てきますが、モンブラン伯の「御妹子」が結婚した男爵は、どうやら、フランス陸軍の関係者のようなのです。
妄想をたくましくすれば、です。
明治2年3月22日、モンブラン伯爵は薩摩で、忠義公に謁見し、ナポレオン3世から預かってきた品を贈ったことが記録にありますが、それ以降、同年11月24日に横浜から船出するまで、なにをしていたかは、さっぱりわかっていません。
ただ、この時期、日本とフランスのトラブルとして、ブリュネ大尉以下、函館戦争に参加していたフランス人の問題があります。(函館戦争のフランス人vol1、vol2、vol3参照)
これは外交問題に発展していましたから、モンブラン伯爵が仲介に入った可能性は高く、明治初年の京都とともに、木戸孝允がモンブラン伯爵と知りあっていた可能性はあります。
さらにもう一つ、後に山県有朋の陸軍省汚職に関連して割腹自殺する山城屋和助(長州・奇兵隊出身)が、横浜に店を出しています。明治時代の噂話では、さる人物が函館戦争の様子を外国人からさぐりださせるため、金を出して和助に店をもたせたのだ、というのですが、それを裏づけるかのように、木戸孝允の日記には、明治2年2月4日「薄暮帰寓于時野村道三来り横浜の事を話す」とあるんだそうです。野村三道というのが和助のことでして、和助が来て横浜のことを話した、というんですね。以降、和助の名はちょくちょく日記に見られるそうです(fhさま、ありがとうございました)
ここで、気になってきますのが、モンブランが持って来たというフランス軍服です。薩摩藩兵がフランス軍服を着ていた、という話は聞いたことがありません。
和助が買い入れて、長州軍なり、後に新政府なりに納入した、という話は、十分考えられると思うのですが。
西郷従道、山県有朋、御堀耕助の帰国が、明治3年8月2日です。
8月28日には、山県が兵部少輔となり、西郷従道が権大丞になり、そして長州における唯一の海軍理解者、前原一誠が兵部大輔を辞任します。
このころ、薩摩藩は、桐野が大隊長を務める1番大隊、野津七左衛門(鎮雄)大隊長の4番大隊、そして大山巌が隊長の大砲隊を東京に出しています。が、大山巌は、普仏戦争観戦のため、8月28日、横浜から船出します。
で、明治3年9月8日、君が代誕生の謎で述べましたように、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで薩摩バンドは、フェントン採譜、編曲の君が代を演奏します。つまり、このとき桐野は、大隊指揮官として、演習に参加していたわけですね。
その直後、突如として薩摩藩兵は、薩摩へ引き上げ、東京をからにします。もちろん、生まれたばかりの薩摩バンドもいっしょです。
これは、あきらかに、フランス兵制採用への抗議でしょう。
桐野たち薩摩藩兵は、9月17日に鹿児島へ帰り着き、「徴兵解免の願書」を提出します。この場合の徴兵というのは、藩兵が新政府に徴兵される、つまり朝廷の御用を勤めることです。
が、おそらくは、大久保利通と西郷従道の必死の説得があったのではないでしょうか。
10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが公式発表され、同時に薩摩藩でも、陸軍はフランス式に転換することが決定します。
当時、横浜には、イギリス、フランスの陸軍が駐屯していまして、海軍がイギリス、陸軍がフランスと、フランスに花をもたせることで、引き上げ交渉をうまく進める含みもあったのではないか、というような話も出ています。
大久保利通は懲りたんでしょうね。
この年の閏10月2日には、薩摩藩密航留学生だった鮫島尚信を欧州公使にしまして、モンブラン伯爵を解任します。(fhさまの前田正名に躓いたこと参照)
森有礼と鮫島は、ハリスの新興宗教にすっかりはまりこんでいたのですが、薩摩藩が、ひそかにハリスに二人の帰国費用を払い、帰国するようしむけたものです。
その鮫島が、山城屋和助のパリでの豪遊を怪しいと見て、知らせるんですから、まあ勘ぐれば、イギリスに寺島宗則、フランスに鮫島、アメリカに森有礼と、主要国にいち早く薩摩出身者を配した大久保利通の処置は、兵制論争に敗れた反省からと、とれないこともありません(笑)
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薩摩藩が、幕末からイギリス式の兵制に習っていたことは、中岡慎太郎が書き残しています。
以下、慶応3年9月21日、慎太郎より国許の大石彌太郎宛書簡より。
兵談
一、薩藩の兵制、全く英制に改まりたり。この改正は長州の改制より眼を開きし故、去る亥年以来の改制なり。それまでは古流なりし。然るに古流なりし時といえども、士分一統みな総筒の制にありしゆえ、変革も他藩と違ひやすきなり。
一、薩藩兵士といふは、みな士分のみにて、足軽は兵士にあらず、士間たいてい極く小禄にて御国の足軽よりも窮せる者多し。少々給を遣はしむれば悦んでなるなり。これ他藩になきところなり。
薩摩藩の兵制は、すっかりイギリス式に改まったよ。この改正は、長州の改正を見て亥年(長州に習って亥年、文久三年というのはちょっと疑問なんですが)以来やってきたことなんだ。それまでは古流(合伝流)だったけどね、薩摩は古流といっても、士分がみな銃をもつ習わしだったので、他の藩とちがって簡単にできたんだよ。薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね。
薩摩の古流というのは、合伝流のことです。
薩摩藩では、戦国時代には、武士身分のものがそれぞれに鉄砲を持って戦ったのであって、足軽というのは、その武士について槍を渡したりするだけで、戦闘要員ではなく、鉄砲足軽などというのは藩政時代(江戸時代)になって、実際に戦わなくなってからできたんだ、として、幕末、士族こそが鉄砲を持つべきだ、という意識を、薩摩では早くから浸透させていました。
それに加えて、薩摩は武士の数が多く、城下士でも、桐野やら黒田清隆みたいに、四石だの五石だの、農民から土地を借りたり、あるいは開拓したりで、農業をしなければ食べていけないれっきとした士族が、多数にのぼったんです。
明治初年、各藩主から太政官に提出した藩の禄高と士数が残っています。(林義彦著「薩藩の教育と財政並軍備」より)
鹿児島藩 43119戸 20.1石(一人あたり平均石高)
熊本藩8050戸(97.6石) 久留米藩948戸(386.3石) 徳島藩2100戸(210.8石)
高知藩7269戸(68.1石) 山口藩3000戸(123.1石) 岡山藩2711戸(167.5石)
広島藩1780戸(274.1石) 姫路藩706戸(212.4石) 鳥取藩1710戸(250.3石)
彦根藩1251戸(162.9石) 金沢藩7797戸(173.5石) 秋田藩3219戸(103.1石)
弘前藩2066戸(132.8石)
鹿児島藩の士族戸数43119戸は、他の13藩をすべてあわせたと同じくらいあります。そして、士族一人あたりの平均石高は極端に少なく、他に100石以下のところといえば、高知藩68.1石、熊本藩97.6石で、どちらも勇猛といわれた藩ですが、高知でも薩摩の3倍以上ありまして、中岡慎太郎がいっていることを裏付けています。
これはもちろん、郷士の数が多かったためなのですが、城下士もまた平等に貧しく、相当な兵力となったことを、以下の慶応元年鹿児島城下士の戸数が裏付けています。
一門4家 一所持21戸 一所持格41戸 寄合54戸 寄合並10戸
無格(小番の上位で寄合並の下位) 2戸
小番(一代小番は小姓與に合算す)760戸
新番(一代新番は小姓與に合算す) 24戸
小姓与 3094戸
この最後の小姓与というのが、歩兵となった人々で、西郷隆盛も大久保利通も黒田も桐野も、みんなこれに属します。
そして、これは一戸の数ですから、一戸に男子数人はざらですし、鹿児島城下のみで、およそ1万の歩兵動員が可能であったといわれます。
ただ、中岡慎太郎がいう薩摩の兵制については、多少の事実誤認がありまして、「古流」とされる、士族がみな鉄砲を持って歩兵となる制度が薩摩にしかれたのは、島津斉興(藩主1809-1851)の時代でして、同時に藩士が長崎の高島秋帆から砲術を習い、天保13年(1842)には、オランダ式軍制採用となります。
これは、オランダ式といいましても、高島秋帆流です。オランダ語の軍書をもとに、勝手に工夫するわけです。
嘉永4年(1851)、斉彬公が藩主となりますと、オランダの歩兵操典を独自に翻訳させたり、フランスの軍学書も研究させたともいわれるんですが、あるいは、高野長英の『三兵答古知幾』かもしれず、そうだとすれば実はプロシャ式ということになりますが、ともかく、独自の洋式軍制を採用します。ただ、これには高島流砲術家の反発があったといわれます。
で、オランダ式とかフランス式とかいいましても、翻訳軍書を参考にして、独自にやるわけです。
唯一、実地で勉強できただろう機会は、安政2年(1855年)から長崎で行われた幕府のオランダ海軍伝習で、海軍といいましても、海兵隊の陸戦訓練もありますから、西日本各藩では、それを目当てに藩士を派遣したところも多かったんです。薩摩も五代友厚をはじめ16人派遣していますから、かなり参考になったかと思われます。
中岡慎太郎がイギリス式といっていますのは、赤松小三郎が翻訳した軍学書を、多少参考にした程度のことだと思われ、ただ、もしかしますと、イギリスは横浜に陸軍を駐屯させていましたから、薩摩とイギリスの関係を考えれば、ひそかに見学に人を出した、程度のことはあったかもしれませんし、また町田にいさん、久成をはじめ、帰国した留学生たちが、軍書翻訳などに参加したか、とも思われます。
もちろん、長州だとて勝手式洋風で、この当時、本格的に洋式を採用していましたのは、フランスの陸軍伝習がはじまりました幕府だけです。
で、ちょうど中岡慎太郎が、薩摩の兵制がイギリス式である、と書いた直前のことです。以下、慶応3年8月に本田親雄が大久保に宛てた書簡。
仏人モンフランと申者、海陸軍士官両名ツヽ・地学者両人・商客両人・従者壱人を岩下大夫被召列、不日入津之筈、小銃五千挺、大砲廿門、右之員数之仏服一襲ツヽ強て御買入候様モンフラン申立、且兵式も仏則ニ可建と之云々、洋地ニおひて世話ニ相成候付、無下ニ理りも立兼候容子共、渋谷・蓑田之両監馳帰候始末ニ付、伊地知壮州出崎、右銃砲之代価乍漸相調候て、此よりハ薩地江不乗入様理解之為、五代上海へ参る等、新納大夫出崎、崎陽ニて右仏人江御談判、海陸二事件御辞絶いつれも拙之拙成跡補、混雑之次第(以下略)
くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
フランス人のモンブランというものが、海陸軍士官二名づつ、地学者二名、商人二名、従者一人をつれ、これをパリ万博に行っていた岩下方平が全部連れ帰っているようで、そのうち長崎に着くはずですが、モンブランは、小銃5000挺、大砲20門、これだけの人数(5000人分ですかね)のフランス軍服を買えといい、そして海陸の兵制もフランス式にしろといっています。
フランスで世話になったから、むげに断るわけにもいかない様子で、渋谷、蓑田があわてて知らせてきたようなことで、伊地知が長崎に出て、鉄砲の代金はなんとか都合しましたが、モンブランは薩摩へ乗り込んでくるつもりらしく、五代を上海へ迎えに派遣し、新納刑部も長崎へ出てもらい、そこでモンブランに談判して、陸海の兵制をフランス式にすることだけは断らなければ、跡の始末がどうにもまずくなると、こちらは混乱しているようなことです。
実のところ、このころグラバーは金に困っていた様子でして、また先年五代がグラバーに注文した汽船は小さなもので、なおトラブルを起こしたようなのですね。
五代の上海行きは、軍艦調達もかねたものでして、実際、このとき薩摩は、モンブランの世話により、本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を購入することができています。
これはイギリス船籍の船だったのですが、モンブランに資金力があったゆえなのか、フランス人のモンブランが仲買し、イギリス商人仲間では、薩摩はなかなかいい買い物をし、モンブランもいい商売をしたものだ、とうらやまれていたようです。
幕府との開戦をひかえて、およばずとも、せめて一隻は幕府の軍艦に匹敵するものが欲しかったのでしょうし、小銃5000挺や大砲20門も、あって困るものではないでしょう。
どうやら薩摩が困っていたのは、兵制であったようです。
あるいは、海陸ともにイギリス式兵制をとると、イギリス公使館と密約があったのかもしれないですね。
とすれば、この当時から横浜駐屯イギリス陸軍に、人を派遣していたことも、なかったとはいえません。
実際、「幕末明治実歴譚」の「村田銃発明談」には、村田銃を開発した村田経芳や吉井友実など、薩摩藩士10名あまりが、横浜から江戸の英国公使館に派遣されていた英国陸軍と、競射をした話が見えます。
当時、薩摩が採用していた銃は、先込めの施条銃で、イギリス制のエンフィールド銃だったようです。
ところで、モンブラン伯爵が持ち込んだ銃は、なんだったのでしょうか。
キャンスーと同じく、銃は買う、と薩摩藩がすぐに決めたところをみますと、後装銃だったのではいかと思われます。あるいは幕府と同じくフランスのシャスポーだったのではないか、と推測するのですが、キャンスーがイギリス製だったことを考えますと、ウェストリー・リチャード銃か、スナイドル銃 であった可能性もあります。
これを薩摩が、一部、鳥羽伏見から使ったのではないか、と思われる証拠が、やはり「村田銃発明談」に出てきます。
村田経芳は、鳥羽伏見の戦いに参戦したのですが、村田の所属した一隊は、桑名兵と接戦し、桑名兵が築いた台場を落とせないでいました。
そこへ現れたのが、桐野、中村半次郎です。
「村田君、こんな小さな台場がなぜ落ちぬか。あまり手間が取れるではないか」
と、怒るのですが、激戦につきあい、桑名藩士が、大胆にも台場の上に出て、膝打ちで狙った弾が桐野の頭上をかすめ、納得しました。
で、そのとき桐野は、「自分がいま持っている銃は、大久保からもらったんだが、弾のこめかたがわからないから教えてくれ」と、村田に言います。
このエピソードを、たしか司馬遼太郎氏が、「桐野は刀ばかり使ってきたから弾のこめかたも知らなかった」というような話に使われていたと思うんですが、「村田銃発明談」には、以下のようにあります。
村田氏は激戦中なれども、やむをえずこれを取りて一見せしに、かねて自分の欲している英国発明のウェストリー・リチャードといえる後装銃にして、これをその時代で刀剣にたとうれば、あたかも正宗の如きものである。また上等の銃ゆえその弾丸を一々これを紙に包んであった。
要するに後装銃で、これまで慣れて使ってきた前装銃とは勝手がちがったんです。
上野戦争で、長州兵がはじめて支給されたスナイドル銃にまごついた話と同じです。
ちなみに、薩摩藩兵の銃は、基本的には自前です。藩がまとめて買ってきて、それを藩士に買わせるんです。
大久保から桐野が後装銃をもらったんなら、あるいは開戦を前に、薩摩は大盤振る舞いをしたのではないか、とも考えられる………、かもしれません(笑)
だいぶん話がそれましたが、ともかく薩摩は、モンブランから武器は買いましたが、海陸兵制をフランス式にすることは、断りおおせたようなのですね。
ちなみに、このときモンブランが連れてきた人材のうち、鉱山技師のF. コワニーは、薩摩藩密航留学生でフランスに留学していた朝倉盛明(田中静洲)とともに、明治元年、新政府に傭われ、ともに生野銀山の近代化に努めることとなりました。ここの付属学校で学んだ高島北海が、やがてフランスに渡り、アール・ヌーボーに多大な影響を与えることとなるのも、奇妙な縁です。
明治2年2月、薩摩は陸海ともにイギリス兵制をとることを、正式に決定します。
これは、あるいはイギリス公使館からの働きかけもあったかと思うのですが、それよりも、幕末以来ずっと、薩摩が海軍を重視していたことが大きいでしょう。
イギリスとフランスは対照的でして、当時のイギリス海軍、ロイヤル・ネイビーは、欧州で絶対的な優位を誇っていましたが、これに金がかかるので、陸軍は徴兵制をとらず、志願兵制で、規模が小さかったのです。
一方のフランスは、大陸にありますから、当然陸軍重視で、海軍はとてもイギリスにかなうようなものでは、ありませんでした。
この時点で、陸軍もイギリス式を、と進言した人物としては、町田にいさん、久成が考えられます。
イギリス陸軍の演習参加、などもしていたようですので、イギリスの兵制は、十分に見学してきたといえるでしょう。
町田にいさんと薩摩バンドにありますように、この5月から、薩摩藩一等指図役肝付兼弘は、藩命により練兵法質問のため横浜英国歩兵隊に派遣され、11月まで大隊長ローマン中佐について勉強し、薩摩バンドの結成も決まったんです。
ところが長州は、陸軍をフランス式にしました。
理由ははっきりとはわかりませんが、一つには、海軍軽視です。
明治初頭の藩政改革で、各藩の陸軍は、主にフランスかイギリス、そしてオランダ兵制を採用しますが、薩摩と同じく海軍を重視していた佐賀は、イギリス兵制です。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書きましたが、松島剛蔵の死後、長州海軍には人材がなく、高杉晋作が引き受け、その死後は、前原一誠が継ぎます。
しかし前原は、政治的力量があるわけではなく、大村益次郎が陸軍の重鎮としてある長州では、海軍はすみに追いやられていた、といえるでしょう。
ともかく、それで長州は、新政府の兵制もフランス式にしようとするのですが、これは、理由のないことではありません。
幕府が、フランス陸軍の伝習を受けていましたし、フランス肝いりの横須賀製鉄所(造船所)もあって、幕臣を採用すれば、フランス語やフランス陸軍の知識をもった人材が、けっこういたからです。
ここに、長州VS薩摩の兵制論争がはじまります。
大陸陸軍を持つのか、それとも海防を重視するのか、国の防衛の基本となることですので、どちらもゆずりません。海陸どちらにお金をかけるか、ということでもありますしね。
ただ、長州側の言い分を考えるならば、海は薩摩の主張通りイギリスに決めたのだから、陸はゆずってフランスにしようぜ、ということだと思います。
とはいえ、大陸陸軍をもってしまえば、海軍にかける予算は少なくなりますわね。
で、降着状態を打破しようと、木戸孝允が思いついた案が、西郷従道を、山県有朋とともに、兵制視察に送り出す話じゃ、なかったでしょうか。(モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟参照)
この西郷従道と山県有朋の洋行の記録を、見つけることができないんですが、伝記でもさがして読むしかないんでしょうか。
どうせ、書いていないと思うんですが、二人のあとを追いかけるように洋行した御堀耕助は、モンブラン伯爵といっしょだったんです。
しかもモンブラン伯爵は、日本のパリ在住総領事として、赴任するところだったのです。
これは、どう見ても、木戸孝允の作戦勝ちだったでしょう。
なにしろモンブラン伯爵は、薩摩にフランス式兵制をとれ、と迫っていたのですから。
しかも、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れvol2に出てきますが、モンブラン伯の「御妹子」が結婚した男爵は、どうやら、フランス陸軍の関係者のようなのです。
妄想をたくましくすれば、です。
明治2年3月22日、モンブラン伯爵は薩摩で、忠義公に謁見し、ナポレオン3世から預かってきた品を贈ったことが記録にありますが、それ以降、同年11月24日に横浜から船出するまで、なにをしていたかは、さっぱりわかっていません。
ただ、この時期、日本とフランスのトラブルとして、ブリュネ大尉以下、函館戦争に参加していたフランス人の問題があります。(函館戦争のフランス人vol1、vol2、vol3参照)
これは外交問題に発展していましたから、モンブラン伯爵が仲介に入った可能性は高く、明治初年の京都とともに、木戸孝允がモンブラン伯爵と知りあっていた可能性はあります。
さらにもう一つ、後に山県有朋の陸軍省汚職に関連して割腹自殺する山城屋和助(長州・奇兵隊出身)が、横浜に店を出しています。明治時代の噂話では、さる人物が函館戦争の様子を外国人からさぐりださせるため、金を出して和助に店をもたせたのだ、というのですが、それを裏づけるかのように、木戸孝允の日記には、明治2年2月4日「薄暮帰寓于時野村道三来り横浜の事を話す」とあるんだそうです。野村三道というのが和助のことでして、和助が来て横浜のことを話した、というんですね。以降、和助の名はちょくちょく日記に見られるそうです(fhさま、ありがとうございました)
ここで、気になってきますのが、モンブランが持って来たというフランス軍服です。薩摩藩兵がフランス軍服を着ていた、という話は聞いたことがありません。
和助が買い入れて、長州軍なり、後に新政府なりに納入した、という話は、十分考えられると思うのですが。
西郷従道、山県有朋、御堀耕助の帰国が、明治3年8月2日です。
8月28日には、山県が兵部少輔となり、西郷従道が権大丞になり、そして長州における唯一の海軍理解者、前原一誠が兵部大輔を辞任します。
このころ、薩摩藩は、桐野が大隊長を務める1番大隊、野津七左衛門(鎮雄)大隊長の4番大隊、そして大山巌が隊長の大砲隊を東京に出しています。が、大山巌は、普仏戦争観戦のため、8月28日、横浜から船出します。
で、明治3年9月8日、君が代誕生の謎で述べましたように、越中島で、天皇ご臨席の薩長土肥四藩軍事調練があり、そこで薩摩バンドは、フェントン採譜、編曲の君が代を演奏します。つまり、このとき桐野は、大隊指揮官として、演習に参加していたわけですね。
その直後、突如として薩摩藩兵は、薩摩へ引き上げ、東京をからにします。もちろん、生まれたばかりの薩摩バンドもいっしょです。
これは、あきらかに、フランス兵制採用への抗議でしょう。
桐野たち薩摩藩兵は、9月17日に鹿児島へ帰り着き、「徴兵解免の願書」を提出します。この場合の徴兵というのは、藩兵が新政府に徴兵される、つまり朝廷の御用を勤めることです。
が、おそらくは、大久保利通と西郷従道の必死の説得があったのではないでしょうか。
10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが公式発表され、同時に薩摩藩でも、陸軍はフランス式に転換することが決定します。
当時、横浜には、イギリス、フランスの陸軍が駐屯していまして、海軍がイギリス、陸軍がフランスと、フランスに花をもたせることで、引き上げ交渉をうまく進める含みもあったのではないか、というような話も出ています。
大久保利通は懲りたんでしょうね。
この年の閏10月2日には、薩摩藩密航留学生だった鮫島尚信を欧州公使にしまして、モンブラン伯爵を解任します。(fhさまの前田正名に躓いたこと参照)
森有礼と鮫島は、ハリスの新興宗教にすっかりはまりこんでいたのですが、薩摩藩が、ひそかにハリスに二人の帰国費用を払い、帰国するようしむけたものです。
その鮫島が、山城屋和助のパリでの豪遊を怪しいと見て、知らせるんですから、まあ勘ぐれば、イギリスに寺島宗則、フランスに鮫島、アメリカに森有礼と、主要国にいち早く薩摩出身者を配した大久保利通の処置は、兵制論争に敗れた反省からと、とれないこともありません(笑)
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