郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争3

2009年11月04日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争2の続きです。

 ごく最近なんですが、薩摩藩イギリス密航留学生の一人である畠山義成のファンである、という方からメールをいただきまして、私も畠山義成は好きですし、やりとりをさせていただいておりました。残念なことに、いま、サーバートラブルがおありだったとかで、その方の畠山サイトが落ちておいでで、ご紹介できないのですが。

 ともかく。畠山義成は、慶応3年(1867年)のはじめころ、ドーバーで行われた英国海軍と陸上兵力との共同調練に参加しています。中井桜洲(弘)の「西洋紀行航海新説 下」(デジタルライブラリーで読めます)に書かれていることなのですが。

 見物に出かけた中井は、「友人野田(鮫島尚信)、長井(吉田清成)、松村(淳蔵)、杉浦(畠山義成)の4名は遊軍隊なるをもって兵卒とともに至れり」と書いているのですが、この「遊軍隊」とはなんぞや、ということになったんです。なんでもアメリカの資料では、「畠山はイギリスでVolunteer(市民兵)になっていた」とあるそうでして、この「遊軍隊」は、Volunteer(市民兵)が構成していたと考えられます。

 で、前回書きましたが「グラッパム公園邸」という荘園を近代農法で運営していましたハワード兄弟。彼らが雇い人を歩兵にして組織していた義勇軍(ミリシア)のようなものこそが、おそらくはこの「遊軍隊」であろう、という話に落ち着きました。あるいは、見学したその隊に、留学生たちはそのまま体験入隊することになったのかもしれませんし。

 私、近代イギリス陸軍の成り立ちについて系統立てて書かれた本を、ずっとさがしていたのですが、これが、見つかりません。海軍については、「ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ」という恰好の参考書が、見つかったのですけれども。そして、これによりますと、19世紀後半に至っても、イギリスの正規常備陸軍は、異常なほどに小規模だった、ということだったんです。

それで、さまざまな本からひろい読みまして、ようやく19世紀前半までの話が、不完全ながらも一応はわかりました。

戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争
ウィリアムソン マーレー,アルヴィン バーンスタイン,マクレガー ノックス
中央公論新社

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 上の本なのですが、イギリス陸軍について書かれていたわけではありません。イギリスに関しては、やはり海軍のみ。ただ、中のピーター・マスロウスキー著・森本清二郎訳「列強国への胎動期間 アメリカ(1783~1865)」に、以下の文章がありました。

 アメリカには、軍隊に関する二つのイデオロギーがイギリスから大西洋を越えてもたらされていたが、ほとんどのアメリカ人は、正規の常備軍の保有は専制的制度であり、絶えず自由に脅威を与えるものであるという急進的ウィッグ派の考え方を受け入れていた。急進的ウィッグ派は、職業軍隊を設ける代わりに、民兵の概念を打ち出していた。彼らの考え方によれば、市民兵というものは市民自らの自由を奪う動機をまったく持たないため、もっとも安全な国防体制であるとされた。こうした急進派ウィッグ派の主張にもかかわらず、イギリスは実際には小規模な常備軍を持っていた。それは1645年に新型軍(New Model Army)として始まり、最終的にはクロムウェルの独裁制を布いた。しかし、17世紀後半に入ると、イギリスのイデオロギーのもう一方の潮流をなしていた穏健的ウィッグ派が、専制状態に陥る可能性があらかじめ憲法によって制約されていれば、正規軍は自由と両立するものであると主張した。さらに穏健的ウィッグ派は、自由を守るためには常備軍が必要であるとさえ主張した

 現在でもアメリカでは、あくまでも理念上ですが、政府の圧政に隊して国民が銃を持って立ち上がる権利が保障されている、ということは、わりに知られていると思うのですが、それがイギリスからもたらされた理念だったとは、うかつにも私は知りませんでして、目から鱗、でした。考えてみれば、アメリカはイギリスの植民地だったのですし、清教徒(ピューリタン)革命には、アメリカに渡っていて帰国して参加した清教徒もいる、というような話ですし、イギリスもアメリカもともに長らく正規常備陸軍の規模が小さかったのですから、当然といえば当然のことだったんですけれども。
 そんなわけで、まずは19世紀以前のイギリスにおける正規常備軍と民兵につきまして、参考書は「クロムウェルとピューリタン革命」 (清水新書 (023))「イギリス革命史(上)――オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム」「財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783」です。

 封建社会であった中世の欧州において、軍隊は国家的なものではなく、戦争となれば、王が諸侯に命じて軍団を編制させるか、あるいは、プロの戦闘集団である傭兵を傭うか、でした。
 王(あるいは国家)の常備軍拡大は、諸侯の権力がそがれた絶対王政とともにはじまった、といえるのだと思うのですが、「国土に敵が迫っている」ことを理由に常備軍を拡大しますと、戦後もその常備軍は残り、今度はその常備軍が内政にもちいられて権力が中央(王)に集中する、というパターンだったようです。
 戦争の規模も変わってきました。16世紀から17世紀に「軍事革命」が起こった、といわれるのですが、軍事作戦が複雑になり、戦闘が長期化するようになったため、統制がとれた軍事行動が求められ、日頃の訓練の必要も増えて、常備軍は拡大されていったのです。この時期は日本でいえばほぼ、戦国時代から江戸時代初期です。
 そして17世紀の末、といいますから、すでに日本では江戸時代。綱吉が将軍になって、元禄文化が花開こうか、というそのころです。欧州各国の常備軍の数ですが、スペイン7万、フランス12万、日本と交易をしていたオランダにいたっては、国土が狭いにもかかわらず11万で、それぞれ200年前のほぼ10倍になっていた、というのですが、イギリスは1万5千にすぎませんでした。
 
 イギリスは島国です。この絶対王政の時代、海軍に力をそそいでいたことは確かですが、大陸諸国の海軍も強力でしたので、それほど卓越したものではありませんでした。島国であったがために、大規模な常備軍を持つ必要がなかったことは、同じく海軍国であったオランダとくらべれば歴然としています。
 陸戦の規模が大きくなったということは、兵員その他の海上輸送が大変になった、ということでして、攻められる心配も少なくなったと同時に、攻めていくこともなかなか大変、ということになり、人口も少なく、経済的にもそれほど強力であったとはいえなかった当時のイギリスにおいて、大規模な常備軍は、持つ必要がない、と同時に、持つことができないものでもありました。

 イギリスの絶対王政が本格的にはじまったのは、ヘンリー8世から、といわれます。日本でいいますならば、室町時代も後半、銀閣寺を建てた足利将軍義正の孫の世代くらいのお話です。
 ヘンリー8世は、なかなか跡継ぎの男子に恵まれませんで、6人の妻を娶った王さまです。
 ヨーロッパの王室では、一般に、正式な婚姻による嫡出子でなければ跡継ぎになれず、カトリックは基本的に離婚を禁じていました。で、ローマ教皇が結婚の無効を認めるだけのちゃんとした理由がなければ、いくら男子が生まれなくとも次の結婚はできないわけですが、ヘンリーの最初の妻はスペインの姫君、キャサリン・オブ・アラゴンで、スペインからの圧力もあり、教皇は離婚を認めません。

 当時、すでにローマ教皇の権威は衰え、世俗的な教会のあり方を批判したプロテスタントが生まれて、イギリスにも浸透しておりました。結局のところヘンリーは、ローマン・カトリックと縁切りをして、イギリス国教会が設立されることになったんです。映画「ブーリン家の姉妹」が、その当時を舞台にしたお話です。
 以前にも書きましたが、これは当初、簡単にいってしまえば、ローマ教皇にヘンリー8世がとってかわっただけの話でした。とはいうものの、世俗的な権力でもあったカソリック教会は、当時のイギリスの三分の一ともいわれる莫大な資産を所有していまして、実は財政的に苦しかったヘンリーが、それを狙ったのではないのか、という見方もあります。ヘンリーは、修道院などを徹底的に取りつぶし、こうして手に入れた邸宅つき領地を、売りに出しました。

 これを買って資産を増やし、力をつけてきましたのが、ジェントリ(田紳、賴紳などと訳されます)といわれる人々です。ジェントリはもともと村単位くらいの小領主で、ノルマン人を主体とします貴族層の下に位置していたのですが、この時期になってきますと、法律家や医師といった専門職、商工業で資産を蓄えた人々が、地主になる意欲を高めていたんですね。そこへ多量の荘園が売り出されたものですから、これを買い、新たにジェントリの仲間入りをする人々が爆発的に増えたんです。
 時代は一世紀くだって17世紀の話ですが、リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの祖先も、イングランド北部のジェントリの三男であったために商人になり、一財産築いて、新たに南部に領地を買い、ジェントリとなりましたが、こういうことが、もっと大規模に起こったわけです。
 封建制がくずれていく中で、ジェントリたちは地方行政の担い手となり、治安判事や、州防衛を担った民兵隊の組織、指揮を、無報酬で務めました。官僚ではなく、土地に密着した存在であったわけです。

 で、誕生したイギリス国教会なのですが、いったんローマ教皇とは縁切りをしたものの、それは政治的な意味合いのものでして、宗教としてどうなのか、といえば、カトリックの教義に批判的だったわけでもありませんで、ヘンリー8世以降、カトリックとプロテスタントの争いは絶えませんでした。「エリザベス」 [DVD]「エリザベス : ゴールデン・エイジ」 [DVD]が、この時代を舞台とした映画です。

 イギリス黄金期の礎を築いた、エリザベス一世。彼女は、国教会とローマ教皇との決別を確実なものにはしましたが、しかし、王政と結びついた国家宗教という位置づけですので、宗教儀式にはカトリック色も残り、大陸におけるプロテスタントとは必然的に異なりました。
 女王の死後、こういった国教会のありかたにあきたらず、徹底したプロテスタント化を求める人々が増え、彼らをピューリタン(清教徒)と言いますが、国教会の頂点には王がいて、国教会が密接に政治と結びついていましたために、ピューリタンたちは議会を根城として、王権と対立するようになっていきます。

 ごくごく簡単に言ってしまいますと、この王と議会の対立が頂点に達し、17世紀の半ば、日本でいいますと三代将軍・徳川家光の時代、清教徒(ピューリタン)革命が起こり、内乱がはじまります。
 議会派は、当初州民兵を味方に組み込もうとしていたのですが、この当時の民兵はろくに戦闘ができるような組織ではなく、結局、この内乱の主体となりましたのが、王党派、議会派ともに、貴族やジェントリが私的に組織しました義勇軍(ミリシア)でした。
 この時代を描いた小説に、ダフネ・デュ・モーリアの「愛すればこそ」 (1965年)がありまして、昔、愛読しました。ハーレークィンっぽい歴史小説ですが、イギリス南西部の王党派ジェントリの暮らしが克明に描かれ、イギリス版「風と共に去りぬ」っぽくもあり、おもしろかったのですが、いまから思えば「義勇軍」だったわけで当然なのですが、なにしろ私の固定観念にあった「王の軍隊」は正規軍ですから、様相がちがいすぎまして、物語の筋運びのために軍隊がこんなに自由きままなのかな、などと、時代背景への理解がゆき届いていなかったようです。

 字数が多くなりすぎまして、次回へと話が続きます。


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